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2014年8月9日 (土) 12:58時点における最新版
テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:Infobox baseball player 達川 光男(たつかわ みつお、1955年7月13日 - )は、日本の元プロ野球選手(捕手)、元プロ野球監督、野球解説者。2014年シーズンより中日ドラゴンズ一軍バッテリーコーチを務める。
広島東洋カープの正捕手として、1980年代に活躍した。広島監督時代は登録名を達川 晃豊(読み同じ)としていた。監督辞任後は本名に戻し、フジテレビ・テレビ新広島・ニッポン放送解説者、スポーツ報知評論家として活動していた。
経歴
プロ入り前
テンプレート:By、迫田穆成率いる広島商業高校時代、春のセンバツに出場し準優勝。特に江川卓を擁する作新学院を待球戦術などで下した試合は現在でも語り草である。同年の夏の甲子園にも出場し優勝。実は捕手にコンバートされたのは高校1年生からである。3年生は引退しており2年生は修学旅行中であり達川達1年生だけで練習していたところ、1年生捕手が蛸の食中毒で練習を欠席しており、代わりに達川が入った。迫田監督は達川の抜群の肩を見て、すぐさま捕手にコンバートした。このコンバートがなければプロ野球選手・達川はなかったといわれている。3年生時のエースである佃正樹と不仲であったため、春センバツは外野手として出場していたが夏の甲子園では捕手に戻り全国優勝に導いた。また、夏の甲子園では鹿取義隆から本塁打を打っているが、本人曰く高校時代公式戦での唯一の本塁打である。この大会最後のホームランで次の大会から金属バットが採用されたため、甲子園における木製バットでの最後の本塁打であるという。なお、このときはヒットエンドランのサインだったのにゴロを転がせなかったため迫田監督から怒られたという[1]。
その後、東洋大学へ進学。同野球部では1年後輩の松沼雅之とバッテリーを組み、テンプレート:By春季リーグでのチーム初優勝に貢献した。東都大学リーグ通算90試合出場、283打数64安打、打率.226、3本塁打、25打点。ベストナイン1回。
1977年のドラフト会議で広島東洋カープから4位指名を受け、入団。テレビでドラフトの様子を2巡目までは見ていたが、自分の名前が出ないためパチンコに行ってしまい、指名されたと後輩が伝えに来たときは大当たりの途中で台から動けなくなっていた[2]。また、指名がなかった場合は本田技研の野球部に進むことが内定していたという[2]。背番号は40。
現役時代
入団直後のキャンプに入る前に広島商業高校の先輩にあたる三村敏之の部屋に挨拶に行った。三村は達川に「折角だから、ここでバット振ってみい(素振りしてみろ)」と達川のスイングを視た。その結果「プロでは通用せん」と手厳しい結論を出したが、「バッティングが駄目なら捕手として監督の戦術をこなせるようになれ、そうすれば何時かはレギュラーになれるかもしれん」と言った。達川本人は「心が折れそうじゃった」と後年公表していたが「早い段階から方向性が決まった事は結果的に良かった」とも語っている(達川本人のブログ記事より)。
入団当時の広島は水沼四郎や道原裕幸といった捕手が活躍していたため、長く控えに甘んじていた。当時リリーフエースであった江夏豊は週刊ベースボール内の自身のコラムで「入団直後の達川のキャッチングはプロに入団した選手とは思えないほどひどいものであった。しかし、持ち前の明るさでチームに溶け込み、頼んでもいないのに俺の部屋を掃除したり、マッサージをしたりしてくれた。ブルペンでは率先して先輩投手の球を受けるなど努力を欠かさなかった。これほど先輩選手から何かを吸収しようとする選手は他にはいなかった」と語っている。6年目にようやく正捕手の座を射止めた。
この頃について、達川は後にこう語っている。
- 「6年目の日南キャンプにですね、休みの日にですね、ほかのチームがどんな練習をしているかと思ってですね、巨人のキャンプを見に行ったんですね、暇だったんで。そしたらですね、当時いた山根(和夫)がほかのピッチャーに『タツ(達川)が巨人の偵察に行ったぞ』って言ったんですね。それからピッチャーが信用してくれるようになりましたね」
達川といえば「ささやき戦術」「デッドボール」(ともに後述)などのトリックプレーで知られるが、捕手としての高い技術も持ち合わせていた。
