日本の蒸気機関車史
日本の蒸気機関車史(にほんのじょうききかんしゃし)では、日本における蒸気機関車の歴史について記す。
目次
鉄道創始
日本の鉄道は1872年(明治5年)に開業したが、このとき投入された車両は1号機関車などすべてイギリス製の車両であった。そもそも、明治政府が発足して間もない時期であり、技術のノウハウなどまったくない時期であったため、当然の判断と言えた。
その後、官営鉄道(国鉄)ではイギリス様式の鉄道が建設されたため、車両も同国からの輸入が多かったが、北海道の官営幌内鉄道では7100形(弁慶、静などの愛称がついた)などアメリカ様式による施設・車両が導入され、九州鉄道ではドイツ様式を採用した。
国産化の模索
鉄道技術の国産化は明治政府にとって急務であった。政府直営はもちろんのこと、民間車両工業の勃興を画策して大阪に汽車製造株式会社、名古屋に日本車両製造株式会社を設立させ積極的な展開を図った。海外より輸入される機関車のコピー生産を民間各社に発注し技術力を磨かせるとともに、技官を海外へ留学させ自主設計の学術的、技術的な地盤を固めてゆく[1]。
1893年(明治26年)にイギリス人技術者の指揮の下、日本初の国産機関車である860形が鉄道庁神戸工場で製造された。そして1902年(明治35年)には汽車製造がイギリス製のA8形を模倣して230形を量産している。
しかし、基礎技術について自信を深めるには明治の末まで待たねばならなかった。また車軸など特殊な鋼製部品の国産化は第一次世界大戦による輸入品途絶後になった。
大正時代に入り、ようやく日本でのオリジナルの設計の幹線用蒸気機関車が登場し始める。その初期の成功例が貨物用の9600形(愛称キューロク)であり、旅客用の8620形(愛称ハチロク)であった。両機関車の多くは国内民間メーカーで生産され、これをもって蒸気機関車国産化の体制はほぼ整ったと言える。特に9600形は、引退してゆく後続形式を尻目に日本の蒸気機関車の終焉を見届けるほどの長命を保つことになった[2]。
国産化の進展
大正初期に、最初の本格的な量産型国産機である9600形・8620形が成功したことで、以後国内向けの蒸気機関車は国産でまかなわれることになった。
第一次世界大戦後の好況による輸送量増大に伴い、鉄道省は蒸気機関車のさらなる性能向上と標準化を推進した。その結果、大型のC51形・D50形が大量生産され、以後第二次世界大戦後の1948年(昭和23年)までに、各種用途に対応する蒸気機関車が登場した。
これらの蒸気機関車は、一部の例外を除けば、概して実用上十分な信頼性・耐久性を備え、戦前・戦後の鉄道全盛期を通じて1976年の全廃まで各所で活躍した。
国産の国鉄蒸気機関車も参照。
技術格差と開発の停滞
とはいえ日本の蒸気機関車技術の発展は、狭軌のハンディキャップ(軌間の狭さだけでなく、軌道の弱さによる軸重制限の厳しさが、車両性能向上には非常な障害となった)を差し引いても、同時期の欧米の水準からは、一貫して遅れた状態であった。諸外国での技術革新の導入は、蒸気機関車の分野においては「国産化」が達成されたとする大正期以降、ほとんど行われなくなっていた。
これは当時、日本の基礎工業力が低かったことによる。加えて、鉄道省で1920年代から1930年代にかけて動力車設計を主導した朝倉希一や島秀雄ら主流派技術陣は、根本的な技術面での冒険を恐れ、ドイツ系、それも大径動輪をゆっくり駆動する、プロイセン流のやや旧式化した手法を踏襲した。
米英をはじめとする諸外国における蒸気機関車の技術革新導入に及び腰で、採用した場合も本来のメリットを損なう独自改変を加えることが多かった。技術導入に積極的な技術者は省内部で冷遇されがちで、早期に民間に下野、あるいは日本資本で先進技術導入に寛容であった南満州鉄道に転じる事例もあった。
結果として、鉄道省・日本国有鉄道の蒸気機関車の技術水準はC51・D50の段階で停滞し、以後はボイラー圧力のある程度の向上や電気溶接採用などの部分改良が成功した程度で、本格的な新技術の導入はうまくいかないことが多かった。幹線用蒸気機関車の実用最高運転速度は、戦後まで100km/h未満にとどまった。
