自由民主党総裁
テンプレート:画像改訂依頼 テンプレート:Infobox Political post 自由民主党総裁(じゆうみんしゅとうそうさい、英:President of the Liberal Democratic Party)は、自由民主党の党首。自由民主党の国会議員および党員・党友などによる自由民主党総裁選挙によって選出される。「総裁」の役職名は、立憲政友会・日本自由党から引き継いだもの。
概要
自由民主党は、1955年11月の結党から2009年8月まで及び2012年12月から、衆議院で比較第1党を保っているため、この間、1993年7月から1996年1月まで及び2009年9月から2012年12月までの期間を除き、歴代の自由民主党総裁は国会で首班指名され内閣総理大臣を務めている。従って長年、自民党総裁は内閣総理大臣と同一視され、総理総裁と呼ばれることもある。歴代の総裁で内閣総理大臣に就任していない者は、河野洋平(第16代)と谷垣禎一(第24代)の2名のみである。
なお、自民党が与党であるものの首相を出さなかった村山内閣(1994年6月 - 1996年1月)においては総裁である河野(1994年6月 - 1995年10月)、橋本龍太郎(1995年10月 - 1996年1月)が副総理として入閣している。また橋本は第17代総裁任期途中で第82代内閣総理大臣に、安倍晋三も第25代総裁任期途中で政権交代によって第96代内閣総理大臣に就任しているため、現時点で最後まで野党総裁であったのは谷垣のみである。
与党時代の自民党総裁は首相の肩書きが優先されるため、一般的に総裁の肩書きが使用されることは少ない。ただし、マスメディアでは、衆議院議員総選挙・参議院議員通常選挙期間中の選挙報道のみ、総裁の肩書きが優先される慣例がある。なお、総裁が首相を兼務する場合、党務は幹事長が主に担当する。
総裁は、自由民主党則6条1項が引用する総裁公選規程第1条により「党所属国会議員、党員、自由国民会議会員および国民政治協会会員」による公選が原則だが、党則6条2項により、総裁が任期中に欠けた場合で緊急の事態により正規の総裁選挙が行えない場合には、「党大会に代わる両院議員総会」において、所属する全ての現職国会議員及び都道府県連合の代表者による投票によって新総裁を選出する場合もある。
また、党の有識者や幹部等による話し合い調整に基づいて新総裁候補者を1本化し、両院議員総会での承認を受けて新総裁を決定する場合もある。なお、自由民主党総裁に立候補できる者は、総裁公選規程9条により、党所属国会議員に限定される。
総裁任期は党則80条1項により、現在3年である。総裁任期はたびたび変更されており、1955年の結党時から1972年までは2年、1972年から1978年までは3年、1978年から2003年まで2年、2003年以降は3年となっている。前任者が任期半ばで辞任した場合は、後任は前任者の残任期を務める。1974年以降、 総裁公選規程10条により、「引き続き2期(前任者の途中退任による残任期間を除く)にわたり総裁に在任する者は、その在任に引き続く総裁選挙における候補者となることができない」と定められ、連続3選は禁止されている。ただし、中曽根康弘は1986年の衆参同日選挙での大勝を理由に例外として2期目の任期の1年延長を認められた。その後も、小泉純一郎のもとで実施された2005年の郵政選挙での歴史的圧勝をうけて小泉の総裁2期目の任期を延長しようとする動きが党内であった(実際は小泉が受け入れなかったため、延長されなかった)。
四十日抗争の際など過去に何度か、「総理・総裁分離論」(総理と総裁を別の人が務める)というのが案として出たことがあるが、自民党政権下では自民党内で総理と総裁を別の人が務める体制が採られた例はない。