- 川口和久が登板したある試合で、川口が自分のサインに従わないことに激怒し、試合中マウンドに詰め寄り「もう勝手にせえ!」とサインを拒否したことがある。結局バッテリーは滅多打ちに遭い、ベンチでコーチに叱責されたが達川は川口を擁護した。それ以降、川口は達川に信頼を寄せるようになった。当時、川口はキャッチングの下手な達川がノーサインで捕れるのか半信半疑だったが、意地になって必死にボールを止め、1球もパスボールしなかった達川の根性に舌を巻いた。その後厚い信頼関係を築いた2人は、相手チームにサインを盗まれていると感じたときなどにはたびたびノーサインで投げたという[注釈 1]。
- リード面では、評論家時代の野村克也に「達川がうるさくて困る」と言われるほど、野村をグラウンドで見つけると教えを乞うた。野村を信用するきっかけは、当時よく打たれた巨人のゲーリー・トマソンの対策法を伝授されたことだった。野村が「外からの緩いカーブ低めに落としゃぁ、セカンドゴロ4本打つよ」と言うので、コントロールのよい北別府学が投げているときにそれを実践したところ、トマソンは本当にセカンドゴロを4本打った事からである。
「俺は広島初の年俸2000万円捕手になるんだ!」と意気込んで広島市民球場の球団事務所での年俸交渉に臨んだある年、球団側は「達川、これは税金対策だ。この方が君の手取りは多くなる」と年俸1980万円を提示した。それを聞いた達川は、「この20万を足して年俸2000万にして下さい。不足分を私が出す。文句はないでしょう」と、自分の財布から20万円を取り出して詰め寄った。球団もついにその熱意に負け、達川は晴れて球団初の2000万円捕手となった。
以上のように、正捕手として定着以降、黄金期の広島投手王国を長きにわたってリードし続けた。打者としては、打率.280・本塁打10本を超えたシーズンは一度もなく、一流の打者とは言えないが、上記のような努力を重ねて、ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞3回と当時のセ・リーグを代表する捕手となった。
現役時代の応援歌の原曲は、『仮面の忍者赤影』のテーマソングだった。
- 引退試合
- テンプレート:By限りで現役引退。引退試合となった同年10月4日の巨人戦では、代打に起用されて涙をこらえながら打席に立った[注釈 2]。「バットを乾かした方がボールがよく飛ぶ」という話を聞いた達川は、最後の打席をホームランで飾ろうと、バットを十分に乾かして臨んだが、乾かしすぎたことで却って脆くなってしまい、結局バットは折れてショートゴロに終わった[注釈 3]。また、その次の回に守備に就いたときは、大野豊とともにリリーフカーに乗ってグラウンドに登場した。捕手で試合中にリリーフカーに乗ったのは、後にも先にも達川だけである。引退試合後の挨拶では、この日の試合でタイムリーエラーをした巨人の篠塚和典に対し、「特に篠塚会長! その他……」と名指しして、何か特別に言うことがあるのかと思いきや「以下同文」とオチをつけ、涙の引退試合から一転、場内を爆笑の渦に巻き込んだ[注釈 4]。
引退後
引退後はフジテレビ・ニッポン放送・テレビ新広島の解説者に就任。テンプレート:Byに監督の王貞治の要請で福岡ダイエーホークスの一軍バッテリーコーチに就任。同年オフに退団後は再び解説者。
テンプレート:By、二軍監督として6年ぶりに広島に復帰し、翌テンプレート:Byには一軍監督に昇格(昭和30年代生まれで初めての一軍監督である)。鬼軍曹として知られる大下剛史をヘッドコーチに招いて「胃から汗が出る」ほどの猛練習で若手の底上げを図ったが、選手と年が近かったため(達川の現役時代のチームメイトも多数残っていた)、投手交代時に「代えてもいいか」と聞くなど選手に厳しく接することが出来ないときもあった。また、「ビッグ・レッド・マシン」と呼ばれた打撃陣は好調だったが、長年の課題だった投手陣の崩壊を止めることはできなかった。
またテンプレート:Byには、前田智徳と緒方孝市が怪我で離脱し、FA権を行使して巨人に移籍した江藤智の穴埋めとしてジェフ・ボールを獲得したが期待外れに終わるなど(そのためルイス・ロペスが復帰することになる)、誤算も相次いだ。この年は若手の活躍もあったが、結局チームは2年連続5位に終わり、成績不振の責任を取るかたちで同年辞任した。ただ、後に阪神に移籍した金本知憲は達川時代を振り返り「チームは弱かったけど楽しかった」と語っている。
その後はフジテレビ・テレビ新広島・ニッポン放送で解説(J SPORTSで放送されるテレビ新広島制作のカープ戦にも出演)、スポーツ報知で評論をしていたが、テンプレート:By、星野仙一が率いる阪神タイガースに一軍バッテリーコーチとして招聘され、同年のリーグ優勝に大きく貢献した。そして星野の勇退とともにチームを去り、翌年野球解説者として3度目の復帰(このときから2009年までMBSラジオの中継にも登場するようになる)。
