日露関係史

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テンプレート:Infobox 両国関係 日露関係史(にちろかんけいし)では、日本ロシアの二国間関係の歴史を述べる。かつてこれらの地域にあった国家や王朝を含める。

両国は、ロシア人極東進出と日本人の北方開拓の結果、隣国として基本的には敵対しながらも密接な関係を結びつつ歩んできた。

前史

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鎌倉時代

13世紀には、モンゴルのルーシ侵攻及びモンゴルの樺太侵攻(1264年、1284-1286年)が行なわれた。ハンザ同盟に所属するノヴゴロド公国は、東方植民に押されてバルト海貿易を失い、テンプレート:仮リンクが活発になった。

一方、アイヌは大陸との山丹交易を行なうようになっていた。1268年津軽の蝦夷反乱1320年蝦夷大乱

室町時代

モンゴル帝国の後継国家のひとつジョチ・ウルスが、カザン・ハン国1438年)、クリミア・ハン国1441年)、アストラハン・ハン国1466年)、シビル・ハン国1490年代)に四分裂した。

1457年コシャマインの戦い

シベリア征服

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シベリアの大河をつないだ東西連絡路。シベリアの河川交通を参照

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イヴァン4世は、常備軍ストレリツィを設立すると、1552年テンプレート:仮リンクヴォルガ川中流域のカザン・ハン国を併合した。1555年モスクワ会社が設立されて北極海航路の探検が活発化し、エニセイ川までの航路が開拓された。摂政ボリス・ゴドゥノフは、イェルマークを支援して1598年シビル・ハン国を滅ぼし、テンプレート:仮リンク西シベリア平原へ版図を拡げた。

文禄・慶長の役1592年 - 1598年)。サルフの戦い1618年 - 1619年)によって海西女直テンプレート:仮リンクヌルハチの勢力に吸収された。

17世紀にはテンプレート:仮リンクへの進出を図るロシア・ツァーリ国コサックによって、レナ川コリマ川までの航路が開拓された。1632年にはヤクーツクに砦が建設された。1639年イヴァン・モスクヴィチンがオホーツク海に達し、1643年セミョーン・シェルコヴニコフСемёна ШелковниковаSemyon Shelkovnikov)がオホーツクに町を建設した。1640年代からヴァシーリー・ポヤルコフエロフェイ・ハバロフなどの探検隊が、ヤクーツクを拠点として、ゼヤ川アルグン川から農耕が可能なアムール川流域への南下を開始した。

鎖国体制下の日露関係

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フリースの金銀島探検隊

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1643年オランダ東インド会社マルチン・ゲルリッツエン・フリース択捉島得撫島に上陸し、領有権を宣言した(オランダ領千島)。

デジニョフ探検隊

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1648年セミョン・デジニョフチュクチ半島デジニョフ岬)、ベーリング海峡アナディリ川を発見していた。1649年オホーツクに砦が建設された。

1651年アムール川畔のアルバジンに砦が建設された。1654年1658年の「テンプレート:仮リンク」(テンプレート:Lang-zh-shortテンプレート:Lang-ko-shortテンプレート:Lang-ru-short)で清軍が攻撃してアルバジン砦を破壊。1689年ネルチンスク条約を締結。国境がスタノヴォイ山脈に定められた。

1669年シャクシャインの戦い

アトラソフ探検隊

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ウラジーミル・アトラソフ

1701年頃に日本人漂流民の伝兵衛らとウラジーミル・アトラソフが出会って初めて日本に具体的に関わった。1705年ピョートル1世サンクトペテルブルクに日本語学習所を設置し、伝兵衛が日本語を教えた。1706年、カムチャツカ半島をロシアが占領。カムチャツカ半島を領有したロシア人は、毛皮などを獲る為に千島列島でも活動し、日本も在住のアイヌを通じて部分的には交易を行うなど接触はされていたが、東方に土着したロシア人はヨーロッパから遥か離れたこの地で、物資の不足にあえいでおり、食料物資などの補給のために南方の日本との交易を求めていた。

