鶴岡一人
テンプレート:Infobox baseball player 鶴岡 一人(つるおか かずと(かずんど)、1916年7月27日 - 2000年3月7日)は、広島県呉市東二河通(現:西中央)出身[1] のプロ野球選手(内野手)・監督、野球解説者。1946年から1958年までは「山本 一人(やまもと かずと)[2]」。
愛称は鶴岡親分またはツルさん。初代ミスターホークス、ドン鶴岡とも呼ばれた。南海ホークスの黄金時代を築いた名監督で、日本プロ野球史を代表する指導者の一人。史上最多勝監督[3]。
目次
経歴
現役時代
1年先輩である浜崎忠治(浜崎真二の弟)と仲間になり野球を始める。同学年の藤村富美男は呉市の隣の小学校で当時からのライバル。鶴岡は広島商業学校に進学し、テンプレート:Byに遊撃手として第8回選抜中等野球大会で全国制覇、テンプレート:Byの第10回選抜大会はエース兼4番打者としてベスト4。1931年、選抜優勝校に特典として主催の大阪毎日新聞社から与えられたアメリカ遠征に参加し、ハイスクールやノンプロのチームと対戦した。カリフォルニア州サンタマリアで対戦したハイスクールには、戦後に親交を結ぶことになる日系2世のキャピー原田がおり、原田は「印象に残る、とてもうまいプレーヤーだった」と後に振り返っている[4][5]。
法政大学では1年からレギュラー、華麗な三塁守備は六大学史上最高と言われ、法政初の連覇に貢献するなど花形スター・主将として活躍。新聞の「法政鶴岡」という見出しの大きさは、始まったばかりの職業野球の球団名の活字の10倍はあったという[6]。リーグ通算88試合出場、331打数99安打、打率.299、2本塁打、56打点。首位打者1回。
テンプレート:By、大学卒業と共にプロ野球入団の「第1号」選手として南海軍に入団[6][7][8]。これを知った法大野球部OB会は「卒業と同時に職業野球に入るとは何事、野球芸人になるつもりか。母校の恥だ。除名せよ」と声が出た[9]。鶴岡にプロ野球入りを決意させたのは「軍隊にとられたら生きて帰れるかどうか分からない。それまでは好きな野球をやりたい」という思いであった[8]。川上哲治も同様の理由でプロ野球入りしており、徴兵=戦死という暗い予想がなければ、見下されていたプロ球界には、人材が集まらなかった可能性が高い。プロ野球史は、戦争による抑圧という陰惨な時代を迎えようとしていたが、皮肉な結果論として戦争がプロ野球界へ貢献した側面もあったといえよう[8]。卓越した統率力から入団1年目にして主将に抜擢され、3番・三塁手として同年に本塁打王を獲得。10本塁打は戦前の最多記録。またノーステップで一塁に送球するプレーが人気を集めた。ノーステップは法大時代に肩を痛めたため、極端な前進守備を敷いて素早く送球する方法を選んだためである[10]。鶴岡の人気は「職業野球選手中の随一」といわれ、当時は珍しかった女性の野球ファンをも増やした。六大学のスターがプロ野球に転じることで人気を広げていく。その先駆けとなったのが鶴岡だった[6]。
翌1940年に召集されて陸軍高射砲連隊へ入隊し、5年間従軍。日本内地を転々とした後、終戦間際の1945年8月には特別攻撃隊の出撃地となった鹿児島県知覧町(現:南九州市)の陸軍知覧航空隊機関砲中隊長を務め、低空で飛んでくる米軍機を撃ち落とした[11]。この時に長として200人の部下を率いた経験がのちの指揮官哲学を生んだといわれている[12]。この間1944年に結婚、同時に妻の家へ婿入りし山本に改姓した[13]。
選手兼任監督時代
戦後のテンプレート:Byに復員。29歳で監督就任を要請され、同年からテンプレート:Byまで選手兼任監督。戦後の混乱状態の中、野球のみならず選手の生活の面倒までを細やかに世話するなど「鶴岡親分」と慕われた[14]。放棄試合をしたにもかかわらず人徳に考慮し罰金を免除すると言われるほどであった。有望選手の獲得も上手かったが、無名の選手を中百舌鳥で鍛えて名選手に育て上げる手腕がそれ以上に長けていた[2]。選手のプロ意識を向上させるために言った「グラウンドにはゼニが落ちている。人が2倍練習してたら3倍やれ。3倍してたら4倍やれ。ゼニが欲しけりゃ練習せえ」という名セリフはつとに有名である[15]。
鶴岡は現代野球につながる、さまざまな手を打った[16]。チーム編成において足が速く野球をよく知る選手を集め[11]、1946年は1番・安井亀和、2番・河西俊雄、3番・田川豊の俊足トリオでかき回し、4番・鶴岡、5番・堀井数男が返すという「機動力野球の元祖」[17][18] で、読売ジャイアンツを1勝差でかわし、戦後プロ野球再開初年度の優勝を南海(当時グレートリング)の初優勝で飾った。このとき鶴岡(当時の姓は山本)は30歳であり、2024年現在も優勝監督として史上最年少である。
