ハイチ

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ハイチ共和国
Repiblik d Ayiti
République d'Haïti
ハイチの国旗 ハイチの国章
国旗国章
</dd>

国の標語:L'union fait la force
フランス語: 団結は力なり)
国歌ラ・デサリニエンヌ
ハイチの位置

公用語 ハイチ語標準フランス語
首都 ポルトープランス
最大の都市 ポルトープランス
政府

大統領 ミシェル・マーテリー
首相 ローラン・ラモット

面積

総計 27,750km2143位
水面積率 0.7%

人口

総計(2008年 10,033,000人(91位
人口密度 362人/km2
GDP(自国通貨表示)

合計(2008年2,659億[1]グールド
</dd>
GDP(MER

合計(2008年69億[1]ドル(133位
</dd>
GDP(PPP

合計(2008年115億[1]ドル(121位
1人あたり 1,316[1]ドル
</dd></dl>

<tr> <th>独立<td>フランスより
1804年1月1日 </tr>

通貨 グールドHTG
時間帯 UTC -5(DST:なし)
ISO 3166-1 HT / HTI
ccTLD .ht
国際電話番号 509

</dd> </dl> ハイチ共和国(ハイチきょうわこく、テンプレート:Lang-htテンプレート:Lang-fr)、通称ハイチは、中央アメリカ西インド諸島大アンティル諸島内のイスパニョーラ島西部に位置する共和制国家である。東にドミニカ共和国と国境を接し、カリブ海のウィンドワード海峡を隔てて北西にキューバが、ジャマイカ海峡を隔てて西にジャマイカが存在する。首都はポルトープランス

1804年の独立はラテンアメリカ初、かつアメリカ大陸で二番目であり、世界初の黒人による共和制国家でもある。独立以来現在まで混乱が続いており、大規模災害と復興の遅れが混乱に拍車をかけている。

国名

正式名称は、ハイチ語Repiblik d Ayiti(レピブリク・ダイチ)、標準フランス語République d'Haïti (レピュブリク・ダイティ)。通称、Haïtiアイティ)。

公式の英語表記はRepublic of Haiti(リパブリク オヴ ヘイティ)。通称、Haiti(ヘイティ)。

日本語の表記は、ハイチ共和国。通称はハイチ、漢字では海地と表記される。なお、「ハイチ」とは“Haiti”の訓令式ローマ字読みであり、現地では通用しない。

「ハイチ(アイティ)」は、先住民族インディアン/インディオアラワク系タイノ人の言葉で「山ばかりの土地」を意味し、独立に際してそれまでのフランス語由来のサン=ドマングから改名された。

歴史

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先コロンブス期

紀元前4000年から1000年までの間にインディアンのアラワク人タイノ人)が南アメリカ大陸のギアナ地方から移住してきた。タイノ人は島をアイティ(Haiti)、ボイオ(Bohio)、キスケージャ(Quesquiya)と呼び、島は五つのカシーケ(酋長)の指導する部族集団に分かれていた。ヨーロッパ人の征服によりアラワク人は消え去った。征服時にいたインディアンの数は、イスパニョーラ島の全てを併せるとおよそ100万人から300万人程だろうと推測されている。

植民地時代

テンプレート:Main テンプレート:See also 1492年クリストファー・コロンブスがイスパニョーラ島を「発見」したとき、この島にはアラワク人タイノ人)が住んでいたが、それから四半世紀のうちにスペインの入植者によって絶滅させられた。金鉱山が発見され、インディアンのカリブ人が奴隷として使役され、疫病と過酷な労働で次々と死んでいった。その後、スペインは主に西アフリカの黒人奴隷を使って主に島の東部を中心に植民地テンプレート:仮リンクの経営をした。島の西部をフランス1659年以降徐々に占領していったが、衰退の一途を辿るスペインにはそれを追い払う余力はなく、1697年ライスワイク条約で島の西側3分の1はフランス領とされた。この部分が現在のハイチの国土となる。フランスはここを、フランス領サン=ドマング (Saint-Domingue) とした。この植民地は、アフリカの奴隷海岸から連行した多くの黒人奴隷を酷使し、主に林業とサトウキビコーヒー栽培によって巨万の富を産みだした。

