日本橋 (東京都中央区)

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ファイル:Nihonbashi 12.jpg
第19代日本橋
1911年明治44年)4月3日開橋。花崗岩製の橋である。
ファイル:Hiroshige le pont Nihonbashi à l'aube.jpg
東海道五十三次之内 日本橋』
歌川広重筆。明六ツ[1]に日本橋を渡る大名行列と、その手前には魚河岸で仕入れた魚を売りに行く行商の魚屋の姿などが描かれている。現在の築地市場の前身である魚河岸は、かつて日本橋のたもとにあった。

日本橋(にほんばし)とは、東京都中央区日本橋川に架かる。または、東京都中央区地名地域内のことである。

名称のローマ字表記

中央区の正式なローマ字表記としてはNihonbashiが使用されている(これと同様な非ヘボン式の使用例は千代田区三番町四番町があげられる)。そのため一部日本橋地域の地名では、1つの地名の中に非ヘボン式とヘボン式のスタイルが混ざっている表記となっている。(例:Nihonbashi-odemmacho)

日本橋 (橋梁)

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1933年(昭和8年)の日本橋
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1946年(昭和21年)の日本橋

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東京都中央区の日本橋川に架かる国道の橋。日本道路元標があり、日本の道路網の始点となっている。橋梁としては現在19代目にあたる。石造二連アーチ橋で橋の長さ49m、幅27m、設計は米本晋一、装飾様式は妻木頼黄、装飾制作は渡辺長男による。

年表

道路元標

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日本橋の中央に埋め込まれている道路元標

戦前の道路法では、各市町村に道路の始点となる道路元標の設置を義務付けていた。その場所は概して市役所県庁などとされていたが、首都たる東京市は江戸時代を踏襲して日本橋を道路元標とした。

現行の道路法では道路元標に関する規定は無いが今日でも橋の中央には「日本国道路元標」の文字が埋め込まれており、裏側には当時の内閣総理大臣、佐藤栄作の名前が刻まれている。橋の袂(たもと)にレプリカが展示されている。現在、日本橋を始点としている国道は、以下の7本である。

国道1・15・20号が橋の南方向へ、国道4・6・14・17号が北方向へ伸びている。日本橋近辺ではそれぞれ重複しているので、地図や標識によっては上位道路である国道1・4号しか案内されないことがある。

日本橋からの距離(国道)の項も参照」

江戸時代も古くから道路の始点であった日本橋の周辺には、早くから商店が軒を連ねていた。現在も、三越や高島屋などの百貨店が存在する。

文化財としての日本橋

現在の日本橋(第19代)は1999年(平成11年)5月13日国の重要文化財(建造物)に指定されている。しかし首都高速道路に覆われてしまっている現状から、都市景観の在り方を含めた多くの議論を抱える。[5]2006年(平成18年)には有識者会議である「日本橋川に空を取り戻す会(日本橋みち会議)」が、首都高速道路を地下に移設して周辺を親水公園などに造り変えるという再開発構想をまとめた。小泉純一郎首相(当時)もこの構想を後押しする発言をしているが、試算5000億円といった莫大な費用が見込まれることもあり、石原慎太郎東京都知事(当時)は反対し、「日本橋の方を移転させるべし」と発言している。都市景観の問題や行政の問題対応能力と絡めて韓国ソウル清渓高架道路の撤去計画と対比されることもある[6]

交通

隣の橋〈日本橋川〉
(上流)西河岸橋 ― 日本橋江戸橋(下流)

日本橋からの距離(国道)

(右の「表示」をクリック)

ギャラリー(日本橋)

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日本橋地域

日本橋は、中央区日本橋地域の前身にあたる日本橋区全域を指している。日本銀行本店や東京証券取引所の立地する日本を代表する金融街であり、また老舗の百貨店を含む商業施設も多く、他にも問屋街や多くの製薬会社が連なる地域である。

歴史

近代以前

現在の日本橋を中心とした地域は、古くは武蔵国豊嶋郡に相当し、その中の江戸郷前嶋村と呼ばれる地域だったという。江戸は鎌倉時代江戸氏の支配から大田道灌、さらに後北条氏を経て徳川家康が幕府を開くが、早くに町地として開発されたのがこの日本橋周辺の地域であった。さらに上でも触れたように日本橋が架けられ交通の要所として定められてからは、現三越の前身である越後屋をはじめとする大店が集まり、また付近には金座銀座が置かれるなど、江戸を代表する場所として殷賑を極めた。

近代以降

1868年(明治元年)、江戸府内は東京府となったが、日本橋の辺りは維新の混乱により一時寂れた。しかしガス灯鉄道馬車が敷設されるなどほどなく息を吹き返し、江戸の昔に変わらぬ繁栄を見せるようになった。1878年(明治11年)、この年施行された郡区町村編制法により、日本橋を中心とした周辺の地域は日本橋区となり、1889年(明治22年)には東京市に属した。1896年(明治29年)には本両替町にあった金座の跡に日本銀行が建てられた。また大店の越後屋や白木屋百貨店として生まれ変わり、1908年(明治41年)には越後屋こと三越が洋館の店舗を落成させるなど次第に洋風建築も増え、近代的な町並みへと変わっていった。

ファイル:Nihonbashi ward map 1935.png
昭和初期の町名変更(東京市告示に基づく町区域の対照図)
関東大震災の復興計画/震災復興再開発事業により、日本橋区内の全域で土地区画整理事業が実施された。これに伴い1928年(昭和3年)12月以降、大規模な町名地番整理も行われた。

