オールナイトフジ
テンプレート:複数の問題 『オールナイトフジ』(All Night Fuji)は、フジテレビ系で生放送(一部録画放送)されていた深夜番組である。タイトルは、フジテレビと同じくフジサンケイグループに属するニッポン放送の深夜ラジオ番組『オールナイトニッポン』(All Night Nippon、略称:ANN)を意識して付けられた。
本項では、1983年4月2日開始の『オールナイトフジ』及び、それ以降に『オールナイトフジ』のタイトルを冠した同様の深夜番組を記述する。
シリーズ概要
- 『オールナイトフジ』
- 『オールナイトフジ』→『オールナイトフジII』(途中から改題)
- 1983年から1991年までに放送していた番組。略称は「ANF」。→#オールナイトフジ(1983年 - 1991年)
- 『オールナイトフジ・リターンズ』
- 1994年に放送した番組。→#オールナイトフジ・リターンズ
オールナイトフジ(1983年 - 1991年)
概要
初代司会は秋本奈緒美と鳥越マリ。主な出演者には、デビューしたばかりのとんねるずや片岡鶴太郎をはじめ、レコードも出した「おかわりシスターズ」(山崎美貴、松尾羽純、深谷智子の女子大生トリオ)、のちにアナウンサーになった松山香織や佐野美和[1]らがいる。出演している女子大生たちは“オールナイターズ”と称された[2]。
放送開始当初は、アダルトビデオ紹介コーナーや性風俗店探訪といった性風俗を扱ったコーナーがあったが、放送開始から一年半たった1984年の10月改編で他の民放キー局が同様の生番組を一斉にスタートさせた。
1984年5月1日には「火曜ワイドスペシャル」枠で初の全国ネットSPが放送された。
1985年初頭にはこれらの深夜番組の過激な内容がテンプレート:要出典範囲放送内容を変更せざるを得なくなった。各局の裏番組が続々打ち切られる中、『オールナイトフジ』は1985年3月30日放送でいったん終了し、翌週から『オールナイトフジII[3]』として性風俗の話題を入れない純粋なバラエティとして再スタート。最終的にこの番組は1991年3月30日、第404回を迎えたところで8年の放送に幕を降ろした。
全404回の平均視聴率は、3.5%。最高視聴率は、1989年3月25日の7.2%と深夜帯にしては異例の高視聴率を誇った[出典 1]。
主な出演者
司会
- 秋本奈緒美(1983年4月 - 1984年9月)
- 鳥越マリ(1983年4月 - 1984年9月、1985年4月-1985年9月)
- 松本伊代[4](1984年10月 - 1986年3月)
- 麻生祐未(1984年10月 - 1985年3月)
- 山崎美貴(1985年10月 - 1986年3月、オールナイターズより事実上昇格)
- 岡安由美子(1986年4月 - 9月)
- 尾関真実(1986年4月 - 9月)
- 寺田理恵子(当時アナウンサー、1986年4月 - 9月)
- 高樹沙耶(現:益戸育江、1986年10月 - 1987年10月)
- 吉田美江(1986年10月 - 1987年10月)
- 中村あずさ(1987年11月 - 1988年3月)
- 石野陽子(現:いしのようこ、1987年11月 - 1988年3月)
- 杉本彩(1987年11月 - 1988年3月)
- 森尾由美(1988年4月 - 1988年9月)
- 麻木久仁子(1988年4月 - 1988年6月)
- 相楽晴子[5](1988年10月 - 1990年6月)
- 梶原真理子(1988年10月 - 1989年8月)
- 有賀さつき(当時アナウンサー、1989年9月 - 1990年6月)
- 田中美奈子(1989年9月 - 12月)
- 伊藤智恵理(1990年1月 - 6月)
- 千堂あきほ(1990年7月 - 1991年3月)
- 相沢なほこ(1990年7月 - 1990年9月)
- 大家由祐子(1990年10月 - 1991年3月)
- 成田路実(1990年10月 - 1991年3月)