テンプレート:By10月22日、翌テンプレート:Byシーズンから中日ドラゴンズの一軍バッテリーコーチを務める事が球団から発表された[3][4]。11月1日には背番号が90に決定したことが発表された[5]。
独特のキャラクターで全国的な知名度があり、広島、関西、東京などで解説者として活動した。解説者としての達川は、広島弁を交えて解説しており、天才的な選手に対してはよく「モノが違いますね」と評する。
選手・監督としての特徴
ささやき戦術
野村克也や日比野武と並ぶ「ささやき戦術」の使い手として知られている。しかし、野村がバッターの弱味を突いて集中力を奪っていたのに対し、達川のそれは世間話やウソなどで相手の思考を撹乱する、いわば「明るいささやき」であった。主なものは以下の通り。
- 広島弁で「今日飲みに行くん?」など、野球と全く関係ない話題を振る。
- 「初球はど真ん中にストレートが来る」とわざと配球を教え、いぶかしむ打者をよそにその通りの球を投手に投げさせ、見逃した所に「せっかく教えたったのに、もうあんなええ球来んぞ」と煽る。また、「こいつは一球目から打つけぇ、外のボールから入るぞ」と大声で投手に指示し相手打者を惑わせたりもした。
- 横浜大洋ホエールズの新人・谷繁元信が打席に立った際、「よう頑張っとるから、特別に次の球種を教えちゃる」と話しかけ、いぶかしむ谷繁に向けて「カーブ、カーブ、カーブ、カーブ」とつぶやき続けた。谷繁もその気になったところ、ピッチャーが実際に投げてきたのはストレートだった。思わず谷繁が文句を言うと、達川は「すまんすまん、アイツはワシのサインを理解しておらんかった」と答え、その直後に「ナイスストレート!」と言いながらピッチャーにボールを返球した。当時の大洋の監督は達川をよく知る古葉竹識であり、谷繁はベンチに帰った際「達川の言うことを聞くな」と叱られたという。なお、谷繁はのちに中日へ移籍し、2014年から中日の捕手兼任監督、達川は同年から中日のバッテリーコーチに就任し同じ球団のユニフォームを着用することとなる。
- 相手チームの主力選手やその時点で好調な打者に対して「悪いが1球、顔の前に通させてもらうけぇのお」と脅す。達川本人が引退後に語ったところによれば、「顔の前」とはインハイ攻めを指すものではなく「避けなければ当たるコース」であり、プロではブラッシュボールは駆け引きのひとつとして当然の行為と認識していたという。
- 達川は池山隆寛とテレビで共演した際、現役時代に池山に対して「次の球は危ないところ(インコース)使わせてもらうけぇ、気をつけとけ」と予告したエピソードを例として挙げた。達川は「彼(池山)くらいのバッターになると、厳しいところを攻めないと必ず打たれますから。プロでは常識です」と述べている。池山もこの達川の言動が事実であることを認めており、仕掛けられた数は「1回や2回ではなく、数えきれない」とのこと。
- 味方ピッチャーに大声でまくしたて、敵味方だけでなく観客に失笑を浴びることもあった。ヤクルトの大杉勝男と対戦した際、マウンドの津田恒美のコントロールが定まらず、落ち着かせるつもりで「こいつぁー石ころじゃけぇ(足が速くないので四球で出塁させても盗塁の心配はないという意味)、安心して投げてきんさい」と叫んだ。怒った大杉はわざわざ死球コースに投げさせろと要求、本当に投げさせる気などなかった達川が渋々従うと、大杉はその身体に向かって投じられた球を特大本塁打にしてしまった。達川はベースを1周した大杉に「(バットが振れない)石ころだと? ふざけるな!」と一喝された上、頭を殴るジェスチャーをされたという[6]。
1984年の日本シリーズで阪急ブレーブスを下し日本一に輝いた際、広島ローカルの特番で以下のように語っている。
- 「ささやき始めるとね、弓岡なんか『達川さん、黙ってくださいよー』怒ってね。今井さんと山沖は乗ってくるんですよね、すぐ。まぁ軽い男ゆうたら失礼ですけどね。ホント軽い男なんですけどね。今井さんなんかは、北別府だったんですけどね、1球振ったんですよ。『あ、今井さん、バッティング練習していないのになかなか当たるじゃないですか』言うたら『ほうじゃろうがぁ』言うから『あぁすごいですね。じゃあスライダーはどうですか』言うたら空振りしたんですよ。『スライダーは打てないですねぇ』ほいでツーナッシングなったんですね。『じゃもういっちょスライダー行きますよ。いってくださいよ』言うたら、空振り三振しましてね」
- 「で、昨日(第6戦)なんですけど、山本和さん(山本和男)いうのがいるんですが。ま、9回で5点差あって2アウトだったから、打つ気なかったと思うんですが、山沖に『おまえ打つなよ』言うたら『いや、打ちますよ』言うから『打つなや、わりゃ何言いよんなら! 山本和さんは女房も子どもも一人おるのに、おまえおるまぁが。打つなよ』言うたら『はあ、そうですか』言うて三振しましたけどね。まぁ、言わんでも三振はしとったと思うんですが」