1949年には現在の育成枠の先駆けともいえる[16]南海ファームを創設[16]、狭き門に応募者600人が殺到した[16]。1951年創設した南海土建野球部も近年増えるプロ二軍チームと社会人チームの交流試合の先駆けといえる。また、選手としても打点王に輝きシーズンMVPを獲得。テンプレート:Byは選手兼任監督ながら青田昇(巨人)、小鶴誠(大映)と三つ巴の首位打者争いを繰り広げたが、最終打席に敬遠で歩かされ青田と6毛差の3位に終わった。1946年、1948年、テンプレート:Byと計3度シーズンMVPを獲得している。監督業に専念するため1952年限りで引退。
南海監督時代
テンプレート:Byから専任監督となり、テンプレート:Byまで通算23年間にわたって指揮を執った。テスト生から岡本伊三美、野村克也、広瀬叔功、森中千香良らを、また無名だった飯田徳治、森下整鎮、皆川睦雄、村上雅則、国貞泰汎らを育て、大学のスター選手だった蔭山和夫、大沢啓二、穴吹義雄、杉浦忠、渡辺泰輔[19] や、キャピー原田を通じてジョー・スタンカ、バディ・ピート、ケント・ハドリなど優秀な外国人選手を入団させ[5]、彼らを率い強い結束力で常勝南海の時代を築いた。戦力を的確に把握し、常に新しい才能を入れることで「100万ドルの内野陣」や、巨人に対抗するため「400フィート打線」などを形成した[16][20]。これらの選手獲得は、鶴岡のコネ、友人からの紹介を主としていたが、鶴岡はさらにテンプレート:By頃から、各地区に常駐のスカウトを置き、各地の有力選手を積極的に獲得しようと考えた[21]。東海地区の担当スカウトとして鶴岡が抜擢したのが三重県出身の伊藤四郎である[21]。これらはプロ野球最初のスカウト制度の確立ともいわれる[22]。
また「尾張メモ」で知られる元毎日新聞記者の尾張久次をテンプレート:Byにプロ野球初の専属スコアラーとして採用し、メジャーリーグにも無かった世界初の「データ野球」を導入したことでも知られる[16][23][24]。1959年の日本シリーズにおける対読売ジャイアンツ戦において大沢の外野守備がことごとくピンチを救ったことが語られ、これは巨人各打者のデータによって1球ごとに捕手の野村からサインを出し守備位置を変えるという、それまでの野球に例をみない作戦が実ったものであるといわれた[16][25]。これを切っ掛けに、それまであまり注目されることがなかったスコアラーの存在が、マスコミに大きく取り上げられた[26]。育成枠に常駐スカウト、専属スコアラーの導入、卓越した外国人管理術[27] など、鶴岡は球界の近代化に大きく寄与した人物である[21]。鶴岡といえば「精神野球」のような印象を持たれるかもしれないが、むしろその逆で、データ野球推進など今を先取りした新しさ、義理と人情の古めかしさと、鶴岡の求心力によって、それらがほどよく交ざり合い強力チームを作り上げた[16]。
優勝通算11回、日本一2回、テンプレート:By、宿敵巨人を4連勝で下した後の涙の御堂筋パレードでは2リーグ分裂後初めて大阪に日本一の優勝旗を掲げた[28]。また、自らの人脈をフルに生かした情報網を築き、選手発掘にも精力的に動き[29]、稲尾和久、広岡達朗、長嶋茂雄、山本一義、長池徳士、柴田勲、田淵幸一[30]、山本浩二らにアマチュア時代から目をつけ、長嶋、柴田については入団契約直前までこぎつけていた。長嶋は大沢を介して南海入りがほぼ決定し、「おれは南海にお世話になるつもり。お前も一緒に行こう」と、長嶋は杉浦を南海に歓誘していた[31]。広岡は鶴岡の前で「南海にお世話になります」と言ったという[32]。柴田家には30回以上自ら足を運んだが別所毅彦の横槍でさらわれたという[33]。山本一義は池田勇人に邪魔をされ[34][35]、稲尾の場合は、稲尾の父親が嫌っていた金融業を営んでいた後援会の会長が、南海入りを勧めたのが仇となったといわれている[36]。長池、山本浩二は高校時代にテストし「投手としてはプロでは無理」と二人に法大進学の労をとったもので、長池はドラフト制実施が一年遅れていたら南海入りしていた。長池は尊敬する鶴岡から一字を頂戴して息子を「徳人」と命名したという[37]。高田繁も浪商時代に「南海に世話になりたい」と言って来たが鶴岡が「お前は体が小さいから大学へ行く方がいい」と言ったといわれる[38]。またホームグラウンドの大阪球場建設に南海・松浦竹松代表と共に尽力[28][39]。生涯にわたり交流を持ったキャピー原田を通じてGHQ経済科学局長・ウイリアム・F・マーカットに建設許可を降ろさせたものであった。球界ではゼネラルマネージャー(GM)と言えば根本陸夫が語られることが多いが、編成や契約金などの細やかなバランスにもかかわった鶴岡は、松木謙治郎や三原脩らとともに実質的GMの先駆とされる[6]。
