マケドニア共和国
- マケドニア共和国
- Република Македонија
-
マケドニアの国旗 マケドニアの国章 (国旗) (国章) - 国の標語:なし
- 国歌:今日マケドニアの上に
- マケドニアの位置
公用語 マケドニア語
アルバニア語、トルコ語、ロマ語、アルーマニア語、セルビア語[※ 1]首都 スコピエ 最大の都市 スコピエ 通貨 マケドニア・デナール(MKD) 時間帯 UTC (+1)(DST:(+2)) ISO 3166-1 MK / MKD ccTLD MK 国際電話番号 389 </dd>
- ↑ 憲法に規定される公用語はマケドニア語のみであるが、地方自治体においては、少数言語の話者が人口の2割を超える場合、その言語は自治体においてマケドニア語とともに公用語の地位を認められる。これによって、自治体によってはマケドニア語以外の言語が公用語となっている。
マケドニア共和国は、地理的にはマケドニアと呼ばれてきた地域の北西部にあり、マケドニア共和国はマケドニア地域全体の約4割を占めている。残りの約5割はギリシャに、約1割はブルガリアに属している。また歴史上、マケドニア共和国の多数民族はマケドニア人と自称・他称されるが、彼らはスラヴ語の話し手で南スラヴ人の一派であり、ギリシャ系の言語を話していたと考えられる古代マケドニア王国の人々と直接の連続性はない。これらの理由から、ギリシャがマケドニアという国名を拒否し、同国との間で激しい国名論争(マケドニア呼称問題)が生じている。
憲法上の正式名称はマケドニア共和国であり、約125ヶ国はこの呼称を用いている一方、欧州連合や日本等はこれを認めず、国際連合に加盟したときの暫定呼称マケドニア旧ユーゴスラビア共和国を使用している(後述)。
目次
国名
憲法上の正式名称は、Република Македонија (マケドニア語。ラテン文字転写は、Republika Makedonija 。読みは、レプブリカ・マケドニヤ)。通称は、Македонија(Makedonija)。
公式の英語表記名は、Republic of Macedonia。略称、Macedonia(英語の読みは、マセドニア)。また、アルバニア語での表記はRepublika e Maqedonisë(レプブリカ・エ・マチェドニス)である。
日本語での表記は、マケドニアもしくはマケドニア共和国。ただし前者では地域としてのマケドニアと区別がつかない。また日本は国連と同様にマケドニア旧ユーゴスラビア共和国で国家承認を行っており、行政公文書における日本語の表記は「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」となる。しかし、日本国外務省では単に「マケドニア」あるいは「マケドニア共和国」と簡略化して表記する部分も部分的に見られる。この他に日本語でのリリースを発表する機関として欧州連合(在日欧州委員会代表部)があるが、欧州連合の加盟国であるギリシャがマケドニア共和国の正式呼称を認めていないため、通常「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」で言及される。漢字表記は馬其頓。
「マケドニア」とは、マケドニア共和国のほかにギリシャ(ギリシャ領マケドニア)やブルガリア(ピリン・マケドニア)、アルバニア(マラ・プレスパおよびゴロ・ブルド)にもまたがる地域の名称である。マケドニア地域の南部を領有し、その地域名として既にマケドニアの名を使用していたギリシャ政府は、マケドニアに対し国名を変更するように強く抗議した。そのため、1993年に「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」を国際社会における暫定的呼称として、国際連合へ加盟した。これ以後、多くの国々や国際的組織は、暫定名称の「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」(英語表記:The Former Yugoslav Republic of Macedonia、略称「FYROM」) [3] の名で、この国との関係をもった。しかし、2008年11月の時点で、アメリカ合衆国[1]やロシア連邦等約125カ国の国々は、暫定名称の「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」ではなく、憲法上の国名である「マケドニア共和国」の名でこの国と外交関係をもっている。
歴史
古代