コジレフスキー探検隊

1711年テンプレート:仮リンク千島列島(この時、-Курильские острова-と命名した)を探検し、最南部の国後島に上陸した。

1727年キャフタ条約が締結されて、ロシアは外モンゴルまで支配領域を確定させた。

ベーリング探検隊

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ヴィトゥス・ベーリング

1739年にヴィトゥス・ベーリングが派遣したマルティン・シュパンベルク隊が仙台湾安房国沖に接近したものの、徳川幕府は沿岸防備を強化した為、接触に失敗した(→元文の黒船)。日本もこの頃までには、北方に「おろしや」という国があることを知るようになった。

1755年乾隆帝が、それまで露明間の緩衝国だったジュンガル・ホンタイジ国を滅ぼし、露清の領土が西シベリアでも直接接することになった。

1762年にロシアはエカチェリーナ2世の治世となり、1764年に東方のイルクーツクに日本航海学校を、1768年に日本語学校をそれぞれ設置し、日本付近への航海を積極的に行うようになった。こうして18世紀にはロシアと日本も、ほぼ隣国の関係となり、日本近海、とくに蝦夷地周辺に『赤蝦夷』と呼ばれていたロシア勢力が出現するに及んで江戸幕府の北方開拓を刺激することにもなった。

1771年には阿波国にロシア船が漂着する「ベニョフスキー事件」(「はんべんごろう事件」とも)もあった。

アンチーピン外交

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1778年厚岸エカチェリーナ2世の勅書を携えた、イワン・アンチーピン(Иван Антипин)を始めとするロシア人訪問団が来訪した。

1778年、ロシアの勅書を携えたイワン・アンチーピンの船が蝦夷地を訪れて直に通商を求めたが、翌1779年に松前藩はそれを拒否した。1781年仙台藩の藩医工藤平助はロシア研究書である『赤蝦夷風説考』を著述し、北方海防の重要性を世に問うた。当時政治改革を主導していた老中田沼意次も北方に関心を抱き、蝦夷地調査などを開始したが、まもなく田沼は失脚した。

ラクスマン外交

1783年、日本の船頭大黒屋光太夫伊勢白子浦から江戸へ向かう航海の途上に漂流してアリューシャン列島に漂着し、一行はロシア人によって保護された。

1789年クナシリ・メナシの戦い

1791年に大黒屋光太夫は女帝エカチェリーナ2世と謁見した。帰国を望んでいた光太夫は、1792年にロシア使節アダム・ラクスマンに伴われて根室に着いた。ロシアは漂着民を届けることを根拠に通商交渉を狙ったが、再度断られ、老中松平定信は周辺を巡視させた。光太夫によって伝えられたロシア事情は桂川甫周の手よって『北槎聞略』にまとめられ、幕府にとっては鎖国時代における貴重なロシア情報となった。また、海外事情に通じた林子平がロシアの日本近海進出について説く啓蒙活動を行い、長崎出島でのオランダ通詞からの情報などでロシアに関する認識が深まっていった。

レザノフ外交

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ニコライ・レザノフ

1793年11月、仙台藩津太夫善六ら16人乗りの若宮丸が石巻から江戸へ向かう航海の途上に漂流してアリューシャン列島東部のテンプレート:仮リンクに漂着した[1]

1796年11月6日にエカチェリーナ2世が崩御、パーヴェル1世が皇帝に即位。1799年には松前藩にかわって幕府が蝦夷地の直轄統治を開始し、最上徳内近藤重蔵に蝦夷地探検を行わせた。 同年、露米会社が勅許を受けテンプレート:仮リンクが成立。就任当初は親英だったパーヴェル1世がフランスと手を組み、スヴォーロフらを罷免し、テンプレート:仮リンクへの遠征を企ててイギリスと対立した為、国内で反パーヴェル1世の声が上がった。1801年3月23日、パーヴェル1世が暗殺される、アレクサンドル1世が皇帝に即位。同年、アレクサンドル1世はイギリスと同盟を結んだ。