なお、喋ると頭の回転が良くなり、リードが冴えてくるため、大洋の選手がある試合で「達川無視作戦」(「絶対喋るな! 挨拶からするな!」とミーティングの段階から選手に徹底させた)を決行した。MSNでの達川のコラム「モノが違いますね」によると、これは加藤博一が提案したもので、この結果として達川本人も「お前ら、どうなっとるんじゃ……」と困惑するほどペースを掴めなくなった。
この「ささやき戦術」を始めたきっかけは広商時代、1973年春センバツ準決勝の試合前、迫田穆成監督に「(作新学院の江川卓に)何でもええけぇ話しかけて、帰り際に広島弁で脅してこい」と言われたのが始まりだという。本人は迫田に「何を言えばええのですか?・・・堪えてくんさい(勘弁して下さい)」と乗り気ではなかった。その結果が「今日は・・・おどりゃあ(お前)覚えとけとよ!」だった。達川自身は「江川は凄いから、少々スポーツマンシップに外れてもハンデだ」と思っていたらしい。
デッドボール
達川は身体をかすってもいないボールを「デッドボールだ」と言い張る事が多く、『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』(フジテレビ)で頻繁に取り上げられた。デッドボールが認められて出塁したことが何度もあり、本人は至って真面目なプレーであったと語っている。
- 相手投手の投球が内角を深く攻める投球であった場合、ユニフォームにかすったことを激しくアピールし、執拗にデッドボールを主張した。一度それが成功したのでその後は体に近い投球があれば条件なしで一塁に走り出す技を会得した。内角球→一塁へ平然と走り出す→捕手と球審が呼び止める→いかに自分がデッドボールに当たったかを必死に説明する。
- 左腕を投球がかすめた際に、とっさに右手でひっかき傷を作り、審判にアピールして成功した。
- 投球がかすめた時にアピールする箇所はなぜか手袋をめくった手首付近が多く、打席前にベンチ裏にて何らかの仕込みがあるのではと噂された(実際は際どいボールが来て倒れ込んでいる間に手の甲をつねって腫れさせていたことが多かった)。左手をかすめたのに右手を差し出したこともある。
しかし、他のチームの打者に対しては、デッドボールであることが明らかである場合でも「デッドボールではない」と平光清審判のズボンを掴んでまで抗議し、阪神の北村照文から激怒されたこともある。
「東のグラウンドの詐欺師」といわれた大洋の市川和正とともにデッドボールに関する逸話を数多く作ってきた。また、両者はお互いをかなり意識していたという。また当時は金森栄治とともに「東の金森、西の達川」とも称されたが、当たりっぷりの悲惨な金森に対し、達川はその老獪さが笑いを誘った。
- 引退した年にゲスト出演したテレビの珍プレー番組の中で「当たっていないのに塁に出たのは1回で、当たってても出してもらえなかったことが3回ある」と発言したが、その直後、当たっていないのに出塁したシーンが2つ映し出された。それに対して「あれはオープン戦ですから」と弁明している。
なお達川は日本シリーズでの最多死球6という記録を持っている。
自身のデッドボールもさることながら捕手として、「プロとしてホームラン打者にはビーンボールは当然」と言うのはコーチ陣に共感してたらしく、捕手としての仕事は全うした。ただ相手打者に「気をつけえよ」とは忠告してたらしい。
「珍プレー」について
前述のように、ボールが体に当たっていないのに「当たった」とアピールする達川のプレーは、『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』などの珍プレーを取り扱う番組でしばしば取り上げられた。
一方、三塁に走者がいる場面で投球が本当に左足に当たり、当たったボールがそれる間に三塁走者が生還した際には、痛みを必死にこらえて当たっていないというアピールをしたこともある。しっかり「デッドボール」と判定され走者も三塁に戻され、その直後に足を引きずりながら達川が一塁に向かう様子は、童話「狼少年」を地でいくシーンとして珍プレー集などで何度も使われた。実はこの時、足の親指の爪が割れて血が噴き出していたという。
また、達川は2度ほど試合中にコンタクトレンズを紛失したことがある。当時は高価な品物であったため、2度とも試合は中断され、ホームベース周辺で両軍総出の大捜索劇となり、その様子は観客の爆笑を誘った。最初の紛失の際は突然タイムをかけ地面を探り出した達川に場内騒然となったが、「コンタクトレンズ紛失のため」という場内アナウンスにより観客席は大爆笑に包まれた。このシーンも『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』で頻繁に取り上げられた。