総裁の再任については特に規定はないが、現在までのところ21代総裁だった安倍が25代総裁に再任された例が唯一となっている。これ以前にも実現こそしなかったものの、総裁(総理)経験者が再び総裁(総理)候補として名前が上がることがあり、1989年の竹下内閣総辞職後に、第8代総裁の福田赳夫を総理総裁として期待する勢力が党内に少なからず存在していた(福田は高齢(当時84歳)を理由に辞退している)。また、これとは多少事情が異なるが、第14代総裁の海部俊樹が1994年の羽田内閣総辞職後、政治団体・高志会の代表として、首相指名選挙に擁立されたことがある。これは、自民党が第81代の首相を決める首相指名選挙で、日本社会党委員長の村山富市を首相に擁立する方針を示したことに強く反発して自民党を離党した議員に、羽田政権の与党が自民分裂を狙ってこれに乗じたものであるが、結局、自民党・日本社会党・新党さきがけが擁立した村山に決選投票で敗北した。
権限
党則に規定される権限を示す。
総則
- 党の最高責任者として党を代表し党務を総理する
人事
- 副総裁を党大会における承認に先立ち指名する
- 総務31名のうち11名を指名する
- 総務会の承認を受け幹事長、政務調査会長、選挙対策委員長、財政委員、広報本部長、組織本部長、人事委員を決定する
- 総務会の議を経て顧問、参与、党友、賛助員を委嘱する
- 人事委員の中から人事委員長を指名する
- 党紀委員28名のうち6名を指名する
- 役員連絡会の参加者を指名する
なお、総務会長は総務会の互選で選ばれ、国会対策委員長は総務会の承認を経て幹事長が決定する。党則上は総裁がこれらの人事に関与する規定はない。
執行
- 役員会を招集し、議長として運営に当たる
- 選挙対策本部長、中央政治大学院総長の任につく
- 総務会の議を経て党大会を招集する
- 総務会の議を経て党の臨時特別機関を設ける
- 総務会の議を経て党費額を決定する
歴代自由民主党総裁一覧
- 名前太字は就任時点で派閥領袖。形式上な派閥解消または派閥離脱をしている場合は、実質的な所属派閥を記載。
- 25px は任期中首相に就任した者。
- 15px は自民党が政権を失った時点での総裁。
- 15px は自民党が政権復帰した時点での総裁。
- 選挙名斜字は衆参同日選挙。
- 背景灰色は任期中与党入りしていない総裁。
その他
総総分離論
総裁以外の自民党国会議員が内閣総理大臣に就任することについて、自民党議員から首相を選出する場合、過去の特殊な例外を除き総裁を首相に選出しているが、権力の分散、責任の分担、党内融和の観点から、しばしば総理と総裁の分離案が浮上している。しかし、過去に何度か分離案が浮上しても調整段階で失敗している。著名な例としては大福戦争時の「大平総理・福田総裁」案があるが、これは大平が「福田総裁代行」とすることを要求し、いずれも成案とならずハプニング解散に至る。鈴木善幸退陣後の党内調整では「中曽根総理・福田総裁」案がまとまりかけたが、これも中曽根と田中角栄の拒否により流れ総裁公選となる。
総裁以外の自民党議員が首相に選出された例は、1957年2月25日の石橋湛山の総裁時代における岸信介の首相選出や、1964年11月9日の池田勇人の総裁時代における佐藤栄作の首相選出がある。また、麻生太郎の総裁時代である2009年9月16日には、首相に選出はされなかったものの両院議員総会長の若林正俊が自民党の首相候補となった。
しかし、これらは総理総裁であった石橋、池田が病気のために首相はおろか自民党総裁など政治家としての公務が難しい状況であったこと、3、4ヶ月前の総裁選で岸、佐藤が現総裁に次ぐ2位であったこと、岸、佐藤両者とも総裁から後継総裁に指名され次期総裁就任が目されていたこと、岸、佐藤両者とも首相就任から1ヶ月して自民党総裁に正式に就任していることから、また麻生の総裁時代に若林が首相候補となったのは、衆議院総選挙大敗によって自民党議員が首相になれないことが確実視されていたこと、衆議院総選挙大敗の責任を取る形で麻生執行部の退任がすでに決定している中で後継総裁はまだ選出されていなかったという事情によるもので、総総分離体制が持続されていた、もしくはそれを視野に入れた選出とはみなされていない。
