近衛文麿

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テンプレート:政治家 近衞 文麿(このえ ふみまろ、1891年明治24年)10月12日 - 1945年昭和20年)12月16日)は、日本政治家勲等勲一等爵位公爵

貴族院議員貴族院副議長(第10代)、貴族院議長(第9代)、内閣総理大臣(第343839代)、外務大臣(第57代)、拓務大臣(第13代)、班列農林大臣(臨時代理)、司法大臣(第43代)、国務大臣などを歴任した。

五摂家近衞家の第30代目当主。後陽成天皇の12世孫にあたる。父である近衞篤麿は、第7代学習院院長や第3代貴族院議長など活躍していたが、文麿が成人する前に病没した。父の没後、近衞家を継承し公爵を襲爵、のちに貴族院議員となる。当初は研究会に所属するが火曜会を結成し、貴族院副議長、貴族院議長などの要職を歴任した。

3度にわたり内閣総理大臣に指名され、第1次近衞内閣第2次近衞内閣第3次近衞内閣を率いた。その際に、外務大臣、拓務大臣、農林大臣、司法大臣などを一時兼務した。また、平沼内閣では、班列として入閣した。第1次近衞内閣では、盧溝橋事件に端を発した日中戦争が発生し、北支派兵声明、近衛声明東亜新秩序などで対応、戦時体制に向けた国家総動員法の施行などを行った。また、新体制運動を唱え大日本党の結党を試みるものの、この新党問題が拡大し総辞職した。その後も国内の新体制の確立を目指して第2次・第3次近衞内閣では大政翼賛会を設立、外交政策では八紘一宇大東亜共栄圏建設を掲げ、日独伊三国軍事同盟日ソ中立条約を締結した。そのほかでは、枢密院議長日本放送協会第2代総裁なども務めた。

太平洋戦争中、昭和天皇に対して「近衛上奏文」を上奏するなど、戦争の早期終結を唱えた。また、戦争末期には、独自の終戦工作も展開していた。太平洋戦争終結後、東久邇宮内閣にて国務大臣として入閣した。大日本帝国憲法改正に意欲を見せたものの、A級戦犯に指定され服毒自殺した。

指揮者作曲家で貴族院議員を務めた近衞秀麿異母弟大山柏義弟徳川家正従弟にあたる。また、第45・46代熊本県知事や第79代内閣総理大臣を務めた細川護煕と、日本赤十字社社長国際赤十字赤新月社連盟会長を務める近衞忠煇島津家第32代当主島津修久にあたる。

生涯

生い立ち

1891年明治24年)10月12日公爵近衛篤麿と旧加賀藩主侯爵前田慶寧の三女・衍子の間の長男として、東京市麹町区(現:千代田区)で生まれた。その名は、長命であった曽祖父の忠煕による命名で、読みは「あやまろ」では語呂が悪いので「ふみまろ」とされた。文麿は皇別摂家の生まれであり、父系をさかのぼると皇室に、また母系をさかのぼれば徳川宗家に行き着く。しかし母の衍子は文麿が幼いときに病没、父の篤麿は衍子の妹・貞を後妻に迎えるが、文麿はこの叔母にあたる継母とはうまくいかなかった。貞が「文麿がいなければ私の産んだ息子の誰かが近衛家の後継者となれた」と公言していたのが理由とされる。一方の文麿は貞を長年実母と思っており、成人して事実を知った後の衝撃は大きく、以後「この世のことはすべて嘘だと思うようになった」[1]。このことが文麿の性格形成に与えた影響は大きかった。

父の篤麿はアジア主義を唱え、東亜同文会を興すなど活発な政治活動を行っていた。ところが、1904年(明治37年)に、篤麿は41歳の若さで死去した。文麿は12歳にして襲爵し近衛家の当主となるが、父が残した多額の借金をも相続することになった。近衞の、どことなく陰がある反抗的な気質はこのころに形成された、と後に本人が述懐している。

泰明尋常小学校を経て学習院中等科で学んだ。一学年上には後に「宮中革新派」となる木戸幸一原田熊雄などがいる。当時華族の子弟は学習院高等科に進学するのが通例だったが、近衛は旧制一高の校長であった新渡戸稲造に感化され一高に進学した。続いて哲学者になろうと思い東京帝国大学哲学科に進んだが飽き足らず、マルクス経済学の造詣が深い経済学者の河上肇や被差別部落出身の社会学者米田庄太郎に学ぶため、京都帝国大学法科大学に転学した[2]

河上との交流は1年間に及び、彼の自宅を頻繁に訪ね、社会主義思想の要点を学び、深く共鳴している。これがのちに政権担当時の配給制などに結びつく。スパルゴーの『カール・マルクスの生涯』とトリノ大学教授ロリア教授の『コンテンポラリー・ソーシャル・プロブレムズ』の2著をもらっている[3]

京都では木戸、原田、織田信恒赤松小寅などと友人になった。大卒者の初任給が50円程度であった当時に毎月150円の仕送りを受け取っていた。下鴨で一年間を過ごしたのち、毛利高範の娘千代子と結婚し宗忠神社近くの呉服店別荘を借り移り住んだ。首相を辞職した西園寺公望が大正2年(1913年)に京都に移ると、清風荘を訪問し西園寺に面会した。近衛家と西園寺家は共に堂上家であるが縁が薄く、2人が顔を合わせたのはこれが初めてであった。60歳を越す元老の西園寺は学生の近衛を「閣下」と持ち上げ、近衛は馬鹿にされているのかと気を悪くしている[4]

在学中の1914年大正3年)には、オスカー・ワイルドの『社会主義下における人間の魂』を翻訳し、「社会主義論」との表題で第三次『新思潮』大正三年五月号、六月号に発表したが、『新思潮』五月号は発売頒布禁止処分となった。近衞の翻訳文が原因であるとするのが通説となっているが、異論も存在する[5]

政界へ

1916年大正5年)10月11日、満25歳に達したことにより公爵として世襲である貴族院議員になる[6]1918年(大正7年)に、雑誌『日本及日本人』で論文「英米本位の平和主義を排す」を発表した。1919年(大正8年)のパリ講和会議では全権西園寺公望に随行し見聞を広めた。

その後、1927年昭和2年)には旧態依然とした所属会派の研究会から離脱して木戸幸一、徳川家達らとともに火曜会を結成して貴族院内に政治的な地盤を作り、次第に西園寺から離れて院内革新勢力の中心人物となっていった。

また五摂家筆頭という血筋や、貴公子然とした長身で端正な風貌に加えて、対英米協調外交に反対する現状打破主義的主張で、大衆的な人気も獲得し、早くから将来の首相候補に擬せられた。1933年(昭和8年)貴族院議長に就任。