マケドニア地域には、古くから人が居住しており、イリュリア人やトラキア人などの部族が割拠していた。紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけて、現在のマケドニア共和国に相当するマケドニア地域北部はマケドニア王国の支配下となっていった。マケドニア王国はアレクサンドロス3世の時代に最大版図となるが、その死後、国は分裂し、紀元前2世紀には西から勢力を拡大したローマ帝国の支配下となっていった。紀元前146年、この地域は正式にローマ帝国のマケドニア属州の一部とされた。ローマ帝国が東西に分かれると、マケドニアは東ローマ帝国の一部となった[4]。
中世
マケドニア地域には北から西ゴート族、フン族、アヴァールそしてスラヴ人などが侵入を繰り返した。7世紀初頭には、この地域の多くはスラヴ人の居住地域となっていた。スラヴ人たちは、それぞれ異なる時期に段階的にこの地域に入ってきた。スラヴ人の居住地域は、現ギリシャ領のテッサロニキなどを含む、マケドニア地域のほぼ全域に拡大していった[4]。680年頃、テンプレート:仮リンクに率いられたブルガール人の一派がマケドニアに流入した。
9世紀後半、テッサロニキ出身のキュリロスとメトディオスの兄弟によって聖書がスラヴ語に翻訳された。9世紀に北方から侵入し東ローマ帝国と衝突しながら勢力を拡大していった第一次ブルガリア帝国は、9世紀末のシメオン1世のときに最盛期を迎え、マケドニア地方もその版図に収められた。キュリロスとメトディオスの弟子たちにはスラヴ語の聖書を用い、ブルガリア帝国の支援の下スラヴ人たちにキリスト教を布教していった。シメオンの死後ブルガリア帝国は次第に衰退し、マケドニア地方は再び東ローマ帝国の支配下となった[4]。
978年、マケドニア出身のサムイルはこの地で東ローマに対する反乱を起こした。サムイルはこの地方のオフリドを首都としてブルガリア帝国を再建し、彼のもとで再度ブルガリア帝国は急速な拡大を迎えた。しかし、1014年にサムイルが死去するとブルガリア帝国はその力を失い、1018年には完全に滅亡し、再び東ローマの支配下に帰した[4]。
その後、この地方は北で起こったセルビア人の地方国家の乱立やその他の地方領主の群雄割拠の状態を経て、12世紀末ごろには新興勢力の第二次ブルガリア帝国とセルビア王国、そしてラテン帝国やニカイア帝国といった十字軍国家の間で勢力争いが繰り広げられる[4]。
十字軍を退けて復活した東ローマ帝国やブルガリア帝国は、東から伸張してきたオスマン帝国によって国力を落としており、その背後をぬってセルビア王国はステファン・ウロシュ3世デチャンスキの下、大幅な領土拡大に成功した。セルビア王国はマケドニア地方全域を支配下におさめた。その息子ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの下でセルビアは絶頂を迎え、ウロシュ4世はスコピエを首都として同地にて1345年、「セルビア人とローマ人の皇帝」として戴冠を受け皇帝に即位する。しかし、ウロシュ4世の死後はセルビアは地方領主の割拠する状態となり、1371年のマリツァ川の戦いなどを経てマケドニアはオスマン帝国の支配下となった[4]。
オスマン帝国統治時代
オスマン帝国は支配下の人々の分類を言語や民族ではなく宗教の所属においていた。これらの人々の帰属意識も正教会の信仰におかれ、マケドニア人という民族意識も民族名称も存在しなかった。教会の管轄はコンスタンディヌーポリ総主教庁(コンスタンティノープル総主教庁)であった。長いオスマン帝国の支配下で多様な民族の混在化が進み、マケドニア地域にはスラヴ人、アルーマニア人、トルコ人、アルバニア人、ギリシャ人、ロマ、ユダヤ人などが居住していた。この地域のスラヴ人の話す言語はブルガリア語に近く、マケドニア地方のスラヴ人はブルガリア人とみなされていた。
19世紀、セルビア王国やギリシャ王国がオスマン帝国から独立を果たすと、この地域の非トルコ人、特に正教徒の間ではオスマン帝国からの分離の動きが加速した。1878年にブルガリア公国が成立すると、一度はマケドニア全域がブルガリア公国の領土とされたものの、ブルガリアの独立を支援したロシア帝国の影響力拡大を恐れた列強諸国によってブルガリアの領土は3分割され、マケドニア地方はオスマン帝国領に復した。マケドニアで最大の人口を持っていたスラヴ人の間では、マケドニアの分離とブルガリアへの併合を求める動きが強まり、内部マケドニア・アドリアノープル革命組織などの反オスマンの組織が形成された。この頃、マケドニア地域のスラヴ人の多くはブルガリア人を自認していたが、ブルガリア人とは異なる独自のマケドニア人の民族自認も芽生え始めていた。