黒人反乱と黒人国家の成立

テンプレート:Main テンプレート:See also

ファイル:Toussaint Louverture.jpg
イスパニョーラ総督トゥーサン・ルーヴェルチュール。優れた戦略でイスパニョーラ島を統一し、自治憲法を制定したが、激怒したナポレオン軍の侵攻とだまし討ちによって捕らえられ、死亡した。
ファイル:Dessalines.jpg
ハイチ皇帝ジャン=ジャック・デサリーヌ。ルーヴェルチュールの死後フランス軍を打ち破り、世界初の黒人による共和国を建国した。

1789年からフランス本国では革命が勃発し、サン=ドマングの黒人奴隷とムラート混血の自由黒人)たちはその報を受けたヴードゥーの司祭テンプレート:仮リンクに率いられ、1791年に蜂起した。

トゥーサン・ルーヴェルチュールジャン=ジャック・デサリーヌアンリ・クリストフらに率いられた黒人反乱軍は白人の地主を処刑した後、フランスに宣戦布告したイギリスとスペインが、この地を占領するため派遣した軍を撃退し、サン=ドマング全土を掌握した。ルーヴェルチュールは1801年に自らを終身総督とするサン=ドマングの自治憲法を公布し、優れた戦略と現実的な政策により戦乱によって疲弊したハイチを立て直そうとしたが、奴隷制の復活を掲げたナポレオンが本国から派遣したシャルル・ルクレールの軍によって1802年に反乱は鎮圧され、指導者ルーヴェルチュールは逮捕されフランスで獄死した。

ところが、新たな指導者デサリーヌの下で再蜂起した反乱軍は、イギリスの支援を受けて、1803年にフランス軍をサン=ドマング領内から駆逐した。そして、1804年1月1日に独立を宣言し、ハイチ革命が成功した。

デサリーヌは国名を先住民族タイノ人由来の名であったハイチ(アイチ)に変更し、ナポレオンに倣って皇帝として即位し(ハイチ帝国)、残った白人を追い出した。デサリーヌは1805年憲法を制定したが、北部のアンリ・クリストフと南部のアレクサンドル・ペションらの勢力に圧迫され、1806年に暗殺された。デサリーヌはハイチ建国の父として後の世まで敬愛されている。 テンプレート:-

賠償金の圧迫と国内の混乱

ファイル:Alexandre Pétion.jpg
南部の支配者にして初代大統領アレクサンドル・ペションベネズエラ奴隷制廃止を条件に、亡命してきた解放者シモン・ボリーバルを物心ともに支援した。ボリーバルはハイチを拠点にベネズエラを解放し、1819年に勅令でベネズエラの部分的奴隷制廃止を宣言した。

この後、クリストフによって世界で初の黒人による共和国、かつラテンアメリカ最初の独立国が誕生し、南北アメリカ大陸の他の植民地の黒人たちや、独立主義者、そしてアメリカ合衆国の黒人奴隷たちを刺激した。

しかし北部のハイチ国テンプレート:Lang-fr)と南部のハイチ共和国(テンプレート:Lang-fr)との南北共和国に分かれて争い、南部の共和国の事実上の支配者ペションは農地改革プランテーションを解体し、独立闘争の兵士たちに土地を分け与えた。その結果、たくさんの小農が出現した。この時期に南アメリカの解放者、シモン・ボリーバルがペションの下に亡命している。

一方、中部のハイチ王国テンプレート:Lang-fr)でクリストフが王政を宣言、圧政を敷いた。住民を酷使して豪華な宮殿(サン・スーシー)や城塞(シタデル・ラフェリエール、フランスの再征服に対処するため)(両方とも世界遺産)を建設させるなどの波乱があったが、1820年クリストフの自殺に伴い南部のペションの後継者、大統領ジャン・ピエール・ボワイエがハイチを再統一した。1821年、イスパニョーラ島の東3分の2(現在のドミニカ共和国)を支配していたスペイン人のクリオージョたちがテンプレート:仮リンク(Santo Domingo)の独立を宣言し、コロンビア共和国への編入を求めて内戦に陥ると、1822年1月ハイチは軍を進めてこれを併合し(テンプレート:仮リンク)、全島に独裁体制(1822年 - 1844年)を築いた。この時期、ボワイエはフランス艦隊から圧迫を受け、独立時にフランス系植民者たちから接収した農園や奴隷などに対する莫大な「賠償金」を請求された。