- テンプレート:ルビ
オールナイターズ
- 初代 - 2代目
- 山崎美貴[6]
- 松尾羽純[6]
- 深谷智子[6]
- 松山香織[7]
- 冨田香織[7]
- 井上明子[8]
- 片岡聖子[8]
- 渡辺裕子[9]
- 芳ヶ野恭子[9]
- 長島佐紀江
- 須田ちよの
- 家村寿美子
- 今井由美子
- 末松千鶴[10]
- 坂口朱美
- 佐瀬和子
- 立見里歌[11]
- 内海和子[12]
- 中西真弓
- 西川静子
- 島野圭子
- 林こずえ
- 井田早苗
- 岩瀬恭子
- 乙坂章子
- 古田知恵美
- 佐野美和
- ほか多数
- 3代目
- 岩見真弓
- ほか多数
- 4代目以降
- ほか多数
シーエックス
- ほか多数
他レギュラー、準レギュラー、マンスリーなど
- 片岡鶴太郎[14]
- とんねるず[15]
- ドジ井坂[16]
- 小森和子
- 結城貢
- B21スペシャル[17]
- 田代まさし[18]
- 桑野信義
- ダチョウ倶楽部
- 斉藤りさ
- 染谷まさ美
- 星野かおり[19]
- 豊丸
- 所ジョージ
- 稲川淳二
- ビシバシステム
- ちびっこギャング
- ウッチャンナンチャン[20]
- パワーズ
- 大竹まこと
- RUSH
- 春一番
- 黒木香
- モロ師岡
- 松村邦洋
- ナース井手
- モッコリーズ&ぺにぃず[21]
- エスパー伊東
ネット局(オールナイトフジ)
フジテレビ以外のネット期間については、ザテレビジョン各地域版のバックナンバーによる[22]。
- フジテレビ
- テレビ静岡(1984年3月31日 - 1986年3月29日)
- 「情報交差点DO」(自社制作番組)編成のため、金曜から土曜へ映画枠の移動に伴い打ち切り。
- 石川テレビ(1984年7月14日 - 1986年9月27日)
- なお、番組最末期にネットを再開している(詳細後述)。
- 秋田テレビ(1984年10月6日 - 1987年3月28日)
- テレビ愛媛(愛媛放送、1984年10月6日 - 1987年9月26日)
- 富山テレビ(1986年4月2日 - 1986年9月27日)
- 番組ネット局中、最短の放送期間となる半年で打ち切られた。
- 新潟総合テレビ(1989年4月1日 - 最終回まで)
- 当初は全編ネット→後に番組途中からの飛び乗りへ。
- 長野放送
- 番組途中からの飛び乗りネット。
- テレビ熊本(1989年4月15日 - 1990年9月)
- 当初は全編ネット→後に番組途中からの飛び乗りへ(1989年4月1日に事前番宣も兼ね、自社制作の生特番放送中にフジへ出中)。
- 注釈
- フジテレビ以外は第2期以降放送時のネット局である。1984年3月25日以前および1987年10月4日 - 1989年3月26日はネット局なしの関東ローカル。
- 一部ネット局では、途中で放送を終了する「飛び降り」や、途中からネットする「飛び乗り」があった。
- 飛び降り局 - 秋田テレビ、愛媛放送
- 飛び乗り局 - 新潟総合テレビ、テレビ熊本、長野放送。
- テレビ静岡では、この番組の直前に放送されていた「中央競馬ダイジェスト」が休止された週(1985年4 - 5月の一時期ほか)に限り、番組開始10分後に飛び乗っていた[23]。
- また、上記レギュラーでのネット局とは別に、単発扱いで臨時にネットしていた局もある。
名物コーナー
- あなたのパンツ見せて下さい
- 女子大生初体験レポート
- ミニコンサート
- 洋楽情報
- ビデオソフト情報
- 小森のおばちゃまのロストバージン
- 結城先生の真夜中のお料理教室
- エアロビクス
- 真夜中のゲーム大会
- 鶴太郎劇団
- とんねるずのなんでもベストテン
- とんねるずなわけだぁ
- とんねるずの舎弟コーナー
- サーフィン情報
- スキー情報
- ほか多数
番組から発生した楽曲
- 女子大生にさせといて(第1期オールナイターズ、番組テーマ曲)
