正力松太郎

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テンプレート:政治家 正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年(明治18年)4月11日1969年(昭和44年)10月9日)は、日本の警察官僚実業家政治家。元読売新聞社社主位階従二位勲等勲一等。富山県高岡市名誉市民京成電鉄OB。

人物概要

読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、「読売中興の祖」として大正力(だいしょうりき)と呼ばれる。日本におけるそれぞれの導入を強力に推進したことで、プロ野球の父テレビ放送の父原子力発電の父とも呼ばれる。

東京帝国大学法科大学卒で内務省に入り、警視庁警務部長になったが、後に本人が語ったように関東大震災風説の流布によって混乱させた責任の一端があり、虎の門事件を抑止できなかったことで引責辞職した。

翌年、経営難で不振の読売新聞を買い受けて社長に就任し、新聞界に転じた。以後、政財界に影響力を拡大。1940年の開戦時は大政翼賛会総務であったためにA級戦犯の第三次戦犯指名となり、逮捕されたが、起訴はされず、巣鴨プリズン収容者の1人となった。このためしばらく公職追放処分を受けた。

戦後は、MLB選手を日本に招聘して日米野球を興行するなど野球界で尽力したが、一方で長期にわたる中央情報局(CIA)への協力(非公式の工作活動)をおこなっていたことが、アメリカで保管されている公文書により判明している[1][2][3][4]。また、自由民主党総裁の座も狙っており、渡邉恒雄を参謀の中曽根康弘との連絡役にしていた[5]

駒澤大学が上祖師谷グラウンド(野球部合宿所、駒澤大学球場)を購入する際に尽力したことを顕彰して、駒澤大学の開校80周年(1962年)の式典において、最初の名誉博士号が授与された。

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左から吉田茂首相、堤操(歌人)、正力、堤康次郎
昭和29年7月衆議院議長就任レセプション)

略年譜

警察官僚時代

警視庁官房主事として1923年(大正12年)6月の日本共産党に対する大規模な一斉取締り(第1次)や、特別高等警察などにも関わり、同年9月に発生した関東大震災の際に予想された社会主義者の扇動による暴動に備えるための警戒・取締りを指揮した。直後、警務部長となるが、摂政宮狙撃事件(虎ノ門事件)の責任を問われ、懲戒免官となる。恩赦により懲戒処分を取り消されたものの、官界への復帰は志さなかった。

新聞経営

1924年(大正13年)、番町会グループである郷誠之助藤原銀次郎ら財界人の斡旋と、帝都復興院総裁だった後藤新平の資金援助により、経営不振であった読売新聞社(現・読売新聞東京本社)の経営権を買収し、社長に就任した。正力は、自社主催のイベントや、ラジオ面、地域版の創設や、日曜日の夕刊発行などにより部数を伸ばした。戦前は報知新聞社の販売局長だった務臺光雄を正力が誘って読売へ移籍させ、大阪資本の東京朝日新聞東京日日新聞などと販売競争で競い合った。そして、読売新聞の全国進出を狙って九州日報など日本各地の地方紙を買収して経営参加に成功するも、新聞統制によって計画は頓挫した。戦後、読売新聞の全国紙計画が本格化し、1952年(昭和27年)に大阪讀賣新聞社(現・読売新聞大阪本社)を設立、念願の西日本進出を果たした。以後、札幌と正力のお膝元である高岡市にも東京直轄による発行支社を設置し、1964年(昭和39年)、正力の長年の懸案だった九州読売新聞西部本社を設立、1ブロック紙に過ぎなかった読売新聞を正力・務臺との二人三脚で朝日毎日と肩を並べる全国紙に発展させた。

大リーグ招聘・巨人軍結成

1934年(昭和9年)、ベーブ・ルースルー・ゲーリッグらが参加した大リーグ選抜チームを招聘した。アマチュア野球しか存在しなかった日本側でも全日本チームが結成された。後に同チームを基礎として大日本東京野球倶楽部(現讀賣巨人軍)が創設され、1936年(昭和11年)の第1回職業野球日本リーグに参加した。正力は、慶應義塾大学への進学が決まっていた沢村栄治を「一生面倒見る」と説き伏せて入団させたが、実際には二度の応召(徴兵も沢村が中学卒でしかなかったことが要因)で肩を壊した沢村を解雇している。

正力は最初期と戦後の一時期を除いて巨人軍のオーナーを務め、また、巣鴨プリズンから釈放後の一時期、職業野球連盟の総裁(今で言うコミッショナー)に就任した。このような正力の業績を称え1959年野球殿堂入り。また日本プロ野球界に貢献した関係者を対象に、毎年正力松太郎賞が贈られている。

戦後、読売新聞を離れていた時期には毎日新聞と接触して、毎日のプロ野球参加と将来の2リーグ制移行を画策した。このとき読売新聞側は毎日の加入に反対し、最終的にセ・リーグパ・リーグに分かれることになる。正力自身は当面1リーグ10球団で運営し、その後2球団を追加してから読売・毎日がそれぞれ所属するリーグを立ち上げる構想であった。