このように、宇野勝と並んで珍プレーに取り上げられることの多い達川だが、テレビなどでは宇野がほとんどヘディングプレーを採り上げられるのに対し、達川の珍プレーはデッドボールやコンタクト紛失など枚挙に暇がない。日本テレビ系列で放送されている珍プレー番組『勇者のスタジアム・プロ野球好珍プレー』では、「2試合に1回のペースで珍プレーを出していた」という分析結果が紹介されており、20世紀の珍プレーキングに輝いている。
一方、番組内で真面目な指摘を行うこともあった。解説者時代に中日の山本昌の牽制の際に癖があることを指摘し、横浜のコーチに就任することが決まっていた高木豊に「それを言っちゃダメですよ」と言われたこともある。また、大洋ホエールズ時代の「達川無視作戦」を暴露したのも高木である。広島市民球場が老朽化が進み、取り壊される件についても高木は「(市民球場は)汚い」というと達川は「おい、汚いとか言うな……裏方のオバチャンも必死に掃除しとるんやぞ……古びれたとか、もっと言葉を選べ」と言っていた。しかし、高木とは「豊」と下の名前で呼ぶほど仲が良い。
2003年の阪神コーチ時代にも、珍プレー集で広島弁でがなる名物コーチとして紹介された。本人は真面目にやっているのだが、捕手の捕球練習でも現役捕手と張り合って完敗したり、少年野球のコーチでも「皆目を瞑れ。おじさん(達川)が今、何本指を出したでしょうか? 当たったらこの(阪神タイガースの)帽子をあげよう」と宣言しておきながら、正解した少年に「おどりゃあ(お前)、何で目え瞑ってなかったんじゃい」と大人げなく怒ったりしていた。
サヨナラインフィールドフライ事件
テンプレート:By6月5日の横浜スタジアムでの大洋戦で、同点で迎えた9回裏1死満塁の場面で清水義之のインフィールドフライ・イフ・フェアで併殺が取れると勘違いし、フライを落としてサヨナラ負けを喫したことがある。
監督として
達川が広島の監督を務めていた時期は、投手陣がボロボロでピッチャーの頭数が足りなかった。それに加えて当時の外国人枠の関係で外国人投手は2人までしか使えなかったため、打開策として、野手登録していたフェリックス・ペルドモをピッチャーとして登板させたことがある。また、代打でペルドモを送り、そのまま登板させた事がある。
監督時代も「詐欺師」ぶりは変わらず、2000年9月19日。新井貴浩の明らかなファウルボールをホームランだと抗議し、森健次郎三塁塁審だけでなく阿部慶二三塁ベースコーチや、巨人の三塁手だった江藤智、三塁ランナーの金本知憲にまで笑われたことがある[注釈 5]。なおこの試合で達川は合計3回抗議に出て、最後はルイス・ロペスのサヨナラホームランで広島が勝利している。
金本知憲は2004年8月1日に連続フルイニング出場の日本記録を更新したが、実はもっと早くこの記録を達成できる可能性があった。広島の6番として出場していた1999年7月20日の阪神戦(甲子園)の7回2死満塁の場面で、当時監督だった達川が金本に代打(町田康嗣郎)を送ったため、その時点で一旦記録が途切れてしまったのである。達川は金本が記録を更新した後の2006年オフ、解説者として取材をした際にこのことを自ら切り出し苦笑いしていた。
1999年のドラフト会議において、近鉄、中日と競合して国学院久我山高校のエース・河内貴哉の指名権を引き当て、広島オーナーの松田耕平から受け取ったたばこ「ラッキーストライク」を懐から取り出してその喜びを表現した。
人物・エピソード
広島県広島市出身で、独特の軽妙な広島弁が特徴である。愛称は「タツ」「タツさん」「たっちゃん」「タッツ」など。
現役時代は、どの投手にも分け隔てなく接するため、連れ合っての食事、飲酒等は控えていた。だが同い年の大野豊とは親密に友人付き合いをしていた。また、津田恒実とのコンビも「名バッテリー」と呼ばれた。苦楽を共にした津田が亡くなった日のプロ野球ニュースでは、達川は泣きながら思い出を語っていた。トークショーなどでも例で津田の名前を出す時が圧倒的に多い。
珍プレーで同じく有名な宇野勝を「彼ほど正直な男はいない」と評価している。理由は、宇野が打席に立っていた時に審判にストライクをボールと判定されて「今のをボールというのなら僕は(野球を)辞めます。次宇野が打席に立ったら聞いてみます」と審判に言い、宇野が次に打席に入ったときに「ウーやん、さっきのボールはストライクだな?」と宇野に聞くと「はい、確かにストライクです」と正直に答えたからである。
取り壊される広島市民球場への思い出として、自身の事よりも、父親と直に観戦した外木場義郎の完全試合を挙げている。