- 恋をアンコール、心はシーズンオフ、素顔にキスして、虹色のカノン(おかわりシスターズ)
- 東京カンカン娘'84(おあずけシスターズ)
- OH!!PARTY!!(山崎美貴・片岡聖子)
- 借りたままのサリンジャー、涙のあとにテンプレート:ルビを(山崎美貴)
- 床上手、IEKI吐くまで(片岡鶴太郎)
- 女子大生にまかせなさい!!(第2期オールナイターズ)
- いいテンプレート:ルビ撮ってね、藤江ちゃん!(藤江ちゃんとオールナイターズ)
- セーラー服を脱いじゃってから(第2期オールナイターズ)
- 小言(結城貢)
- 今夜はイヤイヤ、個人授業は指輪はずして(ミミズ三匹)
- KISS ME ON THE WEEKEND(シーエックス)
ハプニング
テンプレート:出典の明記 この番組では生放送のためハプニングが続出した。有名なところではとんねるずの石橋貴明がテレビカメラを壊したり、松本明子が放送禁止用語を発した。
- 石橋貴明テレビカメラ破壊事件
- 1985年1月19日放送の同番組内で『一気!』を熱唱中、石橋が箱型のテレビカメラ(東芝PK-31A)が載せられたペデスタル(雲台、昭特製作所製)を何度も揺すっているうち、ペデスタルのバランスが崩れてフロアに横倒しとなった。倒れたカメラをスタッフがすぐに立て直すも、とんねるずの二人は顔面蒼白。木梨は「俺しらねーよ…」と何度もつぶやいていた。曲終了後、MC陣がその場をどうにか取り繕った。
- カメラは一見故障していないように見えたが、倒れた際の衝撃によりレンズが破損し、またカメラ本体の精密部品が衝撃により放送に耐えうる画質・機能を維持できなくなり、結局修理不能のため廃棄処分となった。このカメラとレンズは合わせて当時の価格で約1,500万円だったものの、フジテレビが当時掛けていた保険では、修繕されなかった(報告書に悪ふざけと正直に申請したため)。
- その後、フジテレビの歴史や過去の番組を振り返る特番等で、このシーンが何度も放送されている。
- 松本明子放送禁止用語絶叫事件
- 1984年3月31日放送分でのこと。当日はニッポン放送の深夜番組『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』とのドッキング放送(サイマル放送)となり、『オールナイトニッポン』用のアナブースをフジテレビ第4スタジオ内に設置、オールナイトニッポンはそこから(番組が終了する午前5時まで)放送されていた。
- テレビとラジオのサイマル放送時、ラジオブース内でANNのDJ・笑福亭鶴光や鶴太郎らにそそのかされた松本は鶴光の“4文字の言葉を何か言うてみぃ”という質問に対し、4文字の放送禁止用語を発言して問題となり、以後半年間タレント活動を自粛し謹慎させられることになった。復帰後は再びオールナイトニッポンに出演するなど、タレントとして変わらず活動を続けている。
- 一方で、この騒動の“主犯格”とされた鶴光は、その後の長い間に渡り、関東圏のテレビ局からは仕事こそ来るものの、生放送の仕事が中々回ってこなかったといい、本人もオールナイトニッポンの最終回などでその事を度々語っていた。
- オールナイターズもみくちゃ痴漢事件
- 深夜放送であった都合上、会場での公開生放送は83年10月のサンシャインシティ噴水広場においての生放送のみ。広場全体を高さ1m程のステージにして全体をスタジオとして使用し、両サイドにフロアサブと仮控えスペースを設置し、放送開始から終了まで放送された。
- 当日のサンシャインシティは4周年記念24時間イベント中で、その一環として当時のサンシャインシティのイベントを仕切っていたフジ系企画会社の計画で実施された為、番組の前後にもビートたけしや鶴太郎等当時の多くの太田プロ関連の出演者がステージに登場していた。当日は番組及び主催者側の予想を遥かに超える1万人近い観衆が押し寄せ、会場は人でごった返し、ステージまで近寄れない人の為に通路各所の館内放送用モニターでも放送が流された。