襲撃事件

1935年(昭和10年)、本社玄関前で暴漢に左頸部を斬りつけられ重傷を負った。直接の実行犯の長崎勝助は武神会の構成員(元、警視庁巡査)。取調べに対して、犯行に及んだ理由として、読売新聞が天皇機関説を支持したこと、正力が大リーグを招聘し、神宮球場を使用し「神域を穢した」ことなどを挙げた。だが、捜査・公判の進行により、競合他社東京日日新聞の幹部による指示があったとされた。

遺訓

正力は読売巨人軍に対して、巨人軍憲章とも呼ばれる遺訓を残している。遺訓は以下の3つ。

  • 巨人軍は常に紳士たれ
  • 巨人軍は常に強くあれ
  • 巨人軍はアメリカ野球に追いつき、そして追い越せ

家族・親族

正力家

富山県射水市神奈川県逗子市東京都港区
元々一介の庶民の出だった父祖たちがこの地屈指の名家として名を成したのは、松太郎の祖父の庄助がこの地に度々災厄をもたらした庄川の氾濫を防いだ功による[6]
江戸嘉永年間(1848年 - 1854年)に庄助の発案になるの金輪(かなわ)は、河川の氾濫で流れた古橋の抗を抜くための道具として卓効を発した[6]。この功により庄助は奉行から苗字帯刀を許された[6]。正力という姓は、この金輪(かなわ)に命名された正力輪から始まっている[6]。正力家が土建請負業として大をなしたのはそれからだった[6]
松太郎の両親はもともと本願寺の熱心な門徒だった[12]。父・庄次郎は毎朝毎晩の勤行をかかさなかった[12]。松太郎の両親への報恩の情はきわめて篤かった[12]
  • 前妻・布久子[13]
警視庁の上層部が正力の将来にいかに属目していたかは、当時の警視総監安楽兼道が妻の兄弟の娘、つまり安楽にとっては義理の姪にあたる前田布久子(鹿児島県出身)と見合いさせ、結婚させたことでもわかる[13]。だが、布久子は一女をなしてまもなく亡くなった[13]。その長女も8歳で早世した[13]
  • 後妻・波満
1895年(明治28年)4月生~
正力は最初の妻を失って間もなく、千葉県上総湊(現富津市)出身で精華女学校の和裁教諭の吉原波満と再婚した[14]。波満が教鞭をとったのは、同校創始者の勝田孫弥が、波満の実家と縁つづきという関係からだった[14]。勝田はその一方で、元警視総監安楽兼道とも縁戚にあり、最初の妻を早くに亡くした正力を不憫に思った安楽が、遠い縁つづきの波満を世話したものだった[14]
  • 長男・(第2代讀賣社主、第2代東京讀賣巨人軍オーナー) … 後妻との間の子
1918年(大正7年)10月生~2011年(平成23年)8月没
妻峰子の妹は池坊専永夫人の保子である[15]
  • 二男・ … 柳橋の元芸者中村すゞとの間の子
日本テレビの副社長に就任したが最初に断行したことは、同社の役員だった弟の武を、傍系のよみうりランドに追放したことだった[16]。正力から認知され、日本テレビ入りしたものの、武の在社期間はわずか二年にすぎなかった[16]。…武はその後、二度と日本テレビに復帰することなく、1985年(昭和60年)五月、五十一歳の若さでこの世を去った[16]。熱望していた結婚は結局叶わず、独身のままの淋しい死だった[16]。武は晩年、自分の人生を呪うように、浴びるほどのをのみつづけた[16]
すゞは美人でもなく、しかも前の旦那との間に子供もいるコブつきだったため、友人たちの間では、正力ほどの人物がなぜあんな女を、という悪評判ばかり立っていたという[17]
  • 長女・梅子(読売新聞社名誉会長小林與三次の妻)… 後妻との間の子
1920年(大正9年)生~
小林與三次と梅子のなれそめについて小林によると「ジイさん(松太郎)の姉さんが、テロによるケガの具合を心配して、僕に様子を見に行ってくれ、と頼んできた[18]。それがきっかけとなって、僕が田舎に帰るたび、ジイさんの近況を実家に報告するようになった[18]。そんなことからだんだんと正力家と親しくなった[18]。学費を正力家から出してもらったという話もあるようだが、僕は育英金で学費をまかなったので、正力家からは一銭も出してもらっていない[18]。結婚についてはジイさんから直接話があった[18]」という。
小林與三次の実家について佐野眞一によると「要塞のような正力家の屋敷に比べ、庄川の水べりのすぐそばに建つ小林の生家は見るからに貧相だった[6]。その対照的な光景は、当主を“おやっさん”(親方)と呼ぶ、印半纏(しるしばんてん)の人足が何十人となく出入りしていた正力家の羽ぶりのよさと、その正力家の土建資材を運ぶイカダ舟船頭に過ぎなかった小林の父との境遇の違いを、残酷なまでに見せつけている」という[6]
1923年(大正12年)生~2007年9月21日没[19]