松村邦洋にモノマネされているが、非常に気に入っている様子で、番組で松村と共演すると、達川本人が「達川のマネをしている松村」のモノマネをすることがある。しかし松村の十八番である「あのね、あの~」の口癖は封印している。
達川が監督やコーチに就任して現場復帰している間、テレビ新広島(TSS)は専属の解説者を置かず、必要に応じてフジテレビ系列局(主に一軍公式戦中継)や広島の球団役員・スカウト(主にウエスタン・リーグ公式戦中継)から解説者を招いていた。達川がいつか解説者に復帰する時に備えた「粋な配慮」だが、そのため広島主催試合の解説を、同じフジテレビ系列の解説者である対戦相手のOBが務めるケース(中日戦を鈴木孝政、ヤクルト戦を池山隆寛、横浜戦を加藤博一など)がしばしば見られ、『J SPORTS STADIUM“野球好き”』にも配信されたため、契約の関係で同番組には通常出演しないはずの解説者がTSS制作時に限り出演する事態ともなった。また、ローカルニュース・スポーツ情報番組でも解説者を交えた戦力分析などの内容が組めなくなり、専属解説者を複数確保している他局(特に常時複数の解説者を抱えている中国放送〔RCC〕)との格差が生じる弊害も生じた。
中日コーチに就任した2014年、TSSは達川の監督時代に広島に在籍した笘篠賢治(文化放送・フジテレビONEプロ野球ニュース解説者)・金本知憲(日本テレビ・MBSラジオ他解説者)、かつて達川と因縁のあった高橋慶彦(2014年現在ウェルズホーム広報部長。解説者としてはフリーのためRCCにも出演)、かつてバッテリーを組んでいた金石昭人(HBCラジオ・GAORA解説者)、引退後にレギュラー捕手を務めた西山秀二(RFラジオ日本・GAORA解説者)等在広局での活動が少なかった広島OBを本数契約で起用する他(金本はフジテレビ系全国中継も担当)、必要に応じて従来同様フジテレビ系列各局からの派遣も受けている。また土曜日の情報番組『知りため! プラス』にはかつて県内他局の解説者で、達川同様中日のコーチを務めた経験のある小林誠二(2014年現在飲食店経営)を4月放送分からコメンテーターとして起用する他、『J SPORTS STADIUM“野球好き”』のTSSプロダクション(またはRCC)・J SPORTS制作分にも解説者として出演している。また7月最終週から『TSSスーパーニュース』には小林と同じく中日のコーチを務めた原伸次(2014年現在飲食店経営)がスポーツコーナーのコメンテーターとして出演している。(小林・原の地上波野球中継への出演は未定)。
映画「カスタムメイド10.30」では、主人公の小林マナモ(木村カエラ)の夢の中に出てくるラジオ電話相談という設定で「回答者の声」として出演した。
後に甲子園通算20回出場・40勝をあげる木内幸男が甲子園を目指すきっかけとなったのは、達川の言葉によるものである(詳細は木内幸男の項を参照)
『いつみても波瀾万丈』でも本人特集がされたが、「作新高校時代の江川卓にささやき戦術を使ってた」「長嶋一茂をおちょくった(からかった)」などとネタ的な会話しか出なかった。
詳細情報
年度別打撃成績
テンプレート:By2 | 広島 | 12 | 30 | 28 | 2 | 6 | 1 | 0 | 0 | 17 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 6 | 2 | .214 | .241 | .250 | .491 |
テンプレート:By2 | 49 | 89 | 81 | 4 | 18 | 0 | 0 | 0 | 18 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | 1 | 16 | 4 | .222 | .292 | .222 | .514 | |
テンプレート:By2 | 9 | 5 | 5 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .200 | .200 | .200 | .400 | |
テンプレート:By2 | 49 | 123 | 113 | 8 | 25 | 4 | 0 | 1 | 32 | 10 | 1 | 1 | 0 | 0 | 7 | 1 | 3 | 11 | 8 | .221 | .285 | .283 | .568 | |
テンプレート:By2 | 77 | 206 | 176 | 15 | 37 | 8 | 0 | 3 | 54 | 13 | 0 | 0 | 9 | 1 | 15 | 2 | 5 | 23 | 2 | .210 | .289 | .307 | .596 | |
テンプレート:By2 | 116 | 372 | 330 | 30 | 83 | 11 | 0 | 5 | 109 | 41 | 1 | 0 | 12 | 5 | 19 | 2 | 6 | 23 | 11 | .252 | .300 | .330 | .630 | |