- また、MCリハーサル中に一部番組関係者が、ステージ下の観客と言い合いになり、関係者が観衆を殴る事態も起こり、番組MCが悲鳴を上げて凍りつく異常な雰囲気のまま番組がスタートした。
- 番組終了後、オールナイターズの大学生用送迎バスをスタッフが広場後方の公道に用意してしまった為、大観衆の中を学生がすり抜ける羽目になり、多くの観衆にもみくちゃにされてしまい、翌週から番組出演を辞めた学生もいたという。
『オールナイトフジ』と『夕やけニャンニャン』
テンプレート:出典の明記 「オールナイトフジ」の特番「オールナイトフジ女子高生スペシャル」(1985年2月23日、3月16日)から派生し、同年4月、月曜から金曜までの平日のベルト番組「夕やけニャンニャン[25]」の放送が始まった。スタッフ陣はほぼ同じで、番組路線的にも「オールナイトフジ」のフォーマットを踏襲した生番組の情報バラエティ。
番組アシスタントとして、オールナイターズと同様に女子学生で構成されたおニャン子クラブも作り出す。こちらでもグループ本体はもとより、数々のグループ内ユニットやソロで、歌を出す・写真集を出す・他番組への出演など番組の枠を越えた芸能活動を行った。ただし、オールナイターズとは違って、おニャン子クラブは立ち上げのメンバーを除いて以降は番組内の公開オーディションで選ばれ、必ずしも素人ではなく加入前から芸能事務所に所属している者も多かった。
出演者も「オールナイトフジ」と掛け持ちで、初期の司会に片岡鶴太郎、中期から末期に掛けて松本伊代を配した。また、とんねるずは初期は連日出演[26]するなどしたが、「夕やけニャンニャン」開始と時を同じくして爆発的に売れっ子となっていったため、次第に出演する曜日は減り、中期からは水曜日のみの出演となった。
番組開始当初は7局ネットで、番組とおニャン子クラブの人気上昇と共にネット局が増え、最終的に23局ネットまで拡大したが、急激な“おニャン子”人気の低落や番組自体のパワーダウンもあり、1987年8月一杯で終了した。フジテレビと「オールナイトフジ」のスタッフはその後もこの番組と同様のコンセプトを持たせた番組として「パラダイスGoGo!!」(1989年4月から1990年3月まで)やそれに出演するフジテレビ主催・運営のタレント育成講座の乙女塾を作った。「パラダイスGoGo!!」にもまた当時の「オールナイトフジ」出演者(田代まさし、B21スペシャル等)が掛け持ちしていて、近似した番組作りが行われていた。
ライバル番組
1984年 - 1986年の「深夜番組ブーム」に放送された各局の「ライバル番組」。
- TV海賊チャンネル(日本テレビ、1986年3月終了)
- ハロー!ミッドナイト(TBS、1985年3月終了)
- ミッドナイトin六本木(テレビ朝日、1985年9月終了)
- 夜はエキサイティング(テレビ東京、1985年3月終了)
備考
- 事前収録部分
- 番組当初は『ミニコンサート』、『ゲストや一部レギュラーの歌』を除き、エンディングまで基本的に生放送されていた。途中から、26:30すぎあたりに消化するCM以降を生放送開始数時間前に事前収録しておき、時間が来たら放送するという形に移行した[27]。この部分的な事前収録については、番組内でもとんねるずや片岡鶴太郎などがあえて発言していた。
- 放送終了時間
- 当初からこの番組の“ウリ”のひとつに“放送終了時間未定”というものがあった。終了時間を未定とすることでビデオでの録画予約をしにくくし、視聴率が計測されるリアルタイムで見てもらおうとする目的もあった。
- 終了時間については27:30(=03:30)前後という暗黙の了解はあった[28]ものの、当日の番組進行に終了時間が左右されるという珍しいものであった。
- ただし、回によっては28:00(=04:00)過ぎまでどころか、時には朝5時になっても番組が放送されたことがある。
- フロアサブ
