歴史

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Historia (Allegory of History).
ニコラス・ギジ(en) (1892年)
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The Historian
E. アービング・クーゼ(1902年)

歴史(れきし、:historia、:History)は、何かしらの事物が時間的に変遷したありさま[1]、あるいはそれに関する文書記録のことを言う。主に国家文明など人間社会を対象とする[2][3]が、これは記述された事を念頭に置いている。ヴィルヘルム・ヴィンデルバント科学分類に拠れば、自然科学が反復可能な一般的法則であるのに対し、歴史科学が対象とする歴史は反復が不可能である一回限りかつ個性を持つものと定義している[4]。また、現在に至る歴史を「来歴」と言う[5]

概要

歴史の意味

「歴史」とは、少なくとも二つの意味を有している。一つは、現実に存在する「もの」が変遷する様そのものを言い換えて「歴史」と定義するものである。しかしその経緯は保存される事は無く、やがて消える。もう一つの「歴史」の意味は、この消え行く変遷を対象化して記述・記録された結果を指し、「歴史記述」と言うことができる。それぞれは、前者を「広義:出来事の全体」、後者を「歴史書」と分類されてもいる。現在は歴史を深めて未来を予想しようとすることが研究者の間で行われている。テンプレート:要出典[6]

記述・記録される、または複数残した何らかの経時的事象が分析・系列化されて初めて「歴史」は構築される。ある少数民族が文字または別な手段の歴史記述を残さず、しかも史料をただひとつしか示さなかったとすれば、彼らが現実に存在し「歴史」を刻んでも、後世の文明にとって存在の歴史はあると推測されても歴史の変遷を知ることは出来ない。それどころか痕跡を残さなかったものは、その存在さえ無かったも同然である。

このように後世に認識される「歴史」とは、少なくとも認識可能な出来事の断片が残存していることが必要な条件となる。これには濃淡があり、対象・時代・地域などが影響し、人類を対象とした民族の歴史の場合には、彼らが歴史を記述することに関心を払う程度にも左右される。

以後は、「後世に認識された歴史」を対象とする。

歴史認識

テンプレート:See also 「後世に認識された歴史」は、客観性に対する疑念から免れない。考古学的発掘や遺跡などを分析して得られた断片的な情報から対象の歴史を構築しようとしても、その取捨選択の過程で主観的な視点が加わる事は否定できず、結果はある種の解釈や、時として願望または思い込みが紛れ込む可能性がある。

「歴史記述」についても、全貌を漏れなく記述することは不可能で、執筆者の知見や価値観、または時代的背景、執筆者の力量などの制約が加わり、それらフィルターを通じた事象に偏ってしまい、真実がゆがんでしまう。これをE・H・カーは著書『歴史とは何か』で指摘している[7]日本を例に取っても、政治体制の変化による教科書記述内容の書き換え、また現代の周辺国家との見解の不一致[6]などがある。陳舜臣は「歴史は勝者によって書かれる」[8]と述べ、特に正史では勝者に有利な記述が行われる傾向にあるため、敗者の歴史記述や秘匿された文書、または正史でも勝者に不利なものや反省を含んで記述された箇所の方が比較的信頼に足ると言及している。

語源

歴史

歴史という単語は当初、「史」の一文字で表された。甲骨文字の「史」は「事」と同じように「事件、できごと」を意味した。許慎説文解字には、「史、記事者也。从又持中、中、正也。」とあり、つまり「史」のもともとの意味は「事を記す者」すなわち「史官」である。ここから敷衍して、「史官によって記録された事」、言い換えれば、「文字によって記録された過去のすべての出来事」を意味するようになった。「歴史」という言葉の出現はやや遅れて、『三国志·呉書・呉主伝』に『呉書』を引いて、「呉主孫権“博覧書伝歴史、藉采奇異”と現れるのが初めである。「史」の前に加えた「歴」の字は「経歴」や「暦法」の「歴」で、人類が経た時間を指す。

日本語歴史は、司馬遷の『史記』に由来する。前漢武帝時代、太史令であった司馬遷が記述した『太史公書』がのちに「史記」と呼ばれるようになり、「史」が歴史の意味でも使われるようになった。司馬遷は黄帝から武帝までの皇帝の変遷を正統性の概念で記述した。以降、「史」は皇帝の正当性を主張する書物として古代中国の各時代で伝統的に編纂されることとなった。また正統性の概念は周辺アジア地域においても影響を与え、『日本書紀』などが編纂される動機となった。

明治時代、"history" の訳語として、もっとも概念的に近いと思われている「史」を元に「歴史」という用語が造られた。

historia, history

英語の "history" やフランス語の "histoire" はラテン語historia を中立ちとして、古典ギリシア語で「探求して学んだこと、知り得たこと」を意味する "ἱστορία (historia)" に由来する(現代ギリシア語では ιστορία (istoria))。ヘロドトスの著書名にも見える Ἱστορίαι (Historiai) は、その複数形

ヘロドトスはリディア王国以降のペルシア地方の発展を中心に、プラタイアの戦いにおいてギリシアペルシア帝国の軍隊を撃破するまでを記述した。それゆえ、「歴史」は主として戦争を記述する資料を指したが、時とともにより幅広い事象を対象とする用語に一般化されていった。