内部マケドニア革命組織はゴツェ・デルチェフらの指導の下で武装蜂起を進め、1903年8月にテンプレート:仮リンクを起こした(この年のグレゴリオ暦の8月2日はユリウス暦では7月20日の聖エリヤの日であり、イリンデンとは聖エリヤの日を意味する)。イリンデン蜂起は失敗に終わったものの、この地域のスラヴ人による反オスマン帝国の闘争は続き、また、比較的オスマン帝国への親和性の高かったアルバニア人の間でもプリズレン連盟を中心にオスマン帝国からの自立を求める動きが高まった。また、マケドニアを自国領へと組み込むことを狙っていたギリシャ、セルビア、ブルガリアからも複数の組織がマケドニア地方に浸透していった。1912年の第一次バルカン戦争のとき、内部マケドニア革命組織はブルガリア軍の側についてオスマン帝国と戦った。第一次バルカン戦争によって、オスマン帝国はマケドニア地域を手放すこととなったが、マケドニア地方全域を自国領とすることを求めたブルガリアと、マケドニアの分割支配を求めたセルビア、ギリシャの間で対立が起こり、翌1913年の第二次バルカン戦争へと発展した。
セルビアおよびユーゴスラビア統治時代
第二次バルカン戦争ではマケドニア地域の南部5割はギリシャ、西北部4割はセルビア(のちユーゴスラビア王国)が奪取し、ブルガリアは1割を確保するに留まった。この時のセルビア領マケドニアが、のちのマケドニア共和国の領土となった。ギリシャ領、セルビア領のマケドニアでは、ブルガリアの支援を受けた抵抗運動が活発に起こったが、第一次世界大戦で中央同盟側についたブルガリアが敗北すると、ヌイイ条約によりギリシャ領マケドニアのスラヴ人は住民交換の対象となった。このとき、すべてのスラヴ人の母国はブルガリアとされ、自身をギリシャ人と宣誓した者以外はすべてブルガリアへと追放された。他方、ユーゴスラビアとなったセルビア領マケドニアではその後も内部マケドニア革命組織による抵抗運動が続き、1934年にはユーゴスラビア王アレクサンダル1世を暗殺した。
第二次世界大戦時、枢軸国はユーゴスラビアに侵攻した。枢軸側についたブルガリアはユーゴスラビア領マケドニアの大部分を支配下におさめ、マケドニア併合の夢を実現する。マケドニアのブルガリアへの統合を歓迎する内部マケドニア革命組織の右派はブルガリアによる占領統治に協力するが、ブルガリアから独立した統一マケドニアの実現を志向した左派の勢力は、ヨシップ・ブロズ・ティトー率いる共産主義者のパルチザンとして枢軸国に抵抗した。1944年には枢軸国に対する抵抗勢力はマケドニア人民解放反ファシスト会議の下に統一された。
第二次世界大戦でブルガリアが敗退し、ユーゴスラビアがマケドニア北西部の支配を回復すると、ユーゴスラビアはティトーの指導の下、共産主義体制をとる連邦国家となった。マケドニア人民解放反ファシスト会議の決定に従って、ユーゴスラビア領マケドニアはマケドニア人民共和国(1963年よりマケドニア社会主義共和国)となった。ユーゴスラビア連邦の下では、ブルガリア人とは異なるマケドニア人意識が涵養され、またスコピエ方言を基礎としたマケドニア語の正書法も確立された。
1963年にはスコピエでテンプレート:仮リンクが発生し、死者1,100人を出した。
独立以降
1990年、冷戦終結の影響を受け、ユーゴスラビアでは戦後初めての複数政党制による民主選挙が行われた[5]。マケドニアでも国名から「社会主義」の語を外し、マケドニア共和国と改称された。マケドニア同様にユーゴスラビアの構成国であったスロベニア、クロアチアでは独立を志向する勢力が圧倒的勝利を収め、ユーゴスラビアからの独立を宣言した。これを受けてマケドニアでも独立の準備が進められ、1991年9月8日、マケドニア大統領キロ・グリゴロフの下、マケドニアは独立を宣言した。独立国となったマケドニアは、古代マケドニア王朝のシンボルであるヴェルギナの星(ヴェルギナの太陽ともいう)を描いた国旗を制定した。ユーゴスラビア連邦軍が保有する兵器をマケドニア側に分け与えず、全てセルビア側が持ち去ることを条件に、1992年3月にはユーゴスラビア連邦軍の撤退が実現された[6]。
1993年1月に国連に加盟申請するが、ギリシャとの間で「国名論争」が勃発し、4月に暫定国名「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」で国連加盟が承認された。しかしギリシャは納得せず、1994年2月に経済封鎖された。このとき、国旗を変更し、憲法の一部を改正した。1995年にはギリシャの経済封鎖が解除された。