ハイチの独立後、独立を承認する国家は存在せず、シモン・ボリーバルが全イスパノアメリカ諸国の連合と同盟を企図して1826年に開催したテンプレート:仮リンクではハイチの承認が議題として取り上げられたが、パナマ議会が大失敗に終わったため、大コロンビアとイスパノアメリカ諸国によるハイチの承認はなされなかった[2]。結局ハイチはフランスからの独立の承認を得る代償として賠償金の支払いに応じた。この賠償金は長年借金としてハイチを苦しめることとなった。政府は奴隷制を復活させるなどしたが、経済は貧窮した。

テンプレート:Main 1843年、ボワイエの独裁に対しシャルル・リヴィエール=エラールが蜂起しボワイエを亡命させる。しかし奴隷制に対する農民反乱や軍人の反乱が続く無政府状態に陥り、1844年にフランスへの賠償金のための重税に苦しんでいた東部のスペイン系住民が、再度ドミニカ共和国としての独立を宣言し、これに敗北して東部を手放すなど、内政混乱が続いた。

この状況を収拾したのは元黒人奴隷で1791年の反乱にも参加した将軍テンプレート:仮リンクであり、大統領に就任したが後に帝政(ハイチ帝国)を宣言し、テンプレート:仮リンク将軍の蜂起で打倒される1859年まで皇帝フォースタン1世として君臨し、国内に秘密警察の監視網を張り巡らせて圧政を敷き、隣国ドミニカへの侵入を繰り返した。スールークを追放したジェフラールは共和制を復活させたが、フランスに対する巨額の賠償金による経済の崩壊、小作農たちの没落、列強の圧迫、相次ぐ大統領の交代や内戦、国家分裂でハイチは混乱し続けた。しかし、この時期、憲法はよりよく機能するよう何度も改正され、後の安定の時期を用意した。

米国による占領

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1870年代末以降、まだ国家分裂や反乱は続いたが、ハイチは近代化への道を歩み始め砂糖貿易などで経済が発展し始めた。しかしフランスへの賠償金は完済せず、近代化のための借金もふくらみハイチの財政を圧迫した。またドイツによる干渉とハイチ占領・植民地化の試みも繰り返されたため、カリブを裏庭とみなすアメリカの警戒を呼び、1915年、アメリカは債務返済を口実に海兵隊を上陸させハイチを占領、テンプレート:仮リンク将軍などが海兵隊と戦ったが敗れ、数十万人のハイチ人がキューバやドミニカ共和国に亡命した。アメリカ軍は1934年まで軍政を続け、この間合衆国をモデルにした憲法の導入、分裂を繰り返さないための権力と産業の首都への集中、軍隊の訓練などを行ったが、これは現在に続く地方の衰退や、後に軍事独裁を敷く軍部の強化といった負の側面も残した。またハイチの対外財政は1947年までアメリカが管理し続けた。

1934年には世界恐慌の影響や、ニカラグアでのサンディーノ軍への苦戦などもあって、ルーズベルト合衆国大統領の善隣外交政策により、ハイチからも海兵隊が撤退することになった。アメリカ占領以降、数人のムラートの大統領が共和制のもとで交代したが、経済苦境は続き1946年にはクーデターが起こりテンプレート:仮リンクが久々の黒人大統領となった。社会保障や労働政策の改善、多数派黒人の政治的自由の拡大などさまざまな進歩的な改革を行おうとした。ポルトープランス万国博覧会1949年 - 1950年)。

改革がムラートと黒人との対立など国内混乱を招き、1950年にエスティメが憲法を改正して再選を図ろうとしたため、ムラート層や黒人エリートらがクーデターを起こし、黒人エリート軍人のテンプレート:仮リンクによる軍事政権が誕生した。彼の時代、経済はコーヒーやアメリカからの観光などの景気でいっとき活況を呈したが、またも再選を図ろうとしたことをきっかけに全土でゼネラル・ストライキが起こり、混乱する中1956年末に彼はクーデターで打倒された。

