郷誠之助
郷 誠之助(ごう せいのすけ、元治2年1月8日(1865年2月3日) - 昭和17年(1942年)1月19日)は、日本の実業家。日本経済聯盟会会長、日本商工会議所会頭を歴任。貴族院議員。
来歴・人物
元治2年1月8日、郷純造の次男として美濃国岐阜(現在の岐阜県岐阜市)に生まれる。父・純造は大蔵官僚で、退官後貴族院議員に勅選された。弟の昌作は数え2歳で三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の養子となると同時に豊弥と改名し、兄・誠之助と同じく実業界で活躍した。元岩崎勝商事社長・岩崎勝太郎は誠之助の甥(岩崎豊弥の長男)で、随筆家・入江相政は誠之助の義理の甥(岩崎豊弥の娘婿)にあたる。なお誠之助は生涯独身で末弟・朔雄(純造の九男)を養嗣子としたが、朔雄は肥前国平戸藩第12代藩主・松浦詮の三男で山城国淀藩12代目藩主・稲葉正邦の養嗣子となった稲葉正縄の三女・英子と結婚した。松浦詮の四男で出羽国秋田藩主佐竹氏の分家・佐竹東家の養嗣子となった佐竹義準の三女・操子が弥太郎の嫡孫で三菱地所の取締役を務めた岩崎彦弥太(三菱3代目総帥・岩崎久弥の長男)に嫁いだため、郷家は三菱の創業者一族・岩崎家と二重の姻戚関係にあり、岩崎彦弥太の妻と郷誠之助及び岩崎豊弥の弟の妻が従姉妹同士ということになる。また姉の幸子は東京川崎財閥の2代目当主・2代目川崎八右衛門(東京川崎財閥創業者・初代川崎八右衛門の三男)に嫁いでおり、東京川崎財閥の3代目当主・川崎守之助(2代目八右衛門の長男)は誠之助の甥にあたる。
明治9年 官立東京英語学校(のちの一高)、さらに尺振八が塾長であった浜町河岸の共立学舎に通い、明治10年から12年まで県立仙台中学(1886年廃止)にて学ぶ。帰京した明治13年には中島行孝の塾通いと共に家庭教師が就き英語・漢学を学ぶ。明治14年 同志社英学校に入るも行商をする同級生らに影響されこの年限りでやめ、明治15年の私塾通いなどを経て、明治16年(1883年)東京大学(のち帝国大学、東京帝大)選科入学。明治17年(1884年2月)ドイツに留学し、ハイデルベルク大学で7年間に渡ってヘーゲル、ジョン・スチュアート・ミルなどを研究し、哲学博士号を授与される。明治24年(1991年)12月に帰朝し、農商務省に嘱託で勤務する。
明治28年(1895年)に日本運送社長となり会社の再建に当たる。その後は、財界に一貫して身を置き、日本メリヤス、日本鋼管、入山採炭、王子製紙の社長や取締役を歴任して各会社の再建を成功させ、特に王子製紙では、新聞のための紙の国産に成功したことが特筆される。明治43年(1910年)日本醤油醸造の再建は、失敗したが、明治44年(1911年)東京株式取引所(現在の東京証券取引所の前身)理事長に就任した。同じ年に貴族院議員になり、終生務めた。大正2年(1913年)東京商業会議所特別議員。大正6年(1917年)日本工業倶楽部の設立に参加し自ら専務理事となった。大正11年(1922年)日本経済聯盟会常務理事に、昭和5年(1930年)には日本商工会議所会頭に就任し、こうして郷は、第一次世界大戦後から昭和戦前にかけて、日本財界のリーダー的存在となっていった。このほか、東京電燈の再建や、内閣参議、大蔵省顧問にも郷の手腕が見込まれての起用となった。
しかし、郷が世話役となって主宰していた若手財界人の勉強会であった「番町会」が、昭和9年(1934年)帝人事件に巻き込まれ、番町会会員は検挙された。結局、帝人事件は、斎藤実内閣を倒す陰謀で、検挙者全員が無罪となった。
系譜
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参考文献
関連項目
外部リンク
- 郷誠之助|近代日本人の肖像 (国立国会図書館) - 肖像写真及び略歴