1998年、総選挙の結果、共産主義時代の政権党であったマケドニア共産主義者同盟の流れを汲むマケドニア社会民主同盟に代わり、中道右派政党に転向した内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党を中心とする連立政権が成立し、1999年の大統領選挙では同党のボリス・トライコフスキが首相となった。
隣接するセルビア領のコソボ自治州で発生したコソボ紛争によって、セルビア側の勢力の迫害を恐れたアルバニア人の難民が大量にマケドニア共和国に流れ込んだ。セルビアがコソボ自治州から撤退した後、彼らの多くはコソボへと帰還していった。
2001年、マケドニア国内で人口の2割強を占めるアルバニア人に対する待遇に不満を持つ者らによって、武装勢力民族解放軍が結成された。民族解放軍はコソボ解放軍と深いつながりが指摘される武装勢力で、コソボ紛争が終わって自由になったコソボ解放軍の武器や人員が多く含まれている。2月の民族解放軍の蜂起によって起こったマケドニア紛争は、8月にアルバニア人との権力分有や、アルバニア語での高等教育などを含む、アルバニア人の民族的権利の拡大を認める和平合意文書(オフリド合意)が調印されて終結した。和平監視のためにNATO軍が駐留を開始した。同年11月には、オフリド合意に基づいて議会で憲法の改正が可決された[5]。
2002年9月の総選挙では、マケドニア社会民主同盟が政権を奪還し、民族解放軍が改組したアルバニア人政党「民主統合連合」と連立政権を組んだ。その後もアルバニア系武装勢力によるテロ事件や、警察との衝突は散発的に起こったが、治安は回復し、平穏な推移をみせている。2006年、2008年の総選挙では内部マケドニア革命組織が勝利を収めたが、常にアルバニア人政党との連立政権を組んでおり、アルバニア人政党とマケドニア人政党による権力の分有は定着しつつある。アルバニア語教育をはじめとするアルバニア人の民族的権利は守られており、国内のマケドニア人とアルバニア人の関係は比較的良好である[5]。
2008年2月には、隣接するコソボが独立を宣言した。マケドニアのアルバニア人を中心にコソボの独立を承認する動きが強まった結果、同年10月にマケドニア共和国はコソボの独立を承認し、2009年に正式な外交関係が樹立された。
政治
マケドニアは共和制、議院内閣制を採用する立憲国家である。現行憲法は1991年11月17日に制定され、同月20日に施行されたものである(その後、数度の改正を経ている)。
国家元首である大統領は国民の直接選挙で選出され、任期は5年、3選は禁止されている。大統領は元首としてマケドニア共和国を代表し、形式的に国軍最高司令官および治安評議会議長を務める。しかし、その権限は、儀礼的なものに限られている。実際の政治は行政府たる内閣が率いる。総選挙後初の議会で首相が選出され、その後、議会により閣僚の選出が行なわれる。
立法府は一院制議会で、定数は120議席である。議員は比例代表制により選出され、任期は4年である。
マケドニア共和国では複数政党制が機能している。主な政党には中道右派の内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党(VMRO-DPMME)と中道左派のマケドニア社会民主同盟(SDSM)の2党がある[5]。マケドニアのアルバニア人を代表する政党は、アルバニア人民主党と、民族解放軍から改組した民主統合連合の2党がある(詳細はマケドニア共和国の政党一覧を参照)。
2004年の大統領選挙では、社会民主同盟のブランコ・ツルヴェンコフスキがVMRO-DPMMEの候補を抑え、当選した。2009年4月5日の大統領選挙の決選投票では、与党・MRO-DPMMEのジョルゲ・イヴァノフが65%前後の得票率で野党・マケドニア社会民主同盟のリュボミル・フルチュコスキを破り当選した。
国際関係
対セルビア関係
マケドニア共和国は、1990年代前半のユーゴスラビア崩壊に伴うユーゴスラビア連邦からの独立に際して、戦禍に巻き込まれることなく平和的な独立を果たした唯一の国家である。そのため、連邦解体に反対の立場にあったセルビアや、その他の旧ユーゴスラビア諸国に対する国民的感情は、他の旧ユーゴスラビア諸国の国民に比べると穏やかである。
2008年10月にセルビアが自国領と考えるコソボを、マケドニア共和国は国家として承認した。セルビア共和国はこれを受け入れられないとし、マケドニアに駐在する大使を召還するとともに、セルビアに駐在するマケドニア共和国の大使をペルソナ・ノン・グラータとして国外追放した。マケドニア共和国からは新しい大使がセルビアに入る予定である。
対アルバニア・コソボ関係