デュヴァリエ独裁政権

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1957年、クーデターで誕生した軍事独裁政権下で、民政移管と大統領選出をめぐりゼネストやクーデター(July 1958 Haitian coup d'état attempt)が繰り返され政治は混乱したが、9月に行われた総選挙をきっかけに、黒人多数派を代表する医師でポピュリスト政治家のフランソワ・デュヴァリエが大統領に就任した。彼は福祉に長年かかわり保健関係の閣僚も歴任し、当初は黒人進歩派とみなされ「パパ・ドク」と親しまれた。

1958年からデュヴァリエは突然独裁者に転じ、警察や国家財政などを私物化し近代でもまれに見る最悪の軍事独裁体制を誕生させた。デュヴァリエは戒厳令を敷いて言論や反対派を弾圧、秘密警察トントン・マクートを発足させ多くの国民を逮捕・拷問・殺害した。1971年にデュヴァリエは死亡し、息子のジャン=クロード・デュヴァリエ(「ベビー・ドク」)が継いだ。国家財政が破綻しクーデターでデュヴァリエが追われる1986年までの長期に渡り、デュヴァリエ父子主導の下、トントン・マクートの暗躍する暗黒時代が続いた。

デュヴァリエ以降

1987年に新憲法が制定され、民主的選挙によって選出された左派のアリスティド1991年に大統領に就任。しかし、同年9月のラウル・セドラ将軍による軍事クーデター1991 Haitian coup d'état)により、アリスティドは亡命。アリスティド支持派はハイチの進歩と発展のための戦線により多数殺害された。軍事政権は、国連国際連合ハイチ・ミッション)及びアメリカ合衆国の働きかけ、経済制裁などの圧力、更に軍事行動を受けた結果、政権を返上。セドラ将軍は下野し、アリスティドは1994年に大統領に復帰した。1996年、アリスティド派のルネ・ガルシア・プレヴァルが新大統領になり、2001年には、再びアリスティドが大統領となった。

2004年に入って武力衝突が発生。2004年2月5日「ハイチ解放再建革命戦線」が北部の町ゴナイーヴで蜂起した(2004 Haitian coup d'état)。1994年以降に国軍の解体が進められていたこともあり、反政府武装勢力に対し政府側は武力で十分な抵抗することは出来なかった。2月29日、アリスティド大統領は辞任し、隣国ドミニカ共和国へ出国、中央アフリカ共和国に亡命し、アレクサンドル最高裁長官が1987年の憲法の規定に従って暫定大統領になった。アリスティド前大統領は中央アフリカ共和国においてフランス軍の保護下に入った(この顛末については、アメリカの関与も指摘されている)。

三者評議会は直ちに賢人会議を立ち上げ、長く国連事務局にあったラトルチュを首相に指名、組閣が行われた。一連の動きに対し国連は臨時大統領アレクサンドルの要請に基づき多国籍暫定軍(MIF)の現地展開を承認し、3月1日には主力のアメリカ軍がハイチに上陸した。4月20日には安保理決議1542号が採択され、MIFの後続としてブラジル陸軍を主力とする国際連合ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)を設立、治安回復などを図ることとなった。2006年2月に大統領選挙が行われルネ・ガルシア・プレヴァルが51%の得票率で当選し、5月に大統領に就任した。

ハイチ地震

テンプレート:Main 2010年にマグニチュード7.0の地震が発生し、ポルトープランスを中心に甚大な被害が生じた。更に追い打ちをかけるようにコレラが大流行し、多数の死者が出た。地震を機にMINUSTAHの陣容は増強され、2011年現在も活動中である。

2010年11月にはプレヴァルの後任を決める大統領選挙が実施されたが、選挙にまつわる不正疑惑から暴動が発生、翌年3月にようやく決選投票が実施された。決戦投票の結果、ポピュラー歌手出身のミシェル・マーテリーが大統領に選出された。民選大統領の後継を同じく民選大統領が務めるのは、ハイチの歴史上初めてのことである[3]

政治

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ファイル:Palacio presidencial de Haiti.jpg
ポルトープランスの大統領宮殿(2010年の地震で倒壊)。