- この番組のセットの最大の特徴として「フロアサブ」の存在があげられる。ラジオ番組のスタイル[29]を模倣したいというスタッフの考えに沿って、本来存在しているサブ(=副調整室)とは別に、スタジオセットの一部としてフロア内に臨時のサブを設営した。これが「フロアサブ」である。
- オールナイトフジが初めて取り入れたこのシステムは、同局の同じスタッフが担当した「夕やけニャンニャン」では、全く同じ仕組みが取り入れられたほか、「殿様のフェロモン」(1993 - 1994)、『アパッチナイトフジ』(2006)でも同様のセット展開を取り入れていた。
- 内包番組「強力45」
- 番組編成上の都合により、1988年11月5日から1989年3月までのおよそ5か月間、別番組として「強力45」という番組が内包されていた。これはフジテレビの若手ディレクター7人が毎週、週替わりで様々な企画の45分番組を制作するという「実験枠」であった(この枠は「別番組」扱いとして、別途スポンサーもついていた)[出典 2]。
- ちなみにこの「強力45」は番組後半にさしかかる手前の午前3時前後(入り時間はアンタイム=任意時間)に挿入され、その間オールナイトフジは「中断」の扱いとなっていた。
- スポンサー
- スポンサーは関東に限り番組前半に複数社がついていた(1985年4月以降)。番組後半はPT。
- 1986年秋改編以降、フジテレビ深夜枠は『JOCX-TV2』などのゾーンタイトルが付加された「ゾーン枠」へと移行(この番組も当然ながらゾーン枠内の番組となった)し、そのゾーンスポンサーにキリンビールがついたことから、番組メーンセットやメーンテーブル、一部コーナー用のテーブル上にスポンサーの商品が常時置かれていたほか、番組内「洋楽情報」コーナーにもゾーンスポンサー名が冠としてつけられていた。
- 関西テレビのネット拒否
- 系列局の関西テレビは番組のネット要請を受けたが「お色気は一切排除する[31]」という意向があったために拒否し、土曜深夜の大型生放送番組として「エンドレスナイト」が1984年7月から6年間放送された。
- なお余談として、1984年秋頃に一度だけであるが「オールナイトフジ」と「エンドレスナイト」が相互に互いのスタジオと中継を結び、番組放送時間内に数回、互いの番組同士を紹介し合いながらエール交換を送るという企画を放送している。厳密な番組ネットではないが、非常に珍しい企画であった。
オールナイトフジ延長戦
テンプレート:基礎情報 テレビ番組 1988年4月からの約半年間、『オールナイトフジ』本編終了後の午前3時30分(予定)から5時30分まで放送されていた。ネット局はなし。当時は本体もネット局なしの関東ローカルであった。
概要(延長戦)
テンプレート:出典の明記 低予算を売りにして、カメラはハンディ型1台のみ。スタジオは基本的に使用せず、全編が外からの中継という、「本体」とは異なる状況下で放送されていた。
「本体」の最終回で、当時のMCであった相楽晴子や桑野信義らが語ったところによると、番組スタートの直接的理由は「オールナイトフジ本体の赤字解消」であるという。
中継場所は週替わりで変化した。初回はキャバクラの女子寮から行い、それ以降も様々な場所[32]から生中継を行ったが、後期に入るにつれ、フジテレビ社内での放送が多くなっていき、正面玄関や南玄関、第9スタジオ(「プロ野球ニュース」の常設セットを使用)などを経て、末期は1部終了後の第4スタジオをそのまま使用して放送する形へと変化した。
スタッフのうち、演出陣は「本体」のスタッフから一部が専従として「延長戦」へ異動したが、「本体」のスタッフも持ち回りで担当するなど、あくまで同じ番組としての連携が図られた。ただし、番組を送り出す副調整室は「本体」で使用している第4副調整室(スタジオ)ではなく、プロ野球ニュース用の第7副調整室を受けサブとして、当初はこちらにもカメラやタレントを置き、一部コーナーを放送していた。なお、1988年9月3日(本体・延長戦ともにMZA有明から全中継)と同年10月1日(「延長戦」最終回)に限っては、「本体」と同じ第4副調整室から送り出しを行った。
