ネルチンスク条約

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テンプレート:出典の明記 ネルチンスク条約(―じょうやく、中国語:尼布楚條約)は、1689年8月27日康熙帝時代のピョートル1世時代(摂政ソフィア・アレクセーエヴナ)のロシア・ツァーリ国との間で結ばれた両国の境界線などについて定めた条約。清とヨーロッパ国家との間に結ばれた初めての対等な条約で、その内容は満洲(現・中国東北部)での国境を黒竜江外興安嶺(スタノヴォイ山脈)の線に定めるというもの。

概要

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17世紀中頃からヴァシーリー・ポヤルコフエロフェイ・ハバロフなどロシア人の探検隊が黒竜江・アルグン川より南下(後の南下政策)するようになり、黒竜江沿いにはアルバジンの要塞が築かれた。このため清と李氏朝鮮の連合軍がたびたび「テンプレート:仮リンク」と呼ばれている討伐(1654年と1658年、テンプレート:Lang-zh-shortテンプレート:Lang-ko-shortテンプレート:Lang-ru-short)を行った。清は逃亡者の引き渡しをロシアに求め、さらにロシア人の撤退を求めた。しかし、ロシアはこれを拒否した。

清が討伐軍を本格的に動かし始めたため、ロシアの摂政ソフィア・アレクセーエヴナと顧問のテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクを特使として派遣し、1689年にネルチンスクで清のテンプレート:仮リンクと交渉を開始した。ロシアは清との交易を望み、清はテンプレート:仮リンク1687年-1697年)中であったことからモンゴルジュンガルを孤立させることを望んだため、利害関係が一致し、交渉が成立した。両国間では言語が異なるため条約の原文はラテン語からなっており、清側のアドバイザーとして二人のイエズス会テンプレート:仮リンク(Thomas Pereira、徐日昇)およびテンプレート:仮リンク(Jean-Francois Gerbillon、張誠)が交渉にあたった。

内容は、次の通りである。

影響

対等の条約ではあったが清にとって有利なものとなった。なぜならロシア側にとっての念願であった不凍港を獲得できなかったからである。2度のクリミア遠征(1687年、1689年)失敗とネルチンスク条約での譲歩は、ソフィア・アレクセーエヴナの摂政政府の威信を失墜させ、9月にゴリツィンはシベリアへ流罪となり、ソフィアは修道院に幽閉された。ピョートルの母ナタリヤ・ナルイシキナが実権を回復し、1694年に死去するまで国政を運営した。その後、ピョートルが親政を開始した。

清は、ロシア関係の事務をモンゴルや内陸アジアの朝貢を扱う理藩院で行うなど、ロシアを朝貢国としてみなしていた。その後、1858年アイグン条約で黒竜江が両国の境界線となり、1860年北京条約でネルチンスク条約は廃棄された。

関連項目