マケドニア共和国には、人口の2割から3割程度のアルバニア人が居住しており、アルバニアおよびコソボを巻き込んでの大アルバニア主義の伸張は国土の統一を脅かす問題として警戒されている。アルバニアの1997年の暴動で混乱状態に陥ったアルバニアでは、コソボ独立を求めるアルバニア人武装勢力・コソボ解放軍が拠点を設け、人員を集め、また軍施設から略奪された武器を集めていたと考えられている。コソボ紛争が終わると、その武器と人員の一部がマケドニア共和国のアルバニア人武装勢力・民族解放軍にもたらされたと考えられている。このようなことから、アルバニアおよびコソボの安定はマケドニア共和国にとって死活的な問題となっている。
マケドニア共和国は、2008年2月にコソボが独立すると、10月に同国を国家承認した。2009年には両国間に外交関係が樹立された。
対ブルガリア関係
マケドニア共和国の独立を最初に承認したのは東の隣国ブルガリアであった。歴史的にブルガリアは、マケドニア人はブルガリア人、マケドニア語はブルガリア語の一部であるとみなし、マケドニア共和国を含むマケドニア地域全体への領土的な執着を持ち続けてきた[5]。ブルガリアはマケドニアの独立を認める立場をとりつつ、その民族や言語の独自性には否定的な見解を繰り返し表明している[5]。そのため、マケドニア共和国では、ブルガリアはマケドニアの存在そのものを脅かしかねないものとして警戒されている。しかし一方で、周辺地域の緊張関係に悩まされるマケドニア共和国にとってブルガリアは最大の擁護者でもあり、両国の関係は複雑である。ブルガリアは、マケドニア共和国のNATOおよび欧州連合加盟を強く支持している。
対ギリシャ関係
南のギリシャとの最大の問題は後述するマケドニア呼称問題である。また、スラヴ系の「マケドニア人」という民族自認や、「マケドニア語」という言語呼称も問題となっている。ギリシャには、第一次世界大戦後のヌイイ条約の定める住民交換によってギリシャからブルガリアに追放されるのを逃れるために、自身をギリシャ人と宣誓しギリシャ領マケドニアに留まった少数のスラヴ人が住んでいる。このスラヴ人の中でも、1991年のマケドニア共和国独立以降、自身を「マケドニア人」と考える人々が現れている。ギリシャでは公式にはスラヴ系「マケドニア人」という少数民族の存在は認められておらず、彼らの民族的・文化的権利の追求が両国間の問題となっている。
また、マケドニア国内ではギリシャ領やブルガリア領も含めた統一マケドニアに関する議論が多く見られ、右派政党内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党もかつてはこれを党是に含めていた。ギリシャは、マケドニア共和国がその国名を諦めないこととあわせて、マケドニア共和国が潜在的にギリシャ領マケドニアに対する領土的野心を持つことを警戒している。
ギリシャは国名や言語・民族呼称などに関する問題を抱えている一方で、これらの問題が解決されれば地域の安定と繁栄のために、マケドニア共和国のNATOおよび欧州連合加盟が望ましいとしている。ギリシャはドイツとならんでマケドニア共和国の最大の貿易相手国であり、両国の経済は深い結びつきを持っている。マケドニアとギリシャを結ぶ幹線道路の建設も進められ、マケドニア共和国はギリシャから多数の投資を呼び込んでいる。マケドニア共和国はギリシャと比べると物価も賃金も安く、ギリシャ向けの生産拠点、あるいはギリシャからショッピング・観光の場ともなっている。
マケドニア呼称問題
アレクサンダー大王で有名な古代マケドニア王国の領地が自国にあるギリシャは、「本来のマケドニアはギリシャである」と主張している[7]。また、マケドニアと呼ばれる地方のうち5割ほどはギリシャ領(エーゲ・マケドニアと呼ばれる)であり、マケドニア共和国の領土はマケドニア地方全体の4割に満たない。このように、歴史的な古代マケドニアとの継承性、および地理的にマケドニア地方全体の4割に満たないマケドニア共和国が「マケドニア」と名乗ることへの警戒感から、この国をマケドニアの名称で呼ぶことを嫌い、ヴァルダル、スコピエなどと地名を使って呼ぶ。同時に、1990年代よりマケドニアの国号を改めるよう要求している。これに対して、マケドニア共和国の側は、共和国にはギリシャ領マケドニアへの領土的野心がないことを説明し、国名を自国で決める権利は認められるべきであるとしている。
マケドニア共和国が独立した1991年以降、ギリシャはマケドニア共和国に経済制裁を課し、国号を改めるよう圧力を加えた。マケドニア共和国は、古代マケドニアと類似したヴェルギナの星を用いた国旗を無関係のものに改め、ギリシャ領マケドニアへの領土的野心を明確に否定する憲法改正を行い、1995年に経済制裁を解除された。この当時のマケドニア共和国は、ユーゴスラビア崩壊によってかつてのユーゴスラビアという市場を失い、またユーゴスラビア紛争にともなって北に隣接するセルビアの経済も混迷し、また国際的な経済制裁下に置かれていた。また、冷戦終結によって東西に隣接するアルバニアおよびブルガリアの経済は混乱状態にある中、海を持たないマケドニア共和国にとって、南に隣接するギリシャの経済制裁の威力は絶大であった。
