西岡剛 (内野手)
テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:Infobox baseball player 西岡 剛(にしおか つよし、1984年7月27日 - )は、阪神タイガースに所属するプロ野球選手(内野手)。
大阪府大東市出身。2007年の登録名は「TSUYOSHI」。
目次
経歴
プロ入り前
奈良市立平城東中学校時代に「郡山シニア」で全国大会出場。当時からずっとPL学園で野球をすることを望んでいたが、PL学園のセレクションに落選したことを直接通知され大ショックを受け、PL学園を倒すことを目標とし大阪桐蔭高等学校へ進んだ。本人曰く「来てもいいよ」とは言われたが、丁重に断り、その後、大阪桐蔭から熱烈な誘いがあったことから大阪桐蔭に進学。PL学園は2001年から2002年にかけて対外試合禁止処分を受けており、対戦のない時期もあったが、高校時代の3年間でPL学園に負けたことはなかった[1][2]。
3年時に主将で4番打者として第84回全国高等学校野球選手権大会出場。しかし初戦の対東邦高校戦に敗退。高校通算42本塁打[3][4]。
2002年のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズから1巡目指名を受けて入団[3][4]。背番号は7。
ロッテ時代
テンプレート:Byは春季キャンプから一軍に帯同。開幕一軍はならなかったが、6月21日に一軍初昇格し、初打席で戸叶尚から初安打となる二塁打を放っている。
テンプレート:Byはコーチの高橋慶彦の指導の下、プロ入り当初の左打ちからスイッチヒッターに転向して頭角を現す。この年、プロ初本塁打を含む6本塁打を放った。
テンプレート:By、東北楽天ゴールデンイーグルスとの開幕戦こそスタメンを外されたものの、中盤以降は堀幸一や小坂誠との併用ながら二塁手もしくは遊撃手としてのスタメン出場が増える。41盗塁で盗塁王を獲得(パリーグ最年少記録、1954年セリーグでの吉田義男と並ぶ日本プロ野球最年少タイ記録)。ベストナインを遊撃手部門、ゴールデングラブ賞を二塁手部門でそれぞれ受賞しリーグ優勝と日本一に貢献。この年のベストナイン二塁手部門は堀、ゴールデングラブ賞遊撃手部門は小坂であり、西岡とローテーションで二遊間を組んでいた二人であった。
テンプレート:ByはWBC日本代表に二塁手として選出。2次リーグのアメリカ戦では世紀の大誤審の際に走者としてタッチアップした(得点はにはならなかった)。レギュラーシーズンでは前年の二遊間併用の負担でひざを痛めたことから1番ショートに起用法が固定された。チームは4位に沈んだものの、自身は前年とほぼ同様の成績を残した。
テンプレート:By、1月7日に登録名を本名から「TSUYOSHI」に変更。この年は手首のケガや首痛などもありながら規定打席に到達。初の打率3割を残し、遊撃手部門でベストナインとゴールデングラブ賞を受賞。
テンプレート:By、1月7日に登録名を本名の「西岡剛」に戻すことを表明。同年より両耳にガードがあるヘルメットを使用。1年を通し新たに負った足の故障や持病の膝痛と首痛に苦しみ、盗塁は18に減り、打撃・守備・走塁に精彩を欠いた苦しい1年となったが、2年連続の打率3割到達、自身初の2桁本塁打を達成した。シーズン終了後にはサブローとともに球団負担で渡米し、故障箇所をメディカルチェックするとともにケガのケアやリハビリ方法を学んだ[5]。12月11日には西麻布で同期入団の早坂圭介と共に無賃乗車犯を取り押さえる[6]。また、高校の後輩である平田良介や中田翔を含む6人と「TEAM TSUYOSHI」を結成し、都内で合同自主トレを行った。
テンプレート:Byは、盗塁成功数、盗塁死数が前年シーズンより向上したものの、打率が.260と大きく低迷し安打数も118本と振るわなかった。一方で四球は大幅に増加したため出塁率は前年を上回った。シーズン中にボビー・バレンタインの解任が発表され、一部のファンが「死刑」など過激な言葉を用いて解任反対やフロント批判の横断幕を出したことに対して、9月26日のヒーローインタビューでは自ら段を下り2分間にわたり「本当にロッテを愛してるんなら、明日から、横断幕をおろしてください」と訴えた。翌日、ファンにより西岡を中傷する内容の横断幕が掲げられ、応援歌の演奏をボイコットされるなどしたため、翌日に自身のブログで自らの発言を謝罪した。[1]この年は3月に開催されたWBC日本代表への選出も目指したが落選。12月29日に行なわれた契約更改交渉では、「3年契約のときに、WBC(出場の評価)が入っていた。出ないのに受け取るのはおかしい。」との理由で、球団側に1000万円の返上を申し入れ、改めて日本代表へのこだわりを表明した[7]。
