三好氏

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テンプレート:日本の氏族 三好氏(みよしし)は、日本氏族の1つ。家系は信濃源氏鎌倉時代阿波の守護小笠原氏の末裔。室町時代は阿波守護代を務め、戦国時代に阿波をはじめとする四国東部のみならず、畿内一円に大勢力を有する戦国大名となった。


歴史

本姓源氏清和源氏河内源氏)の名門小笠原氏(信濃源氏)の庶流とされ、鎌倉時代に阿波守護であった阿波小笠原氏の末裔。阿波三好郡を本拠にしたことから三好氏を称した。

鎌倉時代後期には既にその名が阿波国内で散見されるようになる。南北朝時代の初期は、南朝方として活動しており、北朝方の細川氏と対立していた時期もあった。しかし南朝が不利になり、細川氏が室町幕府内でも勢力を拡大し強大化するとそれに服した。阿波は細川家の庶流の一つである阿波細川家が代々守護をつとめたが、三好氏は、この阿波細川家の被官として勢力を伸ばす。

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三好氏代々の墓/勝瑞城内に建つ

三好之長と細川澄元

明応の政変

長禄2年(1458年)には、智勇兼備の良将と謳われた三好之長が現れる。之長の諱は、阿波細川家の細川成之に偏諱を受けたものであり、之長は、管領細川勝元に従い応仁の乱に東軍として参加した。勝元の子細川政元の養子に阿波細川家から澄元が養子に迎えられると、これを支え各地を転戦して武功を挙げ、畿内にも大きな影響力を持った。そして政元から細川京兆家の直臣となることを望まれ、これを受けた。これ以後、三好氏は京兆家の重臣の一つとなる。細川政元は、10代将軍・足利義材(後に義尹、更に義稙と改名)を追放し(明応の政変)、11代将軍・足利義高(後に義澄と改名)を擁立し「半将軍」と呼ばれる程の実力者であったが、実子が無く澄之九条家)、澄元(阿波細川家)、高国野州細川家)を養子としていた。そして之長は、細川澄之の執事で山城守護代であった香西元長と反目していた。

永正4年(1507年)、細川澄之と香西元長は、細川政元を殺害し細川京兆家を継承する(永正の錯乱)。三好之長と細川澄元も襲撃され近江に逃れた。細川澄之は細川一族の細川高国や尚春、政賢らの反撃を受けて討たれ、之長らは近江から帰洛し、澄元と共に権勢を掌握した。

細川高国・大内義興との戦い

しかし同年11月、周防に流れていた前将軍足利義尹が大内義興(周防)に擁立されて上洛戦を開始する。 細川澄元は大内義興との和睦を画策したが、細川高国が大内方に寝返ったため決裂し、足利義澄、細川澄元、三好之長は近江に逃れ、大内義興は上洛を果たし、足利義尹は10代将軍職に復帰した。

永正6年(1509年)、細川澄元、三好之長は、京都に侵攻したが、逆に高国と義興の反撃を受けて敗北し阿波に逃走する(如意ヶ嶽の戦い)。

永正8年(1511年)7月、細川澄元、三好之長は11代将軍・足利義澄、赤松義村(播磨)と連携しと共に堺に上陸し、深井城の合戦に勝利し京都を奪還する。しかし同年8月、足利義澄が死去し、三好之長らは再起した細川高国と大内義興との船岡山合戦に敗れ、阿波に落ち延びた。大内義興は、上洛を果たし、管領代に任命された。

永正15年(1518年)8月軍事力では主力であった大内義興は、出雲の尼子経久の勢力が拡大し石見、安芸、周防を脅かし始めたため帰国してしまう。大内義興の在京期間は10年に及んだが、軍事力の中枢を失い細川高国の基盤は揺らいだ。

細川高国・六角定頼との戦い

永正17年(1520年)1月に細川澄元・三好之長が、細川高国の領国である摂津に侵攻し下田中城主・池田信正の協力を得て、瓦林正頼が籠もる越水城を攻略した。すると10代将軍・足利義稙も澄元に通じため、細川高国は単独で近江坂本に逃れ、三好之長は京都を奪還した。

