日英同盟

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ファイル:Lansdowne club 01.jpg
日英同盟の調印が行われたランズダウン・クラブ(ランズダウン侯爵邸)入口

日英同盟(にちえいどうめい、Anglo-Japanese Alliance)は、日本イギリスグレートブリテン及びアイルランド連合王国)との間の軍事同盟1902年1月30日調印発効、1923年8月17日失効。

第一次日英同盟は、1902(明治35)年1月30日に調印され即時に発効した。その後、第二次(1905年)、第三次(1911年)と継続更新され、1923年8月17日に失効した。第一次世界大戦までの間、日本の外交政策の基盤となった。

日英同盟は、イギリスのロンドンランズダウン侯爵邸(現The Lansdowne Club 地図)において、林董駐英公使とイギリスのランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス外相により調印された[1]

概要

経緯

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第1次日英同盟条約批准書署名原本

イギリスは義和団の乱以来満州から撤兵しないロシアを牽制したいと考えていたが、イギリス単独ではイギリスの中国における利権の維持にあたるには限界があった。そこで、それまでの「栄光ある孤立」政策を捨て[2]、まずドイツとの交渉を試みるも、ドイツはロシアと手を結んだため失敗し、その後義和団の乱で活躍した日本に接近した。日本では、伊藤博文井上馨らがロシアとの妥協の道を探っていたが、山縣有朋桂太郎西郷従道松方正義加藤高明らはロシアとの対立はいずれ避けられないと判断してイギリスとの同盟論を唱えた。結果、日露協商交渉は失敗し、外相小村寿太郎の交渉により日英同盟が締結された。調印時の日本側代表は林董特命全権公使、イギリス側代表はペティ=フィッツモーリス外務大臣であった。

第一次日英同盟の内容は、締結国が他国(1国)の侵略的行動(対象地域は中国・朝鮮)に対応して交戦に至った場合は、同盟国は中立を守ることで、それ以上の他国の参戦を防止すること、さらに2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦することを義務づけたものである。また、秘密交渉では、日本は単独で対露戦争に臨む方針が伝えられ、イギリスは好意的中立を約束した。条約締結から2年後の1904年には日露戦争が勃発した。イギリスは表面的には中立を装いつつ、諜報活動やロシア海軍へのサボタージュ等で日本を大いに助けた。

第二次日英同盟では、イギリスのインドにおける特権と日本の朝鮮に対する支配権を認めあうとともに、国に対する両国の機会均等を定め、さらに締結国が他の国1国以上と交戦した場合は、同盟国はこれを助けて参戦するよう義務付けられた(攻守同盟)。

第三次日英同盟では、アメリカが、交戦相手国の対象外に定められた。ただしこの条文は自動参戦規定との矛盾を抱えていたため、実質的な効力は期待できなかったが、これは日本、イギリス、ロシアの3国を強く警戒するアメリカの希望によるものであった。また、日本は第三次日英同盟に基づき、連合国の一員として第一次世界大戦に参戦した。

第一次世界大戦後の1919年パリ講和会議で利害が対立し、とりわけ、国際連盟規約起草における日本の人種的差別撤廃提案が否決されたことは禍根として残り[3]、1921年、国際連盟規約への抵触、日英双方国内での日英同盟更新反対論、日本との利害の対立から日英同盟の廃止を望むアメリカの思惑、日本政府の対米協調路線を背景にワシントン会議が開催され、ここで、日本、イギリス、アメリカ、フランスによる四カ国条約が締結されて同盟の更新は行わないことが決定され、1923年、日英同盟は拡大解消した[4]

経過

日英同盟と日露戦争

テンプレート:節stub 日本にとって、当時、世界一の超大国であったロシア帝国の脅威は国家存亡の問題であった。それは、日本側は日清戦争勝利による中国大陸への影響力の増加、ロシア帝国側は外交政策による三国干渉後の旅順大連租借権・満州鉄道利権の獲得により顕著になった。両国の世論も開戦の機運を高めていった。