大統領は、全国民の選挙によって選ばれ、任期は5年。前々回の大統領選挙は、2000年11月26日に行われ、元大統領のジャン=ベルトラン・アリスティドが92%の票を獲得して、2001年2月7日から再度就任した。2004年4月のアリスティド追放後、再三延期された後に実施された2006年2月の大統領選挙で63歳の元大統領ルネ・ガルシア・プレヴァルが再び大統領に選ばれた。

首相は、大統領の指名によるが、議会の承認が必要である。内閣の閣僚は、首相が大統領と協議して指名する。

議会は、両院制(二院制)であり、上院も下院も議員は、国民の選挙によって選出される。上院は、27議席、任期6年で、2年ごとに3分の1ずつ改選。下院は、83議席で、任期は4年。

ハイチの政治は1804年の独立以来混乱が続いている。2009年現在の『失敗国家ランキング』ではワースト12位でありこれは北朝鮮(ワースト17位)より上位である。ハイチ地震 (2010年)で大統領府、財務省、外務省が倒壊したため、政府機能は麻痺状態にある。

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ハイチは中華民国台湾)を承認している。

軍事

テンプレート:Main ハイチには正規軍は存在せず、代わりに小規模な国家警察沿岸警備隊がある。

地方行政区分

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ハイチの地方行政区分の最上位にあるのは、10の県 (depatmen) である。ハイチでは地方自治権は与えられておらず、県は中央政策の執行機関としての役割を果たす。2003年以降の県名と県庁所在地は、以下の通り。

  1. アルティボニット県 - ゴナイーヴ
  2. 中央県 - アンシュ
  3. グランダンス県 - ジェレミー
  4. ニップ県 - ミラゴアーヌ
  5. 北県 - カパイシャン
  6. 北東県 - フォールリベルテ
  7. 北西県 - ポールドペ
  8. 西県 - ポルトープランス
  9. 南東県 - ジャクメル
  10. 南県 - レカイ(オカイ)

主要都市

テンプレート:Main 主要な都市はポルトープランス(首都)、カルフールがある。

地理

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ファイル:Ha-map-ja.png
ハイチの地図。

ハイチの地勢は、主として岩の多い山々からなっており、沿岸部にはわずかながら平野や谷間を流れる川がある。中央部から東部は、大きく隆起した台地になっている。最高峰はラ・セル山(2680m)で、ゴナーブ島トルチュ島ヴァシュ島グランド・チェミット島などの島々も含む。最も大きな都市は、200万人が住む首都のポルトープランスで、2番目は60万人のカパイシャンである。長年に渡る乱伐で山は禿山だらけになってしまっており、そのために保水力がなく、ハリケーンが通過すると洪水となって大きな被害をもたらす。

北部地域はマッシフ・デュ・ノール(北部山地)とプレイヌ・デュ・ノール(北部平野)から成る。マッシフ・デュ・ノールはドミニカ共和国の中央山脈の延伸である。ハイチの東部国境の始まりとなり、ギュヤムー川の北と、北部半島を通して北東に延長している。プレイヌ・デュ・ノールの低地はマッシフ・デュ・ノールと北大西洋の間のドミニカ共和国との北部国境に横たわる。中央地域は二つの平野と二つの山脈からなる。プラトー・セントラル(中央高原)はマッシフ・デュ・ノールの南のギュヤムー川の両側に沿って南東から北西に延伸している。プラトー・セントラルの南東はノワール山地となり、北西部はマッシフ・デュ・ノールに溶け込んでいる。

南部はプレイヌ・デュ・クル=ド=サク(南東部)と南部半島(チビュロン半島として知られる)の山々からなる。プレイヌ・デュ・クル=ド=サクは自然沈下によりトルー・カイマンやハイチ最大の湖であるラク・アズエイといった塩湖を抱いている。南部山脈はドミニカ共和国最南端のシエラ・デ・バオルコに始まり、ハイチのセル山地とオット山地になりハイチ南部の細長い半島を形成する。この山地にあるラ・セル山がハイチの最高峰(2,680m)になる。