しかし同年5月、細川高国は六角定頼(近江)と内藤貞政(丹波)の援軍を得、上洛戦を開始する。これに対して澄元・之長らは兵を集めることができず、之長は等持院の戦いで敗北し捕らえられて自害し、摂津伊丹城に居た澄元も阿波に敗走した。同年6月、細川澄元も阿波にて病死した。六角定頼は、上洛を果たし、後に管領代に任命された。

三好元長と細川晴元

細川高国・浦上村宗・朝倉宗滴との戦い

永正18年(1521年)、細川高国と10代将軍・足利義稙の関係は険悪となり、義稙が境に出奔した為、赤松家の実権を握った浦上村宗(播磨)の元にいた前将軍足利義澄の子・足利義晴第12代将軍に補任された。足利義稙は、大永3年(1523年)、逃亡先の阿波で死去した。

大永6年(1526年)、細川高国が家臣の香西元盛を殺害して細川氏で内紛が起こると、三好之長の孫・三好元長は細川政元の子晴元と、12代将軍・足利義晴と同じく11代将軍足利義澄の子で、船岡山合戦の後、阿波細川家で庇護されていた・足利義維堺公方を擁立し、大永7年(1527年)に桂川原の戦いで高国を破り京都を奪還する。足利義晴は細川高国を伴い近江に逃れた。

大永7年(1527年)、将軍・足利義晴と細川高国は朝倉宗滴(越前)の支援を受け上洛を果たすが、大永8年(1528年)、不和から朝倉宗滴が越前に帰国すると、京都は細川晴元と三好元長が奪還した。

大永8年(1528年)7月、三好元長はそれまでの功績により山城守護代に任じられたが、翌享禄2年(1529年)には新たに同僚となった柳本賢治らと折り合いを悪くした為、阿波に逼塞する。

享禄3年(1530年)に柳本賢治が播磨出陣中に暗殺されると、足利義晴と細川高国は、浦上村宗や北畠晴具(伊勢)と連携して京への上洛を果たす。

享禄4年(1531年)、細川晴元は堺公方府防衛のため三好元長を呼び戻し、浦上村宗の軍勢を止めることに成功、摂津中嶋にて戦線は膠着状態となった。 しかし突如、浦上氏の主筋である赤松政祐が細川晴元方に内応し、細川高国・浦上村宗軍を背後から攻撃し為、細川高国と浦上村宗は敗死した(大物崩れ)。細川晴元と三好元長は京都を奪還した。

木沢長政・三好政長との戦い

天文元年(1532年)、仇敵・細川高国を討った細川晴元は足利義晴(12代将軍)と和解を進めた為、足利義維(堺公方)を庇護してきた三好元長は仲違いを始める。更に畠山義堯畠山総州家)の家臣である木沢長政が義堯を飛び越え細川晴元に接近し、元長の従叔父の三好政長も細川晴元に同調する。畠山義堯と元長からは2度に亘って木沢長政の居城の飯盛山城(河内)を攻撃したが、晴元の要請により蜂起した一向一揆が背後から元長を襲い、畠山義堯を自刃させ、三好氏の根拠地・法華宗の和泉顕本寺も襲い、元長も自害に追いまれてしまう(飯盛山城の戦い)。

三好長慶と細川晴元

木沢長政・三好政長との戦い

三好宗家は元長の嫡男である三好長慶が継ぐことが許されたが、長慶は10歳という幼少のためか三好氏は一時的に後退した。義維も享禄・天文の乱の混乱に乗じた晴元らにより阿波に移され(阿波公方)、義晴と和睦した晴元が政権を握り、晴元の側近として三好政長・木沢長政らが台頭した。しかし長慶は長じて智勇兼備の武将に成長し、河内守護代で畿内に強い勢力を誇った遊佐長教畠山尾州家・家臣)の娘を継室に迎え、自らも勢力を本国阿波のみならず摂津へ広げ力を蓄えると、弟の三好実休(阿波)や安宅冬康(淡路)、十河一存(讃岐)らと協力して、天文11年(1542年)、木沢長政ら父の仇の敵勢力を次々と破り、細川家中に父以上の勢力を築き上げた(太平寺の戦い)。