テンプレート:Byは里崎智也に代わってキャプテンに就任し、ユニフォームシャツの左胸に「C」マークが追加される。この年より社会貢献運動として、山田邦子が代表理事を務める「リボン運動・がんの薬を普及する会」に共鳴し、ヒット1本につき1万円を寄付する活動を始めた。レギュラーシーズンでは開幕から好調を続け、5月は打率.417、4本塁打、OPS1.167の成績を残し月間MVPを獲得。7月24日にはファッションモデルの徳澤直子と結婚することを自身のブログで報告し、26歳の誕生日である同月27日に婚姻届を提出。9月1日の対楽天戦でシーズン21回目の猛打賞を達成し、1950年の別当薫の球団記録を更新。9月12日の対埼玉西武ライオンズ戦で1回に左前打を放ってシーズン181安打とし、1961年に榎本喜八が記録したシーズン180安打を更新する球団新記録を達成。9月21日の対楽天戦でシーズン26回目の猛打賞を達成しイチローに並び、9月25日の対オリックス・バファローズ戦の4回に金子千尋から3安打目を放ち日本プロ野球新記録となる27回目の猛打賞を達成した。またイチロー以来パ・リーグ2人目、日本人のスイッチヒッターおよび、内野手としては初となるシーズン200本安打を達成し、史上4人目となるスイッチヒッターでの首位打者となり、最多安打のタイトルも獲得。全試合フルイニング出場も果たし、日本プロ野球新記録となるシーズン692打席を記録。シーズン後には遊撃手部門でベストナインとゴールデングラブ賞を受賞した。11月には自身のブログで「メジャーで野球をすることは子供の頃からの夢だった。自分の力も知った上で挑戦したい」と述べ[8]、メディアには「若いうちに挑戦して、日本人内野手の評価を上げたい気持ちが強い」と、入札制度を希望した理由を説明した[9]。リック・サーマンを代理人としてポスティングシステムによるメジャーリーグ移籍を申請し、ミネソタ・ツインズが532万9000ドルで交渉権を獲得した。
ツインズ時代
2010年12月17日にツインズと総額925万ドルの3年契約(4年目は年俸400万ドルの球団オプション)を結び、同球団初の日本人野手となった[10]。18日にはターゲット・フィールドにて背番号1のユニフォームを着て会見を行い[11]、会見の席には殿堂入り選手のポール・モリターも出席し、全面的なバックアップを約束したという[12]。背番号はロッテ時代と同じ7を希望していたが、ツインズの看板選手であるジョー・マウアーが着けていたため、1に決定した。
テンプレート:Byは、監督のロン・ガーデンハイアーから二塁手として起用されることが明らかにされ、スプリング・トレーニングで13試合連続安打を記録して打率.345の成績を残し、4月1日のトロント・ブルージェイズとの開幕戦でメジャーデビュー。26歳での出場は日本人野手最年少となった。しかし7日の対ニューヨーク・ヤンキース戦で一塁走者のニック・スウィッシャーが二塁に滑り込んだ際に交錯し、左足腓骨の骨折でDL入り[13]。アドバンスドA級フォートマイヤーズで調整中にはポール・モリターから併殺プレーなどの指導を受け[14]、フォートマイヤーズとAAA級ロチェスターで計7試合に出場後、6月16日の対シカゴ・ホワイトソックス戦で遊撃手として復帰したが[15]、7月まで打率.206、出塁率.259と低迷。8月8日には第一子(女児)が誕生し[16]、8月からは打率.272、出塁率.323と復調し始めたものの、8月下旬から右わき腹を痛め、9月は5試合に出場した後DL入りしシーズンを終了した[17]。左投手に対し打率.203と苦しんだ他、外角に対応できていないことが指摘され[18]、シーズンを通して68試合の出場で打率.226、出塁率.278、19打点、2盗塁の成績に終わり、守備でも遊撃手でDRS-10、UZR-6.3、二塁手でDRS-1、UZR-1.1と攻守共に精彩を欠き、CBSスポーツからア・リーグ最低殊勲選手(Least Valuable Player=LVP)候補の一人に挙げられたが[19]、結果はアダム・ダンが選出された。