ニコライ・レザノフは、アラスカの維持に必要な食料調達のために、日本やスペイン領アルタ・カリフォルニアに交渉を開始する。1804年9月にニコライ・レザノフが日本人漂流者の津太夫らを伴い、長崎に来航した。渡された国書にはロシア語による正文と日本語・満州語による訳文があったが、日本語の訳文は不完全で意味を取ることが難しく、レザノフに同伴してきたドイツ人の博物学教授ラングスドルフがロシア語をオランダ語に翻訳し、それを重訳する形で日本語に直された[2]。同年10月、シトカの戦い。1806年2月、津太夫によって伝えられたロシア事情が『環海異聞』に仙台藩でまとめられた。ロシアの開港要求を幕府が拒絶したため、レザノフは武力による通商開始を上奏していた。

1806年1月26日、江戸幕府は異国船打払令を廃止し薪水給与令(文化の撫恤令)を発布した。しかし、同年9月にレザノフの部下テンプレート:仮リンクが蝦夷地の日本側拠点である樺太の松前藩の番所を襲撃(フヴォストフ事件)。1807年5月には択捉島駐留の幕府軍を攻撃した(文化露寇)。そのため、江戸幕府は薪水給与令を撤回し、同年12月にはロシア船打払令を発布した。並びに、幕府は幕府軍の増強を謀ったが津軽藩士殉難事件が起こっている。1807年にレザノフが病死し、1808年にロシア軍の暴挙を聞いた皇帝アレクサンドル1世が全軍撤収命令を下し、フヴォストフは処罰された。1808年には松田伝十郎間宮林蔵がロシア帝国の動向について調査する為に樺太へ渡り、1809年間宮海峡沿海州へ渡って黒竜江下流を調査した記録が『東韃地方紀行』にまとめられた。しかし、日露間の緊張関係を背景に、1811年には千島列島を探検中に国後島に上陸したヴァーシリー・ゴローニンが幕吏に捕らえられ、その報復として日本の商人である高田屋嘉兵衛が連れ去られる事件が起こった(ゴローニン事件)。ナポレオン大陸封鎖令を破ってイギリスとロシアが貿易を再開すると、1812年ロシア戦役が勃発した。正式の国交をもたないままの緊張をはらんだゴローニン事件の交渉は1821年までに落ち着きを取り戻し、蝦夷地は再び松前藩に返還される。

1828年シーボルトから最上徳内高橋景保とへ北方の地図や日本の地図と引き換えにクルーゼンシュテルン(レザノフが後援していた)の『世界周航記』が与えられたことが、シーボルトからの手紙を間宮林蔵が上司に提出したことにより発覚し、シーボルト事件が起った。

ロシアにおける日本語教育の衰退及び日本におけるロシア研究の始まり

1805年にロシア唯一の日本語学校がイルクーツクの中学校に合併され、1816年7月26日にはその日本語学校も閉鎖されることとなった[2]

1814年、日本において、最初の露日辞書の俄羅斯語小成及び露語文法書の魯語文法規範が編纂された[2]。その後、幾らかの訳書も出たが、ロシア研究熱は長くは続かなかった[2]

アムール探検

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プチャーチン外交

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エヴフィミー・プチャーチン

1853年アメリカ合衆国マシュー・ペリー提督の浦賀来航(黒船来航)に続くようにロシア使節エヴフィミー・プチャーチンが3隻からなる艦隊を率いて長崎に来航。1853年テンプレート:仮リンクサハリン島を占領したが[3]、同年3月のクリミア戦争勃発を受けて撤退した。交渉中の1854年4月、プチャーチンは戦略拠点の巨文島を訪れている(1885年にイギリスが占拠した巨文島事件en:Port Hamilton incident)の舞台となった)。1854年8月、ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦1855年2月にプチャーチンは、伊豆半島下田で困難な交渉の末、日露和親条約Симодский трактат、下田条約)を締結した。