近代ヨーロッパにおいては、ルネサンス以降の自然学の進展とキリスト教的価値観を背景に、"historia" は人間の創造以前を扱う自然史(historia naturae, 博物学とも訳される)と人類史 (historia hominis) の二領域からなると考えられるようになった。前者は近代の自然科学へ、後者は現在の歴史学へと発展していった。テンプレート:要出典

英語においては派生的に、「物語」を意味する story なる語も生まれている。また、テンプレート:Lang-fr, テンプレート:Lang-de ,テンプレート:Lang-it, テンプレート:Lang-esなどはいずれも「歴史」「物語」両方の意味を兼ねるものである。

歴史記述

リストとしての歴史記述

歴史の記述は、その当初から包括的に始められたわけではない。記述には必ず文字が用いられるが、最も古くかつ資料も豊富な古代メソポタミア文明の楔形文字が刻まれた粘土板は、や戦利品など収入や配給または役人の給与など、行政上の財務収支を記載した単なるリストであった。これらにはやがて人口調査や地名人名なども加わるようになった。また古代エジプト呪詛文書は、敵対する部族などの名称や首長の名前、また居住する地名などを記している。

このように、初期の歴史記述は何らかの目的に特化したリストとして始まった。やがて治世者の業績なども加わりつつ積み重ねられたこれらのリストは、「歴史」を想定していなかったとしても、積み重ねられた結果として重要な「歴史記述」となった。

時間感覚

しかし、何をどこまでリストに記述するかという点に関しては、文明毎に異なる時間に対する認識が影響した。ヒンドゥー文明サーサーン朝などアーリア人の古文明は体系化した歴史記述を残していない。それに対し、中国は膨大な歴史記述を残しており、梁啓超は、中国は歴史学が突出して発達し他の国に例が見られないと語っている。

このような差異が生じた原因は様々だが、時間すなわち歴史を「循環的(円環的)」と見るか「直線的」と見るかがひとつの要因に挙げられる。古代の「歴史記述」に頓着しなかったインドの時間感覚は「循環的」に分類され、『マヌ法典』によると人間の1年は神々の1日とし、神々の12,000年がマハーユガとされ、1000マハーユガが(カルパ)と定義され、この時間サイクルで世界は創造と破壊を繰り返す。これは人間の時間感覚では43億2000万年に相当する。これに輪廻(カルマ)の概念が加われば、人間界の出来事など一瞬でしかなく、これらを体系的に記述する事に意味を見出さなかったものと推測されている。

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History
フレドリック・ディールマン(en) (1896年)

ただし、「循環的時間感覚」を持つ文明がすべて「歴史記述」を残さなかった訳ではない。古代ギリシアにも循環的時間論は存在し、ピュタゴラスの言葉「また将来、この杖を持って私はお前たちを教えているだろう」は、循環する時間の中でピュタゴラスや弟子ら人間がまた生まれ、同じ生涯を歩む事を示唆している。エンペドクレスは四元素のせめぎ合いが巡りながら歴史が循環するという説(歴史循環論 - 神山四郎『歴史入門』講談社現代新書、1965年)を唱えた。このような時間感覚の中、トゥキディデスは『戦史』にてペロポネソス戦争の詳細を書き残しているが、これは循環的時間論の概念に基づき将来同じ事象が起こった時のために記述したと言い残している(第1巻、第22節)。[9]

王名表

文明の発展に伴い、社会にもさまざまな事件や出来事を記録するようになった。その初期は、出来事名で年を表す方法が採られ、古代エジプトやウル第三王朝のメソポタミア以降では一般的な歴史記述方法となっていた。例えばハンムラビ43年の治世には全ての年に名称が付けられており、第37年目は、「(ハンムラビが)マルドゥクの威光を得てトゥルック、カクム、スパルトゥの国々を打倒した(年)」と記録されている。古代エジプトも同様に年ごとの出来事を記した象牙製の牌を作り、ファラオが替わるとパピルスに転記して記録に残していた。このような歴史記述はアメリカ州の先住民族にも見られ、ラコタ族が一年毎に出来事を絵文字で水牛の皮などに残した「ウインター・カウント」(en)もこの例に当たる。

この一年が独立した歴史記述は、特記すべき事件が起こらなかった年は空白となる。しかし、やがて歴史記述は、王名とその在位年度を記録し前王との系譜が添付されることで作られる「王名表」に沿って記録されることで、連続的なものへと変化した。バビロニアではカッシート時代から、エジプトでも王名表石碑「パレルモ・ストーン」(en)が作られた古王国の第五王朝時代(紀元前2350年頃)にはこの王名表を基準とした歴史記述が始まっている。その一方で、シュメール王名表アッシリア王名表のような考古学的分析とは異なる王朝の一貫性を強調して作成されたものもあり、早くも歴史記述の客観性に疑問がもたれるものも登場した。

出典

脚注

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関連項目

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外部リンク

関連文献

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  1. テンプレート:Cite book
  2. 広辞苑「人類社会の過去における変遷・興亡のありさま」
  3. 大辞林「人間社会が時間の経過とともに移り変わってきた過程と、その中での出来事。また、それをある秩序・観点のもとにまとめた記録・文書」
  4. テンプレート:Cite book
  5. テンプレート:Cite book
  6. 6.0 6.1 テンプレート:Cite webテンプレート:出典無効
  7. テンプレート:Cite web
  8. テンプレート:Cite book
  9. テンプレート:Cite book