こうした鶴岡の手法は、上記の言葉に由来する「ゼニの取れる野球」に加え、後には「がめつい野球」とも称されることとなる[40][41]。
この間、1957年に妻が死去し、翌年再婚したことから、1959年のシーズンより鶴岡姓に戻っている。
同一球団の監督として日本プロ野球史上最長の23年間指揮をとり、通算最多勝の1773勝(1140敗81分け)、最高勝率.609を記録。300試合以上経験者中、唯一の6割台である。特にテンプレート:Byにパ・リーグとなってから1968年に辞任するまでの19年間では優勝9回(うち日本一2回)、2位9回、3位以下はわずか1回(4位・テンプレート:By)。2位に終わったシーズンもそのうち5シーズンは1位と1ゲーム差以内という驚異的な成績で、南海黄金時代を築いた名監督である。「南海を語ることは鶴岡を語ることであり、鶴岡を語ることは南海を語ることである」といわれる[2][14]。南海50年の歴史の中で鶴岡一人の占めた存在は大きいものがあった[42]。開幕から連敗続きだったテンプレート:Byには「指揮官が悪いと部隊は全滅する」との言葉を残して休養[25]、同年8月から復帰した。
テンプレート:By11月13日には正式に球団勇退を表明。一人の人間がいつまでも監督をしていては発展は望めないと考えての決断だったが、後任に指名したヘッドコーチの蔭山和夫が4日後の11月17日に急死という憂き目に遭う。勇退を表明してから後に鶴岡へはサンケイスワローズと東京オリオンズから監督就任要請があり、17日に東京で両球団のオーナーに会いどちらの監督に就任するか返答する予定だった。蔭山の急死を受け鶴岡は勇退を撤回し、改めて南海と3年契約を結んだ(南海蔭山新監督急死騒動[43])。1968年オフまで任期を全うし、後任は飯田徳治にバトンタッチした。
日本プロ野球史上、複数球団が勝率(もしくは勝利数)1位となったケースでのプレーオフが行われたことは一度もないが、鶴岡は監督初年度の1946年と最終年度の1968年の2度、プレーオフ寸前となったケースを体験している。しかし前者が拾い物の優勝だったのとは逆に、後者は最終戦で力尽き敗れる、といった対称的な結果となった。なおこの最終戦が、鶴岡にとっての最後の指揮となった。
監督勇退後
監督勇退後も、その手腕を買われ他球団から監督就任を請われた。1968年オフには阪神タイガースから藤本定義の後任監督として要請があったが、交渉の席で球団組織に言及すると阪神側は及び腰になり交渉は決裂。翌1969年オフにも再び阪神から要請を受けるが、やはり鶴岡が監督になるとフロント主導の構図が崩れると恐れられ、また「青年監督ブーム」が球界に起こったこともあって決裂した[44]。その後1970年オフに近鉄バファローズから三原脩の後任監督として要請があったが、「三原さんが近鉄ナインにどんな野球を教えたか興味あるが、1年間監督業を務める体力がない」として辞退した。しかし、古巣の南海を敵にして戦うのは本意ではないというのが真相だったようである。
テンプレート:Byから死去するまでNHKの野球解説者、スポーツニッポンの野球評論家を務め、その後も川上哲治と共に球界の首領として並び称される存在であった[45][46]。
野村との確執
テンプレート:By、対立を伝えられていた野村克也が「公私混同」を理由に南海監督を解任され[47]、この時の記者会見で野村が「鶴岡元老にぶっ飛ばされた」と発言するなど確執が表面化し、江夏豊、柏原純一など野村を慕う主力選手が球団に激しく抗議、次々に退団移籍する事態を招いた[48]。野村解任後の南海は急速に弱体化し、親会社の消極的な球団経営もあって最下位が指定席となるほどの低迷を続け、テンプレート:Byオフに球団はスーパーマーケットのダイエーに売却された。
鶴岡自身は内心では終始野村を評価しており、野村がヤクルト監督時代のテンプレート:Byに正力松太郎賞に輝いた時も鶴岡は選考委員の一人として野村を推薦している。そもそも、入団してから二年間二軍に甘んじていた野村の素質を見抜いて一軍の正捕手に抜擢したのは鶴岡である。野村解任事件についてもホークス監督時代後期から内縁関係だった伊東芳枝(野村沙知代)が采配に介入し、選手を罵倒する等の行為を行っていて、それを排除する事が出来なかったため、野村の側にも全く非がない訳ではない。また、テンプレート:要出典範囲「何が三冠王か、デカイ顔するな、本当に南海に貢献したのは杉浦だ」と野村に発言したが、それを野村はまともに「自分は監督に評価されていないのでは?」と受け取ってしまったという。なお、鶴岡は自身は解任人事に関与してなかったとして球団に抗議、オーナーの川勝傳が謝罪している。また、野村も前述の「ぶっ飛ばされた」発言も自身の勘違いだったと釈明した[49]。