19世紀半ばに入ると、ロシアはテンプレート:仮リンク1861年)を求める国内の改革への圧力と、クリミア戦争などのヨーロッパ方面での南下の試みの挫折を受けて、再び極東への進出を重視してきた。さらにプチャーチンは間をおいて再び長崎に来航し1858年日露修好通商条約Едоський договор、江戸条約)を結んだ。これにより、下田・箱館・長崎の3港が開かれ、日露の国境は千島列島択捉島得撫島の間にひかれて、樺太は両国これまで通り(雑居地)として日露の正式な国交が開始するが、これが北方領土の帰属問題の起点ともなる。

アムール併合

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この間ロシアは、プチャーチンによってに圧力をかけてアイグン条約(1858年)で黒龍江東岸を、清分割に参加する列強の一角として1860年には沿海州を獲得した。こうして北マンチュリア(外満州)を領土に収めたロシアは、更に南マンチュリア(満州、現在の中国東北地区)や朝鮮への進出を強めた。1861年、ロシアは対馬の芋崎を数ヶ月占領し永久租借を要求、しかしイギリスの介入によって退去した(ロシア軍艦対馬占領事件)。回民蜂起1862年 - 1873年)と八戸事件1867年1月)に端を発する征韓論によって清朝では海防・塞防論争が始まる。1867年2月、サンクトペテルブルク日露間樺太島仮規則を仮調印。

明治維新から日露戦争まで

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1875年サンクトペテルブルク樺太・千島交換条約Петербургский договор、ペテルブルク条約)が結ばれて千島列島は全島が日本領とされ、それまで両国民混住の地とされていた樺太(サハリン)はロシア領に定められた。

露朝密約を主導したメレンドルフ1885年)、ヴェーバー1886年)が失脚。1891年大津事件で来日中のロシア皇太子ニコライが斬りつけられて負傷し、責任をとって外相青木周蔵が辞任している。

同年、露仏同盟を締結、フランスの資金でシベリア鉄道の建設を開始。日清戦争1894年 - 1895年)に日本が勝利し、日清講和条約が締結された。1895年ロシアは三国干渉を主導して、遼東半島を清へ返還させると、翌1896年清と露清密約を結んで東清鉄道の施設権を獲得、1898年には遼東半島の旅順大連租借した。この一連の行動は日本側のロシアに対する激しい敵愾心を巻き起こし、1900年義和団の乱の際にロシア軍が江東六十四屯の虐殺を起こし、その後の混乱に乗じてマンチュリアの南北全域を支配し、日本が安全保障上確保したい朝鮮領内にも陣地を築いて、日本の権益を脅かすに及んで日露の対立は決定的となった。

日本は、ロシアの清進出を嫌うイギリスと、1902年日英同盟を結んでその後ろ盾を得た。その後、朝鮮の独立問題に絡み1904年日露戦争が始まり、それに勝利する。1905年ポーツマス条約で日本は満州におけるロシアの権益を賠償として取得し、ロシアの極東進出は後退を余儀なくされた。またこの条約で南樺太が日本領となる。アメリカは、ポーツマス条約の仲介により漁夫の利を得て満洲に自らも進出し極東への影響力強化を企んでいたが、このアメリカの影響力を排除することで日本とロシアは利害が一致し、数度にわたる日露協約を結んで満蒙(南北マンチュリアとモンゴリア)における両国の権益・勢力範囲を分割した。ロシアとの協約成立は、ロシアの報復を恐れていた日本政府を安堵させるものであった。なお、日露戦争の最中に日本はロシアの戦争継続を困難にせしめるため、ロシア第一革命への支援工作を行っていた (明石元二郎)ほか、ポーランド独立派のユゼフ・ピウスツキにも支援を行っている。1906年4月、東京において日露協会が誕生した[4]。また、1906年8月にはロシア国技師のカ・カ・ヨーキシ(テンプレート:Lang-ru)が、清国ハルピンにある所有地及び租借地を外国人、特に日本人へ譲渡したいという書簡を日本側に送り[5]、その後、ハルピンが開市場となって日本とロシアの関係が深まった。