1923年(大正12年)、関東大震災により日本橋区は甚大な被害を受ける。しかしその後定められた土地区画整理事業によって河川や道路の改修、拡幅が行われ、昭和通り浜町公園ができ、古くから日本橋のたもとにあった魚河岸も築地へと移転した。

ファイル:Nihonbashi-townmap1.png
日本橋地区における住居表示実施前後の町名町域対照地図

だが第二次大戦において、日本橋区は1945年(昭和20年)の空襲によりふたたび区内の大半を消失する被害を蒙る。終戦後、東京都の主導により日本橋区は南に接する京橋区(現在の中央区のおよそ南半分)と合併することになった。日本橋区会(現在の区議会に相当)では他区との合併に難色を示す議員が多く、統合後も日本橋の名前だけは残したいとの意向から、京橋区との合併決議に町名に日本橋を冠することとする項目が盛り込まれ、中央区発足時に旧・日本橋区内のすべての町名に日本橋が冠称された[7]。現在中央区のおよそ北半分の地区に見られる数多くの「日本橋○○町」という町名は、中央区発足時の町名変更の名残りである。なお、京橋区側の町名はそのままとなった。

その後、戦災復興期の区画整理により日本橋呉服橋は八重洲一丁目に、1970年(昭和45年)以降の住居表示実施に伴う町名の統合により、日本橋芳町や日本橋北堀町などが隣接する既存の町名に変更され、日本橋を冠する町名の一部は消滅した。また、日本橋や東日本橋(旧:日本橋両国など)といった新しい町名が住居表示実施に伴い誕生した。1973年(昭和48年)、住居表示の実施により、「日本橋通」(一丁目 - 三丁目)と「日本橋江戸橋」(一丁目 - 三丁目)の2町を合併し現在の日本橋となった。

「日本橋」を冠する現町名
「日本橋」を冠さない現町名

観光

江戸三大祭り
日本橋の地域内に氏子を持つ、社格が高い3つの神社の例大祭で、「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様。」と表した。日本橋北詰大半を範囲とする神田神社神田祭、日本橋南詰全域を範囲とする日枝神社山王祭、日本橋北詰一部を範囲とする富岡八幡宮深川祭と共に規模の大きい祭りでにぎわいを見せている。
三井村
現在日本橋には三越や三井不動産を始めとする三井グループの本社が建ち並び、丸の内の三菱村と並ぶ三井村と言われている[8][9]。2005年には重要文化財である三井本館の隣に大型複合再開発ビル、日本初のマンダリン・オリエンタル東京も入居する日本橋三井タワー(三井新館)が開業した。
時の鐘跡
江戸時代、市中に時を告げるため鐘を撞いた所の旧跡で、本石町三丁目(現:日本橋室町四丁目)にあった。当時は江戸の9か所に時の鐘が設けられたが、本石町にあったこの時の鐘は一番初めに置かれたものといわれる。時の鐘は1873年まで用いられた。日本橋小伝馬町の十思公園には、1779年に造られた本石町の鐘が移されて残り、都の文化財に指定されている。
箱根駅伝
1999年以降、箱根駅伝の第10区はコースを日本橋経由へ変更している。これは日本橋周辺の商工会からの要請であると同時に、東海道の始点である日本橋を通るということが箱根駅伝のクライマックスを飾るに相応しいと判断されたからである。
日本橋美人
日本橋を活性化する目的で2005年10月1日より発足した、「日本橋美人プロジェクト」にて外見の美しさだけを求めず内面の美しさも求めた女性を定義する語として誕生。提唱者は日本橋OLクラブ部会長の山田晃子。

創作物

日本橋もしくは同町を題材とした創作作品

絵画
小説
民謡
  • 『お江戸日本橋』

ギャラリー

日本橋 (町名)

テンプレート:Infobox Settlement 東京都中央区地名で、旧日本橋区にあたる日本橋地域内である。

歴史

旧町名

地理

中央区日本橋地域の南部に位置し、日本橋南詰の町として古今賑わいを見せている。

河川

施設

企業
かつての企業

観光

名所史跡

交通

鉄道
バス
道路
首都高速道路・出入口

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

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外部リンク

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テンプレート:甲州街道
  1. あけ-むつ。夜明け頃のことで不定時法に基づく名称。
  2. 日本橋の焼失が記録されているのは1657年明暦3年)、1682年天和2年)、1698年元禄11年)、1711年正徳元年)、1716年享保元年)、1772年安永元年)、1806年文化3年)、1829年文政12年)、1846年弘化3年)、1858年安政5年)である。そのうち1711年と1858年が半焼で、残りの8回は全焼であった。 - 西山松之助「火災都市江戸の実体」『江戸町人の研究 第5巻』同編、吉川弘文館1978年、P.57
  3. テンプレート:Cite web
  4. [けいざいフラッシュ:日本橋を洗って再生]毎日jp 2010年10月25日
  5. 2005年(平成17年)12月に「美しい景観を創る会」(代表:伊藤滋早稲田大学教授〉)によって「悪い景観百景」の第1弾七十選の一つにも選定された。この一方、「日本橋よりも、日本の高度な土木技術史の象徴となった首都高速道路の方が歴史的価値が高い」との五十嵐太郎東北大学助教授)からの反論がある[2006年(平成18年)11月20日付 読売新聞]。
  6. テンプレート:Cite web
  7. 昭和22年東京都告示第149号。これと同様の町名変更には神田地区などがある。
  8. 東京の三井村
  9. “三井村”に野村不動産が殴りこみ!日本橋再開発で火花
  10. 歌川広重・渓斎英泉の木曽海道六拾九次 - 江戸時代の旅について