野村は鶴岡の葬儀に出席しておらず、また花輪も寄せなかったため、これを確執の深さと見る向きもあるようだが、実際には、なんばパークスの『南海ホークスメモリアルギャラリー』への記述を自ら断る等、解任時の経緯から南海電鉄と距離を置く姿勢を取っていた事から、テンプレート:要出典範囲。また近年の雑誌等のインタビューでは野村が「自分の場合、何と言っても鶴岡さんだった」と発言したり、「オレが選手を褒めないのは鶴岡さんの影響。あの人も直接、選手を褒めることなんてなかったよ[50]」と話したり、2008年に刊行した著書『あぁ、阪神タイガース-負ける理由、勝つ理由』(角川書店)では「恩師」と明記している。
2009年11月号の『Sports Graphic Number 722』では、「誰しも監督になるまで、何人か仕えてきた監督がいるわけですが、意識しているかどうかは別として、誰か一人の監督の影響が強く出てくるものなんです。〈中略〉(私の場合は)やっぱり鶴岡さんでしょうね」と話している。関係がおかしくなったのは次期監督として、野村の名前が上がるようになってから。野村自身、「テスト生で入団し中心選手まで行ったわけだから、“野村を育てた”という意味では自慢の種のはずなんですが。鶴岡さんとしては先に杉浦忠、広瀬叔功に後任をやらせたかったんでしょう。私は嫌われていました」と話す。ただ、『ベースボールマガジン』1999年夏号に掲載された蔭山和夫急死時についての記事では、鶴岡は野村を蔭山に次ぐ第2候補とし、選手兼任も止む無しと考えていたとの記述があり、鶴岡が野村の監督就任に根本的に反対していたとは言い切れない面がある。また、『南海ホークスがあったころ』にも鶴岡は野村を飯田徳治の後任として考えていたが、就任時期が早まったと記述されている。
野村が選手を褒めないのも鶴岡の影響で、鶴岡は他チームの選手は褒めても、自軍の選手はなかなか褒めなかったという。野村自身、鶴岡に褒められたのは、3年目に「ハワイキャンプの収穫は、野村に使える目途が立ったこと」と書かれたのを新聞で読んだのと、本塁打王を獲った4年目に大阪球場の通路ですれ違った時「お前、ようなったなあ」の二回だけ。しかしそれは本当に大きな自信になったという。「でもそれでいいんです。こうやって覚えてるくらいですから。〈中略〉監督はやたら褒めまくってはいかん。言葉の値打ちが下がります」等と話している[51][52]。2009年9月6日の対日本ハム戦の試合前にも「言葉は力なんだよ。いま俺がこうしてあるのも、南海3年目の鶴岡監督の一言があったからなんや。鶴岡監督はとにかく人を褒めないことで有名な人なんだが、3年目のある日『お前、ようなったな』と言ってくれた。褒めない人のそういう一言は重みがある」とほぼ同じ話をしている[53][54]。佐々木信也は1970年頃、鶴岡に「野村の一番いいところは何ですか?」と質問したら、鶴岡は少し考えてから「自分に生活の場を与えてくれているプロ野球界に対して感謝の気持ちを忘れないことやな」と答え、ほかの言葉を期待していたので意外な感じがしたと話している[55]。以上のことから、野村の方も鶴岡を尊敬しており、両者の確執は必ずしも根源的なものではないといえる。
晩年
少年野球の国際交流にも尽力、1970年本拠地を大阪球場とするボーイズリーグを創設した。当時、少年野球のグラウンドにプロの本拠地球場を使うのは非常に珍しく、画期的なことであった。ボーイズリーグは多くの逸材を輩出し、日本野球のレベルアップに大いに 貢献した[56]。
監督在任中の1965年に野球殿堂入り。1991年プロ野球選手初の叙勲(勲四等旭日小綬章)。2000年3月7日、20世紀最後のシーズンを前に動脈血栓症による心不全のため死去。満83歳没。叙・従五位。
2000年3月9日、大阪の本願寺津村別院(北御堂)で行われた告別式当日は1000人以上のプロ野球関係者などが参列、大勢の南海電気鉄道社員らが御堂筋の南海本社から大阪球場跡にずらりと整列し、鶴岡をのせた車を黙礼で送った。告別式の弔辞で杉浦忠が「親分、ここから御堂筋が見えますか」と、鶴岡への追悼の言葉を述べた。
出身地に近い呉市スポーツ会館(呉市二河野球場に隣接)には「鶴岡一人記念展示室」が設けられており、ゆかりの品が納められている。
家族