しかし、日本の勝算は非常に低く、資金調達に苦労していた。日英同盟はこの状況に少なからず日本にとって良い影響を与えた。

当時のロシア帝国は対ドイツ政策としてフランス共和国と同盟関係(露仏同盟)になっていた。日露開戦となると、当然軍事同盟である露仏同盟が発動し、日本は対露・対仏戦となってしまう危険性を孕んでいた。以上の状況に牽制として結ばれた日英同盟は、1対1の戦争の場合は中立を、1対複数の場合に参戦を義務づけるという特殊な条約であった(これは戦況の拡大を抑止する効果だと思われる)。結果、日英同盟は露仏同盟にとって強力な抑止力となった。上記の条約内容からフランスは対日戦に踏み込むことができなくなったばかりか、軍事・非軍事を問わず対露協力ができなくなった。

当時、世界の重要な拠点はイギリス・フランスの植民地になっており、主要港も同様であった。日本海海戦により壊滅したバルチック艦隊は極東への回航に際して港に入ることができず、スエズ運河等の主要航路も制限を受けた。また、イギリスの諜報により逐一本国へ情報を流されていた。

日本にとって日英同盟は、軍事資金調達の後ろ盾・フランス参戦の回避・軍事的なイギリスからの援助・対露妨害の強化といった側面を持つことになった。

ちなみに日露戦争においてはモンテネグロ公国も日本に対して宣戦布告したとされる。その場合、日本は国際法上2国を相手に戦争したこととなり、イギリスに参戦義務が生じていたこととなる。結局、モンテネグロ公国の宣戦布告は無視され、モンテネグロは戦闘に参加せず、講和会議にも招かれていない。

もっとも、モンテネグロが実際に宣戦布告していたか、宣戦布告が正規のものだったかどうかは、異説がある。(参考:技術上の問題で戦争状態が延びてしまった戦争のリスト)

日英同盟と第一次世界大戦

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トランシルバニア号救出翌日の駆逐艦榊
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マルタ共和国旧英国海軍墓地 (現英連邦墓地) にある修復直後の日本海軍第二特務艦隊戦没者の墓

日本は日英同盟に基づき連合国の一員として第一次世界大戦に参戦した。ドイツ帝国に宣戦布告したことにより、日清戦争後の三国干渉によってドイツが中国から得た膠州湾租借地、19世紀にスペインから得た南洋諸島を、日本は参戦後瞬く間に攻略して占領した。

大戦後半欧州戦線で連合国側が劣勢になると、イギリスを含む連合国は、日本軍欧州への派兵を要請してきた。これに対して日本政府は遠隔地での兵站確保は困難であるとして陸軍の派遣は断った。しかしながら、ドイツ・オーストリア海軍Uボート及び武装商船の海上交通破壊作戦が強化され、1917年1月からドイツおよびオーストリアが無制限潜水艦作戦を開始すると連合国側の艦船の被害が甚大なものになり、イギリスは日本へ、地中海へ駆逐艦隊、喜望峰へ巡洋艦隊の派遣を要請した。直接的に何の利益も生まない欧州派遣を、最初は渋っていた日本政府も、日本海軍の積極的な姿勢と占領した膠州湾租借地と南洋諸島の利権確保のため、1917年2月7日から順次日本海軍第一特務艦隊インド洋喜望峰方面、第二特務艦隊地中海第三特務艦隊南太平洋オーストラリア東岸方面へ派遣した。

中でも地中海に派遣された第二特務艦隊の活躍は目覚ましかった。大戦終結までの間、マルタ島を基地に地中海での連合国側艦船の護衛に当たり、イギリス軍艦21隻を含む延べ船舶数計788隻、兵員約70万人の護衛に当たった。そして、被雷船舶の乗組員7,075人を救助している。日本海軍が護衛に当たった「大輸送作戦」により、連合国側はアフリカにいた兵員をアレクサンドリアエジプト)からマルセイユフランス)に送り込むことに成功している。