「本体」から「延長戦」へは、渡しコメントが必ず入り、回によっては「延長戦」メンバーが「本体」に顔出しすることもあった。
「延長戦」が放送されていた期間は、それまで「本体」で放送されていた一部のコーナーが「延長戦」に移動した。「KIRIN洋楽情報」もその一つだが、「延長戦」終了後、こちらは「本体」へと戻っている。ちなみに「洋楽情報」は番組初回から最終回前週まで放送されており、番組内で唯一最後まで続いたコーナーであると言える。
この番組の開始時刻はオールナイトフジ本体の終了時間に左右されており、本体の番組進行に合わせて延長戦の本編時間は決められていたといわれている。ちなみに、この期間は本体の終了時刻が「未定」との扱いになっており、延長戦も含めた番組全体としては「午前5時30分終了」と決まっていた。
放送期間・時間(延長戦)
- 1988年4月2日 - 10月1日:毎週日曜日(土曜深夜)3:30頃 - 5:30
- 『オールナイトフジ』本体の番組終了に合わせて開始時間が変動していたが、延びても4時前には本体が終了し、延長戦に入っていた。
主な出演者(延長戦)
- 桑野信義
- 相楽晴子(「延長戦」終了後の1988年10月から、「本体」のメインMCに昇格している)
- ダンプ松本
- 大森ゆかり(ダンプ松本と「虹色豚豚」というコンビを結成していたことから、番組中期以降、レギュラー出演)
- 高橋リナ(当時「RINA」名義)
- 長田美穂
- 春一番(番組内では「ウォッチ君」を名乗っていた)
- ドジ井坂
- 税所和尚
- ほか
オールナイトフジ・リターンズ
概要(リターンズ)
1994年4月から9月にかけて放送。好調だった前番組『殿様のフェロモン』の後を継ぎ、オールナイトフジ終了からちょうど3年が経った時期に復活したのが当番組である。
番組ネット局はフジテレビと岩手めんこいテレビ(mit)の2局。
主な出演者(リターンズ)
- 司会
- 川上理英子
- 神田うの(この番組が本格的な芸能活動としては最初の仕事となった)
- レギュラー
- 新オールナイターズ
備考(リターンズ)
- オールナイトフジは「終了時間未定」がひとつのウリであったが、こちらは終了時間が決まっていた。開始当初は毎週90分の生放送をやっていたが、途中から生放送の数時間前に翌週分を完パケ収録するという「2本撮り」になり、隔週生放送という形になった。
- スタジオセットは新しく作られたものだが、セット配置はオールナイトフジとほぼ同じであり、フロアサブやオールナイターズたまり席、ゲスト用のバーカウンターなど、以前とほぼ同じであった。
- 放送時期がちょうど夏を挟む時期にあったため、「FNSの日・平成夏休みバラエティー」の深夜枠として「オールナイトFNSスペシャル」という特別バージョンがフジテレビ系全国ネットで1度だけ放送された。
パロディ
オールナイトフジが注目を集めていた時代には、同じフジテレビのバラエティ番組でパロディ化されたことが数回あった。主なところを下記に記す。
- 「オールナイトひょうきん」- オレたちひょうきん族で放送。
- 「オールナイト不死」- ドリフ大爆笑で放送。こちらは当時のオールナイトフジのセットをそのまま使用して収録された。
脚注
- 出典
- 注釈
- ↑ ミス日本、元八王子市市議会議員。
- ↑ タイトルバックでレオタード姿で踊ったり、またアダルトビデオ紹介コーナーで恥ずかしそうに作品を紹介したりした。当時、新宿区市谷河田町にあったフジテレビ本社前には、オールナイターズ目当てに多くの男が集まったという。
- ↑ 実際の番組タイトルはオールナイトフジのまま。
- ↑ 後に姉妹番組『夕やけニャンニャン』でも司会を担当している。
- ↑ 相楽については、森尾(・麻木)・田代時代に存在した「延長戦」からそのままスライドする形で司会を担当した。