上記の通り、最初の妻は1957年に失った。その後まもなく南海電鉄の広報誌に掲載された私設応援団長のインタビューには「日本シリーズに勝って御堂筋をパレードすることが亡くなられた奥さんへの最もよい手向けになる」との発言があり、1959年にその悲願を達成して御堂筋パレードに向かう前には再婚した妻から「お父さん、パレードを見せてあげてください」と先妻の位牌を渡されたという話が鶴岡の著書『南海ホークスとともに』に記されている[57]。
長男(最初の妻との間の子)は常勝PL学園の礎を築き、法政大学監督や近鉄スカウトなどを務め、現マリナーズスカウトの鶴岡泰(山本泰)。泰は法政大学卒業時の1967年のドラフトで南海から指名されたが、父から猛反対されプロ入りは断念した。このとき法政野球部にいた江本孟紀によれば、泰の打撃力特に変化球打ちの能力は抜きん出ており、少なくとも選手の能力としては父親の鶴岡を超えるものがあった。その上であえてプロ入りをさせなかった鶴岡の父親としての態度について「親は子供に苦労をさせたくないものだ」と江本は評している[58][59]。
このほか、最初の妻との間にもうけた長女を、1949年に散歩中に南海電車の線路に立ち入る事故により1歳7か月で亡くしている。このとき長女を連れていた鶴岡の母親も、事故の心労から翌年他界した。
詳細情報
年度別打撃成績
テンプレート:By2 | 南海 グレートリング 南海 |
92 | 397 | 330 | 54 | 94 | 13 | 9 | 10 | 155 | 55 | 21 | -- | 0 | 1 | 64 | -- | 2 | 24 | -- | .285 | .403 | .470 | .873 |
テンプレート:By2 | 104 | 461 | 388 | 75 | 122 | 23 | 8 | 4 | 173 | 95 | 32 | 8 | 1 | -- | 71 | -- | 1 | 13 | -- | .314 | .422 | .446 | .868 | |
テンプレート:By2 | 118 | 511 | 428 | 64 | 118 | 20 | 4 | 10 | 176 | 65 | 16 | 9 | 3 | -- | 79 | -- | 1 | 24 | -- | .276 | .390 | .411 | .801 | |
テンプレート:By2 | 125 | 519 | 449 | 65 | 137 | 28 | 3 | 8 | 195 | 68 | 23 | 4 | 0 | -- | 69 | -- | 1 | 22 | -- | .305 | .399 | .434 | .833 | |
テンプレート:By2 | 114 | 487 | 425 | 71 | 123 | 23 | 2 | 17 | 201 | 77 | 15 | 4 | 0 | -- | 59 | -- | 3 | 30 | -- | .289 | .380 | .473 | .853 | |
テンプレート:By2 | 55 | 161 | 140 | 25 | 40 | 7 | 2 | 5 | 66 | 25 | 5 | 0 | 0 | -- | 20 | -- | 1 | 11 | 5 | .286 | .379 | .471 | .850 | |
テンプレート:By2 | 91 | 366 | 338 | 44 | 105 | 21 | 1 | 2 | 134 | 58 | 19 | 4 | 0 | -- | 27 | -- | 1 | 11 | 10 | .311 | .363 | .396 | .760 | |
テンプレート:By2 | 55 | 204 | 183 | 35 | 51 | 10 | 1 | 5 | 78 | 24 | 12 | 3 | 1 | -- | 20 | -- | 0 | 11 | 5 | .279 | .350 | .426 | .776 | |
通算:8年 | 754 | 3106 | 2681 | 433 | 790 | 145 | 30 | 61 | 1178 | 467 | 143 | 32 | 5 | 1 | 409 | -- | 10 | 146 | 20 | .295 | .390 | .439 | .829 |
---|
- 各年度の太字はリーグ最高
- 南海(南海軍)は、1944年途中に近畿日本(近畿日本軍)に、1946年にグレートリングに、1947年途中に南海(南海ホークス)に球団名を変更
年度別監督成績
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
テンプレート:By | グレートリング 南海 |
1位 | 105 | 65 | 38 | 2 | .631 | -- | 24 | .273 | 3.08 | 30歳 |
