モスクワオリンピック

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テンプレート:告知 テンプレート:オリンピックインフォメーション モスクワオリンピックは、1980年7月19日から8月3日まで、ソビエト連邦(現・ロシア連邦)の首都モスクワで実施された第22回夏季オリンピックであり共産圏では初の開催。後述するボイコット問題で「スポーツと政治」の関係が問われた大会でもあった。また旧東側欧州においては2014年現在でも唯一開催された夏季オリンピックでもある。

大会開催までの経緯

ソビエトは1952年のヘルシンキオリンピックオリンピックに初参加してから、常に国別のメダル争いで上位に立ち、ステート・アマと呼ばれるトップ選手の金メダル獲得を国威発揚に活用していた。その集大成として、自国の首都モスクワでのオリンピック開催を目指すようになった。

一方、オリンピック自体は巨大化の弊害が見え始め、1972年ミュンヘンオリンピックでのテロ事件ミュンヘンオリンピック事件)などもあり、開催都市への負担が大きくなってきた。

その中で、スポーツ大国のソビエト連邦が運営を全面的に担うというモスクワ開催は支持を集め、1974年10月23日オーストリアウィーンで開かれた第75回国際オリンピック委員会総会で、モスクワでの1980年夏季大会の開催が決定された。

1980年夏季オリンピック 開催地投票
都市 1回目
モスクワ テンプレート:Flagicon ソビエト連邦 39
ロサンゼルス テンプレート:Flagicon アメリカ合衆国 20

モスクワでの初の開催の決定を受けて、大会施設の建設が急ピッチで行われた他、旧態化していたモスクワの当時の空の玄関であるシェレメーチエヴォ国際空港のターミナルの大幅改修なども行われた。

ボイコット問題

ファイル:Olympic boycott 1976 1980 1984.PNG
1976年、1980年、1984年の夏季五輪出場をボイコットした国

冷戦下において東側諸国の盟主的存在であるソ連で行われたこの大会は、前年1979年12月に起きたソ連のアフガニスタン侵攻の影響を強く受け、集団ボイコットという事態に至った。

主な国の動向

冷戦でソ連と対立するアメリカ合衆国カーター大統領が1980年1月にボイコットを主唱し、日本分断国家西ドイツ韓国、それに1979年10月の国際オリンピック委員会(IOC)理事会(名古屋開催)でIOC加盟が承認されていたが、1960年代以降ソ連と対立関係にあった中華人民共和国イランパキスタンといったソ連の軍事的脅威に晒されアフガニスタン同様の事態を恐れる諸国、および反共的立場の強い諸国など50カ国近くがボイコットを決めた。

一方で、西欧オセアニアの西側諸国の大半、すなわちイギリスフランスイタリアオーストラリアオランダベルギーポルトガルスペインなどは参加した。イギリスではボイコットを指示した政府の後援を得られず、オリンピック委員会が独力で選手を派遣した。

また、フランス、イタリア、オランダなど7カ国は競技には参加したものの開会式の入場行進に参加せず、イギリス、ポルトガルなど3カ国は旗手1人だけの入場行進となった。

これらの参加した西側諸国は概ね国旗を用いず、優勝時や開会式などのセレモニーでは五輪旗五輪賛歌が使用された。ただしギリシアは国旗を用いている。

日本

  • 1980年2月 - 前月のアメリカからの西側諸国への要請を受け、日本政府は大会ボイコットの方針を固めた。一方、日本オリンピック委員会(JOC)は大会参加への道を模索した。
  • 1980年4月 - 日本政府の最終方針としてボイコットがJOCに伝えられた。多くの選手はJOC本部で大会参加を訴えた。
  • 1980年5月24日 - JOC総会の投票(29対13)でボイコットが最終的に決定された(なおこの採決は挙手によるもので伊東正義官房長官(当時)も出席しており、各競技団体の代表者には参加に投票した場合には予算を分配しないなどの圧力がかけられていた)。
  • 1980年6月11日 - JOC常任委員会、モスクワ五輪日本選手団(幻のメンバー)を承認し、同時に大会への不参加を確認する。

報復

モスクワオリンピックへのボイコットを呼びかけた中心的存在であったアメリカが開催する予定になっていた、次(1984年)の夏季オリンピックであるロサンゼルスオリンピックには、アメリカのグレナダ侵攻を理由に多くの東側諸国が報復としてボイコットした。なかでもイランはモスクワオリンピックとロサンゼルスオリンピックを両方ともボイコットしている。