- ↑ 6.0 6.1 6.2 おかわりシスターズ。
- ↑ 7.0 7.1 おかおりシスターズ。
- ↑ 8.0 8.1 おあずけシスターズ。
- ↑ 9.0 9.1 よまわりシスターズ。
- ↑ 現・フジテレビ広告宣伝部企画担当部長。
- ↑ その後、おニャン子クラブへ。
- ↑ おニャン子クラブと同時期に加入し二股で活動し始めたが、ほどなくおニャン子クラブ専任に。
- ↑ 後に静岡朝日テレビアナ→テレビ神奈川アナ)。
- ↑ 1984 - 1986年3月まで司会格で出演。
- ↑ 1983年12月に初出演。1984年1月に一旦降板後、1984年6月 - 1986年3月までレギュラー。以降1989年3月まで月1回程度の準レギュラー。
- ↑ 1983年10月 - 1986年3月までレギュラー。その後1988年の「延長戦」にレギュラー出演。
- ↑ 1989 - 1991年まで司会格で出演。
- ↑ 1988年2月 - 9月まで司会格で出演。
- ↑ 星野は、番組最末期の「シーエックス」メンバーとしても出演。
- ↑ 当時は「ウッちゃんナンちゃん」だった。
- ↑ とんねるずの舎弟軍団。
- ↑ 各地域版より、当該ネット局における放送開始日及び放送終了日を確認。それに基づいた年月日を記述。具体的な日が不明なものは、同じく確認できた部分(年月単位)においてのみ記述した。
- ↑ 当時のテレビ静岡は、「中央競馬ダイジェスト」をネットしていなかったため。ちなみに当時はその枠に10分間の買取番組を購入し、放送していた。
- ↑ なお、この回は通常ネット局である愛媛放送が編成上の都合からネットせず。
- ↑ 本番組の構成者の中には秋元康もおり、彼は『夕やけニャンニャン』立ち上げにも関わった。
- ↑ 月曜日に限っては「EXPOスクランブル」に出演していたため、事前収録の上、番組前半のみ出演。
- ↑ 番組後半部分の事前収録については、インターネット上の掲示板において、「ミニコンサートやゲストの歌については、出演バンドやアーティストのセッティングや音合わせなどに配慮したもの」。また「後に番組後半すべてが事前収録になったのは、フジテレビ周辺に集まっていた出町や追っかけ対策の側面もあった」との関係者や当時の事情を知ると思われる者からの書き込み(証言)があった。
- ↑ 当時の番組表(ネット局と放送期間同様の調べ方により確認)には「3:30終了予定」(フジテレビ、テレビ静岡)との記述がなされていた
- ↑ スタジオとサブがガラス1枚で隔てられているだけという、出演者とスタッフ(特にディレクター)の物理的距離感。
- ↑ タイムキーパーやビデオエンジニア、照明担当は本来のサブにおり、ディレクターの他、スイッチャーやミキサーは本来のサブとフロアサブの双方に配置されていた。メーンのディレクターとスイッチャー、ミキサーはフロアサブに入るが、本来のサブにはフロアサブのトラブル時に機能を代替できるスタッフが入っていた。例えば、番組内のビデオソフト情報などで出演者やスタッフの表情が突然切り替わったり、フロアサブ内の様子が突然放送に乗るなどの場合、本来のサブで強制的に映像を切り替えているケースがほとんどであったという。
- ↑ 関西テレビに限らず在阪各局はお色気番組のネットに消極的であった。
- ↑ 六本木のカフェバーや船橋ららぽーとに当時あったドライブインシアター、都内の神社やガソリンスタンド、かつてシーエックスメンバーであった比嘉ひとみの自宅や横浜・山下公園、横須賀のレコーディングスタジオなど。
- ↑ 『オールナイトフジ』OB。
- ↑ 『オールナイトフジ』最終回ゲスト。
- ↑ 後に静岡放送アナウンサー→フリー→プロ野球選手・松中信彦夫人。
引用エラー: 「出典」という名前のグループの <ref>
タグがありますが、対応する <references group="出典"/>
タグが見つからない、または閉じる </ref>
タグがありません