特に、地中海での作戦を開始した1917年4月9日から1か月と経たない5月3日、駆逐艦松と榊はドイツUボート潜水艦の攻撃を受けたイギリス輸送船トランシルヴァニア号の救助活動に当たり、さらに続くUボートの魚雷攻撃をかわしながら、3,266名中約1,800人のイギリス陸軍将兵と看護婦の救助に成功した(その他の特務船と漁船による救助で合計3,000人を救助)。これ以前、救助活動にあたったイギリス艦船が二次攻撃で遭難して6,000名の死者を出したことにより、たとえUボートにより被害を出した船が近くにいたとしても、救助しないということになっていた。そのような状況での決死の救助活動であり、以来、日本海軍への護衛依頼が殺到した。後に、両駆逐艦の士官は、イギリス国王ジョージ5世から叙勲されている。

ところが、それからまた1か月後の6月11日、駆逐艦榊はオーストリア海軍のUボート(Smu-27)の攻撃を受け、魚雷が火薬庫に当たったため爆発で重油タンクより前部、船体の3分の1が一瞬のうちに、吹き飛んでしまった。この攻撃により、艦長以下59名が死亡した[6]

第二特務艦隊は、駆逐艦榊の59名を含み78名の戦没者を出した。これら戦没者の慰霊碑が、マルタの当時のイギリス海軍墓地に榊遭難から1年後に建立された。慰霊碑はイギリス海軍墓地の奥の一番良い場所を提供され、当時、日本海軍の活躍をいかにイギリス海軍が感謝していたかがわかる。

  • 慰霊碑は、第二次世界大戦時のドイツ軍によるマルタ包囲作戦で爆撃を受け、上4分の1が欠けてしまった。長らくその状態で荒れていたが、1974年新しく慰霊碑を作り直して復元した。

日英同盟とヴェルサイユ条約

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脚注

  1. それから遡ること120年前の1782年、アメリカ合衆国の独立を認めるパリ条約が、この全く同じ場所(日英同盟の調印されたランズタウン侯爵邸)でイギリスの首相シェルバーン卿(後のランズダウン侯)とベンジャミン・フランクリンによって作成されている。
  2. 「栄光ある孤立」政策放棄の原因としては、ボーア戦争での予想以上の苦戦や、強制収容所や焦土作戦に対する国際的非難があった。
  3. MSN産経ニュース【グローバルインタビュー】 - ヒュー・コータッツイ元駐日英大使「日本の人種差別撤廃条項を米英が否決したのは誤り」
  4. 2007年2月18日 NHK BS特集『世界から見たニッポン 大正編 日本はなぜ孤立したのか』
  5. アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新(下),A diplomat in Japan』坂田精一訳、岩波書店(岩波文庫)1990年、260頁の解説文、サトウは、はじめ1862年から約6年間外交官として、日本に滞在しており、伊藤博文(伊藤俊輔)、井上馨(井上聞多)の両名とは1864年(元治元年)の馬関戦争以来の旧知の間柄であった。そして1895年に、日本駐箚公使として再来日したのである。(なお、両名は長州藩より英国に派遣されており、馬関戦争直前に帰国していた。)
  6. 大正6年6月11日第11駆逐隊第1小隊(松、榊)戦闘詳報

参考文献

  • Ian H. Nish, The Anglo-Japanese Alliance: The diplomacy of two island empires 1894-1907, 2nd Edition, The Athlone Press, London and Dover NH, 1985.
  • Ian H. Nish, Alliance in Decline: A Study in Anglo-Japanese Relations 1908-23, The Athlone Press, London, 1972.
  • Phillips P. O'Brien(ed.), The Anglo-Japanese Alliance, 1902-1922, RoutledgeCurzon, London and New York, 2004.
  • 片岡 覚太郎 (著), C.W. ニコル (編集), 日本海軍地中海遠征記—若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦, 河出書房新社 2001.

関連項目

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外部リンク