テンプレート:By | 3位 | 119 | 59 | 55 | 5 | .518 | 19.0 | 24 | .231 | 2.39 | 31歳 | |
テンプレート:By | 1位 | 140 | 87 | 49 | 4 | .640 | -- | 45 | .255 | 2.18 | 32歳 | |
テンプレート:By | 4位 | 135 | 67 | 67 | 1 | .500 | 18.5 | 90 | .270 | 3.95 | 33歳 | |
テンプレート:By | 2位 | 120 | 66 | 49 | 5 | .574 | 15.0 | 88 | .279 | 3.38 | 34歳 | |
テンプレート:By | 1位 | 104 | 72 | 24 | 8 | .750 | -- | 48 | .276 | 2.40 | 35歳 | |
テンプレート:By | 1位 | 121 | 76 | 44 | 1 | .633 | -- | 83 | .268 | 2.84 | 36歳 | |
テンプレート:By | 1位 | 120 | 71 | 48 | 1 | .597 | -- | 61 | .265 | 3.02 | 37歳 | |
テンプレート:By | 2位 | 140 | 91 | 49 | 0 | .650 | 0.5 | 82 | .250 | 2.50 | 38歳 | |
テンプレート:By | 1位 | 143 | 99 | 41 | 3 | .707 | -- | 90 | .249 | 2.61 | 39歳 | |
テンプレート:By | 2位 | 154 | 96 | 52 | 6 | .643 | 0.5 | 68 | .250 | 2.23 | 40歳 | |
テンプレート:By | 2位 | 132 | 78 | 53 | 1 | .595 | 7.0 | 98 | .252 | 2.68 | 41歳 | |
テンプレート:By | 2位 | 130 | 77 | 48 | 5 | .612 | 1.0 | 93 | .248 | 2.53 | 42歳 | |
テンプレート:By | 1位 | 134 | 88 | 42 | 4 | .677 | -- | 90 | .265 | 2.44 | 43歳 | |
テンプレート:By | 2位 | 136 | 78 | 52 | 6 | .600 | 4.0 | 103 | .247 | 2.88 | 44歳 | |
テンプレート:By | 1位 | 140 | 85 | 49 | 6 | .629 | -- | 117 | .262 | 2.96 | 45歳 | |
テンプレート:By | 2位 | 133 | 73 | 57 | 3 | .562 | 5.0 | 119 | .253 | 3.27 | 46歳 | |
テンプレート:By | 2位 | 150 | 85 | 61 | 4 | .582 | 1.0 | 184 | .256 | 2.70 | 47歳 | |
テンプレート:By | 1位 | 150 | 84 | 63 | 3 | .571 | -- | 144 | .259 | 3.12 | 48歳 | |
テンプレート:By | 1位 | 140 | 88 | 49 | 3 | .642 | -- | 153 | .255 | 2.80 | 49歳 | |
テンプレート:By | 1位 | 133 | 79 | 51 | 3 | .608 | -- | 108 | .245 | 2.59 | 50歳 | |
テンプレート:By | 4位 | 133 | 64 | 66 | 3 | .492 | 11.0 | 108 | .235 | 3.04 | 51歳 | |
テンプレート:By | 2位 | 136 | 79 | 51 | 6 | .608 | 1.0 | 127 | .243 | 2.92 | 52歳 | |
通算:23年 | 2994 | 1773 | 1140 | 81 | .609 | Aクラス22回、Bクラス1回 |
- グレートリングは、1947年途中に南海(南海ホークス)に球団名を変更
- 23年連続同一チーム監督、通算1773勝はともに歴代1位
- ※1 順位の太字は日本一
- ※2 1958年から1960年、1962年、1966年から1996年までは130試合制
- ※3 1961年、1965年は140試合制
- ※4 1963年から1964年までは150試合制
タイトル
表彰
記録
- オールスターゲーム出場:2回 (1951年、1952年)
背番号
- 5 (1939年)
- 1 (1946年)
