大阪湾
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ランドサット7号 (Landsat 7) が撮影した大阪湾。 ※表示環境によっては文字がずれることがある。 |
大阪湾(おおさかわん)は、大阪平野と淡路島の間に位置する湾。
古称・別称は茅渟の海(ちぬのうみ)、摂津灘(せっつなだ)、和泉灘(いずみなだ)など。
概説
「大阪湾再生行動計画」(大阪湾再生推進会議:内閣官房都市再生本部事務局、国土交通省、農林水産省、経済産業省、環境省、大阪府などの沿岸自治体)では大阪湾を、田倉崎(和歌山市)と生石鼻(淡路島)を結ぶ線(紀淡海峡)、松帆崎(淡路島)と朝霧川河口左岸(明石市)を結ぶ線(明石海峡)及び陸地によって囲まれた海域、と定義している。
瀬戸内海の東端にあたるが、淡路島で隔てられるために瀬戸内海とは別に扱われる場合が多い。おおむね淀川の延長線上に約60kmの長軸、直交して約30kmの短軸をもつ楕円形をしており、明石海峡で播磨灘に、紀淡海峡で紀伊水道に通じる。水深は淡路島側が深く、明石海峡から紀淡海峡へ約1ノットの潮流が生じている。
大阪平野側では時計回りに神戸港・尼崎西宮芦屋港・大阪港・堺泉北港などの大規模な港湾が並び、沿岸部は阪神工業地帯を形成している。埋立造成も盛んに行われ、神戸空港・ポートアイランド・六甲アイランド・夢洲・舞洲・咲洲・関西国際空港などの人工島がある。
夏場には北東側を中心に溶存酸素が低くなり、2010年8月3日を中心に行われた「大阪湾再生行動計画」(大阪湾再生推進会議)による水質一斉調査では、東側岸近くで溶存酸素量 ( DO )が低い状態としている。一方、冬場には南部を中心に窒素やリンといった栄養塩の濃度がノリやワカメが成長出来なくなるほど低くなっており、大阪湾環境保全協議会の国への要望の中で、「貧栄養」に対する調査研究の推進を求めている。
近年、瀬戸内海全体で激減したとされる天然記念物のスナメリ(小型のイルカ)が、関西国際空港周辺に定着し始めているとの情報が調査を元に得られた。ハセイイルカも現れ、他の動物も現れる事もある。観察記録はないが、絶滅危惧種のナガスクジラの漂着が相次いだり、北極圏にしか生息しないホッキョククジラが迷入したこともある(同種の迷入では世界最南端の記録である)。
歴史
交易の海
古称の「茅渟の海」は、日本神話の神武東征において、神武天皇の兄の五瀬命が矢を受けて負傷した際に、傷口をこの海で洗ったことから血沼(ちぬ)の海と呼んだことが由来となっている。
武庫川・猪名川・淀川・大和川・大津川などの河川が栄養を運ぶほか、明石海峡の海流の早さなどから身のしまった魚が多く獲れ、古くから沿岸漁業が盛んだった。黒鯛がよく獲れたことから、チヌ(茅渟)は黒鯛の別名のひとつになっている。
淀川の河口には、難波津や住吉津などの国際港が置かれ、シルクロードの日本の玄関口となり、遣隋使や遣唐使の出発地であり、また中国や朝鮮からの船を迎えて栄え、飛鳥・平城京・平安京へ水運でつながりさらに陸路で東日本へつながっていた。また国が対外的に開かれた時は難波宮や難波京、福原京(計画)などの首都が置かれた。
淀川の河口に形成されたデルタは難波八十島(なにわのやそしま)と呼ばれ、かつて天皇が即位する際に斎行されていた八十嶋祭の場で、天皇は大阪湾の澄ノ江(住江、住吉の浜)で身を清め、八十嶋の御霊を付着させる祭事を行った。平安時代後期においては、渡辺綱(源綱)を祖とする渡辺氏が、滝口武者(天皇を護衛する武者)の一族として天皇の清めの儀式(八十嶋祭)に携わることから、大阪湾を支配する水軍系の武家として、瀬戸内海の水軍系武士の棟梁となる。渡辺氏の分流が九州の水軍棟梁の松浦氏である。