なお、総裁を退くと首相も辞任することと、首相を辞任したら総裁も退くことが慣例化しているため、自民党において総総分離体制が持続されたことはない。
詳しくは、概要を参照。
総理総裁の条件
党則上、国会議員の党員全員に総裁の資格はあるが、現実問題として実績がない者が総裁選挙に出馬したところで選出される役職ではなく、田中角栄は総理総裁の条件として、「党三役のうち幹事長を含む二役(つまり、他に総務会長か政調会長のいずれか)、内閣で外務・大蔵・通産のうち二閣僚」(の経験者である事)を挙げていた。それらの要職を歴任しさえすれば必ず総理総裁になれると言うわけではないが、総理総裁候補の実力者なら経験しているのは当然と考えていたと思われる。野田聖子も、2009年に自民党が下野した際に総裁選に出ようとして、後見役の古賀誠から同様に「資格は小選挙区出で三役経験者だ」と言われ止められたという[5](この時は谷垣禎一が候補に名乗りを上げ当選した)。三角大福(三木武夫、田中、大平正芳、福田赳夫)の時代はこの条件を一応クリアしていた。
しかし、鈴木善幸以降は条件に該当しない総理総裁が多く、田中が挙げた条件全てを満たした自民党の議員は、安倍晋太郎、三塚博、桜内義雄、橋本龍太郎の4人、総理総裁に就任したのは橋本だけである。逆に海部俊樹、小泉純一郎、福田康夫は、条件としてあげられた役職に全く就任しないまま総理総裁となった。安倍晋三に至っては幹事長を一度務めただけで、閣僚経験は全くない。自民党歴代総裁の在職日数上位5名(岸信介、池田勇人、佐藤栄作、中曽根康弘、小泉純一郎)の内、田中の条件に該当している者はいない上、総裁就任年齢の高齢化を招くため、近年においてはそれほど重要視されておらず、あくまで一つの指標と見るべきだろう。また、これらの条件を全て満たすことは田中が活躍した55年体制下と比べ、自民党が野党に転落することも起こりうる二大政党制下においては困難になったといえる。
ちなみに現職の自民党総裁で重複立候補した者は2000年の衆院選の石川2区で圧勝した森だけである(現職の総理大臣が重複立候補した例は森と野田佳彦のみ。森は小選挙区比例代表並立制導入以降、自身が比例候補定年73歳未満だった1996・2000・2003・2005・2009年と5回連続で重複立候補し全て小選挙区勝利している)。小泉の総裁時代に行われた2005年の衆院選では、自民党神奈川県連会長の河野太郎が小泉に比例南関東ブロックと神奈川第11区へ重複立候補する事を要請していた。理由は「比例での自民票上積み」とされる。しかし、重複すると、小泉の顔を使った自民党のポスターが同ブロックの神奈川、千葉、山梨3県で貼れなくなると言う公職選挙法の問題があったため、重複立候補は取りやめとなった。
肖像画
自民党本部の8階ホールには、歴代総裁肖像画が展示されている。ただし、1994年6月に自民党執行部が村山を首班指名し、海部がそれに反対する形で自らの首班指名に意欲を示して離党した時には、総裁としての海部の肖像画が外された。その後、2003年11月に海部が自民党に復党した際、海部の肖像画が再び展示されるようになった。
この肖像画は自分で好きな画家を指名することが可能で、1枚数百万円とも言われる。2010年10月現在、安倍晋三までの肖像画が飾られているが、福田康夫以降の肖像画は、未だに飾られていない。8階ホールでは26人目まで飾る部分が確保されている(前職の谷垣で24人目)。
脚注
関連項目
- 自由民主党
- 自由民主党シャドウ・キャビネット
- 自由民主党執行部
- 自由民主党副総裁
- 自由民主党幹事長
- 自由民主党政務調査会長
- 自由民主党総務会長
- 自民党ネットサポーターズクラブ(設立総会で元総裁の麻生と前総裁の谷垣が最高顧問に就任)
- 民主党代表
- 公明党代表
- 日本共産党委員長