細川澄之
細川 澄之(ほそかわ すみゆき)は、室町時代後期(戦国時代)の武将。幕府管領・細川政元の養子となった。
生涯
延徳元年(1489年)、関白・九条政基の末子として生まれる。母は武者小路隆光の娘。政基より九条家の家督を継いだ九条尚経は20歳ほど年の離れた異母兄である。
延徳3年(1491年)2月13日、生後2歳にして独身のため実子の無かった管領・細川政元の養子となり、細川京兆家の世子が代々称した聡明丸を幼名として名乗る。文亀2年(1502年)9月、養父・政元から正式に嫡子(家督継承者)に指名され、丹波守護職を与えられた。ところが政元と聡明丸(澄之)の両名は折り合いが悪かったようで、翌文亀3年(1503年)5月、政元は澄之を廃嫡[1]し、阿波守護家の細川義春の子・六郎(改め細川澄元)を新たに養子に迎えて後継者に指名した。更に翌年の永正元年(1504年)に元服、母方の従兄弟で室町幕府11代将軍の足利義澄[2]より偏諱を賜り、澄之と名乗る[3]。永正3年(1506年)には養父・政元の命令に従って丹後の一色義有討伐に赴いて賀悦を攻めたが、敵方と内通して落城を装い、兵を退いた(澄之自身、廃嫡されたことに立腹しない筈もなく、「養父・政元の命令に従った」というのは表向きの行動であった)。
永正4年(1507年)6月、政元の被官・香西元長・薬師寺長忠らが政元を暗殺する永正の錯乱が起こる。元長・長忠らは澄元の暗殺も計画したが、澄元は家宰の三好之長の機転によって近江に逃亡した。澄之は元長らに迎えられて丹波から上洛し、政元の葬儀を催して、将軍・義澄から細川管領家(京兆家)の後継者と認められた。事件は、澄之を新たな京兆家当主として擁立することで三好之長ら阿波の勢力を排除したい元長・長忠ら京兆家被官が中心的な役割を果たしていたとされる。しかし、先に澄之が落城を装った賀悦城の石川直経が、一色を包囲中の赤沢朝経を首尾よく襲って敗死させるなどしており、事件以前から澄之も通謀し、周到に準備された計画であったことがわかる。理由はやはり前述の通り、廃嫡されたことに対する恨みが主なものであっただろう。
澄之・澄元の後に同じく政元の養子となっていた細川高国は、細川氏の一族をまとめ、高屋城の畠山氏らをも引き込んで、畿内近辺の勢力を糾合することに成功する。近江に逃れた澄元と三好之長は、遅れ馳せながら近江の国人を味方に引き入れ8月1日には京都に攻め上った。その戦功により澄之方の主将、一宮兵庫助が討たれると、敗戦が明らかになった澄之は自決した。享年19。元長や長忠らも戦死し、澄之政権はわずか40日で崩壊した[4]。
辞世の歌
- 梓弓(あずさゆみ)張りて心は強けれど、引き手すくなき身とぞ成りぬる。
参考文献
注釈
テンプレート:細川氏- ↑ 廃嫡の理由は、澄之は貴族で才気に乏しく、15歳までに管領を継がすのは難しいと政元が判断としたことが原因と言われている。これにより香西元長・薬師寺長忠と三好之長が二派にわかれ、激しい権力争いがあったといわれている。
- ↑ 『三好長慶』〈人物叢書〉14頁 より。義澄の母も武者小路隆光の娘である。
- ↑ 本来、細川京兆家の家督継承者に付く筈の諱の二文字目は「元」の字であるが、こちらは養嗣子に迎え先に元服した六郎(澄元)に与えられている。一方、「之」の字は家督継承者には用いられず、例外も初代当主の細川頼之と、(兄・持元の死去により跡を継げた)細川持之(政元の祖父)の二名だけである。従って「之」の字を与えられた聡明丸(澄之)は元服前には既に嫡子でなくなっていたことがわかる。
- ↑ 澄之が支持されなかったのは細川家の血統では無かったためであり、細川一族の細川政賢や細川尚春らからも敵視された。『宣胤卿記』『多聞院日記』『瓦林政頼記』)『三好長慶』〈人物叢書〉18頁。