経済

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ハイチは西半球で最も貧しい国と言われており、国民の80%は劣悪な貧困状態に置かれている。また国民の70%近くが、自給のための小規模な農場に依存しており、経済活動人口の3分の2が農業に従事しているが、規模が零細である上に灌漑設備等の農業インフラが不十分で天水に依存した伝統的農法に頼っており、過耕作、土地の荒廃なども影響して、農業生産性は極めて低く、食料自給率は45%、の自給率は30%未満である。そのため、恒常的に食糧不足で、食料需要の大半を海外からの輸入と援助に大きく依存しているが、人口の約半数に相当する380万人は慢性的に栄養失調状態にある。かつてフランソワ・デュヴァリエ時代はハイチは国際的にも孤立していたため、食糧の自給は最重要課題であり、政府の手厚い保護政策によって、食糧自給率は80%、米の自給率は100%を誇ったが、民主化後はアメリカのコメが多量にハイチにも入るようになり、ハイチのコメ価格は暴落。安価で安定的な食事が得られるようになったが、その一方で、その代償は大きく、量でも質でも太刀打ち出来ないハイチのコメ農家は次々と田んぼを放棄し、都市へ仕事を求めるようになり、ハイチの食料自給率は急落。仕事にあぶれた農民が都市部へと流れ失業率は急増し、皮肉にもさらなる貧富の格差を生み出すことになる。

こうした中、2007年3月、9月の豪雨、8月、10月、12月の熱帯性暴風雨等の自然災害により、全国で約4万世帯が被災し、同国穀倉地帯も甚大な被害を受けたため、国連による緊急アピールが複数回出された。自然災害による食糧不足のため国内生産物の価格が上昇したが、ほぼ同時期に穀物の国際価格も高騰した。こうした食糧価格の高騰による影響は市民の抗議行動、暴動へとエスカレートし、首相が解任される事態までに発展した。

1996年に就任したプレヴァル大統領以来、若干の雇用が創出されたが、効果は上がっていない。国際的な支援を得られないでいるため、必要とする開発支援を確保できない状態にある。主な外貨収入はコーヒー豆の輸出と国外在住のハイチ人からの送金と国際的な援助ぐらいである。軍部はアメリカへの麻薬密輸で莫大な利益を得ていたとされる。

国民

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ファイル:Haiti-demographie.png
FAOによる1961年から2003年までのハイチの人口増加グラフ。

ハイチの平均人口密度は362人/km²であるが、実際は都市部、沿岸の平野部、山間部に極度に集中している。

民族

ハイチ人の約95%がアフリカ系であり、残りのほとんどはムラート(白人アフリカ人混血)である。エリートであるムラートとその他の黒人との間の経済的、文化的、社会的格差が著しい。その他に、数は少ないが独立後に中東から移民したアラブ系ハイチ人が存在する。

植民地時代にアフリカからハイチに連行された人々のルーツは、セネガンビア(現在のセネガルガンビア)のウォロフ人バンバラ人フルベ人マンディンゴ人などイスラーム教を奉ずる人々や、黄金海岸(現在のガーナ)のファンティ人奴隷海岸(現在のナイジェリアベナン)のフォン人イボ人ヨルバ人、さらにはコンゴアンゴラの人々など非常に多岐に渡るものであったが、ハイチの黒人文化の主流となったのは、ダホメ王国(現ベナン)出身のフォン人の文化であり、ヴードゥー教祖先信仰などダホメの文化がハイチでヘゲモニーを握ることとなった。アフリカの各地にルーツを持ち、対立していた奴隷たちは、ダホメのヴードゥーによって結束を達成した[4]

また、貧困から抜け出すために海外への移民・難民も少なくなく、アメリカ合衆国マイアミニューヨークハイチ系アメリカ人)、カナダモントリオールハイチ系カナダ人)、フランスパリバハマドミニカ共和国には大きなハイチ人の移民コミュニティがある。

言語

公用語ハイチ語クレオール言語)とフランス語。フランス語系のクレオール言語であるハイチ語は1987年に公用語として認められた。ほとんどのハイチ人はハイチ語を日常的に使うが、公的機関やビジネス、教育では標準フランス語が使用される。

宗教

国民の約95%がキリスト教徒であり、宗教の主流は国教ともなっているカトリックで、国民の約80%が信仰している。カトリックの他にはペンテコステ派バプティストなどのプロテスタントや、少数ながら正教も信仰されている。多くのハイチ人はカトリックの信仰と並行して、アフリカ系のベナンにルーツを持つ宗教であるブードゥー教の慣習も行っている。ブードゥー教にはブラジルカンドンブレ、キューバのサンテリアなどとの近似が認められる。