2008年、マケドニア共和国とアルバニア、クロアチアのNATO加盟についてブカレストにてNATO加盟国の間で議論が持たれた。このとき、クロアチアおよびアルバニアの加盟が承認された一方、マケドニア共和国の加盟はギリシャの拒否によって否認された。このことはマケドニア国内で激しい怒りを生み、「ブカレスト」は「ひどい仕打ち」の同義語とみなされるようになった。マケドニア側は国名に関して一定の譲歩をする代わりに、国民や国を表す形容詞として単に「マケドニアの」、「マケドニア人」と呼ばれることを望んだが、ギリシャ側はこれらを否定し、全て統一的に変更されなければならないとして譲歩を示さなかった。マケドニア共和国側は、国名の問題に関して国際司法裁判所に提訴した。[8] テンプレート:Clearleft
地域統合
マケドニア共和国は、NATOおよび欧州連合(EU)加盟を目指している。2005年、マケドニアは「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」の名で、正式に欧州連合加盟候補国となった。首相のニコラ・グルエフスキは2014年ごろの加盟を目指すとしているが、2008年後半の欧州連合議長国となったフランスの大統領ニコラ・サルコジは、マケドニア共和国の欧州連合への参加には、国名問題の解決が前提となると繰り返し表明し、マケドニア共和国の国民や政府関係者を失望させた。
2008年、NATOはアルバニアおよびクロアチアの加盟を認める一方、マケドニア共和国の加盟はギリシャの拒否権行使によって否定された。マケドニア共和国はクロアチア、アルバニアと同時のNATO加盟が勧告されており、マケドニアに対する加盟拒否は、国内で激しい怒りを生んだ。アメリカ合衆国は「マケドニア共和国」の呼称を認めており、このときの大統領ジョージ・W・ブッシュはマケドニアのNATO加盟を強く支持している。
マケドニア共和国は、中欧自由貿易協定や南東欧協力プロセスに加盟しており、ユーゴスラビア崩壊後の新しいバルカン諸国の地域協力体制の枠組みに加わっている。
地理
マケドニア共和国は国土の大部分が山地の内陸国である。北にコソボおよびセルビア、東にブルガリア、南にギリシャ、西にアルバニアと国境を接し、いずれも高い山脈が連なる高山地帯である。最高地点はアルバニア国境のコラブ山 (標高2764m) 。国土の中央には北西から南東にヴァルダル川が流れ、ギリシャ領へと続いている。ヴァルダル川の周りには急峻な渓谷が刻み込まれ、この渓谷は北からの冷たい風が流れ込み、ギリシャ領へと吹き付けるヴァルダリスと呼ばれる強い北風を生み出している。南西部のアルバニアおよびギリシャとの国境地帯にはオフリド湖とプレスパ湖という2つの湖がある。
マケドニア共和国は、地中海性気候と高山性の気候の中間にある。ヴァルダル川の渓谷部は標高が低く、地中海性の気候に近い。ここでは夏季には最高気温が40度に達することもある。一方で高山地帯は冷涼であり、冬季は雪に深く閉ざされる。
地方行政区分
テンプレート:Main マケドニア共和国には、州や県に相当するような中間の地方自治体は設置されていない。マケドニア共和国はオプシュティナと呼ばれる基礎自治体に分割され、その数は2004年以降、84自治体となっている。首都のスコピエは単独の自治体ではなく、10の独立したオプシュティナによって構成されている。
主な都市
マケドニア共和国の主要都市
</div>
マケドニアの主な都市と自治体 都市 都市
人口市章 自治体
人口スコピエ 444,000 25px 506,926 ビトラ 80,000 25px 95,385 クマノヴォ 71,000 20px 105,484 プリレプ 68,000 20px 76,768 テトヴォ 60,000 25px 86,580 オフリド 51,000 20px 55,749 ヴェレス 48,000 20px 55,108 ゴスティヴァル 46,000 81,042 シュティプ 42,000 25px 47,796 ストルミツァ 40,000 20px 54,676 コチャニ 27,000 25px 38,092 テンプレート:仮リンク 16,223 25px 28,244 経済