CIAの協力者としての活動

早稲田大学教授の有馬哲夫が、週刊新潮2006年2月16日号で、正力が戦犯不起訴で巣鴨プリズン出獄後に中央情報局(CIA)の非公然の工作に協力していたことをアメリカ国立公文書記録管理局によって公開された外交文書(メリーランド州の同局新館に保管されている)を基に明らかにし、反響を呼んだ。

日本へのテレビ放送の導入と原子力発電の導入について、正力はCIAと利害が一致していたので協力し合うことになった、その結果、正力の個人コードネームとして「podam」(英:我、通報す)及び「pojacpot-1」が与えられ、組織としての読売新聞社、そして日本テレビ放送網を示すコードネームは「podalton」と付けられ、この二者を通じて日本政界に介入する計画が「Operation Podalton」と呼ばれた。これらの件に関する大量のファイルがアメリカ国立第二公文書館に残ることになった(アメリカ国立公文書 Records Relating to the Psychological Strategy Board Working Files 1951-53)。正力と共に日本のテレビ放送導入に関わった柴田秀利は「pohalt」というコードネームを与えられた。

CIAに正力松太郎を推薦したのは、カール・ムント米上院議員であるとベンジャミン・フルフォードは主張している[20]

正力を演じた俳優

参考文献

脚注

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関連項目

外部リンク

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テンプレート:S-off |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
創設
宇田耕一 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 科学技術庁長官
初代:1956年
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石橋湛山(事務取扱)
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創設
宇田耕一 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 総理府原子力委員会委員長
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三木武夫 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
大久保留次郎 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 国家公安委員会委員長
第8代:1957年 - 1958年 |style="width:30%"|次代:
青木正 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
大久保留次郎 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 北海道開発庁長官
第11代:1955年 - 1956年 |style="width:30%"|次代:
石橋湛山(事務取扱)

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テンプレート:日本テレビ歴代社長 テンプレート:読売テレビ歴代社長 テンプレート:読売新聞グループ本社 テンプレート:文部科学大臣 テンプレート:国土交通大臣 テンプレート:国家公安委員会委員長

テンプレート:十段
  1. ティム・ワイナー「CIA秘録」文藝春秋
  2. テンプレート:Cite book
  3. テンプレート:Cite book
  4. アメリカ国立公文書記録管理局によって公開された外交文書(メリーランド州の同局新館に保管)で正力とCIAの関係が明らかに週刊新潮2006年2月16日号参照
  5. 杉山隆男『メディアの興亡』(文藝春秋、1986年)349ー350頁。
  6. 6.00 6.01 6.02 6.03 6.04 6.05 6.06 6.07 6.08 6.09 6.10 佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』19頁
  7. 佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』23頁
  8. 同級生に河合良成小松製作所会長)、品川主計読売ジャイアンツ代表)など
  9. この時、団体戦で四高は三高に押されて負けムードが漂っていたが、大将である正力が巴投で二段の相手から逆転の一本勝ちをし、四高は優勝した。なお、この時正力自身は白帯だった。
  10. 河合、品川のほか、重光葵(外相)、芦田均(首相・外相)、石坂泰三(経団連初代会長)などが同級。柔道と参禅に打ち込んだ。学業の方はまったく振るわず、試験前になると級友のノートを借りるのが東大時代の正力のならわしとなっていた。品川をはじめとする級友たちの間では、「正力があんなにノートを借りまくるのは、自分が勉強するためではなく、ノートを貸した人間の成績を下げるためなのではないか」という悪評が広がった(佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』25頁)
  11. 巣鴨の正力は娑婆にいるときとかわらぬ傍若無人さで同房者や収監者たちを閉口させていた。同房者を迷惑がらせたのはまず正力の大イビキだった。そのイビキは雷鳴以上で、たまりかねた同房者が下駄で正力の枕下の床板を叩いても一向にやむことはなかった(『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』517-518頁)
  12. 12.0 12.1 12.2 12.3 佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』21頁
  13. 13.0 13.1 13.2 13.3 佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』27頁
  14. 14.0 14.1 14.2 佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』175頁
  15. 15.0 15.1 15.2 佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』447頁
  16. 16.0 16.1 16.2 16.3 16.4 佐野眞一著『巨怪伝 下 正力松太郎と影武者たちの一世紀』394頁
  17. 17.0 17.1 佐野眞一著『巨怪伝 下 正力松太郎と影武者たちの一世紀』378頁
  18. 18.0 18.1 18.2 18.3 18.4 佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』445頁
  19. 関根利子さん死去 よみうりランド社長関根達雄氏の母 共同通信47News 2007年9月25日閲覧
  20. カール・ムント米上院議員は、「VOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)」構想を打ちたて、世界中で広まりつつあった共産主義の撲滅に乗り出した「プロパガンダの雄」である。1951年(昭和26年)8月13日、ムントは「日本全土に総合通信網を民間資本で建設する」と発表した。その翌年、正力松太郎はテレビ放送免許を取得、1953年(昭和28年)8月28日、日本テレビが開局した。(ベンジャミン・フルフォード『ステルス・ウォー』 講談社 2010年3月 ISBN 9784062161244, Page238)