1933年(昭和8年)には近衛を中心とした政策研究団体として後藤隆之助らにより昭和研究会が創設された。この研究会には暉峻義等三木清平貞蔵笠信太郎東畑精一矢部貞治、また企画院事件で逮捕される稲葉秀三、勝間田清一正木千冬和田耕作らが参加している。後にゾルゲ事件において絞首刑に処せられる尾崎秀実もメンバーの一人であった。

1934年(昭和9年)5月に横浜を発ってアメリカを訪問し、フランクリン・ルーズベルト大統領とコーデル・ハル国務長官に会見した。帰国後記者会見の席上で、「ルーズベルトとハルは、極東についてまったく無知だ」と語っている。

1936年(昭和11年)3月4日、宮内省で西園寺公望[7]と会談した際、二・二六事件後に辞職した岡田啓介の後継として西園寺から推薦され大命降下もあったが、表向きは健康問題を理由に辞退した。真因は、近衞が親近感をもっていた皇道派陸軍内において粛清されることに不安と不満があったからであるテンプレート:Sfn一木喜徳郎広田弘毅を推薦すると西園寺はすぐに賛成し、近衛を介して吉田茂に広田の説得を任せ、3月5日に広田に組閣の大命が下ったが、吉田ら自由主義者を外務大臣にする広田の組閣案に対して寺内寿一大将などの陸軍首脳部の干渉があり、粛軍と引き替えに大幅に軍に譲歩した形で3月9日に広田内閣が成立したテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn

第一次内閣

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日独伊三国防共協定締結を宣伝する絵葉書「仲よし三國」(1938年)。上段の丸枠の写真はドイツ総統アドルフ・ヒトラー(左)、近衞(中央)、イタリア首相ベニート・ムッソリーニ(右)

1937年(昭和12年)

対中国政策が行き詰まった広田内閣は、1937年(昭和12年)1月の腹切り問答を機に総辞職した。宇垣一成内閣は陸軍の反対で組閣流産し、首相となった林銑十郎も5月31日に在職わずか3ヶ月で辞任した。

元老・西園寺公望の推薦により近衛は再び大命降下を受け、6月4日第1次近衛内閣を組織した。首相就任時の年齢は45歳7ヶ月で、初代首相伊藤博文に次ぐ史上2番目の若さである。陸海相には杉山元米内光政留任し、外相は広田弘毅、さらに民政党政友会からも大臣を迎えた。昭和研究会からは有馬頼寧が農相に、風見章内閣書記官長に加わった。陸海軍からの受けも悪くなく、財界、政界からは支持を受け、国民の間の期待度は非常に高かった。

就任直後には、「国内各論の融和を図る」ことを大義名分として、治安維持法違反の共産党員や二・二六事件の逮捕・服役者を大赦しようと主張して、周囲を驚愕させた。この大赦論は、荒木貞夫が陸相時代に提唱していたもので、かれ独特の国体論に基づくものであったが、二・二六事件以降は皇道派将校の救済の意味も持つようになり、真崎甚三郎の救済にも熱心だった近衞は、首相就任前からこれに共感を示していた。しかし、西園寺公望は、荒木が唱えだした頃からこの論には反対であり、結局、大赦はならなかった。

7月7日盧溝橋事件をきっかけに日中戦争(支那事変)が勃発した。7月9日に不拡大方針を閣議で確認した。杉山陸相は支那駐屯軍司令官香月清司に対し「盧溝橋事件ニ就テハ、極力不拡大方針ノ下ニ現地解決ヲ計ラレタシ」との命令を与え、今井武夫らの奔走により7月11日に現地の松井太久郎大佐(北平特務機関長)と秦徳純(第二十九軍副軍長)との間で停戦協定が締結された。しかし近衛は蒋介石が4個師団を新たに派遣しているとの報を受け、同11日午後に総理官邸に東京朝日新聞主幹や読売新聞編集局長ら報道陣の代表と、立憲民政党総裁、貴族院議長、日銀総裁ら政財界の代表者らを招き、内地三個師団を派兵する「北支派兵声明」を発表する。派兵決定とその公表は進行中の現地における停戦努力を無視する行動であり、その後の現地交渉を困難なものとした。秦郁彦は、「近衛内閣が自発的に展開したパフォーマンスは、国民の戦争熱を煽る華々しい宣伝攻勢と見られてもしかたのないものであった」としている[8]

その後の特別議会で近衛は「事件不拡大」を唱え続けた。しかし7月17日には1,000万円余の予備費支出を閣議決定。7月26日には、陸軍が要求していないにもかかわらず、9,700万円余の第一次北支事変費予算案を閣議決定し、7月31日には4億円超の第二次北支事変費予算を追加するなど、不拡大とは反対の方向に指導した。陸軍参謀本部の石原莞爾作戦部長は風見章書記官長を通じて、日中首脳会談を近衛に提案したが、広田弘毅外相が熱意を示さず、最後のところで決断できなかった。この状況を憂慮した石原少将は7月18日に杉山陸相に意見具申し、「このまま日中戦争に突入すれば、その結果はあたかもスペイン戦争でのナポレオン同様、底無し沼にはまることになる。この際、思いきって北支にある日本軍全体を一挙に山海関の満支国境まで引き下げる。近衛首相が自ら南京に飛び蒋介石と膝詰めで談判する」という提案をした。同席した梅津美治郎陸軍次官は、「そうしたいが、近衛首相の自信は確かめてあるのか」と聞き、杉山元も「近衛首相にはその気迫はあるまい」と述べた。実際、風見書記官長によれば、近衛は陸軍が和平で一本化するかどうか自信がなく、せっかくの首脳会談構想を断念したと言われている。当初近衛は首脳会談に大変乗り気になり、南京行きを決意して飛行機まで手配したが、直前になり心変わりし蒋介石との首脳会談を取り消した。石原は激怒し「二千年にも及ぶ皇恩を辱うして、この危機に優柔不断では、日本を滅ぼす者は近衛である」と叫んだ。

8月2日には増税案を発表。この間に宋子文を通じて和平工作を行い、近衞と蒋介石との間で合意が成立した。国民政府側から特使を南京に送って欲しいとの電報が届くと、近衞は杉山元陸相に確認を取り、宮崎龍介を特使として上海に派遣することを決定した。ところが海軍を通じてこの電報を傍受した陸軍内の強硬派がこれを好感せず、憲兵を動かして宮崎を神戸港で拘束し東京へ送還してしまう。このため折角の和平工作は立ち消えとなってしまった。

この件に関して杉山は関係者を一切処分しなかったばかりか、事情聴取すら行わず、結果的に事後了解を与えた形になっていた。杉山本人も当初は明解な釈明が能わない有様で、以後近衞は杉山に強い不信感を抱くようになる。