マケドニア共和国は、ユーゴスラビア時代は低開発地域として、連邦から受け取る開発資金の恩恵を受けていた。ユーゴスラビアが解体されると、連邦からの援助が得られなくなったことに加えて、ユーゴスラビアという市場を失ったことや体制の転換をめぐる混乱によって、経済は大きく落ち込んだ。北に隣接するセルビアは紛争当事国となって国際的な制裁下に置かれた。西の隣国アルバニアは冷戦期に独自の鎖国政策を採ったことからヨーロッパの最貧国となっており、またこのときは社会主義・冷戦体制崩壊によって東のブルガリアも経済的な混乱のさなかにあった。海を持たないマケドニア共和国のいまひとつの隣国であるギリシャは、呼称問題を理由にマケドニア共和国に対して経済制裁を行い、国内経済は壊滅的な影響を受けた。マケドニア共和国のGDPは1996年までマイナス成長となった。2003年ごろからは周辺諸国の経済混乱も一段落し、また一連のユーゴスラビア紛争が終結、ギリシャとの関係改善の努力も進められた結果、マケドニア経済は毎年平均して4%程度の成長を続けている[1]。2003年には世界貿易機関への加盟も果たした。ギリシャが最大の貿易相手国となっている。また、マケドニア共和国はオフリド湖などの観光資源に恵まれており、観光開発にも力を入れている。
2007年の推計では、雇用者の19.6%は農業を中心とした第一次産業、30.4%は第二次産業、50%は第三次産業に従事している。対GDP比では、第一次産業は11.9%、第二次産業は28.2%、第三次産業は59.9%となっており、第三次産業が大きな比率を占めている。2007年の失業率は34.9%となっているが、これに含まれていない闇経済はGDPの20%ほどを占めていると考えられる。主要な輸出品目は食品、飲料(ワインなど)、繊維、鉄鋼、鉄などである。輸入品目は機械、自動車、化学製品、燃料、食品などである。主要な貿易相手国は、ドイツ、ギリシャ、ブルガリア、セルビア、トルコ、クロアチア、イタリア、スロベニアなどとなっている[1]。 テンプレート:Clearleft
国民
民族
住民はマケドニア人が64.2%、アルバニア人が25.2%、トルコ人が3.8%、ロマ人が2.7%、セルビア人が1.8%、その他が2.3%である(2002年時点)。
マケドニア人は5世紀から7世紀ごろにこの地に移り住んだスラヴ人の子孫であり、スラヴ系のマケドニア語を話す。マケドニア語はブルガリア語と極めて類似しており、ブルガリア人からはマケドニア人・マケドニア語はブルガリア人・ブルガリア語の一部であるとみなされている。マケドニア人の多くは自らをブルガリア人とは異なる独自の言語を持った独自の民族であると考えている。
アルバニア人は主にアルバニア語を話し、多くはイスラム教徒である。アルバニア語はインド・ヨーロッパ語族に属するものの、アルバニア語のみで一つの語派を形成しており、周囲の言語との類似性は低い。アルバニア語は古代のイリュリア語と関連があると考えられており、アルバニア人は自らを、古来よりこの地に住んでいたイリュリア人の末裔であると考えている。アルバニア人は一般に、マケドニア人と比べて出生率が高く[5]、マケドニアにおけるアルバニア人の人口比率は増大を続けている。またアルバニア人はアルバニアおよびコソボで人口の多数を占めており、彼らが大アルバニア主義の担い手となることが警戒されている。現代のマケドニア共和国のアルバニア人の有力な政治家らは、いずれも大アルバニア主義は明確に否定している[5]。
トルコ人は14世紀にオスマン帝国がこの地に進出した後に移り住んできた人々の子孫である。彼らの多くはトルコ語を話すムスリムである。ただし、かつてのオスマン帝国では人々を宗教によって区別していたため、時代によっては、トルコ語を話さず、トルコ人の血を引いていない者もイスラム教徒であれば「トルコ人」とみなされることがある。近代以降でもこのようなイスラム教徒が自らの民族自認を「トルコ人」としていることもある。またスラヴ語を話すイスラム教徒の一部は、自らを「トルベシュ」、「ポマク」、「ゴーラ人」、「ムスリム人」あるいは「ボシュニャク人」と規定している。また、「イスラムの信仰を持ち民族的にはマケドニア人」と考える者もいる。
ロマは9世紀ごろから、西アジア・南アジアよりバルカン半島に移り住んだ民族である。彼らは職人や大道芸人、演奏家などの職業を主体とする独特の移住型の生活を送っていた。ロマの多くは正教会かイスラムの信仰を持っているものの、独自の民間信仰も併せ持っていることが多い。スコピエのシュト・オリザリ地区はロマが人口の多数を占め、ロマ語が公用語に指定されている。
