辻元清美
テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:しんにょう テンプレート:政治家 辻元 清美(つじもと きよみ、1960年4月28日 - )は、日本の政治家。民主党所属の衆議院議員(5期)。民主党幹事長代理。立憲フォーラム幹事長。
社会民主党政策審議会会長(第5代)・国会対策委員長(第8代)、国土交通副大臣(鳩山由紀夫内閣)、内閣総理大臣補佐官(災害ボランティア活動担当)などを歴任。
目次
来歴
生い立ち
名古屋大学教育学部附属高校卒業。卒業後デパートに就職し、販売員を2年間務める[1]。 早稲田大学教育学部卒業。早大在学中の1983年(昭和58年)、その前年に起きた歴史教科書問題に触発され、アジア諸国と日本の交流の活性化を目的としたNGO「ピースボート」を設立した。その後も市民運動に関わり1993年(平成5年)にはエイボン女性大賞教育賞を受賞。
衆議院議員
1996年(平成8年)、同年に日本社会党から改称した社会民主党党首の土井たか子の誘いを受け、第41回衆議院議員総選挙に比例近畿ブロック単独で出馬し、初当選。
議員活動では特定非営利活動促進法(NPO法)、被災者生活再建支援法、情報公開法、児童買春・ポルノ禁止法などに取り組んだ。COP3「地球温暖化防止」プロジェクトチーム、男女共同参画社会基本法、環境アセスメント法審議に関わる。
当時、社民党は自社さ連立政権の一翼をになう与党であったが、社民党・新党さきがけ2党は総選挙直前に大量の離党者を出し(その多くが旧民主党結党に参加)、総選挙で惨敗を喫した。総選挙を経て発足した第2次橋本内閣では社民・さきがけは閣僚を輩出せず、閣外協力に後退し、後に正式に連立政権を離脱する。なお、辻元は一般に「自社さ」と呼ばれた連立の枠組みを「社自さ」と呼んでいた。
2000年(平成12年)の第42回衆議院議員総選挙では大阪10区から社民党公認で出馬し、公明党の石垣一夫、民主党の肥田美代子らを破り、再選。同年、社会民主党政策審議会長に就任。
議員辞職
テンプレート:Main 2002年(平成14年)3月、週刊新潮により辻元が政策秘書給与の名目で給付を受けた公費を流用した疑惑を報じた。社民党の調査委員会は3月25日に調査報告を発表し、週刊新潮の記事がおおむね事実であることを認め、辻元は翌日の3月26日に責任を取って議員辞職した。2003年6月、警視庁が辻元本人や元秘書らに事情聴取。7月18日、辻元本人・初代政策秘書・土井党首の元秘書で指南役の五島昌子ら4人が秘書給与詐欺容疑で警視庁に逮捕された。逮捕後は容疑を全面的に認めた。起訴された辻元は罪状を認め、2004年(平成16年)2月、懲役2年・執行猶予5年の有罪判決を受けた[2](2009年、猶予期間満了)。判決は名義借りについて元国会議員が実刑に処せられた2例と比較し、「辻元が被害弁償を済ませていること。国会議員に初当選した直後であり、知人で年長議員秘書を務めた五島の薦めに乗ってしまった面がないわけではないこと。相応の社会的制裁を受けていること。NPO法、児童買春・児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律等の議員立法に尽力し、市民感覚を政治に持ち込んだなどと評価も受けていたこと。今後の更生への協力が期待できる親族や知人もいること」、また「余罪がなく個人的用途に私用する意図まではなかった」と犯情の違いを指摘し、その反省の態度を信じ執行を猶予するのが相当とした[2]。
辻元は取り調べを受けた検事から「検察の中にはあなたに消えてほしいと思っている人がいるんですよ」「一切の社会的活動をやめた方がいいということです」と留置場で言われたと、自著で述べている[3]。また、「私の事件、メディアによる2次被害、3次被害みたいなのを今もやられてるからね」 と主張、自らを本件における被害者と主張している[4]。
復帰
有罪判決に伴う刑の執行猶予中であった2004年(平成16年)7月、辻元は第20回参議院議員通常選挙に大阪府選挙区から無所属で立候補したが、次点で落選(全国最高得票数落選者)。