テンプレート:By2月、妻の徳澤直子と離婚協議中であることが報じられた[20]。スプリングトレーニングでは左手小指を痛め、3月19日にAAA級ロチェスターへ降格[21]。開幕もマイナーで迎え、4月24日には右足首の捻挫でDL入りした[22]。マイナーでの前半戦は63試合の出場で打率.228、1本塁打、出塁率.300、6盗塁に終わるも後半戦から復調し始め、ダニー・バレンシアの移籍に伴い8月6日にメジャー昇格。しかし今季初出場となる対インディアンス戦で2失策を喫す。3試合に先発出場したが12打数無安打、1打点で攻守ともに精彩を欠き、13日に再降格[23]。20日に40人枠から外れた[24]。後半戦はロチェスターで38試合に出場し、打率.303、1本塁打、出塁率.337、1盗塁を記録。シーズン終了後に翌年の年俸325万ドルの契約解除を申し出、9月28日に自由契約となる[25]。
阪神時代
2012年11月20日、阪神タイガースと2年総額4億円プラス出来高で契約[26][27]。入団交渉の際には本人の申し出により球団提示額から1億円を返上して出来高に置き換え、ポジションの確約も辞退した[28]。背番号は7。会見では「すごく伝統のあるチームで思う存分、暴れたい」と語った[29]。
テンプレート:Byは、「1番・二塁手」としてレギュラーに定着。前年5位の阪神を、2位に押し上げる原動力となった[30]。開幕戦の対ヤクルト戦(神宮)で移籍後初安打・初打点を含む3安打2打点を記録[31]。4月2日の対中日戦(京セラドーム)では9回にサヨナラタイムリーを放った[32]。5月4日の対ヤクルト戦(甲子園)で日米通算1000本安打を達成[33]。5月11日の対ヤクルト戦(松山)で1試合5安打を記録すると[34]、5月18日の対ソフトバンク戦(甲子園)では交流戦最多記録(通算5本目)となる先頭打者本塁打を放った[35]。5月21日の対西武戦(西武ドーム)で左膝の異変を訴えてからは[36]指名打者として出場するが[37]、6月5日の対西武戦(倉敷)でこの年2度目のサヨナラタイムリー[38]。リーグ戦の再開後は、7月10日の対中日戦(那覇)で3安打4打点を挙げると[39]、同月16日の対巨人戦(甲子園)で日本通算1000本安打を達成[40]。一軍監督の和田豊からは、前半戦のMVPに選ばれた[41]。オールスターゲームには、ロッテ時代の2005年以来2度目となる二塁手部門でのファン投票1位で出場[42][43]。しかし、左膝の状態が思わしくないことから、7月30日に移籍後初めて出場選手登録を抹消された[44]。8月16日に一軍へ復帰し、2安打と決勝点のホームを踏んだ[45]。8月30日の対広島戦(甲子園)では、プロ入り後初めて三塁手として出場[46]。9月7日の対巨人戦(甲子園)では、ロッテ時代の2009年以来4年振りに3番打者で出場すると、2安打1打点を挙げた[47]。シーズン終了後、二塁手としては初のベストナインを受賞。ロッテ時代に遊撃手部門で3回選出されていたため、セ・パ両リーグでのベストナイン受賞を達成した[48][49]。
2014年、3月30日の対巨人戦(東京ドーム)の2回裏の二塁守備で、大竹寛が放った浅い飛球を追って背走中に右翼手の福留孝介と交錯(記録は右越2点三塁打)。その勢いで身体が宙を舞ったあげく、後頭部から人工芝のグラウンドに落下した。西岡には手足を動かせるほどの意識があったが、審判団やドームに常駐する医師の判断で試合を25分間中断。グラウンドに乗り入れた救急車で病院に搬送された[50]。搬送先の病院では、脳に異常を認められなかった一方で、鼻骨の骨折・胸部の打撲・軽度の左肩鎖関節の脱臼と診断[51]。2日間の入院を経た4月1日には、左右の第1肋骨の骨折も判明したため、一軍出場選手登録を抹消された[52]。当初は全治不明と発表されていたが、6月27日の対中日戦(甲子園)で、「1番・三塁手」として約3ヶ月振りに一軍へ復帰[53]。前述の激突以来初めて東京ドームでに登場した7月11日の巨人戦では、6回表1死2・3塁で代打に起用されると、内野を5人で守る変則ソフトをかいくぐって無人の中堅へ2点二塁打を放った[54]。しかし、右肘痛の発症で打撃不振へ陥ったことに加えて、激突の影響による背中の痛みが再発。国内FA権の資格取得条件を満たす予定だった7月23日に、登録を再び抹消された[55]。
選手としての特徴