テンプレート:By2 | 117 | 371 | 312 | 35 | 76 | 9 | 0 | 7 | 106 | 33 | 1 | 2 | 14 | 2 | 36 | 7 | 7 | 30 | 3 | .244 | .333 | .340 | .673 | |
テンプレート:By2 | 95 | 269 | 230 | 18 | 53 | 6 | 0 | 4 | 71 | 31 | 0 | 1 | 16 | 3 | 19 | 2 | 1 | 34 | 8 | .230 | .289 | .309 | .597 | |
テンプレート:By2 | 128 | 467 | 416 | 42 | 114 | 21 | 1 | 9 | 164 | 46 | 1 | 0 | 10 | 2 | 34 | 11 | 5 | 42 | 5 | .274 | .335 | .394 | .729 | |
テンプレート:By2 | 130 | 480 | 418 | 40 | 107 | 18 | 0 | 8 | 149 | 34 | 2 | 3 | 15 | 2 | 38 | 14 | 7 | 40 | 16 | .256 | .327 | .356 | .683 | |
テンプレート:By2 | 122 | 432 | 383 | 29 | 100 | 13 | 0 | 6 | 131 | 38 | 2 | 1 | 10 | 1 | 30 | 18 | 8 | 29 | 10 | .261 | .327 | .342 | .669 | |
テンプレート:By2 | 109 | 331 | 277 | 22 | 63 | 8 | 0 | 4 | 83 | 22 | 1 | 2 | 14 | 1 | 33 | 7 | 6 | 36 | 9 | .227 | .322 | .300 | .621 | |
テンプレート:By2 | 101 | 305 | 272 | 19 | 72 | 9 | 0 | 3 | 90 | 33 | 3 | 1 | 7 | 5 | 15 | 4 | 6 | 34 | 8 | .265 | .312 | .331 | .643 | |
テンプレート:By2 | 120 | 423 | 359 | 30 | 85 | 19 | 0 | 1 | 107 | 39 | 3 | 3 | 15 | 6 | 41 | 12 | 2 | 47 | 13 | .237 | .314 | .298 | .612 | |
テンプレート:By2 | 100 | 283 | 236 | 17 | 55 | 4 | 0 | 0 | 59 | 14 | 2 | 1 | 6 | 0 | 36 | 8 | 5 | 29 | 11 | .233 | .347 | .250 | .597 | |
通算:15年 | 1334 | 4186 | 3636 | 311 | 895 | 131 | 1 | 51 | 1181 | 358 | 17 | 15 | 129 | 28 | 331 | 88 | 62 | 402 | 110 | .246 | .317 | .325 | .642 |
---|
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績
年度 | 試合 | 企図数 | 許盗塁 | 盗塁刺 | 阻止率 |
---|---|---|---|---|---|
1978 | 12 | 8 | 6 | 2 | .250 |
1979 | 46 | 15 | 10 | 5 | .333 |
1980 | 7 | 0 | 0 | 0 | .000 |
1981 | 48 | 42 | 26 | 16 | .381 |
1982 | 75 | 46 | 30 | 16 | .348 |
1983 | 115 | 75 | 50 | 25 | .333 |
1984 | 117 | 74 | 49 | 25 | .338 |
1985 | 94 | 56 | 33 | 23 | .411 |
1986 | 128 | 102 | 65 | 37 | .363 |
1987 | 130 | 74 | 52 | 22 | .297 |
1988 | 122 | 80 | 46 | 34 | .425 |
1989 | 108 | 77 | 52 | 25 | .325 |
1990 | 101 | 68 | 40 | 28 | .412 |
1991 | 120 | 81 | 48 | 33 | .407 |
1992 | 97 | 59 | 36 | 23 | .390 |