教育

6歳から11歳までの初等教育が無償の義務教育とされているが、2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率はアメリカ大陸で最も低い52.9%である[5]

主な高等教育機関としてはハイチ大学(1920年)が挙げられる。

文化

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ファイル:VoodooValris.jpg
ヴードゥーのドラポー(フランス語で旗の意味)。ジョージ・ヴァルリスによるもの。

独立後のハイチでは、フランスの文化に一体化しようとする都市のムラート層と、アフリカやインディオのクレオール的な文化を持った農村の黒人層の文化が相対立しており、エリートのムラート層は農村のアフリカ的文化に価値を見出さなかった。しかし、1920年代のアメリカ軍政期に、占領に対する抵抗のためにナショナリズムが称揚される動きの中で、特に詩人ジャン・プライス=マルスによってアフリカ的な民衆文化の再評価がなされ、やがてこの運動はアフリカ的文化を見直すノワリズム(黒人主義)に繋がり、1930年代から1940年代のマルチニークエメ・セゼールセネガルレオポルド・セダール・サンゴールらによるネグリチュード運動の源流の一つともなった。

文学

テンプレート:Main 19世紀末から20世紀初頭にかけて一群の知識人達が国民小説と呼ばれる文学を創始した。「国民小説」は、フランス文化を身に付けたハイチ知識人によって担われたため、フランス文化的な背景を持たない農村部の住民の文化とは隔絶していたが、人種主義が猛威を奮っていた時代において、黒人知識人によって担われる文学はそれだけで人種主義への抵抗や、国威発揚を果たした[6]。その後アメリカ軍占領期に『おじさんはこう語った』(1929)を著したテンプレート:仮リンクによってアフリカ的なハイチ農村文化とヴードゥー教の価値の再評価がなされた。『おじさんはこう語った』はフランス文化を自らの文化としていたハイチの知識人に深刻な衝撃を与え[6]、まもなく『朝露の統治者たち』(1940)のジャック・ルーマンや、『奏でる木々』(1957)のジャック=ステファン・アレクシスによって、アンディジェニスム(原住民主義)に基づいた「農民小説」と呼ばれる潮流が生まれた[6]

その後、デュヴァリエ政権がノワリスム(黒人主義)を黒人至上主義の人種主義に換骨奪胎してしまい、独裁政権のイデオロギー的背景としてしまったことはハイチの知識人に大きな挫折をもたらした[6]。以降ハイチ文学は亡命者や国外居住者によって担われるものが主流となり、現代ハイチ文学の特に著名な作家としてはフランケチエンヌエミール・オリヴィエエドウィージ・ダンティカなどの名が特に挙げられる。

音楽

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ファイル:WyclefJean.jpg
フージーズワイクリフ・ジョン。フージーズがアメリカ合衆国と世界市場で成功を収めた後、ハイチの移動大使として混乱が続く母国の発展に努めている。

ハイチは国民所得や識字率が低いこともあり、音楽が重要な娯楽とメディアの役割を果たしている。主な音楽のジャンルとしては、メレング、ヴードゥー音楽、ララコンパヒップ・ホップミジック・ラシーンなどの名が挙げられる。

19世紀の半ばごろにフランス人のコントレダンスとアフリカのコンゴ地方の黒人の舞踊が発達し、メレングと呼ばれるダンス音楽となった。メレングではバンジョーマリンブラなどの楽器が使用される。

ハイチ特有の音楽ジャンルの中でもっとも有名なものはドミニカ共和国のメレンゲの影響を受け、ハイチ風に解釈したコンパen:Compas music)であり[7]、隣のキューバ音楽と同様に華やかな音楽とダンスのジャンルだが、これもまたアメリカ合衆国のジャズと関係を持っている。コンパは1957年にヌムール・ジャン=バティストウェベール・シコによって始められ、1970年代から1980年代に最盛期を迎えた。コンパはしばしばアフリカの太鼓モダンギターシンセサウンドサクソフォーンハイチ語で歌われる歌詞を使う。ハイチのコンパのバンドには合衆国とヨーロッパのハイチ人コミュニティを通して世界的に有名なものも存在し、ミニ・オールスターズタブー・コンボT-Viceカリミマス・コンパなどがその例である。