1908年、ロシアの軍艦が公海で日本の民間船を拿捕するという三重丸事件が起きた。1911年、日米英露の間でオットセイ及びラッコの保護条約である膃肭獣保護条約が結ばれた。

ソビエト連邦建国と日本

日露戦争後のイギリス・日本とロシアの間の歩み寄りの結果、第二次大隈内閣時1914年にはじまる第一次世界大戦ではともに連合国側に参戦することとなって友好関係が続き、1916年には第4次日露協約を結んで、日露両国は極東における相互の特殊権益の擁護を再確認した。ところが1917年ロシア革命が勃発してロシア帝国は倒され、日露協約は廃棄されることになる。

ロシア帝国の崩壊後、ロシアでは中央でソビエト政権を樹立したボリシェヴィキ赤軍と、それに反対して地方で抵抗を続ける白軍の間で内戦が続く混乱期に入った(ロシア内戦)。極東への共産主義の波及を怖れる日本は、同じくソビエトを敵視する英仏伊と歩調をあわせ、1918年1月に居留民保護を名目としてロシア極東の主要都市ウラジオストクに艦隊を派遣した。3月には、ロシアが連合国を無視してドイツとブレスト=リトフスク条約を締結し、日本は中国と日支共同防敵軍事協定を結んだ。さらに内戦によりシベリアで孤立したチェコ軍団救援をアメリカが提案したことを受け、8月12日に日本軍は上陸を開始した。ロシア帝国の消滅を受けてロシア勢力圏の北マンチュリア(外満州)・沿海州へと勢力を広げる野心をもっていたとされる日本は、これにはじまるシベリア出兵に7万人以上の兵士を送り込んだ。

この日本の過大な出兵の結果、内戦への協調干渉を断念したアメリカは出兵を打ち切り、日本も1919年から徐々に撤兵を開始した。しかし、同年には日本軍の守備隊がパルチザンと衝突し、日本側は守備隊と居留民を殺害される尼港事件が起こって犠牲を払う。日本はこの事件をきっかけに、さらに北樺太まで出兵を広げるが、結局ソビエト政権の打倒はならず、1922年ソビエト連邦が建国され、ソビエトが沿海州に置いた緩衝国極東共和国もソ連に併合されるに至る。同年、日本はようやくシベリアから完全撤兵するが、列強の一部がソビエト連邦の承認、国交樹立に動く中で関係回復は進展しなかった。また、シベリア撤兵後も石油石炭資源の埋蔵が期待されていた北樺太には1925年まで駐留を維持していた。

しかし、隣国であるソ連との関係断絶は日本経済界への打撃も強く、また1919年7月のカラハン宣言に基づくソ連の中国への影響力増大から日ソ国交正常化を行ってこそ大陸での日本の権益を守れるとの主張もあらわれた。そのため日本側も国交正常化に前向きとならざるを得なくなり、1925年1月20日北京日ソ基本条約を締結した。

一連の動乱の中で、革命に反発してロシアを出国した数多くのロシア人たち、いわゆる白系ロシア人が日本に大量に流入し、ロシア・正教会の文化を日本にもたらした。1917年に元露国大使館内において露西亜人協会が設立され、1918年には会員数300名に達したとされる[6]。また、1920年3月にはユダヤ系ロシア人のアナトリー・ヤコヴレヴィチ・グートマンが反過激派新聞「デイロ、ロシー」(Дело России)の発行を開始し共産主義の危険性を訴え[7]、同年春には在日本露西亜国民統一会の設立を行った[6]

なお、シベリア出兵によってユダヤ陰謀論の元となるシオン賢者の議定書が日本に伝わった。この本の存在により日本はユダヤ研究を始め、むしろ日ユ同祖論を展開してユダヤ人を保護する方向へと向かった。