8月8日には日支間の防共協定を目的とする要綱を取り決めた。8月9日上海で大山事件が発生し日中両軍による戦闘が開始された。8月13日に、近衛は二個師団追加派遣を閣議決定。8月15日に海軍は南京に対する渡洋爆撃を実行し、同時に、近衛は「今や断乎たる措置をとる」との断固膺徴声明を発表。8月17日には不拡大方針を放棄すると閣議決定した。

第2次上海事変が全面戦争へと発展したことを受け、9月2日に「北支事変」を「支那事変」と変更する閣議が決定された。9月10日には、臨時軍事費特別会計法が公布され、不拡大派の石原莞爾参謀本部作戦部長が失脚した。

また、国内では、10月に国民精神総動員中央連盟を設立、内閣資源局企画庁が合体した企画院を誕生させ、計画経済体制の確立に向けて動き出した。11月には、1936年に日本とドイツの間で締結された日独防共協定イタリアを加えた日独伊防共協定を締結。その後に大本営を設置する。12月5日付の夕刊では、国民の一致団結を謳った「全国民に告ぐ」という宣言文を出させている。これは、近衛の意を受けて秋山定輔がまとめたもので、資金は風見章書記官長が出している。こうして、近衛は日本の全体主義体制確立へと突き進む。そんな中、12月13日南京攻略により、日中戦争は第1段階を終える。

1938年(昭和13年)

1938年(昭和13年)1月11日には、御前会議陸軍参謀本部の主導により「支那事変処理根本方針」が決定された。これはドイツの仲介による講和(トラウトマン工作)を求める方針だった。しかし、近衛は1月14日に和平交渉の打切りを閣議決定し、1月16日に「爾後國民政府ヲ對手トセズ」の声明(第一次近衛声明)を国内外に発表し、講和の機会を閉ざした。5月には現地日本軍が徐州を占領しており、7月には尾崎秀実・松本重治犬養健西園寺公一影佐禎昭らの工作により、中国国民党左派の有力者である汪兆銘に接近して、国民党から和平派を切り崩す工作を開始し、石原莞爾らの独自和平工作を完全に阻止した。その後、日本軍は広東と武漢三鎮を占領している。

この間、国内では2月17日には防共護国団の約600名が立憲民政党立憲政友会の本部を襲撃しているが、これに先立ち中溝多摩吉は政党本部襲撃計画案を近衛に見せ、近衛はこれに若干の修正を加えている。さらに近衛は、支那事変のためとして、4月に国家総動員法や電力国家管理法を公布、5月5日に施行し、経済の戦時体制を導入、日本の国家社会主義化が開始された。なお、国家総動員法や電力国家管理法は、ソ連第一次五カ年計画の模倣である。ちなみに3年後の1941年(昭和16年)に制定された国民学校令は、ナチス率いる当時のドイツのフォルクスシューレを模倣した教育制度である。また戦争継続の戦費調達のために大量の赤字国債である「支那事変公債」が発行され、国債の強制割当が行われた。

この頃に近衞は、閑院宮陸軍参謀総長らに根回しをすることで杉山の更迭を成功させた。後任には小畑敏四郎を考えたが、摩擦が生じることを懸念。そこで不拡大派の支持があった板垣征四郎を迎えることを決意し、山東省の最前線にいた板垣への使者として民間人の古野伊之助を派遣している。この時期の内閣改造で主に入閣したのは、陸軍の非主流派や不拡大派の石原莞爾らが、以前閣僚への起用を考えていた人々であった。この人事により軍部を抑える考えがあったものとされるが、板垣は結局「傀儡」となり失敗した。近衞は広田弘毅に代えて宇垣一成を外相に迎えたものの、宇垣の和平工作を十分に助けようとしなかった。宇垣はこれに不満を覚え、また近衞が興亜院を設置しようとしたこともあり、9月に辞任した。

8月には、麻生久を書記長とする社会大衆党を中心として、「大日本党」の結成を目指したが、時期尚早とみて中止した。これは、大政翼賛会へと至る独裁政党への第一歩である。

11月3日に「東亜新秩序」声明(第二次近衛声明)を発表。12月22日には日本からの和平工作に応じた汪兆銘の重慶脱出を受けて、対中国和平における3つの方針(善隣友好、共同防共、経済提携)を示した第三次近衛声明(近衛三原則)を発表した。しかし、汪に呼応する中国の有力政治家はなく、重慶の国民党本部は汪の和平要請を拒否、逆に汪の職務と党籍を剥奪し、近衛の狙った中国和平派による早期停戦は阻まれることになった。

1939年(昭和14年)1月5日内閣総辞職する。

新体制の模索

近衞の後を承けたのは前枢密院議長平沼騏一郎だったが、平沼内閣には近衛内閣から司法相兼逓相・文相・内相・外相・商工相兼拓務相・海相・陸相の七閣僚が留任したうえ、枢密院に転じた近衞自身も班列としてこれに名を連ねた[9]

しかし同時に、末次信正有馬頼寧・風見章らのような近衛内閣の熱烈な制度改革論者は、平沼の閣僚名簿からは除かれていた。8月23日に独ソ不可侵条約が締結されると、1937年に締結した日独伊防共協定をさらに進めた防共を目的としたドイツとの同盟を模索していた平沼は衝撃を受け、「欧州の天地は複雑怪奇」という声明を残して内閣総辞職した。その一週間後にはドイツがポーランドに侵攻、これを受けてイギリスフランスがドイツに宣戦布告したことで第二次世界大戦が始まる。平沼の後は陸軍出身の阿部信行と海軍出身の米内光政がそれぞれ短期間政権を担当した。

この間の近衞は新党構想の肉付けに専念した。1940年(昭和15年)3月25日には聖戦貫徹議員連盟が結成され、5月26日には近衛が木戸幸一や有馬頼寧と共に、「新党樹立に関する覚書」を作成した。再度、ソ連共産党ナチス党をモデルにした独裁政党の結成を目指した。6月24日に「新体制声明」を発表している。これに応じて、7月に日本革新党・社会大衆党・政友会久原派、ついで政友会鳩山派・民政党永井派、8月に民政党が解散する。

欧州でドイツが破竹の進撃を続けるなか、国内でも「バスに乗り遅れるな」という機運が高まっていた。これを憂慮した昭和天皇内大臣湯浅倉平が「海軍の良識派」として知られる米内を特に推して組閣させたという経緯があったのだが、陸軍がそれを好感する道理がなかった。半年も経たない頃から、陸軍は政府に日独伊三国同盟の締結を執拗に要求。米内がこれを拒否すると、陸軍は陸軍大臣の畑俊六を辞任させて後任を出さず、内閣は総辞職した。かわって大命が降下したのは、近衞だった。この際、「最後の元老」であった西園寺公望は近衞を首班として推薦することを断っている。