- 30 (1947年 - 1965年)
- 31 (1966年 - 1968年)
登録名
- 鶴岡 一人 (つるおか かずと、1939年、1959年 - 1968年)
- 山本 一人 (やまもと かずと、1946年 - 1958年)
著書
御堂筋の凱歌 栄光と血涙のプロ野球史 (1983年刊 べースボールマガジン社)
参考文献
- 大和球士『真説 日本野球史』ベースボール・マガジン社
- 神田順治『野球殿堂物語』ベースボール・マガジン社1992年9月
- 別冊週刊ベースボール冬季号「さらば!南海ホークス〜永久保存版」、ベースボール・マガジン社、1988年12月
- 『野球を愛した男 鶴岡一人の生涯』日本少年野球連盟、2000年8月
- 『広商野球部百年史』広商野球部百年史編集委員会、2000年11月
- 『プロ野球人国記 中国編』ベースボール・マガジン社、2004年4月
- 『野球殿堂2007』野球体育博物館、2007年4月
- 永井良和『ホークスの70年』ソフトバンククリエイティブ、2008年10月
脚注
関連項目
外部リンク
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」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 2.0 2.1 2.2 日刊スポーツ連載《LEGEND伝説》栄枯盛衰~消滅球団の光と影⑥(南海編①)2010年4月6日5面
- ↑ 殿堂一覧|財団法人野球体育博物館 鶴岡一人
- ↑ 永井良和・橋爪紳也『南海ホークスがあったころ』(紀伊國屋書店、2003年)P51 - 52。この海外遠征は、主催新聞同士の競争から、選抜優勝チームを夏の全国中等学校野球選手権大会に出させないための方策であった。原田の回想は著書『太平洋のかけ橋』からの引用。
- ↑ 5.0 5.1 ジ-ン・スタンカ・池井優『熱投スタンカを憶えてますか』中央公論新社、1985年、109-112、175-176頁
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 永井良和『ホークスの70年 惜別と再会の球譜』ソフトバンククリエイティブ、2008年、38-47、110頁
- ↑ それまでも「大学出身」の選手がプロ入りしたこともあったが、大半は中退。卒業した者もいったんは実業団を経由していた。大学卒業と同時に入団した者は一人もいなかった(別冊週刊ベースボール冬季号「さらば!南海ホークス〜永久保存版」、ベースボール・マガジン社、1988年、62頁)。
- ↑ 8.0 8.1 8.2 井上章一『阪神タイガースの正体』、太田出版、2001年、200-204頁
- ↑ 別冊週刊ベースボール冬季号「さらば!南海ホークス〜永久保存版」、ベースボール・マガジン社、1988」、62頁
- ↑ 『日本プロ野球偉人伝 1934-1940編プロ野球誕生期の37人の豪傑たち』、ベースボール・マガジン社、2013年、100-101頁
- ↑ 11.0 11.1 「さらば!南海ホークス」、71頁
- ↑ 「さらば!南海ホークス」、74頁
- ↑ 鶴岡一人が養子となり「山本一人」であった時 サインは「山本」と書いていたか
- ↑ 14.0 14.1 「さらば!南海ホークス」、10、74頁
- ↑ NHKアーカイブス NHK映像ファイル あの人に会いたい
- ↑ 16.0 16.1 16.2 16.3 16.4 16.5 16.6 16.7 日刊スポーツ連載《LEGEND伝説》栄枯盛衰~消滅球団の光と影⑧(南海編③)2010年4月8日7面
- ↑ 別所毅彦『剛球唸る!』ベースボール・マガジン社、55頁
- ↑ 別所毅彦『勝て 男なら』有紀書房、106頁
- ↑ 関三穂『プロ野球史再発掘(6)』ベースボール・マガジン社、1987年、144頁、145頁
- ↑ 「さらば!南海ホークス」、96、130頁
- ↑ 21.0 21.1 21.2 『野球小僧』2011年6月号、白夜書房、144頁
- ↑ 「さらば!南海ホークス」、96頁
- ↑ 時事ドットコム:波乱万丈 野村克也【3】、野村克也、『あぁ、監督』 角川書店、2009年、77、78、106頁、『野球を愛した男 鶴岡一人の生涯』日本少年野球連盟、2000年8月、42頁、「さらば!南海ホークス」、20、93、96頁
- ↑ 大沢啓二『OBたちの挑戦X』、マガジンハウス、2001年、73-75頁
- ↑ 25.0 25.1 「さらば!南海ホークス」、106頁