同じ頃、日本の社会主義者は在米日本人社会主義者団が中心となって、コミンテルンと接触しはじめた。

戦時下の日ソ関係

日ソ基本条約が結ばれた一方で、ソ連の主導した共産党の世界組織コミンテルンは、1922年日本共産党を日本支部に指定してその地下活動を援助しており、日本の当局者を刺激していた。また、1924年には外モンゴリアでソ連はモンゴル人民共和国を成立させ、モンゴリアを勢力圏に置こうとしていた。このような状況を背景にして、日本では軍部を中心にマンチュリア(満州)を極東に押し寄せる共産主義からの防衛線として確保すべきであるという考えが芽生え、これがマンチュリアを確保して日本の生命線とする構想が進められる一因となっていった。このような時代的な背景により、1932年満州事変が勃発、日本の後ろ盾のもとにマンチュリアを領域とする満州国(満洲帝国)が建国される。ソ連は満州国を承認しなかったが、ロシア帝国から引き継いでいた北満鉄路(旧東清鉄道)を満州国との合弁で経営し、1935年にこの利権を日本の南満州鉄道に売却して、マンチュリアからの撤退と勢力圏の整理を行った。

また、ソ連は極東に住む朝鮮人(高麗人)に「スパイ」容疑をかけて中央アジアに追放する一方で、朝鮮半島やマンチュリアで抗日パルチザン活動を行う朝鮮人・中国人グループを支援していた。赤軍に編入された朝鮮人部隊の司令官が金日成で、そのソ連滞在中の1942年に生まれたのが息子の金正日であるとされている(金日成と金正日が指導者となった北朝鮮の公式発表では別の説明がされている)。

軍事的には満州国の建国以来、満州に駐留する日本の関東軍とソ連赤軍との間で緊張関係が続き、何度かの武力衝突が行われた(日ソ国境紛争)。1938年にはソ連と満州の国境紛争(張鼓峰事件)、1939年5月からはモンゴルと満州との国境紛争から大規模なノモンハン事件が起こった。両事件では日ソ両軍に大きな損害を出したが、ソ連軍の機甲部隊に大きな損害を与えられた日本側では「敗北」の認識が強く、その後の北進論に否定的な影響を与えた。

1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が始まり、その直前に独ソ不可侵条約が結ばれるという激変の中、アジアでは日本ととの間での緊張が強まった。そこで、南進論によって英米との対立激化が避けられない日本と、不可侵条約を結んだナチス・ドイツとの関係が常に不安定なソ連の両国は自分の背後を固める必要性に迫られ、1941年4月に日ソ中立条約を結んだ。

しかし、同年6月にドイツが不可侵条約を破棄しソ連と戦争を始めると、7月日本軍は70万の兵士を関東軍特種演習と称して満蒙国境線に配備したが、南進計画決定により8月に中止された。これによりソ連軍は精鋭部隊を満州国境からヨーロッパに投入し、モスクワ攻防戦などでのドイツ軍撃退に成功した。この時期の日本政府の戦略情報はソ連が送り込んだドイツ人スパイリヒャルト・ゾルゲなどが作った秘密情報網によってソ連(赤軍参謀本部)に漏れていた。この組織は10月にゾルゲ事件として摘発され、ゾルゲと日本側中心人物の尾崎秀実は1944年11月7日(十月革命記念日)に処刑された。また、1941年12月には太平洋戦争大東亜戦争)が勃発し、日ソ両国の開戦の可能性は遠のいた。

その後、第二次世界大戦は連合国側の勝利が確実となり、日本では1944年7月に成立した小磯国昭内閣、及び続く鈴木貫太郎内閣の時にソ連を仲介者とした和平交渉の可能性が模索された。一方、ソ連側は対独戦勝利の後に日本に侵攻し、日露戦争でロシア帝国が失った領土や権益を奪回をする事を狙い始めた。1945年2月のヤルタ会談で、ソ連のスターリンはアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領から対日参戦条件として南樺太・千島列島、その後の北方領土を含む)の返還(併合)などを引き出し、ドイツ降伏後3ヶ月で対日攻撃を開始する秘密協定に調印した。これを受け、ソ連は4月に日ソ中立条約の非延長を通告し、1946年4月で同条約が失効することになった。また、近衛文麿元首相をソ連に派遣して和平交渉を行おうとした提案を拒否し、ソ連軍は大量にヨーロッパから極東へと移送された。日本側では関東軍司令部がこの異変を察知して民間人男子の「根こそぎ動員」による消極的防衛策を練ったが、和平交渉の仲介に期待する中央政府は目立った対応をしなかった。

