色丹島

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A.歯舞群島(歯舞諸島)、B.色丹島、C.国後島、D.択捉島
1.色丹村、2.泊村、3.留夜別村、4.留別村、5.紗那村、6.蘂取村
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色丹島の中心集落、斜古丹。
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戦前の色丹神社。クジラの顎の骨が鳥居に使われている。

色丹島(しこたんとう)、北海道根室半島の遥か東に位置する島。ロシア名はシコタン島 (Остров Шикотан)、英語表記は Shikotan

島の名の由来は、アイヌ語の「シ・コタン(大きな村)」から。

概要

413mの斜古丹山を中心に島全体が比較的なだらかな山地・丘陵になっており、カラマツの近縁種であるグイマツや、ウルップソウなどの高山植物に恵まれた自然の宝庫でもある。村役場が置かれた場所は北東部の斜古丹湾岸で、学校や駅逓、郵便取扱所も設けられ、斜古丹という名の集落をなしていた。島の南北両岸には天然の良港が多く、コンブサケなどの漁業が主産業であった。

ソ連が実効支配を始めてからも、中心集落は斜古丹(ロシア語地名、マロークリリスク(Малокурильск=「小千島の町」の意))である。2006年の人口は2,244人。現在の集落はもうひとつ、その西側の入江奥深くに穴澗(クラバザヴォーツク(Крабозаводск=「カニ工場の町」の意))があり、2006年の人口は925人。それ以外の日本時代の集落は、すべて廃村となった。

歴史

斜古丹村穴澗村などが合併し、1島1村となった。

日本政府が返還を要求している北方四島の1つであり、日本の行政区分では、千島国ならびに北海道根室振興局(旧根室支庁)管内の色丹郡色丹村に所属することになっている。なお、1886年の千島国への移譲ならびに色丹郡の設置まで根室国花咲郡の一部であったことや、歯舞群島とともに根室半島の延長部と看做されることもあって、色丹島を千島列島に含むか否かについては見解が分かれている。

現在も日本の施政権は及んでおらず、現在までロシア連邦実効支配下にある。ロシアの行政区分では国後島に本庁があるサハリン州南クリル管区に属する。戦後ロシアが、歯舞群島とあわせて「小千島列島(マラヤ・クリルスカヤ・グリャダМалая Курильская гряда)」と呼ぶようになった列島で最大の島。面積は255.12km²で、日本では13番目の大きさを持つ島である[1]

当該地域の領有権に関する詳細は千島列島及び北方領土の項目を、現状に関してはサハリン州の項目を参照。

産業

漁業が主で、択捉島で大きく成功したギデロストロイ社が水産加工施設を設置している。また、日本本土と近いことから、国境経済が成長するポテンシャルはあり、ソ連崩壊直後の1992年には、楊文虎という日本に居住している香港中国人企業家がサハリン州政府から50年の期限でこの島の土地278haを租借し、主に日本人向けのカジノリゾートを作ろうとした。だが、日本政府がこの計画を進めた香港の企業カールソン・アンド・カプラン社に計画中止を求めたことなどから、この企業家は結局撤退した。

また、ロシアにとっては国境最前線の島という認識があるため、斜古丹には国境警備隊の大きな軍港があり、穴澗には拿捕された日本漁船員の収容所が設けられている。

交通アクセス

島内に空港は無いので連絡船のみのアクセスとなる。樺太(サハリン)大泊コルサコフ)港から、3月から12月まで週2便、サハリンクリル海運の船が斜古丹港へと結んでいる。ロシアのビザと色丹島に有効な通行許可証があれば、日本人はじめ外国人の乗船もできる。港は深いので、国後島択捉島の諸港と異なり、船はなしで直接港に横付けとなる。ただし日本のビザなし交流団に限っては、斜古丹港にある国境警備隊基地の機密保持のため、根室港から穴澗港へのアクセスとなる。なお、穴澗港も直接船が横付けできるほどの深度があるものの、近年は穴澗の水産加工場の廃液によるヘドロの堆積が著しいため、艀を使っての上陸となっている。

千島アイヌの強制移住

明治10年代に、樺太と交換で日本が中千島・北千島を領有するようになって以来、占守島幌筵島、及び中部千島の羅処和島に長く居住していた先住民の千島アイヌの人々が色丹島に強制移住させられた。これは根室から遠く離れた絶海の孤島では監督も行き届かず、当時、盛んに千島に出没する外国の密猟船に対して便宜を与えるおそれがあったことと、千島アイヌは風俗・習慣共に著しくロシア化していて、殆どロシア人と変わることなく、こうした者を国境近くに置くことは、日本の領域を確定するにおいて危険な障害と感じられたためである。移住した千島アイヌに対しては農地が与えられ、また牧畜や漁業も奨励されたが、元々が漁撈民であった彼らは慣れぬ農耕に疲弊し、多くが病に倒れ命を失った。

千島アイヌと日本正教会

千島居住時代にロシア正教会から派遣された宣教師による伝道でハリスチャニン(正教信者)となっていた千島アイヌの人々ために、日本ハリストス正教会司祭伝教者(伝教師)を送った。明治時代に日本ハリストス正教会の伝教者だった斎藤東吉が色丹の千島アイヌの信者から聞いた話によると、日本正教会神品が初めて色丹島を訪問した時、最初に上陸した根室教会管轄司祭の小松神父を、根室の学校に通っていて教会を訪れたことのある子どもが正教の神父であると大人の信者たちに教えたが、小松師が和服姿であったために大人たちは正教の司祭とは信じられず日本人の回し者であろうと怪しんだという。しかしながら、後から陸に上がった沢辺悌太郎伝教者(沢辺琢磨の息子、後に司祭叙聖される)がロシア語で、根室正教会の小松師による巡視であることを伝え、また、小松師がニコライ主教からの証明書を提示するに至って、ようやく彼らは正教会神品の来訪であることを理解し、歓喜の声を上げて降福を受け、また機密に与ったという。そして、これが色丹島の聖三者教会の始まりとなった。色丹島より戻った神品らは直ちに千島アイヌ信者の窮状を教団本部に伝え、これを受けたニコライ主教は全国の信者に義捐を呼びかけ、送られてきた金品を色丹の信者らに送った。その後、羅処和島生まれの千島アイヌ首長ヤコフ・ストロゾフは自らの手で新しい教会堂を建て、信者たちは篤実な信仰生活を続けた。

現在、当然のことながら往時の聖三者教会は消滅し、また司祭を送った根室正教会も衰退してしまったが、聖三者教会に納められていたイコン(聖像)の一部が中標津郊外の上武佐ハリストス正教会に受け継がれ、千島アイヌの人々が守り続けた正教信仰の灯火を今に伝えている。

脚注

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関連項目

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  1. 国立天文台(編) 平成19年 理科年表 p.565 ISBN 4621077635