2005年(平成17年)の第44回衆議院議員総選挙では社民党公認で出馬し、大阪10区では自由民主党の松浪健太に敗北したが、重複立候補していた比例近畿ブロックで復活し、3選。2009年(平成21年)の第45回衆議院議員総選挙では前回敗れた松浪を大阪10区で破り、4選。選挙後の同年9月、党国会対策委員長に就任した。
早野透によれば、三党連立政権の発足時には水面下での交渉を担当したとされ、辺野古基地建設を「見直し」対象とする連立政権合意を成立させたという[5]。
国土交通副大臣
2009年(平成21年)9月に発足した民社国連立政権の鳩山由紀夫内閣において、国土交通副大臣に就任する。国会対策委員長の職にあった辻元は当初、党務に携わるため就任の要請を固辞したが、社民党党首の福島瑞穂が既に閣議で辻元の国交副大臣就任を含む政務三役の人事案に同意し署名していたため、最終的に辻元は国土交通副大臣就任を受け入れた[6]。あわせて国対委員長を辞任し、同職は重野安正社民党幹事長が代行し[7]、辻元は翌2010年(平成22年)1月、正式に国対委員長を辞任した(後任は照屋寛徳)。国対委員長辞任後、新たに設けられた社民党特命常任幹事に就任し、党執行部には残留している。
なお国会議員時代の刑事事件で有罪判決を受けた者が刑の効力が失われた後に行政府の役職に就くのは、1997年(平成9年)に第2次橋本改造内閣で総務庁長官に就任した佐藤孝行以来12年ぶり。ただし、佐藤孝行は、当時閣外協力をしていた社民党からの辞任要求によって、わずか12日間で辞任に追い込まれている。
JAL再建対策本部・事務局長
2009年10月30日、JAL再生タスクフォースの解散後に設置されたJAL再建対策本部(本部長・前原誠司)の事務局長に就任した。大鹿靖明によれば、辻元は「JALの破綻はこれまで日本が経験したことのない国際大型倒産である」という認識から政府内やメガバンクとの調整にまわり、メガバンクとの会談では「いま、ここにいる人が大喧嘩したら日本の経済に大打撃を与えます。みなさんが鍵を握っているのです。100%納得するのはありえないでしょうから、歩み寄ってほしいのです」と語りかけたという。同席した大塚耕平金融担当副大臣は辻元の交渉を「タフネゴシエーターだった」と評価している[8]。しかし、日本政策投資銀行など日航の主力取引銀行は辻本からの金融支援の要請には応じず、逆に日航への融資に対する保証を政府が確保することを要請した[9]。
観光立国推進本部・事務局長
2009年12月1日に、観光立国推進本部の事務局長に就任した。中国人の観光ビザ取得要件の緩和に取り組み、発給条件の年収25万元(約320万円)以上を過度な所得制限と批判し、年収6万元(約80万円)に引き下げた。2010年(平成22年度)の中国人観光客が前年比41%増加を実現したことから、辻元は予算のいらない経済刺激策と自賛した[10]。
国交省予算配分漏洩問題
2010年(平成22年)2月4日、国土交通省が関連する公共事業の予算配分に関する情報を民主党の地方組織に漏洩させた馬淵澄夫国土交通副大臣の更迭を求めた自民党に対し、「(自民党は)過剰反応している」と退けた[11]。
連立離脱により辞任へ
2010年(平成22年)5月、沖縄県の普天間基地移設問題で、日米の政府間合意に閣議決定で反対し署名を拒否した内閣府特命担当大臣の福島瑞穂が鳩山由紀夫首相に閣僚を罷免され、社民党も連立政権からの離脱を決定。辻元は5月31日、前原誠司国交相に辞表を提出し、副大臣を辞任した。辞表提出後のインタビューで、手がけた道半ばで本当は辞めたくなかったと涙ながらに語った。
連立離脱について辻元は「鳩山政権離脱という選択が良かったのかどうかは、迷う。離脱することによって、自民党政権が復活したり、改憲への道が開けたりする恐れがあるねん。肝心の普天間基地の問題かって、どうしようもないカッコ悪さに耐えながら、政権に残っていた方が余地が大きかったんと違うかなあ。『地獄への道は善意で舗装されている』という言葉があるように、正しい選択が正しい結果を導くとは限らんやろ」と述べ[12]、「当時、日米合意があっても沖縄の合意がなければ辺野古移設は実現しないという閣議決定はできないか、と折衝していました。私はその歯止めができないかと考えていたんです」と主張している[13]。