そして8月8日、ソ連は有効期間が残っていた日ソ中立条約を一方的に破棄して対日宣戦布告を行い、日本側勢力圏の満洲帝国(マンチュリア)、それに日本領の朝鮮半島北部(北緯38度線以北)・南樺太・千島列島を侵攻・占領した。9月2日に日本が降伏文書に調印するまで(歯舞諸島は降伏文書調印後に占領)約1ヶ月続いたこの戦争で多くの日本人が犠牲となり(満州各地の開拓団などの民間人による多数の集団自決事件を含む)、民間人への略奪・婦女暴行事件も頻発した。また、降伏した日本軍(関東軍)将兵は捕虜としてシベリア(一部は中央アジアヨーロッパ・ロシア)へと抑留された(シベリア抑留)。ソ連側も占守島の戦いなどで大きな損害を出し、スターリンによる北海道分割占領提案は戦後のソ連の強大化を警戒するアメリカのハリー・トルーマン大統領に拒否されたが、対日作戦そのものは勝利に終わり、ソ連はヤルタ秘密協定で示された参戦の見返りをすべて獲得した。

第二次大戦後の日ソ関係

ソビエト崩壊後の日露関係

1991年ソ連崩壊によってロシア連邦がソ連の権益や対外条約を引き継ぐとした為、日本もこれを承認した。1993年にはエリツィン大統領が来日、細川護熙首相と会談した。エリツィンと橋本龍太郎首相は特に親密になり、相互訪問を行ってロシアの先進国首脳会議メンバー入りを支持し、北方領土問題にも解決の道筋を示したかに見えたが、返還交渉はまとまらなかった。2000年に就任したプーチン大統領は対外強硬派であり、小泉純一郎首相とたびたび会談しているが、北方領土問題を有利に解決したい双方の思惑のずれにより、問題解決には至っておらず、1956年の共同宣言以来の目標である平和条約締結の道筋も見出せない。また、日本・ロシア両国は北朝鮮に関する六ヶ国協議の参加国であるが、日本人拉致事件などを理由に北朝鮮に対する強硬姿勢を堅持する日本側と、拉致事件問題では日本側に理解を示しながらも北朝鮮との友好関係維持に腐心して経済支援に前向きなロシア側との立場の違いが表れている。

2006年(平成18年)8月16日北海道根室市花咲港所属の漁船が歯舞群島水晶島付近の海域で操業中に国境[8]を侵犯したとしてロシア国境警備局の警備艇により追跡され、貝殻島付近で銃撃・拿捕され、乗組員1人が死亡する事件が発生した(第31吉進丸事件)。

また、同年9月ロシア政府は、樺太沖で三井物産三菱商事ロイヤル・ダッチ・シェルが出資・開発する海底油田「サハリン2」に対し、環境保護を理由に事業認可を取り消すとの方針を示した。このプロジェクトには以前より、国内外から環境問題に対する懸念が示されていたことも事実であるが、むしろロシア側が国営天然ガス会社ガスプロムの参加など、ロシア側に有利なように生産分与契約の改善等を求めるのではないか、との懸念が浮上している。 実際には、ロシア政府から公式に上記のような要求が出された事実は無いが、もしそのような要求がなされた場合にはサンクトペテルブルクサミットにおける合意に違反するとして、アメリカ等からの懸念も招いている。