C62形は1954年に東海道本線木曽川橋梁上で、129km/hという「狭軌鉄道における蒸気機関車の速度記録」を樹立した。これはピン結合トラスという古い型のトラス橋が、将来的な高速運転に耐え得るかを確認するための、一連の速度試験で得られたもので、さまざまな制約からC62形単機での走行という、特殊な状況下で成立したものであった。同時期の国鉄では、電車や電気機関車でも120km/h超過の速度試験が行われていたが、こちらは営業運転とほぼ同等の条件で実施され、また欧米の最新技術を採用した阪和や新京阪といった関西私鉄では、戦前の段階ですでに120km/hを超える高速運転が営業列車で恒常的に実施されており、蒸気機関車の設計技術は立ち遅れていた。
鉄道車両の高速運転実現に必要な理論解析、特に機関車の振動への考察に欠け、この問題は第二次世界大戦後、鉄道総合技術研究所へ空技廠で航空機のフラッター対策を研究していたスタッフが加入するまで、ほとんど等閑に付された。
日本の蒸気機関車技術は、その開発の終末期(1950年代)に至るまで国際水準に到達しなかった。本土は元より、日本の技術で運営される標準軌鉄道であった朝鮮鉄道局、および南満州鉄道ほか中国大陸の鉄道も、機関車技術で欧米を凌駕するものではなかった(鉄道省の機関車に比べれば高性能であった南満州鉄道の流線形機関車「パシナ形」も同様であった)。
検修技術のみは水準が高く、その他の技術的不備の多くが、機関士や検修員など現場職員の「職人芸」的な技量によって補われていた。
他種動力方式への移行
C61・C62形が登場した1940年代後半、日本の鉄道は極端な石炭不足に悩まされ、主要幹線などの電化を行ったが、全体の電化率は10%程度で、依然蒸気機関車が輸送の主役であった。そのため1950年代に入ってからC63形の製造が計画されたこともあるが、後述の経緯で実現をみることなく、1948年にE10形5両が製造されたのを最後に国鉄における蒸気機関車製造は終了した[3]。
1959年に「動力近代化計画」が答申される。これには、「昭和35年度から50年度までに主要線区5000kmの電化と、その他の線区のディーゼル化を行い、蒸気機関車の運転を全廃すべきである。そして、投資額は電化施設955億円、車両関連施設その他765億円(電化費338億円、ディーゼル化費427億円)、車両3145億円(電化費1420億円、ディーゼル化費427億円)で合計4865億円としている」とある。この背景に151系や101系に代表される1957年以降の新性能電車の登場や、液体式変速機の実用化で1953年のキハ10系以降、長大編成運転可能となった気動車の台頭なども挙げられる。
無煙化計画は、まず明治・大正時代に製造された古参の機関車と幹線用の大型機関車から始まり、次いで地方線区と支線区の中・小型機関車を置き換えていった。特に東海道・山陽本線の電化は早期に進められたため、両線用の大型機関車は早期に余剰となったが、車体寸法や軸重の問題で転用が困難で、一部が呉線・函館本線などの非電化の幹線に転用されたり軽軸重化改装を施されて他の路線に転用されたりしたほかは早々に第一線を退いていった。小回りが利く小型機関車もDD16形などに代表される軽量ディーゼル機関車の登場により、存在価値を失った。
制式機関車が比較的早く置き換えられた中、構内入換え用の蒸気機関車は後年まで生き残った。貨物ヤードでの重作業にはDD13形では力不足であり、DD20形が試作されたものの失敗に終わった。このため、大正時代に製造された8620形や9600形が使われ続けたが、1970年代に入ってDE10形などの入れ替え専門のディーゼル機関車が登場すると、次々と置き換えられていった。
実用機関車の終焉
次第に数を減らした蒸気機関車は1974年11月に本州から、1975年3月に九州から相次いで姿を消し(四国からはこのときすでに消滅)、この地点で大半の形式が消滅し北海道にC57形・D51形・9600形の3形式が残るのみとなる。この3形式による北海道内のローカル運用や石炭列車、入替仕業が最後の蒸気機関車運用となった。