新党構想などの準備を着々と整え、満を持しての再登板に臨むことになった近衞は、閣僚名簿奉呈直前の7月19日、荻窪の私邸・荻外荘でいわゆる「荻窪会談」を行い、入閣することになっていた松岡洋右(外相)、吉田善吾(海相)、東條英機(陸相)と「東亜新秩序」の建設邁進で合意している。

第二次内閣

1940年(昭和15年)7月22日に、第2次近衛内閣を組織した。7月26日に「基本国策要綱」を閣議決定し、「皇道の大精神に則りまづ日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立をはかる」(松岡外相の談話)構想を発表。新体制運動を展開し、全政党を自主的に解散させ、8月15日の民政党の解散をもって、日本に政党が存在しなくなり、「大正デモクラシー」などを経て日本に根付くと思われていた議会制政治は死を迎えた。

しかし、一党独裁は日本の国体に相容れないとする「幕府批判論」もあって、会は政治運動の中核体という曖昧な地位に留まり、独裁政党の結成には至らず、10月12日に大政翼賛会の発足式で「綱領も宣言も不要」と新体制運動を投げ出した。

また、新体制運動の核の一つであった経済新体制確立要綱が財界から反発を受け、小林一三商工相は経済新体制要綱の推進者である岸信介次官と対立、小林は岸を「アカ」と批判した。近衞は革新官僚を「国体の衣を着けたる共産主義者」として敵視し、12月の平沼騏一郎の入閣で、経済新体制確立要綱を骨抜きにさせて決着を図り、平沼らは更に経済新体制確立要綱の原案作成者たちを共産主義者として逮捕させ、岸信介も辞職した。この間、新体制推進派は閣僚を辞職し、平沼は大政翼賛会を公事結社と規定し、大政翼賛会の新体制推進派を辞職させた。

9月23日に北部仏印進駐9月27日日独伊三国軍事同盟を締結。第二次世界大戦における枢軸国の原型となった。

1941年(昭和16年)4月13日日ソ中立条約を締結。近衞らは日米諒解案による交渉を目指すも、この内容が三国同盟を骨抜きにする点に松岡洋右は反発し、松岡による修正案がアメリカに送られたが、アメリカは修正案を黙殺した。

6月22日独ソ戦が勃発、ドイツ、イタリアと三国同盟を結んでいた日本は、独ソ戦争にどう対応するか、御前会議にかける新たな国策が直ちに求められた。陸軍は独ソ戦争を、仮想敵国ソビエトに対し軍事行動をとる千載一遇のチャンスととらえた。一方海軍も、この機に資源が豊富な南方へ進出しようと考えた。大本営政府連絡会議では松岡外相は三国同盟に基づいてソ連への挟撃を訴えた。

7月2日の御前会議で「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定された。この国策の骨格は海軍が主張した南方進出と、松岡外相と陸軍が主張した対ソ戦の準備という二正面での作戦展開にあった。この決定を受けてソビエトに対しては7月7日いわゆる関東軍特種演習を発動し、演習名目で兵力を動員し、独ソ戦争の推移次第ではソビエトに攻め込むという作戦であった。一方南方に対して南部仏印への進駐を決定した。

7月18日に内閣総辞職した。足枷でしかなかった松岡洋右を更迭するためであった(大日本帝国憲法では首相が他の閣僚を罷免する権限が無いため)。

第三次内閣

1941年(昭和16年)7月18日に、第3次近衛内閣を組織。外相には、南進論の豊田貞次郎海軍大将を任命した。7月23日にすでにドイツに降伏していたフランスヴィシー政権からインドシナの権益を移管され、それを受けて7月28日に南部仏印進駐を実行し、7月30日サイゴンへ入城。しかしこれに対するアメリカの対日石油全面輸出禁止等の制裁強化により日本は窮地に立たされることとなった。

9月6日の御前会議では、「帝国国策遂行要領」を決定。イギリス、アメリカに対する最低限の要求内容を定め、交渉期限を10月上旬に区切り、この時までに要求が受け入れられない場合、アジアに植民地を持つイギリス、アメリカ、オランダに対する開戦方針が定められた。

御前会議の終わった9月6日の夜、近衞はようやく日米首脳会談による解決を決意し駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘のうちに会談し、危機打開のため日米首脳会談の早期実現を強く訴えた。事態を重く見たグルーは、その夜、直ちに首脳会談の早期実現を要請する電報を本国に打ち、国務省では日米首脳会談の検討が直ちに始まった。しかし、国務省では妥協ではなく力によって日本を封じ込めるべきだと考え、10月2日、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。

陸軍はアメリカの回答をもって日米交渉も事実上終わりと判断し、参謀本部(陸軍管轄)は政府に対し、外交期限を10月15日とするよう要求した。外交期限の迫った10月12日、戦争の決断を迫られた近衞は豊田貞次郎外相、及川古志郎海相、東條英機陸相、鈴木貞一企画院総裁を荻外荘に呼び、対米戦争への対応を協議した。いわゆる「荻外荘会談」である。そこで近衞は「今、どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ない。(すなわち)戦争に私は自信はない。自信ある人にやってもらわねばならん」と述べ、10月16日に政権を投げ出し、10月18日に内閣総辞職した。近衛と東條は、東久邇宮稔彦王を次期首相に推すことで一致した、しかし、東久邇宮内閣案は皇族に累が及ぶことを懸念する木戸幸一内大臣らの運動で実現せず、東條が次期首相となった。近衞は東條首相を推薦した重臣会議を欠席しているが、当時91歳の清浦奎吾が出席していたのと対比されて後世の近衛批判の一因となった。

終戦工作

1941年(昭和16年)12月8日太平洋戦争大東亜戦争)開始後は、共に軍部から危険視されていた元外務次官・駐英大使の吉田茂と接近するようになる。1942年(昭和17年)のイギリス領シンガポール占領ミッドウェー海戦の大敗を好期と見た吉田は、近衞を中立国のスイスに派遣し、英米との交渉を行うことを持ちかけ、近衞も乗り気になったため、この案を木戸幸一に伝えるが、木戸が握り潰してしまった。近衞に注意すべきとの東條の意向に従ったものとされる。

戦局が不利になりはじめた1943年(昭和18年)、近衛が和平運動に傾いていることを察した東條は、腹心の佐藤賢了陸軍軍務局長を通じて「最近、公爵はよからぬことにかかわっているようですが、御身の安全のために、そのようなことはおやめになったほうがよろしい」と脅しをかけた。このことがそれまで優柔不断で弱気だった近衛を激怒豹変させた。以後、近衛は和平運動グループの中心人物になる。近衛は吉田茂らの民間人グループ、岡田啓介らの重臣グループの両方の和平運動グループをまとめる役割を果たし、また陸軍内で反主流派に転落していた皇道派とも反東條で一致し提携するなど、積極的な行動を展開した [10]