離党
2010年(平成22年)7月、「現実との格闘から逃げずに国民のための仕事を一つずつ進めていきたい」[14]として、社民党を離党する意向を表明。7月26日夜に重野安正幹事長と会談し、その席で離党の意向を伝えた。7月27日の午前中には福島党首から離党を思い留まるよう慰留されるも、福島の説得を受け入れず、次の衆議院議員総選挙には無所属で出馬する考えを表明。9月に辻元が民主党に入党すると、福島は「応援した人を裏切っていくことは、一人の政治家として良いことではない。理念より権力に近寄る方を選択すると思ってしまう。すごく残念だ」と記者会見で述べた[15]。
福島党首との面談が重野幹事長との会談の翌日となったことについては、「参院選が終わってすぐに事務所を通じて面会のお願いはしていたんです。離党を決める前に一度は議論したかったから。決めようとした日程が2度キャンセルになって、その後も時間を合わせようとしましたが『当分忙しくて会えない』。私から本人の携帯に直接電話してもつながらなかった。・・・会ったときに確認したら『体調が悪かった』と言っていました。・・・幹事長と4時間ぐらい話した後、遅くに福島さんから電話があって『党を離れようかと思う』とお伝えしました。次の朝もかかってきて『どこかで会えないか』と言われたので参院議員宿舎まで福島さんに会いにいったのです。・・・もう離党する決意は固まっていました」と主張している[16]。
社民党は8月19日、離党届を受理し、除名などの処分は行わなかった。これは、地元の党大阪府連合の意向に沿ったものである[17]。
民主党入党
2010年(平成22年)9月28日、衆議院の会派「民主党・無所属クラブ」に入会[18]。また、国土交通委員会理事に就任した。2011年9月10日に民主党に入党届を提出し、9月27日に入党した(同時に衆院大阪府第10区支部長に就任)。10月20日、民主党政調副会長に就任。
内閣総理大臣補佐官(災害ボランティア活動担当)
- 2011年(平成23年)3月13日、東日本大震災を受け、災害ボランティア活動担当の内閣総理大臣補佐官に就任。
- 2011年(平成23年)7月30日、東日本大震災津波ボランティア連絡会議を開催。
- 2011年(平成23年)9月5日、野田内閣の発足をうけ、首相補佐官を退任。
民主党での活動
- 2011年11月に開催された事業仕分けで、前原誠司政調会長から「仕分け人」に選ばれる[19]。
- 2011年大阪市長選挙では、平松邦夫候補を支持し、応援演説では対立候補の橋下徹を激しく批判した。
- 2012年4月19日、「秋の大型連休」導入を検討するプロジェクトチームの座長として初会合を開いた。
- 2012年4月24日、民主党の人事により国土交通部門会議座長に就任した。
- 2012年12月16日、第46回衆議院議員総選挙で大阪10区より出馬、松浪に敗れたものの比例近畿ブロックで復活し5選。ちなみに同選挙で大阪の選挙区から出馬して当選した民主党の候補者が他にいなかったため現在は大阪の民主党府連に属する唯一の衆議院議員になった。
政策・活動
- 選択的夫婦別姓制度に賛成[20]。
- 2011年6月、超党派のNPO議員連盟幹事長として、全会一致によるNPO法の大幅改正、新寄付税制の成立に寄与。NPO法改正は通常国会で議員達の活躍を評価する「国会『三賞』」に選ばれた[21]。
- 菅政権では内閣官房につくられた「一人ひとりを包摂する社会」特命チーム座長代理として、元「年越し派遣村」村長の湯浅誠氏らと緊急提言を作成、提出した。
- 天皇制の廃止、女性首相の実現、日米安保条約の廃棄の3つを主張している[22]。
- 「天皇は伊勢にでも行ってもらって、特殊法人か何かになってもらう。財団法人でも宗教法人でもいいけど。そして、皇居をセントラルパークにし、アジア平和記念館とかをつくり、アジアの留学生を呼ぶという計画を立てている」とする[22]。
- 恒久平和調査局設置法案に賛成。(同法案の提出者の一人)
- 休日を分散する祝日法改正案を推進。
- 中核派がイニシアチブを取っていると警察庁に指摘をされている[23]「百万人署名運動」では、呼びかけ人として名を連ねている[24]。