天文18年(1549年)、長慶は岳父・遊佐長教の援軍を得た上で細川高国の養子氏綱を擁立、細川晴元に反旗を翻し、晴元の勢力を軍事面で支えていた三好政長を摂津榎並で討ち取った(江口の戦い)。将軍・足利義晴と細川晴元は大津に逃亡し政権が崩壊した結果、長慶は戦国大名として名乗りを上げた。

細川晴元・六角定頼との戦い

天文19年(1550年)5月、足利義晴が死去。その子足利義輝は、六角定頼を烏帽子親として元服していたが、長慶と敵対していた。長慶は足利義輝と戦って近江に追い、畿内(摂津、河内、大和丹波山城和泉)や四国(阿波、讃岐淡路)と合わせて9ヶ国と播磨伊予土佐の一部を支配する大大名にまで成長した。

三好政権

足利義輝・六角定頼との和解

天文21年(1552年)1月、三好長慶は細川氏綱を管領にするという条件で足利義輝と和睦し、義輝は京に戻った。翌年(1553年)義輝は晴元と協力して長慶との戦端を開くも敗退。再び近江朽木へ逃れ、以降5年間をこの地で過ごした。なお、亡命中の同23年(1554年)2月12日、名を義輝に改めている。

永禄元年(1558年)に長慶は足利義輝と和睦し、幕府相伴衆として13代将軍・足利義輝を推戴し、足利義輝-細川氏綱-三好長慶という体制に移行した。とはいえ実権は長慶が握っていた。長慶は後に15代将軍足利義昭を推戴した織田信長と同様に、上洛し都において室町将軍の役割である畿内地域の支配と地方大名の統制を間接的に担った、戦国時代初の天下人といわれる。

三好政権の拠点

三好政権傘下の武将

隆盛と一族の死

長慶は連歌を愛好し、を好み、源氏物語などの古典に親しむ風雅の士でもあり、キリシタンに対しても寛容な対応を示すなど、仏教(宗派に関係なく)、神道キリスト教など幅広い宗教を認めた。そのため、仏教内部の対立(法華宗と一向宗)は沈静化した。また有能な弟達を各所に配置し、大きくなった勢力を統治した。応仁の乱以降の長い戦乱で荒廃した都を復興し、の町を一大貿易港として整備するなど精力的に活動した。

しかし、旧勢力の抵抗は止むことなく、河内・紀伊の守護で三管領の1つ畠山氏畠山高政、南近江の半国守護で細川晴元の従兄弟の六角義賢らは反三好の兵を起こすなどした。それらとの戦いのなか、久米田の戦い(現在の岸和田市)で弟の実休を失い、嫡男義興や自身の弟達(十河一存、安宅冬康)にも先立たれ、自身も永禄4年(1564年)に41歳で死去してしまった。

三好長慶の死後

将軍暗殺

長慶の死後、三好氏の家督は長慶の甥で養子の三好義継(十河一存の子)が継いだ。しかし義継は若年のため、三好政権は義継の後見人である三好長逸三好政康岩成友通三好三人衆と松永久秀による連立政権が樹立されたのである。

一方、長慶の傀儡として君臨していた将軍足利義輝は長慶の死を好機と見て、かねてから親密な関係にあった上杉謙信武田信玄朝倉義景など諸大名に上洛を呼びかけ、幕府再建を目指して積極的な活動を行なうようになった。このような義輝の行動に危機感を持った久秀・三好三人衆らは永禄8年(1565年5月19日にクーデターを起こして義輝を二条城暗殺した(永禄の変)。

内紛・政権崩壊

しかし連立政権内において松永氏の勢力を危険視した三人衆は、永禄の変から7ヶ月ほどたった永禄8年12月、かつて久秀に筒井城を奪われて(筒井城の戦い)放浪していた筒井順慶ら大和の国人衆らと手を結んで大和に侵攻し、久秀を討とうとした。これにより、三人衆と久秀の対立が先鋭化する。また、丹波の大名となっていた久秀の弟長頼荻野直正に討ち取られた(連立政権は丹波を失う)。