そして1975年12月14日、「さようならSL」のヘッドマークを掲げたC57 135による室蘭本線長万部駅 - 岩見沢駅間の225列車が運転され、蒸気機関車牽引の定期旅客列車は姿を消した。このC57 135は年明けの1976年5月に東京の交通博物館に回送・陸送され保存された(2007年10月からは交通博物館に代わって開館した鉄道博物館に保存されている)。C57 135による225列車運転の10日後の12月24日に夕張線(現在の石勝線)でD51 241による石炭列車が運転され、本線上から蒸気機関車が消滅、年が明けた1976年3月2日に追分機関区の79602(9600形)による最後の入換え列車が運転され、保存目的の車両(梅小路蒸気機関車館所属の車籍を有する保存機)を除いて国鉄から蒸気機関車は姿を消した。
民営鉄道でも保存・観光目的のものを除き同時期に蒸気機関車は姿を消し、専用鉄道でも1982年の室蘭市における鉄原コークスを最後に、蒸気機関車の使用は終了している。
最新の国産蒸気機関車
日本における営業用としての蒸気機関車は幕を閉じたわけだが、その後になって、なお日本製の蒸気機関車が新たに登場している。
1983年に開園した東京ディズニーランドのアトラクション「ウエスタンリバー鉄道」用に、協三工業が1Bテンダー機関車3両を製造した(のち1両を追加)。燃料は重油専燃である。テーマパークのアトラクションではあるが、日本のものとしては珍しく本物の蒸気機関車を使用している。
保存の試み
こうして姿を消していった蒸気機関車だが、蒸気機関車を近代産業遺産として保存する動きも出てくるようになる。また、姿を消していく蒸気機関車を追うように1970年代前半に全国でSLブームが起こり、函館本線目名駅 - 上目名駅間(現在は廃止)や伯備線布原信号場(現在の布原駅)などに代表される撮影ポイントに多くのファンが押し寄せるようになり、まったく鉄道に興味のない人まで蒸気機関車を追いかけるようになったのである。そしてこうした動きを受け、ついに保存活動に動き出す。そのはしりとなったのが、1970年に大井川鉄道(現在の大井川鐵道)が千頭駅 - 川根両国駅間で実施した、西濃鉄道から譲り受けた2109(2100形)の動態保存運転である。その後クラウス15・17号やC12形の動態保存運転も行った同社は、国鉄から蒸気機関車が消滅した1976年7月9日、ついに蒸気機関車の本線復活運転を開始した。これが、C11 227による「SL急行」である。この復活蒸機運転は大人気を博し、C10 8も譲受して現在も実施されているほか、同じく文化遺産保護活動を行う日本ナショナルトラストの所有のC12 164を運転している。
一方、国鉄も1972年の鉄道100年を契機に蒸気機関車の恒久的な動態保存に乗り出し、同年10月に京都駅近くに梅小路蒸気機関車館を開館する。開館当初は16形式17両のうち15両に車籍があり、13両が有火状態であった。この保存機を用いて東海道本線など都市近郊での運転実施が計画され、開館直後から1974年までC62形やC61形を用いた「SL白鷺号」が京都駅 - 姫路駅間に行楽シーズンに運行されている。しかし、その後労使問題の深刻化などの理由から保存運転は中断され、その間に営業用の蒸気機関車が姿を消すこととなった。
財政悪化が深刻化していた国鉄は、営業用蒸気機関車の全廃という状況を受け、中断していた保存蒸機の運転再開を計画した。前回同様、運行線区として東海道本線など都市近郊での実施を予定していたが、1976年9月4日に「京阪100年号」として京都駅 - 大阪駅間で蒸気機関車の運転を行った際、鉄道撮影を行う観客のマナーの悪さから小学生が機関車に接触して死亡するという事態になった(詳しくは京阪100年号事故を参照)こともあり断念、地方線区での恒久的実施に方針を切り替えた。これに関しては、北海道の湧網線(現在は廃止)なども運行路線の候補に上げられたが、新幹線に接続し、観光地も多い山口線に白羽の矢が立った。そして1979年8月1日、国鉄復活蒸機第1号となるC57 1による「SLやまぐち号」が運転を開始した。