- ↑ これに関して大沢は著書『球道無頼』(講談社、1996年)において独自の判断で動いたと記している。また、スポニチアネックスの記事でも同様の見解を述べているほか、同記事ではメモの指示したシフトと大沢の動きが異なることも指摘されている(職業野球人・大沢啓二4.尾張メモ)。大沢の著書『OBたちの挑戦X』74-75頁では「オレからすれば、スコアラーのデータは、それほどのものだとは思わなかった」「日本シリーズで大胆に守備位置を変えてファインプレーをすることができたのは鶴岡さんの教え」「まわりのマスコミは、いろいろなことをいったが、オレはプロとしてグランドで何をすればいいいか考え、実行しただけ。初代親分の教えを、忠実に守っただけ」などと話している。
- ↑ 『「文藝春秋」にみるスポーツ昭和史 第三巻』、文藝春秋、1988年、169、170頁(外人選手は「鬼畜米英」か 深田祐介)
- ↑ 28.0 28.1 【大阪の20世紀】(18)南海ホークスと大阪球場 巨人に圧勝「御堂筋パレード」
- ↑ 南海が地方に遠征に行くと鶴岡は一番早く起きて、地元の高校球児の品定めをやっていたという(豊田泰光『プロ野球を殺すのはだれだ』ベースボール・マガジン、2009年、139頁)。
- ↑ 田淵の最初の結婚は鶴岡夫妻が媒酌(週刊サンケイ 1981年2月19日号、168頁)。
- ↑ 1・くたばれジャイアンツ~59年・日本シリーズ~(野球) ― スポニチ 、時事ドットコム:プロ野球「もしも、もしも・・・の物語」 - 時事通信社 長嶋茂雄〔1〕、杉浦忠『僕の愛した野球』、海鳥社、1995年、122-126頁、「さらば!南海ホークス」、102頁
- ↑ 「さらば!南海ホークス」、102頁
- ↑ 東京スポーツ・2010年8月13日、17日付「柴田勲 怪盗紳士の告白」、別所毅彦『勝て 男なら』有紀書房、75頁-78頁、『プロ野球史再発掘(6)』112頁-114頁
- ↑ 【1960年代の3選手】山本 一義(やまもと・かずよし)(71) - 中国新聞
- ↑ CONNOTE-ものづくり名手名言 第16回-
- ↑ 阿部牧郎『われらのプロ野球』1996年、中央公論社、133頁
- ↑ 永井正義『勇者たち=人物阪急球団史=』1978年、現代企画室、255頁-258頁
- ↑ 「週刊朝日」1981年12月4日号28頁
- ↑ キャピー原田『太平洋のかけ橋 戦後・野球復活の裏面史』ベースボール・マガジン社、1980年、71頁、72頁、「さらば!南海ホークス」、80、81頁
- ↑ 「さらば!南海ホークス」、95頁
- ↑ 「がめつい」という言葉はもともと関西にはなく、菊田一夫が執筆して1959年に初演された戯曲『がめつい奴』での造語とされる(同項目参照)。また、鶴岡の著書において「グラウンドにゼニが落ちている」という言葉は、監督在任中に刊行した『南海ホークスとともに』(1962年)では前面に出ていないという指摘がある(『南海ホークスがあったころ』P180)。鶴岡は監督退任後の1969年に『ゼニになる野球』という著書(永井正義との共著)を刊行した。
- ↑ 「さらば!南海ホークス」、10、94頁
- ↑ 一度もグラウンドに立つことなく去った蔭山監督
- ↑ サンケイスポーツ内コラム「猛虎水滸伝(310)」、2010年4月6日
- ↑ 野村克也『あぁ、監督』、96-99頁
- ↑ 東京スポーツ、2010年6月8日、3面
- ↑ これより以前の1975年オフにも、「公私混同」は球団内で問題となり、当時の球団社長が大沢啓二に非公式に監督就任を打診していたという。(スポニチアネックス・大沢啓二、第1回-13・日本ハム監督就任)
- ↑ スポニチアネックス・日めくりプロ野球、一体何が?野村克也監督兼任捕手、電話で解任通告
- ↑ 日本経済新聞『私の履歴書・鶴岡一人』1984年4月
- ↑ 監督通算試合が2995試合となって、この部門では鶴岡を越えた2008年7月9日の発言(スポーツニッポン、2008年7月10日面)
- ↑ Sports Graphic Number 722、2009年2月19日、31-32頁
- ↑ 同様の記述(スポーツニッポン、2008年7月10日、4面)、【タイガース血風録 猛虎水滸伝】野村と木戸 ハワイC意外な共通点
- ↑ 文藝春秋 2009年11月号、308頁
- ↑ 野村の著書『あぁ、監督』 角川書店、2009年、77、78頁に似た内容の記述
- ↑ 週刊朝日 1981年12月4日号、185頁
- ↑ 手束仁『プロ野球「もしも」読本』イーストプレス、2012年、60-61頁
- ↑ 『南海ホークスがあったころ』P78,80 - 81
- ↑ ドラフト指名自体が泰のプロ入りを断念させるための手段だった
- ↑ 時事ドットコム:プロ野球2世代写真展 「野球一族」いにしえ編 鶴岡一人、山本泰(親子)