一方、義輝には弟・覚慶がおり、義輝の旧臣に擁立され、永禄9年(1566年)2月に還俗し足利義秋と名乗り、永禄9年(1566年)4月21日には従五位下・左馬頭(次期将軍が就く官職)に叙位・任官した。これに対し三好3人衆は、かつての堺公方であった阿波公方・足利義維の子である足利義栄を14代将軍候補として擁立した。義栄は、永禄10年(1567年)1月従五位下・左馬頭に叙任された。

三人衆は松永久秀との戦いにおいて、三好家当主三好義継を擁し、永禄9年(1566年)9月には、阿波・讃岐の軍勢を率いた実休の子三好長治、その重臣篠原長房三好笑岩、阿波細川家の細川真之、将軍候補方・足利義栄も合流し、圧倒的に優勢であった。しかし永禄10年4月、当主の義継が突如出奔、松永久秀に保護を求めた。これにより久秀方は息を吹き返したしたが、やはり依然として劣勢であった(東大寺大仏殿の戦い)。 三人衆方の篠原長房は、松永方の摂津越水城を奪い、ここを拠点として大和ほか各地に転戦した。この時期の長房について、『フロイス日本史』に「この頃、彼ら(三好三人衆)以上に勢力を有し、彼らを管轄せんばかりであったのは篠原殿で、彼は阿波国において絶対的(権力を有する)執政であった」と記されている。

永禄11年(1568年)2月、足利義栄14代将軍に就任した。

織田信長との戦い

三好政権内部で内紛が続いている中、永禄の変で細川藤孝一色藤長ら幕臣の援助を受けて逃亡していた足利義昭は、尾張美濃を領して勢いに乗る織田信長の援助を受け、永禄11年(1568年)9月に上洛を開始した。

内紛に明け暮れている三好政権は信長の侵攻を食い止めるため、管領職を与えることで六角義賢を味方につけて防衛しようとしたが、義賢は信長の侵攻を受けてあえなく敗れさった(観音寺城の戦い)。

三好義継と松永久秀は信長と通じており、このため三人衆は敗走し、篠原長房も越水城を放棄して阿波へ撤退した。織田信長は上洛を果たし、足利義昭15代将軍に就任した。三人衆に擁立されていた足利義栄は9月に逃亡先の阿波で病死した。

永禄11年(1568年)9月、三好三人衆と三好笑岩は阿波から上陸し足利義昭を急襲するが、あと一歩というところで失敗してしまう(本圀寺の変)。

元亀元年(1570年)7月、三好三人衆・三好笑岩らが阿波から再び上陸し野田・福島に兵を挙げると、信長はこれを5万の兵で攻めるが、本願寺の助力もあり激戦の末信長は撃退され、更に近江にも戦端が開かれた為同年9月に信長は撤退する(野田城・福島城の戦い)。この信長の撤退と入れ替わりで、篠原長房が再び長治・真之を奉じ阿波・讃岐の兵2万を率いて摂津に上陸、摂津、和泉を席巻するが、信長は朝廷工作を実施し、正親町天皇より「講和斡旋を希望す」という言を得て、11月30日に話し合いが行われ、12月14日に和睦が成立し、近江における浅井長政、朝倉義景、六角義賢の撤兵とともに、長房も阿波へ軍を退いた。

元亀2年(1571年)5月には、篠原長房は阿波・讃岐勢を率いて、信長と結ぶ毛利氏の圧迫を受けていた浦上宗景の求めに応じ備前(児島郡)に上陸している(本太城合戦)。

同年9月にも、長房は阿波・讃岐勢を率い摂津に上陸、荒木村重中川清秀、松永久秀(三好方)と共に和田氏(足利・織田方)の高槻城(摂津)を包囲している(白井河原の戦い)。

元亀3年頃には三好3人衆と足利義昭、三好義継(和泉)、松永久秀(大和)が反織田信長で一致、元亀4年には三好家の勢力範囲は淀古城(山城国)まで達した。

本拠地(阿波・讃岐)の崩壊

しかし元亀4年(1573年)5月、篠原長房は主君の三好長治・細川真之により居城の上桜城を攻撃され、抗戦ののち7月に自害してしまう(上桜城の戦い)。これらにより三好家は統率力を喪失、讃岐の国人・香川氏香西氏を始め、阿波の国人までもが三好家から離反し、本拠地阿波の援軍を得られなくなった三好三人衆・三好笑岩・三好義継・松永久秀は畿内で孤立してしまう。