1944年(昭和19年)7月9日のサイパン島陥落に伴い、東條内閣に対する退陣要求が強まったが、近衞は「このまま東條に政権を担当させておくほうが良い。戦局は、誰に代わっても好転することはないのだから、最後まで全責任を負わせるようにしたらよい」と述べ、敗戦を見越したうえで、天皇に戦争責任が及びにくくするように考えていた。

1945年に京都の近衛家陽明文庫において岡田啓介、米内光政仁和寺門跡岡本慈航と会談し、敗戦後の天皇退位の可能性が話し合われた。もし退位が避けがたい場合は、天皇を落飾させ仁和寺門跡とする計画が定められた[10]

戦局がさらに厳しさを増し、天皇が重臣たちから意見を聴取する機会を設けられることになった。平沼騏一郎広田弘毅、近衛、若槻礼次郎牧野伸顕、岡田啓介、東條英機の7人が2月に天皇に拝謁してそれぞれ意見を上奏した。近衛は1945年(昭和20年)2月14日に、昭和天皇に対して「近衛上奏文」を奏上した。近衛が天皇に拝謁したのは3年4ヶ月前の内閣総辞職後初めてであった。この上奏文は、国体護持のための早期和平を主張するとともに和平推進を天皇に対し徹底して説いている。また陸軍は主流派である統制派を中心に共産主義革命を目指しており、日本の戦争突入や戦局悪化は、ソビエトなど国際共産主義勢力と結託した陸軍による、日本共産化の陰謀であるとする反共主義に基づく陰謀論も主張している。近衛上奏文の作文には吉田茂と殖田俊吉が関与しており、両者はこの近衛上奏からまもなくして、陸軍憲兵隊に逮捕拘束された。昭和天皇は和平推進については理解を示したが、陸軍内部の粛清に関しては「もう一度戦果を挙げてから出ないとなかなか話はむずかしいと思う」と述べ却下している[10]。近衛の主張した陸軍の粛清人事とは、真崎甚三郎、山下奉文、小畑敏四郎ら皇道派を陸軍の要職に就け、継戦を強く主張している陸軍主流派を排除する計画であるが、皇道派を嫌悪していた天皇には到底受け入れがたいものであった。

1945年6月22日、昭和天皇は内大臣の木戸幸一などから提案のあった「ソ連を仲介とした和平交渉」をおこなうことを政府に認め、7月7日に「思い切って特使を派遣した方がよいのではないか」と鈴木貫太郎首相に述べた。これを受けて、東郷茂徳外相は近衛に特使就任を依頼し、7月12日に正式に近衛は天皇から特使に任命された。この際、近衛は「ご命令とあれば身命を賭していたします」と返答した。しかし、近衛自身は和平の仲介はイギリスが最適だと考えていたとされ、側近だった細川護貞は「近衛さんは嫌がっていましたね。まあしかし、これはしようがないんだ。陛下がいわれたんだから、まあモスクワへ行くといったのだけどもと言って、すこぶる嫌がっていましたね」と戦後に述べている[11]。だが近衞のモスクワ派遣は、2月に行われたヤルタ会談で対日参戦を決めていたスターリンに事実上拒否された。近衞が和平派の陸軍中将酒井鎬次の草案をベースに作成した交渉案では、国体護持のみを最低の条件とし、全ての海外の領土と琉球諸島小笠原諸島北千島を放棄、「やむを得なければ」海外の軍隊の若干を当分現地に残留させることに同意し、また賠償として労働力を提供することに同意することになっていた[12]。ソ連との仲介による交渉成立が失敗した場合にはただちに米英との直接交渉を開始する方針であった[12]

終戦後

1945年(昭和20年)8月15日に第二次世界大戦の停戦が発効し(終結は9月2日)、鈴木貫太郎首相は辞職して東久邇稔彦が後任の内閣総理大臣となった。近衞は東久邇宮内閣に副総理格の無任所国務大臣として入閣し、緒方竹虎とともに組閣作業にあたった。イギリスやアメリカを中心とした連合国による日本占領が開始された後の10月4日、近衞は連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーを訪問し、持論の軍部右翼赤化論と共に開戦時において天皇を中心とした封建勢力や財閥がブレーキの役割を果たしていたと主張し、ドイツのような社会民主主義者や自由党が育たない間に皇室と財閥を除けば日本はたちまち共産化すると説いた。これに対しマッカーサーは「有益かつ参考になった」と頷いた。さらに近衞が「政府組織および議会の構成につき、御意見なり、御指示があれば承りたい」と尋ねると、マッカーサーは自由主義的な憲法改正の必要性と自由主義的分子の糾合を指示し、近衛を世界に通暁するコスモポリタンと称賛して「敢然として指導の陣頭に立たれよ」と激励した。

その後治安維持法の廃止を巡って10月5日に東久邇宮内閣が総辞職したことにより近衞は私人となった。

近衞は10月8日にジョージ・アチソンGHQ政治顧問を訪問し、マッカーサーから言われた帝国憲法改正について意見を求めたところ、アチソンは十項目にわたる改憲原則を示した。これを受け近衞は天皇から内大臣府御用掛に任じられ、東大の高木八尺と京大の佐々木惣一の助言を受けながら熱心に帝国憲法改正作業を進めた[13]

10月23日の朝日新聞は、天皇退位の条項をつけ加えるため皇室典範の改正が近く行われるだろうとの近衛の話を伝えた。幣原喜重郎首相はこれに抗議し、翌24日に近衛は軌道修正する会見をおこなっている[10]

近衛は憲法改正作業をマッカーサーから委嘱されたことにより、新時代の政治的地位を得ることができたと考えていた。また池田成彬に対して「あなたは戦犯になるおそれがある」と語るなど、戦犯裁判にかけられるとはみていなかった[10]。しかし国内外の新聞では徐々に支那事変、三国同盟、大東亜戦争に関する近衞の戦争責任問題が追及され始める。10月26日の「ニューヨーク・タイムズ」では、「近衞が憲法改正に携わることは不適当である」として「近衞が戦争犯罪人として取り扱われても誰も驚かない」と論じた。

白洲次郎たちは近衞がマッカーサーに憲法改定を託されたことを宣伝して回り、近衞を助けようと試みたが、11月1日にGHQは憲法改正について「東久邇宮内閣の副首相としての近衞に依嘱したことであり、内閣総辞職によって当然解消したもの」と表明し、総司令部は関知しないという趣旨の声明を発表した。憲法改正をマッカーサーから依嘱されたものと信じていた近衞にとっては大きな打撃であった[14]。マッカーサーとの会見が行われたのは確かに近衞が東久邇宮内閣で副首相の職にあった時だが、憲法改正に関する詳細な打ち合わせを当局者と行った時点で近衞は既に東久邇宮内閣の総辞職によって私人となっており、声明はGHQが近衞の切捨てを図ったものであった。こののちGHQによる近衞の戦争責任追及が開始された。近衛は11月9日に東京湾上に停泊中の砲艦アンコン号に呼び出され、軍部と政府の関係について米国戦略爆撃調査団による尋問が行われた。尋問はかなり厳しいものだったようで、尋問を終えた近衛は「尋問はそれはひどいものでしたよ。いよいよ私も戦犯で引っ張られますね」との予測を述べている。G2の対敵情報部調査分析課長のエドガートン・ハーバート・ノーマンは、大政翼賛会の設立などファッショ化に近衛が関与したと指摘するレポートを11月5日にアチソンに提出した。