プロ入り後にスイッチヒッターに転向しているが、生来は右打者。小学校 - 中学時代に左打者に転向し高校時代までは右投左打、その後左打から両打になるという経緯でスイッチヒッターとなった[56]。2006年から2010年までの5年間通算の対右投手打率.293に対して、対左投手打率.320と左投手に強く、特に打率3割を越える年は全て対右投手よりも対左投手の打率が高い傾向にある(2007年.380、2008年.313、2010年.387)。俊足の一番打者がよく試みる三塁線へのセーフティバントは少ないが、代わりに一二塁間へのプッシュバントを試みることが多く[57]、2005年の日本シリーズ第1戦や2006年のWBCの決勝戦などの大舞台でも成功させている。
「スピードスター」と呼称されるが、50メートル走のタイムは6.1秒、一塁到達3.97秒[58]と歴代の盗塁王の中でも飛びぬけて速くはなく、一塁到達スピードは打席の左右に関わらずムラが大きい[59]。一方でトップスピードは非常に速く、打席から三塁到達まで11.12秒[58][57]、バント時には一塁到達3.54秒を記録したこともある[59]。盗塁は早いカウントから積極的に仕掛けていくが[56]、日本での盗塁成功率は約70パーセントとそれほど高いわけではない。
守備では遊撃手と二塁手をこなし、遊撃守備では三遊間の打球に弱く失策も少なくないが[60]、定位置付近から二遊間の打球に強く[61]、2010年には600イニング以上に出場した遊撃手で両リーグ1位のUZR13.1を記録するなど失策数を補って余りある守備範囲を誇る[60]。2005年には監督のボビー・バレンタインによる状況に応じてその都度二塁手または遊撃手に配置転換するという起用法が話題となり、2006年のWBCでは二塁手として起用された。2005年に膝痛を患って以降、連鎖的な下半身の故障や首痛などのケガが非常に多く、前任の小坂誠が移籍した2006年以降はチーム内での役割や負担の増加を考慮し遊撃手で固定起用され、他の守備位置にはついていなかったが、ツインズ移籍当初は二塁手として起用された。しかし2011年は遊撃手でDRS-10、UZR-6.3、二塁手でDRS-1、UZR-1.1を喫し、強い打球の処理に苦戦したことや、不必要なスピンやダブルクラッチをするなどしてボールを長く持ちすぎる点、味方野手との連携不足が指摘された[62]。
2013年には、本塁打やサヨナラ安打を放ったチームメートを出迎える際のチームパフォーマンスとして、左右の親指・人差し指・中指を立てたまま空中へ一斉に腕を振り上げるポーズをチームメートの関本賢太郎と共に提案。同じ内野手の新井良太などによる協力の下で、公式戦の開幕からチーム内に浸透させた。西岡・関本は8月26日に、このポーズの意味が「応援するファンへの感謝(Gratitude)」であることを明かしたうえで、ポーズの名称を「Gratiii(グラティ)」と発表。球団ではこの発表を受けて、「Gratiii」ブランドの公式グッズの発売を開始した[63]。その一方で、相手チームの投手や一部の野球評論家・野球解説者(同年の秋季キャンプで「ゼネラルマネジャー付育成&打撃コーディネーター」として現場に復帰した掛布雅之など)から、「Gratiii」をめぐって「(相手に対する)尊敬の念が感じられない挑発行為」という趣旨の批判が続出。選手代表と球団関係者が話し合いを重ねた末に、2014年シーズンには、「選手側で新しいチームパフォーマンスを考える」という条件で「Gratiii」の披露を見送ることになった[64]。
人物
座右の銘は「先憂後楽」[56]。
プロでは俊足巧打の1番打者タイプとして認知されているが、高校時代は通算本塁打42本という記録が物語る通り長距離打者であり、練習中にあまりにも打球を飛ばすため、ライトフェンスのさらに後方に「西岡ネット」と呼ばれるネットが設けられ、試合では「西岡シフト」なるものを敷かれるほど長打を恐れられていた。
ロッテでコーチを務める高橋慶彦から若手時代に「とにかく練習。そうすれば野球の神様は必ず見てるから結果はついてくる」と言われて熱心に練習に取り組むようになり[56]、ロッテ時代にはチームの中でも最もハードなトレーニングをこなすようになった。当時の監督のボビー・バレンタインが怪我を恐れ練習量を抑えるよう指導したことがある。しかし西岡が練習量を抑えた後にはバレンタインは一転して「もっとやってくれると思った。彼はもっと上を目指せる。偉大な選手になるには、この時期にすべてをささげて打ち込まないと」などと報道陣にコメントしたこともあった[65]。