- 2012年8月に消費税増税法案の採決で賛成した[25]。
議員連盟
- 立憲フォーラム(呼びかけ人)
発言
- 1996年(平成8年)
- 2000年(平成12年)
- 2001年(平成13年)
- 2005年(平成17年)
- 2008年(平成20年)
- 「従軍慰安婦問題を日本政府が「国民基金」で解決しようとしたことを反省する必要がある」[33]。
- 「金融危機の震源地である当のアメリカを見てください。まさにいま、大統領選挙をやっているではないですか。両政党がそれぞれ選挙で経済政策をはっきりと示して、国民に選んでもらおうとしています。こういうところこそ、アメリカにならうべきでしょう。私は、この危機をどう乗り切るかをテーマに、一刻も早い総選挙を行うべきだと考えます。各政党が経済政策を示し、議論すべきです。「経済が大変だから選挙をしない」のではなく、正々堂々と競い合って、選ばれた政権が国民が選んだ経済政策にのっとって実行すれば、国民も納得するはずだ」[34][35]。
- 2009年(平成21年)
- 「天皇は憲法に規定されている」[36]
- 2010年(平成22年)
- 「部屋と秘書官がいないと仕事ができひん」[37]。
- 2013年(平成25年)
- 「(安倍晋三が河野談話の見直していることに対して)総理自身が不名誉を作っている。外交問題として今後深刻化していく」[38][39]。
- 2013年、日本維新の会の橋下徹共同代表が従軍慰安婦問題について「アメリカの日本占領期には、日本人女性を活用したのではなかったのか。アメリカも世界も、日本の慰安婦だけを取り上げて、日本だけを特殊な人種と批判するが、これは違う」とアメリカを非難すると、記者会見を開き「(橋下は)大阪の恥」と糾弾するが[40]、橋下から「僕を大阪の恥だって。他人を徹底して批判して、自分にも秘書給与疑惑の問題が降りかかって、一度国政から退場したのではなかったのか」と揶揄された[41]。
- 私たちが、血の出る思いで絞った公共事業費をじゃぶじゃぶ投入していますが、被災地から「そんなに予算をつけても使いきれません」と悲鳴があがっています[42]。
エピソード
- 2005年(平成17年)、親交のある社会活動家で女性問題に取り組む北原みのりが経営するアダルトグッズショップが、東京・渋谷のライブハウスで開催した女性限定のイベントにゲストとして参加した[43]。当イベントでゲストにサインをもらってオークションにかけたいと北原に頼まれた辻元はサインに応じた[44]。のちに、該当の品を落札したのが週刊新潮の女性記者であったことを、北原が著書で明かしている[45]。
- 鈴木宗男事件では衆議院議員・鈴木宗男を激しく追及したが、その後、2009年(平成21年)に国会で「(事件の)裁判でもその事実(自身が追求したアフリカODA疑惑等)は出ておらず、確証がなかった。そのような言葉遣いをしたことを反省している」と陳謝、同事件で鈴木が一・二審有罪とされていることについては、「(同事件が)係争中であるため、申し上げる立場にない」とコメントしている[46]。
- 朝まで生テレビ!で共演し、たびたび辻元と議論した小林よしのりは、自身の著作であるゴーマニズム宣言で辻元を何度も登場させている。1999年(平成11年)に西村眞悟防衛政務次官が核武装発言をした際に、西村眞悟から辻元へ私的な会話(オフレコ発言)として「核武装や防衛に反対している社会民主党議員はアホである。核武装などの抑止力がなかったら自分たち男性はみんな強姦魔になっている。有事の際に辻元など社会民主党の女性議員が強姦をされていても助けてやらないぞ」の強姦と核抑止を関連付けた発言があり、社民党の女性議員が抗議したエピソードを、ギャグ漫画として10月8日発売の新・ゴーマニズム宣言第8巻で辻元が国会内でビラをばら撒き「女性だって陰核兵器があるのよ」と西村眞悟を逆レイプをするストーリーを描き、[47]2009年(平成21年)の天皇陛下御在位二十年記念式典で、天皇から招待されて辻元が国土副大臣として出席していたが、小林よしのりが同席していた辻元清美を発見した際に、「日本国憲法の記述で出席したのよ」と説明した会話がゴーマニズム宣言SPECIAL天皇論内のエピソードとして描かれている。