近衞は兼ねて1921年(大正10年)の演説で、統帥権によって将来軍部と政府が二元化しかねない危険性を説き、後にそれが現実となった形だった。しかし当時連合国軍総司令部の中心となっていたアメリカ側にはこのような状況は理解し難い内容であった。

近衞は『世界文化』に、「手記~平和への努力」を発表し、「支那事変の泥沼化と大東亜戦争の開戦の責任はいずれも軍部にあり、天皇も内閣もお飾りに過ぎなかった」と主張した。あわせて自身が軍部の独走を阻止できなかったことは遺憾である、と釈明した。

しかし近衞の戦争責任に対する態度は、近衞自身の責任をも全て軍部に転嫁するものであるとして当時から今日に至るまで、厳しく批判されている。親交のあった重光葵からも「戦争責任容疑者の態度はいずれも醜悪である。近衞公の如きは格別であるが…」と厳しく批判された。

また福田和也は、伊藤博文から小泉純一郎までの明治・大正・昭和・平成の総理大臣を点数方式で論じた著書の中で、そのあまりの無責任さがゆえに近衛に歴代総理の中での最低の評価点を与えている[15]

1945年(昭和20年)12月6日に、GHQからの逮捕命令が伝えられ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることが最終的に決定した。巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の1945年(昭和20年)12月16日未明に、荻外荘で青酸カリを服毒して自殺した。54歳2ヶ月での死去は、2024年現在、日本の総理大臣経験者では、もっとも若い没年齢である。また総理大臣経験者として、死因が自殺である人物は近衞が唯一でもある[16]

自殺の前日に近衛は次男の近衛通隆に遺書を口述筆記させ、「自分は政治上多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない…僕の志は知る人ぞ知る」と書き残した。この遺書は翌日にGHQにより没収された。

葬儀は1945年(昭和20年)12月21日に行なわれた。京都市北区大徳寺に「近衛家廟所」が在り、文麿の墓所はその地に在る。

朝日新聞において12月20日から『近衛公手記』が11回に渡り掲載された。開戦前の日米交渉に自身が果たした役割が語られている。これを読んだ昭和天皇は「近衞は自分にだけ都合の良いことを言っているね」と呆れ気味に語っている[17]

荻外荘

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1937年(昭和12年)2月6日、組閣の大命を拝命後、荻外荘に詰めかけた記者団の質問に答える近衛(当時貴族院議長)。「近衛人気」を反映して近衛への取材攻勢は並みのものではなかった。

杉並区荻窪の「荻外荘」(てきがいそう)は、元は大正天皇の侍医頭だった入澤達吉が所有していた郊外の別荘だった。近衛は、南に斜面をもった高台に立地し、近くは善福寺川から遠くは富士山までの景勝を一望のもとに見渡せるこの別荘に惚れ込み、入澤を口説き落としてこれを購入している。

名称の「荻外荘」は額面通りの「荻窪の外」で、特に故事成句に因むような深遠な意味はないといわれる。しかし近衛に頼まれてこれを撰名したのは有職故実の奥義に通じた西園寺公望なので、実のところはわからない。

近衛家には目白(現在の新宿区下落合)に本邸があり、荻外荘は別邸なのだが、近衛はこの荻外荘が殊の外気に入って、一度ここに住み始めると本邸の方へは二度と戻らなかった[18]

郊外にあるものの、青梅街道に程近い上に国鉄中央本線の駅にも近いという便利な立地にある上、官邸の喧噪とはうってかわって静寂な荻外荘のたたずまいを、近衛は政治の場としても活用した。「東亜新秩序」の建設を確認した1940年(昭和15年)7月19日の「荻窪会談」や、対米戦争の是非とその対応についてを協議した1941年(昭和16年)10月15日の「荻外荘会談」などの特別な協議はもとより、時には定例会合の五相会議までをも荻外荘で開いており、大戦前夜の重要な国策の多くがここで決定されている。1941年(昭和16年)9月末に近衛から対米戦に対する海軍の見通しを訊かれた連合艦隊司令長官山本五十六が、「是非やれと言われれば初めの半年や1年は随分と暴れてご覧に入れます。しかし、2年、3年となれば、全く確信は持てません」という有名な回答で近衛を悩ませたのも、この荻外荘においてであった。

こうした変則的な政治手法から「荻外荘」の三文字が新聞の紙面に踊る日は多く、この私邸の名称は日本の隅々にまで知れ渡るようになった。後には吉田茂の「目黒の公邸」、鳩山一郎の「音羽御殿」、田中角榮の「目白御殿」などがやはり同じように第二の官邸のような機能を持ったが、その先例はこの荻外荘に求めることができる。

荻外荘には近衛以外にも意外な住人がいたことが知られている。1940年(昭和15年)から近衛は自らのブレーンとして重用しはじめた井上日召を同居人としてここに引っ越させている。井上は右翼団体血盟団の創設者で、血盟団事件の首謀者として無期懲役判決を受けたが、この年の紀元二千六百年奉祝特赦により服役8年で出獄したばかりだった。また、近衛の死後、主なき荻外荘を一時近衛家から借りて私邸代わりにしていたのが吉田茂である。近衛とは個人的にも親しかった吉田だが、よりによってなぜまた荻外荘に住むことに決めたのかをある日来客から尋ねられた吉田は、平然と「ここにぼくが寝ていたらそのうち近衛が出てくるだろうと思ってね」と言ってのけたという。

荻窪一帯は空襲を免れたため、荻外荘も戦災を免れたが、1960年(昭和35年)に応接室を含む建物の約半分が、東京都豊島区巣鴨にある天理教東京教務支庁の敷地内へ移築された。現在は布教の家「東京寮」として寮生宿舎となっており、一般の見学はできない。荻外荘とその敷地は今なお近衛家の所有であるため、こちらも一般の見学はできないが、歴史の重みに満ちたその片鱗は塀の外からでも十分に垣間見ることができる。

永らく荻外荘に居住していた近衛の次男・通隆が亡くなってから1年が経過した2013年2月、杉並区は荻外荘を買い取ることを明らかにした[19]。将来は公園として活用したい意向と報じられている。