中村剛也(埼玉西武ライオンズ)は大阪桐蔭高校の1年先輩。中田翔(北海道日本ハムファイターズ)や、阪神でのチームメートである藤浪晋太郎・西田直斗などは同校での後輩に当たる。高校時代には中村の方が足が速く、中田とはプロ入り後に合同で自主トレーニングを敢行している。藤浪・中田と共に出場した2013年のオールスターゲーム第2戦(神宮)では、試合前に2人と相談したうえで、(セントラル・リーグの4番手として登板予定の)藤浪が(パシフィック・リーグの4番打者として先発出場の)中田を打席に迎えた際に山なりのスローボールを投げるように指示。当の藤浪は、6回裏の中田の打席で2球続けてスローボールを投げた後に、145km/hの速球で中田を三振させた[66]。
阪神へ移籍した2013年開幕直後のヒーローインタビューでは、「必死のパッチ」(関本や現役時代の矢野燿大がヒーローインタビューで多用していた関西弁)を決め台詞に使うことで、場内をたびたび沸かせていた[67]。もっとも、移籍後2度目のサヨナラ安打を放った6月5日の対西武戦(倉敷マスカットスタジアム)でのヒーローインタビューでは、「最近、そのブームは(自分の中で)終わった。『もういいかな』と思う」と発言[38]。7月10日の対中日戦(沖縄セルラースタジアム那覇)でのヒーローインタビュー中には、三塁の守備で2失策を記録しながら先制打を放った坂克彦を呼び寄せたうえで、特別にインタビューを受けさせていた[68]。ちなみに、チームメート(大和など)からは、「つよぽん」と呼ばれているという[69]。
交友関係
大相撲の元大関千代大海(現・佐ノ山親方)と仲が良い。共通の知人を介して交流を深め、西岡いわく「僕のお兄ちゃん」と呼ぶほどの仲。千代大海は2008年6月14日のロッテ対阪神戦に招待され、始球式を務めた後、そのままバックネットから観戦し、当時ロッテに在籍していた西岡の奮起を促した。西岡は続くヒーローインタビューの壇上で「今日のヒーローはボクじゃない。千代大海関でしょう」と同大関を招き入れ、共にファンの歓声を受けると言う一幕があった。
芸能界では、亀梨和也(KAT-TUN)やたむらけんじとの親交が深い。亀梨とは、「つよくん」「かずくん」と呼び合う仲で、ロッテ時代には容姿が似ていることから「ロッテの亀梨くん」と言われることもあった。
ツインズ時代から西岡と交流していることを出演番組で公言しているたむらは、西岡が阪神に移籍した2013年から、西岡が猛打賞を記録した試合の翌日に(自身が経営する)炭火焼肉たむらの食事券を「スポーツニッポン」(大阪本社発行版)の読者に抽選でプレゼント。西岡も、阪神移籍後初めての本塁打を放った同年5月19日の対ソフトバンク戦(甲子園)の試合後にヒーローインタビューへ迎えられると、「多分この球場のどこかに、たむらけんじが来てると思うんですよ。たむらけんじは(球場で観戦する西岡出場試合ではこの試合が)初勝利なんで、おめでとう。もし見掛けたら(たむらを)野次って下さい」とのジョークでインタビューを締めくくった[70]。
詳細情報
年度別打撃成績
テンプレート:By2 | ロッテ | 7 | 11 | 9 | 3 | 3 | 2 | 0 | 0 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | .333 | .455 | .556 | 1.010 |
テンプレート:By2 | 63 | 232 | 212 | 32 | 54 | 8 | 2 | 6 | 84 | 35 | 8 | 2 | 2 | 2 | 14 | 0 | 2 | 37 | 2 | .255 | .304 | .396 | .701 | |
テンプレート:By2 | 122 | 493 | 447 | 80 | 120 | 22 | 11 | 4 | 176 | 48 | 41 | 9 | 6 | 4 | 31 | 0 | 5 | 51 | 6 | .268 | .320 | .394 | .714 | |
テンプレート:By2 | 115 | 485 | 426 | 58 | 120 | 20 | 7 | 4 | 166 | 27 | 33 | 17 | 4 | 3 | 49 | 2 | 3 | 61 | 6 | .282 | .358 | .390 | .747 | |
テンプレート:By2 | 130 | 559 | 494 | 76 | 148 | 31 | 3 | 3 | 194 | 40 | 27 | 13 | 7 | 4 | 50 | 0 | 4 | 73 | 3 | .300 | .366 | .393 | .759 | |