- 辻元は、議員辞職中に自動車運転免許と介護ヘルパー2級の資格を取得した。
- 社民党を離党した直後、鈴木宗男から電話があり、「たった一人の無所属で、どう国会を戦っていくか俺が教えてやる」とエールを送られた。後に結局民主党に入党(前述参照)。
- 辻元は 1992年、カンボジアでPKO活動中の自衛官に向かって「自衛隊内でコンドームを配っているとか。(相手の隊員を指差して)あなたのポケットにもあるのでしょう」と発言したと阿比留瑠比に産経新聞で書かれた[48]が、阿比留が根拠とした宮嶋茂樹の著書に実際には辻元がそのような発言をしたとの記述はなく、辻元自身もホームページで「この非常時に公器としての報道機関がデマを拡散させたことに、厳重に抗議いたします」と否定している[49]。
その他
- 評論家・田原総一朗は辻元を支持し、辻元に献金している[52]。
- 後援組織は「つじもとネット」(代表:伊田広行)
- お笑いコンビ 「キャベツ確認中」のしまぞうや、タレントの松尾貴史は辻元のモノマネを披露することがあるテンプレート:要出典。
清美応援団一覧
自身のホームページでメッセージ動画を寄せている著名人[53]
著作
単著
特記なき物は第三書館刊
- 『清美するで!!——新人類が船を出す』1987年。
- 『ありのまま主義宣言っ!——うどん屋の娘に国境はいらない』芸文社、1990年。ISBN 9784874651964
- 『転職して、国会議員になった』1997年 ISBN 9784807497096
- 『辻元清美の永田町航海記』1998年 ISBN 9784807498147
- 『辻元清美の「今からでも、変えられる」』2000年 ISBN 9784807400089
- 『総理、総理、総理!!——“小泉現象”におそれず、ひるまず、とらわれず』2001年 ISBN 9784807401123
- 辻元清美著『なんでやねん』2002年 ISBN 9784807402083
- 辻元清美著『へこたれへん。』角川書店、2005年 ISBN 9784048839310
共著
- 大阪ボランティア協会編『ザ・ピースボート——今、 あぶないことがオモシロイ』大阪ボランティア協会出版部、1992年。
- 村山富市談、インタビュー『そうじゃのう…-村山富市「首相体験」のすべてを語る』第三書館、1998年。ISBN 9784807498109
- 早瀬昇・松原明『NPOはやわかりQ&A』岩波書店、2000年。ISBN 9784000092111
- 斎藤貴男ほか『憲法を決めるのは誰ですか?』労働大学出版センター、2006年。
- 上野千鶴子『世代間連帯』岩波書店、2009年。ISBN 9784004311935
脚注
外部リンク
テンプレート:S-off
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
金子恭之
加納時男
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 国土交通副大臣
馬淵澄夫と共同
2009年 - 2010年
|style="width:30%"|次代:
馬淵澄夫
三日月大造
テンプレート:S-ppo
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
日森文尋
|style="width:40%; text-align:center"|社会民主党国会対策委員長
第8代:2009年 - 2010年
|style="width:30%"|次代:
照屋寛徳
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
濱田健一
|style="width:40%; text-align:center"|社会民主党政策審議会長
第5代:2000年 - 2002年
|style="width:30%"|次代:
大脇雅子
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