人物

逸話

第一次近衛内閣のとき、拡大する日中戦争に不安を感じた近衛が、拓務大臣の大谷尊由に「次の閣議で杉山元陸軍大臣に、陸軍はどこで作戦をやめるつもりなのか聞いてくれないか」と依頼した。気の弱い近衛は自分で杉山に質問できなかったのである。近衛に言われた通り、大谷は閣議で「陸軍はどこで作戦をやめるつもりなのか」と杉山に質問した。しかし杉山は大谷の質問を無視した。たまりかねた米内光政海軍大臣が「だいたい、永定河保定の間あたりで作戦を中止することになっているようである」と口をはさんだ。すると杉山が米内に向かって「なんだ君は!こんなところでそんな重要なことを言っていいのか!」と怒鳴りつけた。大人しい米内は杉山の理不尽な激怒に対して「そうかなあ」と言って黙りこみ、座はすっかり白けてしまった。閣議の場を「こんなところ」という杉山の感覚も異常だが、首相なのに閣僚に質問すらできない近衛の弱気も異常なものであった。

弟の近衛秀麿は、文麿と違って気の強い人物であった。秀麿は1936年以降終戦まで、政府音楽大使としてヨーロッパで指揮者として活動した。当時、ヨーロッパではナチスドイツが全盛であったが秀麿はナチスが大嫌いで、ナチスの意向を無視し、ナチスの嫌がらせを受けながらも公演を続けていた。ある日、総理となった文麿から国際電話があり「ドイツ大使館からお前のことで文句いわれている。総理の面子を保つため、おまえナチスの言うことを聞いてくれないか」といってきた。秀麿は兄の弱気ぶりに激怒して「弟が自分の信念を貫くために苦しんでいるのに、そんな言い方はないだろう!」と言い返し、以後、終戦になるまで文麿と秀麿は音信不通になってしまった。

秀麿は終戦後、ドイツでアメリカ軍にいったん拘束されたのち帰国した。秀麿が帰国したときは文麿の戦犯指定がすでに内定していたときで、文麿はすっかり意気消沈していた。兄弟で再会の杯を酌み交わす席で文麿は「お前は自分の気持ちを貫いて立派だったよ。お前に比べたら自分は何も残せなかったなあ」とかつてのことを繰り返し詫びた。文麿の悟りきったような態度に、秀麿は兄の自殺を予感したという。出頭予定日の前日、秀麿は文麿夫人とともに、文麿の自殺を防ごうと、文麿邸のいたるところで青酸カリがないかさがした。「弱気な兄が自殺するんだったら、苦しまずに即死できる青酸カリしかない」と秀麿は考えていたのである。自宅のどこにも青酸カリはなく、文麿が入浴しているときも脱衣服をさがしたがなかった。「もしかしたら自殺しないで裁判を受ける気になったのかもしれない」と一安心した秀麿と文麿夫人は、文麿の寝室の隣で眠ってしまった。しかし午前三時くらいになって様子をみにいったとき、すでに文麿は息絶えていた。文麿は青酸カリを肌身から離さず、入浴中も風呂にもっていったのだった。

そんな弱気な兄・文麿だったが、秀麿は「小さいとき、自分は兄の話を聞くのがとても楽しみだった。博識な兄は外国のことや宇宙のことにとてもよく通じていて、世界の秘密を話してくれるように兄は自分にいろいろなことを教えてくれたものである。今考えれば兄は政治家にまったく向いていなかったと思う。哲学者や評論家になればあんな最期を迎えることはなかったのに」と言っている。

人物評

  • 作家の今東光が若き日に近衛公の宴会に陪席したときの目撃談。

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  • 井上成美海軍大将は、近衛文麿については終始辛口だった。

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  • 木戸幸一は近衛のことを「激動期をなんでも相談した仲」とした上で、晩年次にように回想している。

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近衞一族

系譜

近衞家
藤原忠通の子基実を始祖とする五摂家の一つ。江戸時代初期に嗣子を欠いたため、後陽成天皇の第四皇子が母方の叔父・信尹の養子となり信尋として近衛家を継いだ。文麿はその直系十一世孫にあたり、その血統は当時は大勢いた皇族よりもずっと皇室に近かった[20]。「昭和天皇に拝謁した後の近衛が座っていた椅子の背もたれは他の者が拝謁したときと異なりいつも暖かかった」というのは、文麿が天皇に対して抱いていた親近感を示す有名なエピソードである。
藤原忠通━━近衞基実━━基通━━家実━━兼経━━基平━━家基━━経平━┓
                                   ┃
    ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
    ┃
    ┗━基嗣━━道嗣━━兼嗣━━忠嗣━━房嗣━━政家━━尚通━━稙家━┓
                                     ┃
    ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
    ┃
    ┗━前久━┳信尹====┏信尋━━尚嗣━━基熈━━家久━━内前━┓
         ┗前子    ┃                   ┃
          ┣━━━━━┻後水尾天皇              ┃
          後陽成天皇                     ┃
                                    ┃
    ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
    ┃
    ┗━経熈━━基前━━忠熈━━忠房━━篤麿━┳文麿━┳文隆==┏忠煇
                         ┗武子 ┣昭子  ┃
                          ┃  ┣温子  ┃
                     大山巌━━柏  ┃ ┣━━┻護熙
                             ┃細川護貞
                             ┗通隆
  

家族

妻の千代子とは、公爵という身分には珍しい恋愛結婚だった。しかし相手も華族で、釣り合いが取れないわけではなかった。華族女学校で一番の美女だったという千代子を一高の学生だった文麿が電車の中で見初めた一方的な一目惚れだったという。挙式は京都・宗忠神社。結婚当時は京都帝大在学中だったが、その生活は「学生結婚」という言葉にはそぐわないほど豪勢なものだった[21]

結婚生活は円満だったが、当時の大身の例にもれず数人のを囲い、隠し子もいた[22]。流行歌手だった市丸が近衛の愛人だったことは有名である。千代子は気丈な女性で、文麿の服毒自殺に際しても、決して取り乱すことはなかった。

次女の温子(よしこ)は1937年(昭和12年) 4月、当時まだ京都帝大在学中だった細川護貞と結婚した。その直後に父は総理となり、夫は総理秘書官となる。三年後の1940年(昭和15年)8月、父が総理に返り咲いて間もなく、温子は腹膜炎をこじらせて小石川の細川邸で死去した。享年23、夫と父に看取られての最期だった。この温子と護貞の短い結婚生活のなかで恵まれたのが、後に総理となる長男の護熙と、近衛家の養子となった次男の忠煇である。

不仲だった継母の貞は戦時中京都の別邸(現・陽明文庫所在地)に単独で疎開、そこでテンプレート:要出典範囲により死去。1945年(昭和20年)8月15日のことだった。