テンプレート:By2 | 116 | 522 | 473 | 78 | 142 | 26 | 6 | 13 | 219 | 49 | 18 | 11 | 4 | 2 | 36 | 1 | 7 | 68 | 3 | .300 | .357 | .463 | .820 | |
テンプレート:By2 | 120 | 531 | 454 | 70 | 118 | 24 | 5 | 14 | 194 | 41 | 26 | 10 | 3 | 2 | 67 | 3 | 5 | 76 | 6 | .260 | .361 | .427 | .787 | |
テンプレート:By2 | 144 | テンプレート:Color | 596 | 121 | 206 | 32 | 8 | 11 | 287 | 59 | 22 | 11 | 8 | 5 | 79 | 1 | 4 | 96 | 8 | .346 | .423 | .482 | .904 | |
テンプレート:By2 | MIN | 68 | 240 | 221 | 14 | 50 | 5 | 0 | 0 | 55 | 19 | 2 | 4 | 3 | 0 | 15 | 1 | 1 | 43 | 1 | .226 | .278 | .249 | .527 |
テンプレート:By2 | 3 | 14 | 12 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .071 | .000 | .071 | |
テンプレート:By2 | 阪神 | 122 | 549 | 497 | 57 | 144 | 28 | 3 | 4 | 190 | 44 | 11 | 3 | 0 | 6 | 44 | 2 | 1 | 65 | 6 | .290 | .346 | .382 | .729 |
NPB:9年 | 939 | 4074 | 3608 | 575 | 1055 | 193 | 45 | 59 | 1515 | 344 | 185 | 76 | 34 | 28 | 372 | 9 | 31 | 528 | 40 | .292 | .360 | .420 | .784 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
MLB:2年 | 71 | 254 | 233 | 14 | 50 | 5 | 0 | 0 | 55 | 20 | 2 | 4 | 3 | 1 | 16 | 1 | 1 | 44 | 1 | .215 | .267 | .236 | .503 |
- 2013年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高、テンプレート:ColorはNPB最高
年度別守備成績
年度 | 球団 | 二塁 | 三塁 | 遊撃 | |||||||||||||||
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試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | ||
2005 | ロッテ | 91 | 137 | 211 | 2 | 38 | .994 | - | 63 | 85 | 173 | 3 | 33 | .989 | |||||
2006 | - | - | 115 | 183 | 339 | 13 | 59 | .976 | |||||||||||
2007 | - | - | 127 | 191 | 421 | 15 | 83 | .976 | |||||||||||
2008 | - | - | 115 | 142 | 324 | 10 | 66 | .979 | |||||||||||
2009 | - | - | 115 | 163 | 327 | 12 | 61 | .976 | |||||||||||
2010 | - | - | 144 | 222 | 440 | 19 | 81 | .972 | |||||||||||
2011 | MIN | 6 | 10 | 14 | 2 | 8 | .923 | - | 60 | 96 | 172 | 10 | 33 | .964 | |||||
2012 | 3 | 6 | 11 | 2 | 5 | .895 | - | - | |||||||||||