この他、前回のモントリオールオリンピックでは南アフリカ共和国アパルトヘイト政策に絡み、アフリカ諸国の多くがボイコットをしたが、今回の五輪ではその大半が復帰した。

一方、モスクワオリンピックをボイコットした韓国で次々回1988年に開催されたソウルオリンピックにはソ連をはじめとする大半の東側諸国(北朝鮮は除く)も参加し、大規模なボイコットにようやく終止符が打たれた。

めざせモスクワ

この大会に前後して、西ドイツのポップグループであるジンギスカンがモスクワをモデルにして作った曲『めざせモスクワ』が世界的にヒットした。西ドイツはモスクワオリンピックをボイコットしたにもかかわらず、これが縁でジンギスカンはモスクワオリンピックに招待された。

日本でもバオバブシンガーズぷろだくしょんバオバブ所属声優のユニット)やダークダックスによってカヴァーされた。前者はオリンピックを強く意識した歌詞、後者はオリンピックとまったく関係ないモスクワ観光的な歌詞だった。

実施競技

テンプレート:Col

大会の結果

ファイル:Bundesarchiv Bild 183-W0719-102, Moskau, XXII. Olympiade, Eröffnung.jpg
開会式に入場する東ドイツ代表チーム
この開会式はアフガン侵攻に抗議して各国の旗が自国のものを掲げずバラバラになっていた

西側諸国の多くがボイコットした事で、大会は東側諸国のメダルラッシュとなった。キューバを含めた東側諸国の経済協力機構であるコメコン加盟国全体では161個と、全204個の金メダルのうち79%を占めた。

特にソビエトは自国開催の強みを最大限に発揮し、元来の得意種目の重量挙げや射撃系に加え、アメリカが不参加の競泳や陸上、日本が不参加の男子体操やバレーボールで順調に金メダルを獲得した。金メダル80個はロサンゼルスオリンピックでのアメリカの83個に次いで、一つの大会での2番目の獲得記録となっている。

また、ソ連と同じく「ステート・アマ」が選手のほとんどを占める東ドイツも、ボートで14種目中11個の金メダルを稼ぎ、47個と第2位の金メダルを獲得した。

一方、東側諸国に押され気味の西側諸国の中ではイギリスが陸上男子のトラック競技で健闘し、100mのウェルズ、800mのオヴェット、1500mのコーと3つの金メダルを獲得した。

主な競技会場

各国・地域のメダル獲得数

テンプレート:Main

1 テンプレート:FlagIOC(開催国) 80 69 46 195
2 テンプレート:FlagIOC 47 37 42 126
3 テンプレート:FlagIOC 8 16 17 41
4 テンプレート:FlagIOC 8 7 5 20
5 テンプレート:FlagIOC 8 3 4 15
6 テンプレート:FlagIOC 7 10 15 32
7 テンプレート:FlagIOC 6 6 13 25
8 テンプレート:FlagIOC 6 5 3 14
9 テンプレート:FlagIOC 5 7 9 21
10 テンプレート:FlagIOC 3 14 15 32

主な金メダリスト

大会マスコット

ミーシャ
をモチーフにしたマスコット。日本ではテレビ朝日系列(製作は朝日放送)にて開催の前年からこのマスコットを主人公とした『こぐまのミーシャ』というアニメが放映されていた。主題歌にはロシア語単語も使われていた。
閉会式で冷戦ソ連のアフガニスタン侵攻の影響でアメリカ日本西ドイツ韓国といった西側諸国がボイコットした事に対しての演出でミーシャが涙を流すというマスゲームが行われた。
それから34年後の2014年ソチオリンピック閉会式にてミーシャの孫とされるホッキョクグマのマスコットが現れ、モスクワオリンピック閉会式の映像を流した後、スタジアムに設けられた小さな聖火台の聖火を吹き消すと共に、一筋の涙をこぼすという場面が演出された[1]

テレビ放映

ソ連国内では全連邦ラジオで、欧州ではユーロビジョン[2](31カ国)とインタービジョン[2](11カ国)、中南米ではOTIを通じて放送された。オーストラリアではチャンネル7[2]、アメリカ国内ではNBC[2]で放映したが、一部の国では放送体制を大幅縮小した。またカナダは当初CBCで放送予定だったが、カナダのボイコットを受け中止が決定した[2]

日本では1977年テレビ朝日系列が独占放映権を獲得した[2]。しかし、日本のボイコットが決まったため、中継体制は大幅に縮小され、深夜の録画放送のみとなった。放映権料についてはジャパンコンソーシアムを参照。