実家
  • 父:篤麿(貴族院議長)
  • 母:衍子(旧加賀藩前田慶寧侯爵の三女)
    • 嫡子:文磨
  • 継母:貞(前田慶寧の四女、実の叔母にあたる)
    • 異母妹:武子(大山巌公爵の次男 大山柏に嫁ぐ)
    • 異母弟:秀麿(指揮者 作曲家)
    • 異母弟:直麿(雅楽研究者)
    • 異母弟:忠麿(→水谷川家を継ぐ、春日大社宮司)
自家
妾家
  • 愛人:山本ヌイ(別名、縫子。新橋の芸者)
  • 愛人:市丸[24](芸者、歌手)

栄典

文献

自著

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富士山頂、富士山本宮浅間大社奥宮の石燈籠に刻まれた近衛文麿書による讃紀元二千六百年歌。
  • 『平和への努力 ― 近衛文麿手記』(日本電報通信社, 1946年)
  • 『失はれし政治 ― 近衛文麿公の手記』(朝日新聞社編, 朝日新聞社, 1946年)
  • 『戦後 欧米見聞録』(中公文庫 1981年 改版2006年)
  • 『大統領への証言 手記「日米開戦の真実」』(毎日ワンズ 2008年)

他に日記(昭和十五年一月と昭和十九年)。また、近衛が開設した陽明文庫には近衛の関連資料が所蔵されている。

評伝

  • 矢部貞治 『近衛文麿』上・下 (近衛文麿伝記編纂刊行会編 弘文堂, 1952年)
    「歴代総理大臣伝記叢書」第25巻として復刻 (ゆまに書房, 2006年)
    • 『近衛文麿』(時事通信社, 1958年 新版1986年/光人社NF文庫, 1993年)-上記の縮約版。
  • 岡義武『近衛文麿 -「運命」の政治家』(岩波書店[岩波新書], 1972年)
  • 杉森久英『近衛文麿』(河出書房新社, 1986年/河出文庫上下, 1990年)
  • 中川八洋『大東亜戦争と「開戦責任」- 近衛文麿と山本五十六』(弓立社, 2000年)
  • 工藤美代子 『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』(日本経済新聞出版社、2006年/中公文庫、2009年)
  • 鳥居民 『近衛文麿「黙」して死す すりかえられた戦争責任』(草思社、2007年)
  • 筒井清忠 『近衛文麿 教養主義的ポピュリストの悲劇』(岩波現代文庫、2009年)

その他

  • 道越治編著 松橋暉男/松橋雅平監修『近衛文麿「六月終戦」のシナリオ』(毎日ワンズ 2006年)
  • 平泉澄『日本の悲劇と理想』 原書房 1977年3月
  • 平泉澄『悲劇縦走』 皇學館大学出版部 1980年9月
  • 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 角川書店 1983年 8-14頁
  • 瀬島龍三 『大東亜戦争の実相』PHP文庫

脚注

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参考文献

関連項目

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外部リンク


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テンプレート:S-par |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
徳川家達 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 貴族院議長
第9代:1933年 - 1937年 |style="width:30%"|次代:
松平頼寿 テンプレート:S-off |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
林銑十郎
米内光政 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 内閣総理大臣
第34代:1937年 - 1939年
第38・39代:1940年 - 1941年 |style="width:30%"|次代:
平沼騏一郎
東條英機 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
平沼騏一郎 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 枢密院議長
第18代:1939年 - 1940年 |style="width:30%"|次代:
原嘉道 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
宇垣一成 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 外務大臣
第57代:1938年(兼任) |style="width:30%"|次代:
有田八郎 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
宇垣一成 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 拓務大臣
第13代:1938年(兼任) |style="width:30%"|次代:
八田嘉明 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
柳川平助 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 司法大臣
第43代:1941年(兼任) |style="width:30%"|次代:
岩村通世

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テンプレート:日本国歴代内閣総理大臣

テンプレート:貴族院議長 テンプレート:外務大臣 テンプレート:拓務大臣 テンプレート:司法大臣 テンプレート:A級戦犯

テンプレート:近衛家
  1. 『近衛文麿公清談録』
  2. 近衛は政界に身を投じて以降は、日本は自国と同じ「もたざる国」であるドイツ・イタリアと同一歩調をとるべきと考え、天然資源を各国は平等に持つべきという社会主義的ないし唯物論的平等を持論として展開した。その一方で、西園寺や昭和天皇の主張する英米との協調外交に反対し、これらのスタンスが戦後A級戦犯として起訴される最大の要因になったとされている。
  3. 『清談録』千倉書房。
  4. テンプレート:Cite book
  5. 中西寛「近衛文麿「英米本位の平和主義を排す」論文の背景-普遍主義への対応」(『法學論叢』第132巻・第4-6号)
  6. 『官報』第1261号、大正5年10月12日。
  7. 当時の元老
  8. 秦郁彦『盧溝橋事件』
  9. 週刊『アサヒグラフ』はこれを「平沼・近衛 交流内閣」と皮肉っている。「交流」とは、今で言う「合流」「合体」といった意味。
  10. 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 テンプレート:Cite book 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "shusenshi"が異なる内容で複数回定義されています
  11. NHK取材班『太平洋戦争日本の敗因6 外交なき戦争の終末』角川書店《角川文庫》、1995年、p225(「ドキュメント太平洋戦争」の書籍化)
  12. 12.0 12.1 『太平洋戦争日本の敗因6 外交なき戦争の終末』pp.226 - 228
  13. この辺りの詳細については、矢部貞治『近衞文麿』(読売新聞社)、児島襄『史録 日本国憲法』(文春文庫)等を参照。
  14. 矢部貞治『近衞文麿』(読売新聞社)738-739頁
  15. 『総理大臣の採点表』文藝春秋
  16. 東條英機も、戦犯訴追を逃れるために自殺を図ったとされるが未遂に終わっている
  17. テンプレート:Cite book
  18. 近衛は軽井沢町我孫子市鎌倉市等にも別荘を所有していた。
  19. 荻外荘:近衛文麿元首相の旧邸、杉並区が31億円で取得 公園に活用へ 毎日新聞2013年2月14日
  20. 明治維新後に創設された宮家はほとんどが伏見宮家の系統で、その伏見宮は遠く南北朝時代崇光天皇の第一皇子・榮仁親王(1351−1416)を祖としている。
  21. 以上、参考文献『日本の肖像 旧皇族・華族秘蔵アルバム』九毎日新聞社編。京都の新居には女中もいれば書生も抱えており、一般サラリーマンの平均月収100円の時代に、一月当たり150円の生活費をかけていた。ちなみにこの時の新居は宗忠神社の社務所として現存している。
  22. 『宰相近衛文麿の生涯』有馬頼義 著。
  23. 大野芳『近衛秀麿』p.281
  24. 大野、p.286