アルーマニア人はマケドニア共和国やギリシャ領マケドニアに多く住む民族である。彼らの話すアルーマニア語はインド・ヨーロッパ語族のロマンス語派に属し、特にルーマニア語との類似性が高い。彼らには第二次世界大戦前まで、ルーマニアの支援を受けアルーマニア語の学校が運営されていた。彼らはルーマニア人と近縁の民族と考えられており、その起源はこの地方がローマ帝国の支配下にあったときにラテン化した人々であると考えられている。 テンプレート:Clearleft
言語
住民が母語としている言語はマケドニア語(公用語)が68%、アルバニア語が25%、トルコ語が3%、セルビア・クロアチア語が2%、その他が2%である。マケドニア語は憲法により公用語とされている一方で、地方自治体(オプシュティナ)において話者人口が2割を超える言語は、マケドニア語とともにその自治体の公用語とされる。この規定により、自治体によってはアルバニア語、トルコ語、ロマ語、アルーマニア語、セルビア語がマケドニア語とともに公用語に指定されている。マケドニア語のほか、少数言語話者が母語で教育を受ける機会が保障されており、アルバニア語やトルコ語による教育も行われている。
宗教
宗教は正教会が70%、イスラム教が29%、その他が1%である。
マケドニア共和国の領域はバルカン戦争以降セルビアの領土に組み込まれると、国や地域ごとに教会組織を置く原則となっている正教会の慣習に従い、この地域はセルビア正教会の管轄となった。第二次世界大戦以降、共産主義者によるユーゴスラビア連邦政府によって、マケドニアの脱セルビア化が進められ、共産主義者の政府の指導の下、1958年にマケドニア地域の正教会組織はマケドニア正教会として分離され、セルビア正教会の下位に属する自治教会となった。1967年、マケドニア正教会はセルビア正教会からの完全な独立を宣言した。マケドニアがユーゴスラビアから分離すると、両教会の対立が表面化し、セルビア正教会はマケドニア正教会の独立を認めず、自治教会の地位に復するよう求めている。マケドニア正教会はこれに反発してセルビア正教会との交流を絶ち、セルビア正教会を非難している。マケドニア側でセルビア正教会の自治教会に復することに同意した主教らはマケドニア正教会を去り、独自にセルビア正教会の自治教会として正統オフリド大主教区を組織し、マケドニア正教会と対立している。
文化
祝祭日 日付 日本語表記 現地語表記 備考 1月1日 元日 1月6日 クリスマスイブ マケドニア正教(ユリウス暦による) 1月7日 クリスマス マケドニア正教(ユリウス暦による) 移動祝祭日 犠牲祭 イスラム教徒のみ 3月8日 女性の日 移動祝祭日 聖大金曜日 マケドニア正教(復活祭の直前の金曜日) 移動祝祭日 復活祭 マケドニア正教 移動祝祭日 光明月曜日 マケドニア正教(復活祭の翌日) 5月1日 メーデー 8月2日 革命記念日 9月8日 独立記念日 10月11日 パルチザンの日 移動祝祭日 ラマダン イスラム教徒のみ 脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 テンプレート:Cite web
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
- ↑ Igor Janev, Legal Aspects of the Use of a Provisional Name for Macedonia in the United Nations System, AJIL, Vol. 93. no 1. 1999.
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 テンプレート:Cite book
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 5.6 5.7 テンプレート:Cite book
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ 「マケドニア:ギリシャと再び国名論争 国連、米国が仲裁へ」 毎日新聞 2008年3月24日
- ↑ 「「マケドニア」…ギリシャと激しい“国名論争"」 産経新聞 2008年12月9日
参考資料
関連項目
- マケドニア関係記事の一覧
- 統一マケドニア - マケドニアの拡張主義
- 大アルバニア - アルバニア人が多数派を占めるマケドニアの西部のアルバニアへの統合を主張する
- ドスタ・ディモフスカ
- マケドニア (曖昧さ回避)
- マケドニア共和国の国旗
外部リンク
- 政府
- 日本政府
- 観光
- EU関連
このページはウィキプロジェクト 国のテンプレートを使用しています。 テンプレート:Good article