2013 | 阪神 | 108 | 186 | 316 | 7 | 53 | .986 | 7 | 8 | 6 | 1 | 1 | .933 | - | |||||
NPB:7年 | 199 | 323 | 527 | 9 | 91 | .990 | 7 | 8 | 6 | 1 | 1 | .933 | 679 | 986 | 2024 | 72 | 383 | .976 | |
MLB:2年 | 9 | 16 | 25 | 4 | 13 | .911 | - | 60 | 96 | 172 | 10 | 33 | .964 |
- 2013年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
表彰
- ベストナイン:4回(遊撃手部門・2005年、2007年、2010年、二塁手部門・2013年)
- ゴールデングラブ賞:3回(二塁手部門・2005年、遊撃手部門・2007年、2010年)
- 月間MVP:4回(2005年3月・4月、2010年5月、2010年9月)
- JA全農Go・Go賞:1回(最多二・三塁打賞・2007年8月)
- 千葉市市民栄誉賞(2006年)
記録
- 初記録
- 初出場:2003年6月23日、対西武ライオンズ14回戦(西武ドーム)、9回表に堀幸一の代走で出場
- 初打席・初安打:2003年6月28日、対オリックス・ブルーウェーブ15回戦(千葉マリンスタジアム)、7回裏に初芝清の代打で出場、戸叶尚から左中間二塁打
- 初先発出場:2003年6月29日、対オリックス・ブルーウェーブ16回戦(千葉マリンスタジアム)、2番・二塁手で先発出場
- 初打点:2003年7月1日、対日本ハムファイターズ14回戦(東京ドーム)、5回表にカルロス・ミラバルから右中間へ適時二塁打
- 初本塁打:2004年6月27日、対西武ライオンズ16回戦(富山市民球場アルペンスタジアム)、2回裏に後藤光貴から右越先制2ラン
- 初盗塁:同上、8回裏に二盗(投手:大沼幸二、捕手:野田浩輔)
- NPB節目の記録
- MLB、NPBにまたがった記録
- 日米通算1000安打:2013年5月4日、対東京ヤクルトスワローズ8回戦(阪神甲子園球場)、6回裏に正田樹から左越三塁打 ※史上7人目
- その他の記録
背番号
- 7 (2003年 - 2010年、2013年 - )
- 1 (2011年 - 2012年)
登録名
- 西岡 剛 (にしおか つよし、2003年 - 2006年、2008年 - )
- TSUYOSHI (2007年)
登場曲
- Spitfire(The Prodigy)(2010年)
- 海の家(TUBE)(夏期の7 - 8月限定)
- カーテンコール(強)(2013年前半戦)
- スーパースター(強)(2013年後半戦 - )
関連情報
著書
- 『全力疾走』(宝島社、2013/10、ISBN 978-4800216212)
関連書籍
- 『西岡剛 SUPER SPEED STAR (スポーツアルバム (No.17)) (ムック)』(ベースボールマガジン社、2006/5、ISBN 978-4583613895)
- 『7 (SEVEN) 西岡剛 OFFICIAL BOOK』(橋本清著、三修社、2008/8、ISBN 978-4384077773)
CM出演
- ロッテ「グリーンガム」(2005年 - 2006年、バレンタイン監督や菊地凛子、チームメイトとの共演)
- ロッテ「ガーナ」(2006年、里崎智也や、長澤まさみ、チームメイトとの共演)
- アディダス(2007年)本項の経歴に書かれている通り、PL学園野球部に入ることが出来なかったエピソードを語っている。
- 上新電機(2014年 - 、チームメイトの能見篤史や藤浪と共演)
PV出演
脚注
関連項目
外部リンク
- Tsuyoshi#1 - 公式ブログ
- テンプレート:Facebook
- 個人年度別成績 西岡剛 - 日本野球機構オフィシャルサイト
- テンプレート:MLBstats
テンプレート:阪神タイガース テンプレート:Navboxes テンプレート:Navboxes
テンプレート:千葉ロッテマリーンズ2002年ドラフト指名選手- ↑ 2007年12月22日のトヨタ スポーツドリーム出演時
- ↑ 第78回センバツ高校野球大会公式ガイドブックのインタビュー