日露両国間の平和条約締結交渉は難航しているが、1996年から日本の海上自衛隊ロシア海軍の艦艇相互訪問は1999年の防衛交流覚書の調印につながり、2003年には陸上自衛隊ロシア陸軍との交流も開始された。冷戦の終結により米露関係も改善されたため、ロシア軍による北海道侵攻、逆に自衛隊やアメリカ軍によるロシア極東部(樺太・千島列島を含む)への攻撃は非現実的な仮想となり、日本政府は自衛隊の主力部隊を北海道から西日本へと展開した。北朝鮮問題では意見が食い違う両国政府も、他の問題では幅広い協力を行っている。温暖化問題で日本政府が推進した京都議定書については、制定から7年後の2004年にロシアが批准に踏み切り、2005年の発効が実現した。一方、ロシア国内で続くチェチェン問題については、日本はサミットの共同宣言などでテロリズムへの対抗を打ち出し、チェチェンの武装ゲリラに対するプーチン政権の強硬策を支持している。

また、ペレストロイカやエリツィン政権で混乱したロシア経済が、原油価格・天然ガス価格の高騰にも助けられてプーチン政権下で急成長を開始し、ロシアが新興経済発展国のBRICsの一員と見なされるようになると、日露間の経済関係も再び拡大に転じた。2006年の日本からの対露輸出は前年比で65%増、ロシアからの対日輸出は13%増となった[9]。日本企業のロシア進出は、従来の石油・木材などの資源産業にとどまらず、同市出身のプーチンの意向を受けたともされるトヨタ自動車日産自動車サンクトペテルブルクへの工場進出などもある。一方、2007年にはロシアの証券会社が日本に支店を開設し、日本の資金はロシアの株式市場へ直接投資できるようになった。また、特にモスクワでは「日本ブーム」と呼べる状況が生まれ、村上春樹三島由紀夫吉本ばなななどの作家の作品がロシア語に翻訳されて読まれ、テンプレート:要出典範囲ロシア国民の対日感情は良好な状態で推移している[10]

2009年2月18日サハリンでロシアのメドヴェージェフ大統領と日本の麻生総理大臣が会談し領土問題を「新たな、独創的で、型にはまらないアプローチ」の下、我々の世代で帰属の問題の最終的な解決につながるよう作業を加速[11]。平和条約交渉に新たな方向性が出てきた。四島の帰属が確定しない限り平和条約は締結しない方針に変更はない[12]

またソ連崩壊後にウラジオストク入港許可が出たため、シベリア鉄道全線が乗車出来るようになり、日本の鉄道ファンから人気が出ている。

2010年11月、ロシアのメドヴェージェフ大統領は北方領土を訪問し、工場などを視察した。

脚注

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両国間の紛争事案

関連項目

外部リンク

テンプレート:日本の国際関係
  1. 大槻 玄沢, 志村 弘強 編 『環海異聞』 雄松堂出版 ISBN 4841900985
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 維新前後の日本とロシア 平岡雅英 1934年
  3. 『サハリン島占領日記1853-54』 (テンプレート:仮リンク 、東洋文庫)
  4. 日露年鑑 P.334 日露貿易通信社 1929年
  5. 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B12082554100、在支帝国専管居留地関係雑件/哈爾賓之部(B-3-12-2-32_14)(外務省外交史料館)」 在支帝国専管居留地関係雑件/哈爾賓之部
  6. 6.0 6.1 6.在日本露西亜国民統一会 大正09年08月26日 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B03041012800、在内外協会関係雑件/在内ノ部 第二巻(B-1-3-3-006)(外務省外交史料館)」
  7. 10.浦汐政府対日宣伝開始記事ノ件 自大正九年九月 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B03040651200、新聞雑誌出版物等取締関係雑件 第四巻(B-1-3-1-075)(外務省外交史料館)」
  8. 歯舞群島のロシア支配を認めていない日本側の見解では実効支配境界線となるが、これが事実上の国境として操業条件などが定められている。
  9. ロシアNIS貿易会資料より。日本の輸出額は8213億円、ロシアの輸出額は7744億円で、日本の貿易総額に占める比率は日本の輸出・ロシアの輸出(日本の輸入)ともに1.1%。なお、同時期に日本円が対米ドルで6%の円安となっている点に留意する必要がある。
  10. ロシア人から見た日本 - 連山 連山 2007年11月29日
  11. 外務省: 日露首脳会談(於:サハリン)(概要) 外務省 2009年2月18日付
  12. テンプレート:Cite news