近藤重蔵

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近藤 重蔵(こんどう じゅうぞう、明和8年(1771年) - 文政12年6月16日1829年7月16日))は、江戸時代後期の幕臣探検家

守重(もりしげ)、号は正斎・昇天真人。間宮林蔵平山行蔵と共に“文政の三蔵”と呼ばれる。

生涯

明和8年(1771年)、御先手組与力近藤右膳守知の三男として江戸駒込に生まれる。山本北山儒学を師事。同門に太田錦城小川泰山太田全斎がいる。幼児の頃から神童と言われ、8歳で四書五経を諳んじ、17歳で私塾「白山義学」を開くなど、並々ならぬ学才の持主であった。生涯、60余種1500余巻の著作を残している。

父の隠居後の寛政2年(1790年)に御先手組与力として出仕。火付盗賊改方としても勤務。寛政6年(1794年)には、松平定信の行った湯島聖堂学問吟味において最優秀の成績で合格。寛政7年(1795年)、長崎奉行手付出役、寛政9年(1797年)に江戸へ帰参し支払勘定方関東郡代付出役と栄進。

寛政10年(1798年)、幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱。4度蝦夷地北海道)へ赴き、最上徳内千島列島択捉島を探検、同地に「大日本恵土呂府」の木柱を立てる。松前奉行設置にも貢献。蝦夷地調査、開拓に従事し、貿易商人の高田屋嘉兵衛に国後から択捉間の航路を調査させる。

享和3年(1803年)、譴責により小普請方文化4年(1807年)にロシア人の北方侵入(フヴォストフ事件、文化露寇)に伴い再び松前奉行出役となり五度目の蝦夷入り。その際利尻島や現在の札幌市周辺を探索。江戸に帰国後、将軍家斉に謁見を許される。その際札幌地域の重要性を説き、その後の札幌発展の先鞭を開いた。

文化5年(1808年)に江戸城紅葉山文庫書物奉行となる。しかし自信過剰で豪胆な性格が見咎められ、文政2年(1819年)に大坂勤番御弓奉行に左遷。この時、大塩平八郎と会ったことがあり、重蔵は大塩に「畳の上では死ねない人」という印象を抱き、大塩もまた重蔵を「畳の上では死ねない人」という印象を抱いた。文政4年(1821年)に小普請入差控を命じられて江戸滝ノ川村に閉居。

重蔵は本宅のほかに、三田村鎗ヶ崎(現在の中目黒2-1)に広大な遊地を所有しており、文政2年(1819年)に富士講の信者たちに頼まれて、その地に富士山を模した山(富士塚)を造園した[1][2]。目黒新富士、近藤富士、東富士などと呼ばれて参詣客で賑い、門前には露店も現れた[1]。 文政9年(1826年)に上記の三田の屋敷の管理を任せていた長男の近藤富蔵が、屋敷の敷地争いから町民7名を殺害して八丈島流罪となり、父の重蔵も連座して近江国大溝藩に預けられる。

文政12年6月16日(1829年7月16日)死去。享年59。死後の万延元年(1860年)に赦免された。

脚注

  1. 1.0 1.1 歴史を訪ねて 富士講 目黒区役所公式サイト
  2. 『芸苑一夕話』市島春城著 (早稲田大学出版部, 1922)

墓所

西善寺(東京都指定旧跡、東京都文京区)と円光禅寺塔頭瑞雪院滋賀県高島市勝野。墓所は高島市指定史跡[1])の2ヵ所。

著作物

  • 『清俗紀聞』
  • 『安南紀略』
  • 『外藩通書』

など。

建築物

関連書物

小説

漫画

脚注

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関連項目

外部リンク

  • 近藤重蔵 -『芸苑一夕話』市島春城著 (早稲田大学出版部, 1922)
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