三好三人衆はなおも信長に抵抗したが天正元年末(1573年)迄にはそれぞれ敗れ去り(第二次淀古城の戦い)、更には当主・三好義継までもが足利義昭を匿った為同年11月に信長に討たれ(若江城の戦い)、天正2年1月に松永久秀が降伏、天正3年(1575年)4月には本願寺の支援を受けていた新堀城(摂津)の十河一行香西長信が敗死、高屋城(河内)の三好笑岩も降伏(高屋城の戦い)、ここに三好氏は畿内における勢力を完全に失った。

その後、阿波の三好長治は天正5年(1577年)長宗我部元親の助力を得た細川真之と阿波荒田野で戦い敗死、長治の死後、讃岐・阿波を領有した十河存保も長宗我部元親の侵攻を受け信長に降った。

その後の三好家

三好氏の生き残りである三好笑岩は信長の家臣となり、河内の一部に所領を与えられた。また、十河存保も豊臣秀吉に仕えて讃岐に所領を与えられ、家名の存続を図った。しかし存保は天正14年(1586年)、戸次川の戦いで戦死してしまい、嫡男十河千松丸も秀吉謁見後に毒殺されたため改易とされた。笑岩は一時秀吉の甥(豊臣秀次)を養子に迎えたが、本家を相続するため縁組は解消され、以降消息不明となった。笑岩の家臣であった三好房一も秀吉に仕え、関ヶ原の戦いの後には江戸幕府の旗本となり2300石を領したが嗣子なく廃絶となっている。また、元和元年(1615年)、存保の遺児・十河存英や三好三人衆唯一の生き残り・三好政康は大坂夏の陣で戦死している。

政康の弟と伝わる三好政勝徳川氏に仕え、子孫も旗本として存続した。他にも大名家に仕え存続した庶流も存在する。

また、香川県に伝わる伝承では本流である三好義継の嫡男義兼、次男義茂の兄弟は讃岐国伊吹島に逃れ、ここに土着したといわれる。生駒氏の讃岐統治時代、義兼の孫義浄は生駒氏より政所のお墨付きを授かり、以後代々作右衛門を名乗ったという。伊吹島の伊吹八幡神社には今も80騎まで撃ち減らされた義兼主従が伊吹島に辿りつき、神宮に誓文を奉げている姿を描いた絵馬が残されている。

一族

  • 三好長慶に仕えた三好一族

三好長朝三好盛政三好政保三好長勝三好勝時

系譜

凡例 太線は実子、二重線は養子、丸数字は当主、三人は"三好三人衆"の略。

  長之
 ┏┻━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 之長 長尚                                           勝時 
 ┣━━┳━━━┳━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓  ┣━━┓
 長秀 長光  長則   元長                            善長 勝長 政長
 ┣━━┓    ┃    ┣━━┳━━━━━━┳━━━━┳━━┓    ┃  ┏━━┫
 一秀 笑岩  長逸3人 長慶 実休       冬康安宅 一存十河 冬長野口 一任 政康3人政勝
 ┏━━∥          ┃   ┣━━━┓   ┣━━┓ ┗┳━━┓   ┃
 康俊 信吉豊臣秀次    義興  長治 存保 信康 清康 存之 義継 可正
                 ┃        ┃                     ┣━━━┓
                義資       存英                    長富    勝正
                                                 ┃     ┣━┓
                                                長広    長賢 勝安
                                                 ┃     ┃
                                                長栄    長常
                                                 ┣━┓  ┃
                                               倚長 正脩 長憙
                                                 ┃     ∥
                                                長義    長興
                                                 ┃     ∥
                                                長逵    長恭

脚注


参考文献

  • 今谷明『戦国 三好一族 天下に号令した戦国大名』(洋泉社新書MC、2007年) ISBN 978-4-86248-135-1

関連項目

外部リンク