関東軍特種演習

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関東軍特種演習(かんとうぐんとくしゅえんしゅう)とは、1938年(昭和13年)11月に海拉爾附近、1939年(昭和14年)第1回関東軍特種演習、同年第2回関東軍特種演習を言う。

戦争準備行動

関東軍は、満州北部で幾度か軍事演習を実施していたが、中でも、独ソ戦(1941年6月22日)が始まった直後の1941年7月に行なわれた「関東軍特種演習」は、実際には単なる軍事演習ではなく、関東軍による対ソ連開戦を見据えた軍備増強政策だった。独ソ戦が始まり、ドイツが優位に立つと、松岡洋右外務大臣や原嘉道枢密院議長らをはじめ日本政府内では、まずは日独同盟を重視し、ドイツと協力してソ連(北進)を挟撃すべしという主張が勢いを持った。近衛文麿総理大臣ノモンハン事件で証明された関東軍の現有兵力(九五式軽戦車、軽装甲車等の車輌約90輌、航空機約50機、兵員約28万名)では満州工業地帯の防衛が困難であると判断、関東軍首脳部の主張を支持し、在朝日本軍や在台日本軍の動員令を発令した。本土からは14個歩兵師団を弾薬、戦闘車両約300輌、軍馬約400頭、戦闘資料等とともに輸送、戦時定員を充実させることに成功した。その結果、関東軍は74万以上の大兵力となった。

だが、1941年7月28日の南部仏領インドシナ進駐などを契機としたアメリカイギリスオランダによる緊張状態が加速としたこともあり、日本政府は、ソ連方面(北方)よりも東南アジア方面(南方)へと政策の重点を移して行った。しかし、関東軍は諦めず、1941年8月3日になっても田中新一作戦部長と有末二十班長らがソ連との戦争を念頭とした態度案を海軍側に提出。陸海軍間で話し合いが行われ、文書から「対ソ開戦」の文字を削除するように、海軍側が迫り、5日に妥結した。これを受け、大本営陸軍部と関東軍は1941年8月9日に年内の対ソ開戦の可能性を断念した。その後、兵力は充実させたが、日本政府による南方進出方針の決定により、対ソ戦は行わず、満蒙国境警備のみを行うに留まった。その後、太平洋戦争の中期から島嶼防衛のために関東軍から兵力・資材の引き抜きを始めた。末期には本土決戦のために更に兵力・資材を引き抜き、満州在留邦人でその穴を埋めていった(根こそぎ動員)。

結果的に、関特演で集められた兵員・資材は本来とは異なる用法-陸軍の予備兵力としての役目を果たすことになった。

呼称について

独ソの開戦前から、関東軍は大規模な演習を予定しており、この演習は関東軍特別演習と呼ばれていた。対ソ連の開戦準備では、関東軍特種演習と呼ぶ。ちなみに関東軍特殊演習は誤りであるとあるが「昭和14年度・第1次関東軍特種演習に関する件」と言う資料があることより、「特種演習」が正しい。また、特別演習は牡丹江北演習場で行われ、昭和16年7月16日から7月31日の間であった。

影響

日本内地

輸送が莫大な量にのぼったため、学徒などの道府県をまたいだ移動が事実上不可能になり、その結果、第27回全国中等学校優勝野球大会は、予選が一部地域ではじまっていたが、大会そのものが中止された。また、第15回都市対抗野球大会も、出場チームが決定していたが中止となった。

ソ連による対日参戦正当化

戦後ソ連政府は、首都モスクワにドイツ軍が迫っている時に、関東軍特種演習が行われたことによってモスクワ救援のための部隊をシベリア方面からの移送が妨げられた事は日ソ中立条約違反の利敵行為であるとしてこれを非難して、この時点で日ソ中立条約は効力が「事実上」消滅しており、ソ連対日宣戦布告が中立条約期限切れである1946年4月以前に行われていても国際法上問題は無いと主張し、ソ連対日参戦を正当化する論拠とした。[1]


関特演と慰安所

テンプレート:Main 作家千田夏光『従軍慰安婦』(1973年双葉社[2])によると、関東軍特種演習において慰安婦が強制的に集められた[3]。千田は、

テンプレート:Quotation と書いた[4]。また、原元参謀へのインタビューでは「70万人の兵隊に2万人の慰安婦が必要とはじき出した根拠というか基準は何だったのですか」という千田の質問に対して、原が テンプレート:Quotationと語ったと記載された[5]

この原証言について1993年の加藤正夫の調査によれば、関特演の予算担当者だった加登川幸太郎少佐や、関東軍参謀の今岡豊中佐らは、関特演での慰安婦動員は聞いた事がないと証言した[6][7]。また慰安婦たちの証言で関特演についての申告がないことから疑問も出され[8]、草地貞吾大佐(軍事課員)も原証言を否定した[9]

千田の著作では原善四郎元少佐の肩書きは関東軍司令部第三課と書かれているが、加藤の調査によれば原元少佐は関東軍第一課、第四課には所属したことはあったが、第三課に所属した事実は確認できなかった[7]。加藤が千田夏光本人に問い詰めたところ、原証言は島田俊彦の著書『関東軍』(中公新書 1965年)の引用であり、インタビューではないことを認めた[6][7]テンプレート:Quotation その島田の著作も出典はなく、根拠を示していないものだったと西岡力は書いている[7]西岡力は、関特演は応召者の見送りさえ中止するほど秘密準備されたので大々的な慰安婦動員をすることはなく、また当時満州に民間の朝鮮人売春婦宿は多数営業していたと指摘している[7]

他方、原の助手役であった村上貞夫元曹長は「3000人くらい」を記憶していると手記に書いている[10]。虎頭憲兵分遣隊の本原政雄憲兵によれば、満州での慰安所開設が関東軍司令部から通達されると業者が出頭し、虎頭要塞の近くに朝鮮人慰安婦5〜6人を置く慰安所が設置された[11]。ほか海原治主計将校、森分義臣憲兵も慰安所(ピー屋)の証言を残している[12]。このほか、電話ホットライン『従軍慰安婦110番』に寄せられた声に「鉄道で一両に200人を乗せ、外からは見えないように連れて来た」(元軍医)、「関東軍戦時特別挺身隊という事でした」「朝鮮人女性は京城駅に2000人が集められ」「新京で降ろされ」2〜30人に分けられて「各地に送られた」(元通信教育隊員)といったものがある[13]


脚注

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  1. 大沼保昭「東京裁判から戦後責任の思想へ」(東信堂 1997年) 
  2. のち三一書房、三一新書1978年。文庫版は講談社文庫 1984年
  3. 千田1978,p102-105
  4. 千田1978,p103
  5. 千田1978,p104-5
  6. 6.0 6.1 加藤正夫「千田夏光著『従軍慰安婦』の重大な誤り」『現代コリア』1993年2・3月号、p55-6
  7. 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 西岡力「よくわかる慰安婦問題」p77-79
  8. 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』p97
  9. 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』p101
  10. 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』p97
  11. 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』p100
  12. 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』p100
  13. 吉見義明、林博史『共同研究 日本軍慰安婦』p89、p90、大月書店

参考文献

関連項目