なお、この前にテレビ朝日の重役で「怪物」と呼ばれた三浦甲子二がソ連の高官と会っていたことから、チュメニ油田に絡む黒い噂を含む怪文書が流れたことがある。

その後の影響

国際的影響

大会そのものは事件もなく平穏に終わったが、西側諸国の集団ボイコットによりその権威が失墜した事は疑い様がなかった。閉会式のミーシャの涙に象徴されるように、ソビエトの失望と怒りは深く、次のロサンゼルスオリンピックでは東側諸国を巻き込んだ報復ボイコットにつながった。それを暗示するように閉会式での電光掲示板では「ロサンゼルスで会いましょう」という文字が一切出なかった。

大会後、第3代キラニン男爵マイケル・モリスはIOC会長を退任し、フアン・アントニオ・サマランチが新会長となった。これ以上の大量ボイコットを避ける為の政治的独立と、その裏付けになる経済的自立を志向し、結果的にテレビ放映権や大型スポンサー契約に依存する商業主義への傾斜を強め、プロ選手の出場解禁に道を付けた。

自国開催のソビエトの選手には金メダル獲得が義務付けられ、他の東側諸国でも似たような状況となった。その結果、組織的なドーピングが行われ、後に多くの選手が健康被害を受ける事になったと言われている。

日本国内の影響

種目によっては世界トップレベルの大会への参加に8年間の空白が大きなマイナスに作用した。

団体競技の影響
  • 男子体操 - ローマオリンピックから続けた5連覇が自動的に途絶えた金メダル奪回は、2004年アテネオリンピックにて漸く実現。
  • バレーボール - その後、男女とも未だに金メダルの再獲得に至っていない。
  • 男子バスケットボール、同ホッケー、女子ハンドボール - これ以後五輪出場権獲得なし。
個人競技の影響
  • 坂本典男 (自転車競技) - 競輪に転向。ロサンゼルスオリンピック(以下、ロサンゼルス)では弟である坂本勉に託し銅メダルを獲得。
  • 瀬古利彦 (マラソン) - その後、ロサンゼルス、ソウルオリンピック(以下、ソウル)と2大会連続出場を果たしたもののソウルで9位にとどまる。
  • 高田裕司 (レスリング) - 現役引退。後に復帰し、ロサンゼルスで銅メダルを獲得。
  • 長義和 (自転車競技) - 1977年に日本競輪学校を合格しながらも、それを辞退して当大会にかけたものの出場叶わず。当時存在した競輪学校の年齢制限(24歳未満)のため、競輪選手への道も閉ざされたことから、このまま現役を引退した。
  • 津田真男 (ボート、シングルスカル) - ほとんど一人の力で代表の座を勝ち取ったが、幻の出場に終わった[3]。その後、各地で開催されたレガッタの常連となった。
  • 長崎宏子 (水泳) - 当時11歳。夏季五輪では初めての小学生の五輪代表選手だった[4]が幻に終わった。その後、ロサンゼルス、ソウルに出場したが、いずれもメダル獲得は果たせず。
  • 藤猪省太(柔道) - 世界柔道選手権4回優勝の実績者で、代表が内定していたものの出場叶わず。このまま現役を引退し、指導者となった。
  • 宮内輝和(レスリング) - 大相撲に転向。
  • 谷津嘉章 (レスリング) - プロレスに転向。1986年に復帰するもオリンピック出場果たせず。
  • 山下泰裕 (柔道) - 1984年のロサンゼルスで金メダルを獲得。
テレビ朝日
  • 1977年の社名変更に続く大改革の柱だったオリンピック独占中継の価値が大暴落し、大きなダメージを負った。ただ、この中継の留守番予備軍として大量に採用したアナウンサー達から、現在フリーとなった古舘伊知郎南美希子佐々木正洋を始め、宮嶋泰子吉澤一彦渡辺宜嗣といった、現在でも現場で活躍するメンバーが多く輩出された。
その後のJOCの対応
  • 不本意ながら政府のボイコット指示を受け入れざるを得なかったJOCはその基盤強化の必要性を痛感し、1989年日本体育協会から独立した財団法人化が実現した。

再招致

モスクワは2012年夏季オリンピックの開催地に立候補したが最初の投票で落選した。

なお、同年の開催地となったロンドンの招致委員長が、この五輪で男子陸上1500m金メダリストのセバスチャン・コーである。

関連項目

参考文献

脚注

テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:モスクワオリンピック実施競技 テンプレート:Navbox テンプレート:冷戦

テンプレート:Olympic-stub
  1. ミーシャの孫、ソチ五輪終幕告げる 日刊スポーツ 2014年2月24日閲覧
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 1980 Summer Olympics Official Report from the Organizing Committee, vol. 2, p. 379
  3. 後に、山際淳司の短編集「スローカーブを、もう一球」(「江夏の21球」が収録)で「たった一人のオリンピック」として紹介された。
  4. 冬季は1936年の稲田悦子 (フィギュアスケート) がいる。