その後蒸機復活運転計画は国鉄再建の影響もあってか進行せず、結局国鉄時代はこのSLやまぐち号が唯一のものとなってしまったが、1987年の国鉄分割民営化によって一気に加速する。さらに民鉄でも蒸機復活運転が次々と行われるようになった。そして国鉄線上から蒸気機関車が消滅してから30年以上が経過した現在、各地で蒸機復活運転が行われている。
現在蒸機の動態保存運転(構内運転を含む)を行っている鉄道事業者および形式は次の通り。
JR
- 東日本旅客鉄道(JR東日本)
- 西日本旅客鉄道(JR西日本)
※以前北海道旅客鉄道(JR北海道)ではC62形 (C62 3) が「C62ニセコ号」として運転されていたが、1995年11月3日に廃止され運転を終了している。
私鉄
日本国外
このほか、ロシア国鉄はサハリン州において、太平洋戦争後にソビエト連邦に輸出されたD51形を動態復元し復活運転したことがある(ほとんど放置されていた状態からの復元のうえ、原型の図面を入手できたわけでもないので、煙室戸などは完全にソ連型にされてしまっていたが、キャブや下回りには面影を残していた)。また、日本国鉄に在籍したことはないが、台湾鉄路管理局のCK100形CK120形 CT270形 DT650形、タイ国鉄900形、800形など、日本型蒸機が動態保存されている。
問題点
日本の蒸気機関車の動態保存は、数は多いが、いずれもC11形かそれ以下の小型機に集中している。小型機関車の方が、保存、維持にコスト、手間がかからないためである。
産業遺産に理解がある国では、保存鉄道や動態保存機など文化財として保存する蒸気機関車の維持管理に政府の支援や民間のボランティア活動が盛んであったりする。列車の運転に際しても、乗客がいわゆる寄付金を高額でも払って乗車するというケースが多い。撮影を目的に自動車で追いかけるファンも、その趣旨に賛同してカンパを行う例もある。
対して日本では、これらを政府が積極的支援することに国民の理解が少なく、また、イベント列車などに対しても、切符の販売は良好なものの、現用列車と同等以上の支出を嫌う傾向にある。
そのため、現在のところ、地方自治体(埼玉県)が所有しているC58 363と、非営利団体である日本ナショナルトラストが所有しているC12 164を除き、動態保存の蒸気機関車は各保有企業が自力で維持費を捻出している。また前記の2者も、それぞれJR東日本、大井川鐵道(親会社である名古屋鉄道)がその維持に多大な助力をしている。
先進国の中でも日本は、例外的な程に産業遺産の重要度に対する認識が低いとの指摘があり、例として「狭軌最大にして最速」のタイトルを持つC62形の唯一の本線稼動機であったC62 3号機が資金難から運転終了となってしまった事や、静態保存を謳いながらも、実質放置されて朽ちかけていたり、保存後に解体処分されたものが多い事があげられる。
蒸気機関車自体は、最新のものでも半世紀以上経過しており、今後、保存・維持費は上昇していく[4]。単独での収益を上げられず、運行に必要な人員もOBの登用など限られた人材の中から「発掘」している状態である[5]。
脚注
- ↑ ただし、日本車両製造は明治期には客車や貨車および電車を製造し、機関車は製造しなかった。
- ↑ 機関車改良効果1914年7月20日付大阪毎日新聞 (神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
- ↑ E10形の新製以降に登場した国鉄の蒸気機関車の新形式は全て改造機で、C63形の新製計画中止もあって、1949年の日本国有鉄道発足から1987年の分割民営化を経て現在に至るまで、国鉄では後身のJR各社も含め新製の蒸気機関車は存在しない。
- ↑ 中には炭水車や台枠・ボイラー等を新規製作する羽目になった機関車も存在する。
- ↑ ただし、OBの高齢化などもあり可能な限り整備要員を育成するなどの努力を行っている会社もあり、大井川鐵道やJR北海道苗穂工場・旭川運転所、JR東日本、JR西日本、JR九州小倉工場、秩父鉄道などでは要員の育成・部品製造法の指導教育などを行っている