1980年代後半からヴードゥー教やララといった伝統音楽を基盤に、ジャズやアフリカ音楽を取り入れて現代的なポピュラー音楽に再生したミジック・ラシーンen:Rasin,ハイチ語で「根源の音楽」の意)運動が盛んになり、ブックマン・エクスペリアンスen:Boukman Eksperyans)やブッカン・ギネなどがアメリカ合衆国市場でも一定の成功を収めた。

ハイチで生まれ、9歳でアメリカ合衆国のニューヨークに渡ったワイクリフ・ジョンが主体となって結成されたフージーズは同国市場で大成功を収め、2007年にジーンはハイチの移動大使に任命された。ワイクリフ・ジョンの他にも、アメリカ合衆国やカナダやフランスに移住して創作活動を続けるミュージシャンも多く、カナダ在住のエメリーヌ・ミッシェルメリッサ・ラヴォーなどの名を挙げることができる。

食文化

テンプレート:Main ハイチ料理はアフリカ料理を基盤にフランスとタイノ人の影響を受けており、スペイン料理の影響も受けている。そのためキャッサバヤムイモトウモロコシを多用する。また、カリブ海諸国の例に漏れずラム酒も広く飲まれている。

絵画

テンプレート:Main アンドレ・マルローがハイチ絵画を絶賛したように、20世紀においてハイチの絵画は、第一次世界大戦でヨーロッパが没落した後の、新たに創造的な美術であるとみなされてきた。絵画のジャンルにはハイチの日常生活を描くもの(生活描写派)、ヴードゥー教の儀式を描くもの(ヴードゥー派)、ハイチの歴史を描くもの(歴史画派)などが存在し、独特の色遣いと表現形式により、ハイチ絵画は世界的に高い評価を受けている。

1943年にハイチを訪れたアメリカ合衆国出身のデウィット・ピータースは、英語教育の傍らハイチ美術の支援に努め、ハイチにサントル・ダール(アート・センター)を設立した。ピータースとサントル・ダールの活動により、それまで注意を払われなかったハイチの美術に焦点が当たり、ペティオン・サヴァンエクトール・イッポリトフィロメ・オバンリゴー・ブノワカステラ・バジルなど、ハイチの名だたる画家たちの個展が国外で開かれるようになり、ハイチ美術全体の活性化に大きく寄与することとなった。サントル・ダール周辺で活躍した人々はヘイシャン・アートの第一世代を築いた。

世界遺産

ハイチの世界遺産には、ユネスコ文化遺産に登録された、シタデル、サン=スーシ城、ラミエール国立歴史公園の1件が存在する。

祝祭日

日付 日本語表記 フランス語表記 備考
1月1日 独立記念日 Jour de l'indépendance
1月2日 Jour des Aïeux
2月7日 Investiture du Président élu
5月1日 メーデー Jour de l'Agriculture et du Travail
5月18日 Fête du Drapeau et de l'Université
6月27日 Notre Dame du Perpétuel Secours, patronne d'Haïti
8月15日 聖母被昇天祭 Notre Dame de l'Assomption
10月17日 ジャン=ジャック・デサリーヌ記念日 Mémoire de Jean-Jacques Dessalines, père de la Nation
11月1日 諸聖人の日 Tous les Saints
11月2日 Commémoration des Fidèles défunts
12月25日 クリスマス Nativité de Jésus-Christ

著名な出身者

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脚註

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参考文献

学術書

文学・ジャーナリズム

関連項目

外部リンク

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  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. 加茂雄三:編『世界の歴史23 ラテンアメリカの独立』講談社 1978年9月 pp.134 - 137。
  3. http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM15001_V10C11A5FF8000/
  4. ジョアン・マノエル・リマ・ミラ「ラテンアメリカにおけるアフリカ系文化」子安昭子/高木綾子訳『ラテンアメリカ人と社会』中川文雄/三田千代子編、新評論、1995/10
  5. https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ha.html 2009年3月30日閲覧
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 立花英裕「ハイチ文学の歴史的背景」『月光浴—ハイチ短篇集』国書刊行会 2003
  7. 佐藤文則『慟哭のハイチ 現代史と庶民の生活』凱風社 2007年 p.314