通算 | 1320 | 857 | 543 | 314 | .366 |
年度別監督成績
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
テンプレート:By | 広島 | 5位 | 135 | 57 | 78 | 0 | .422 | 152 | .260 | 4.78 | 44歳 | |
テンプレート:By | 5位 | 136 | 65 | 70 | 1 | .481 | 150 | .256 | 4.48 | 45歳 | ||
通算:2年 | 271 | 122 | 148 | 1 | .452 | Bクラス2回 |
- ※1999年から2000年までは135試合・引き分け再試合制
表彰
- ベストナイン:3回 (1984年、1986年、1988年)
- ゴールデングラブ賞:3回 (1984年、1986年、1988年)
- 最優秀バッテリー賞(特別賞):1回 (1992年)
- JA全農Go・Go賞(強肩賞):1回 (1992年9月)
- 日本シリーズ敢闘賞:1回 (1986年)
記録
- 初出場:1978年7月11日、対阪神タイガース14回戦(広島市民球場)、8回表に道原博幸に代わり捕手として出場
- 初打席・初安打:同上、9回裏に池内豊から
- 初先発出場:1978年7月12日、対阪神タイガース15回戦(広島市民球場)、8番・捕手として先発出場
- 初打点:1978年7月19日、対阪神タイガース18回戦(阪神甲子園球場)、2回表に池内豊から先制適時打
- 初本塁打:1981年5月17日、対ヤクルトスワローズ6回戦(長崎市営大橋球場)、5回表に梶間健一から左越ソロ
- 1000試合出場:1989年9月24日、対横浜大洋ホエールズ22回戦(広島市民球場)、8番・捕手として先発出場 ※史上289人目
- オールスターゲーム出場:7回 (1983年、1986年 - 1989年、1991年 - 1992年)
背番号
- 40 (1978年 - 1992年)
- 84 (1995年)
- 74 (1998年 - 2000年)
- 90 (2003年、2014年 - )
関連情報
著書
- 『熱烈!カープ魂』(大野豊共著、ベースボール・マガジン社、2013年6月、ISBN 9784583105741)
放送
出演番組
- BASEBALL SPECIAL〜野球道〜(1993年 - 1994年、1996年 - 1997年、2001年 - 2002年、2004年 - )
- すぽると!(原則としてテレビ新広島のスタジオからの出演)
- SWALLOWS BASEBALL L!VE(フジテレビONE)
- プロ野球ニュース(フジテレビONE。フジテレビ地上波時代は、テレビ新広島解説者として出演)
- サタ・スポ(テレビ新広島)
- DO!すぽ (テレビ西日本・福岡ソフトバンクホークスと広島東洋カープの交流戦や日本シリーズにゲスト解説者として出演。)
- J SPORTS STADIUM(テレビ新広島制作のカープ戦)
- ニッポン放送ショウアップナイター
- ショウアップナイターネクスト(不定期出演)
- MBSタイガースナイター(2004年 - 2009年5月まで)
出演CM
出演テレビドラマ
ゲームソフト
- プロ野球スピリッツシリーズ(コナミ→コナミデジタルエンタテインメント) - 打者解説として声の出演
登場作品
- ミラクルジャイアンツ童夢くん(漫画・アニメ、石ノ森章太郎原作) - 声・梅津秀行
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク
- 達川光男のものがちがいます - オフィシャルブログ
テンプレート:中日ドラゴンズ テンプレート:広島東洋カープ歴代監督 テンプレート:Navboxes
テンプレート:広島東洋カープ1977年ドラフト指名選手- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 2.0 2.1 テンプレート:Cite web
- ↑ 【中日】達川新コーチが会見、背番号90
- ↑ ★来季のスタッフについて中日ドラゴンズ 公式サイト - ドラゴンズニュース 2013年10月22日配信
- ↑ ★来季スタッフの背番号について中日ドラゴンズ 公式サイト - ドラゴンズニュース 2013年11月1日配信
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ ラジオCMに達川氏を起用 ポプラ公式ホームページ 2012年4月2日配信
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