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- ↑ 4.0 4.1 テンプレート:Cite web
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- ↑ 西岡&早坂お手柄!俊足で無賃乗車男“御用”スポーツニッポン、2008年12月31日
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- ↑ 熱い声援ありがとうございました!!(本人ブログ、2010年11月10日付)
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- ↑ Twins, Tsuyoshi Nishioka agree to termsESPN、2010年12月17日。
- ↑ Twins introduce Tsuyoshi NishiokaESPN、2010年12月18日。
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- ↑ The Twins have sent special assistant Paul Molitor to Fort Myers
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- ↑ Tsuyoshi Nishioka needs 'mulligan' on yearCBSSPORTS.COM、2011年8月20日。
- ↑ ツインズ西岡“最低殊勲選手”候補に…川崎&中島の米移籍に影響か夕刊フジ2011年11月28日配信
- ↑ 西岡が離婚協議 直子夫人と別居状態認める スポーツニッポン2012年2月2日配信
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- ↑ 西岡、右足首捻挫でDL 骨には異常なし日刊スポーツ、2012年4月25日。
- ↑ 西岡がマイナー降格 日刊スポーツ2012年8月14日配信
- ↑ 西岡40人枠外れる メジャーで今季無安打日刊スポーツ2012年8月21日配信
- ↑ Twins Release Tsuyoshi NishiokaMLB TRADERUMORS、2012年9月29日
- ↑ 西岡剛選手の入団について阪神公式サイト2012年11月20日配信
- ↑ 阪神 西岡獲得を発表 本人から連絡「お世話になります」スポーツニッポン2012年11月20日配信
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- ↑ 【阪神】西岡入団会見「暴れたい」背番7日刊スポーツ2012年11月20日配信
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- ↑ 阪神西岡全力で走れず、足に張りか日刊スポーツ2013年5月21日配信
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- ↑ 【阪神】西岡3年ぶり出場「幸せ」/球宴 日刊スポーツ2013年6月24日配信
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- ↑ 西岡 4年ぶり3番で存在感「ちょっと変わった2番のつもり」スポーツニッポン2013年9月6日配信
- ↑ 阪神・西岡が両リーグでのベストナイン受賞!二塁手としては初サンケイスポーツ2013年11月21日配信
- ↑ 西岡が両リーグ受賞「必死に一年間頑張ってきた結果 うれしい」スポーツニッポン2013年11月21日配信
- ↑ 阪神・西岡 打球追い福留と激突 グラウンドに救急車、病院直行スポーツニッポン2014年3月30日配信
- ↑ 阪神西岡は鼻骨折、胸部打撲、左肩脱臼デイリースポーツ2014年3月30日配信
- ↑ 西岡 左右の肋骨骨折していた…登録抹消、長期離脱もスポーツニッポン2014年4月1日配信
- ↑ 虎に復活「1番西岡」きょう先発復帰濃厚日刊スポーツ2014年6月27日配信
- ↑ 西岡ただいま8連勝ガラ空き中堅へ2点打日刊スポーツ2014年7月12日配信
- ↑ 阪神西岡 国内FA取得目前に登録抹消日刊スポーツ2014年7月24日配信
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