平安時代末期には平清盛が大輪田泊を修築拡大して日宋貿易の拠点とした。戦国時代には兵庫津・堺港が日明貿易・南蛮貿易で繁栄し、江戸時代には安治川口・木津川口が繁栄して北前船・樽廻船・菱垣廻船などが経済の中心地となった大坂と全国とを結んだ。
- 1173年 平清盛現在の神戸港の大輪田泊を改修する
- 1868年 大阪港及び神戸港開港
- 1966年 ポートアイランド着工
- 1994年 関西国際空港開港
- 1998年 明石海峡大橋供用開始
- 2006年 神戸空港開港
景勝地
淀川以南には、住吉の浜や高師浜など白砂青松の砂浜海岸が延々と続き、景勝地として多くの和歌などに詠われた。天智天皇の子の長皇子が住吉の浜の霰松原の美景を歌った和歌があり、風光明媚の典型図柄の一つとされる「住吉模様」は、住吉大社の社前の景色を図案化したものである。堺以南には明治以降に多くの海水浴場が設置され、海浜リゾート地として賑わっていたが、高度成長期に工業化にともなう水質悪化や埋め立てなどでほとんど姿を消した。
現在の景勝地としては大阪湾を俯瞰できる六甲山地の掬星台が日本三大夜景の一つとして広く知られる存在である。
工業地帯と将来
大阪や神戸周辺の湾岸は第二次大戦前からの工業地帯で永らく日本最大の重工業集積地であったが、多くの工場が老朽化などで拠点工場としての地位を各地の新しいコンビナートに譲っている。また堺泉北臨海工業地帯などの比較的新しい重厚長大型コンビナートも1980年代以降の産業構造の変化に対応しきれない状態があった。現在は官民協力で湾岸の再生が構想されておりシャープが堺市堺区の新日本製鐵堺製鐵所の高炉跡に液晶パネル工場、パナソニックが尼崎市にプラズマパネル工場を建設している。また、パナソニックが大阪市住之江区の関西電力大阪発電所跡地に、三洋電機が貝塚市にリチウムイオン電池工場を建設している。堺市付近は新エネルギーの開発拠点ともなっており、堺市西区にはバイオエタノール・ジャパン・関西の稼動、関西電力による大型太陽光発電所が建築中である。
環境問題
- 1970 - 1980年代にかけて埋め立てなどの理由で海底の土砂が大量に削られたため海底に窪地ができている。この窪地は湾内に十数個あり、面積は最大で約126ヘクタール、深さは約12メートルに及ぶ。近年、ここから浮上する酸素濃度の低い海水などが原因となって青潮の被害が発生しているため、大阪府は阪神港の浚渫で生じる土砂で埋めもどすことを検討している[1]。
- 海面の浮遊ゴミ撤去など大阪湾の環境保全は進んでいるが、古くからの工業都市である大阪から流れ出した有害物質はヘドロとなって水底に堆積しており[2](詳細は「底質汚染」を参照)、かつてはダイオキシン類の底質環境基準の超過が湾内各地であったが、現在は徐々に低減している(調査地点の一つである神崎川河口では2004年まで環境基準(150pg-TEQ/g)を超過していたが、2005年は環境基準以下の100pg-TEQ/gとなった)[3]。但し、大阪湾に流入する水質の改善に比べて大阪湾の水質の改善が遅れているのは、底質汚染が要因の一つとされている(大阪市港湾部や神戸遠矢浜の底質汚染が調査され測定結果が公開されている[4])。
- 大阪湾の海底環境は全国的に見て悪い状態にあり、2007年から2008年に行なった環境省の調査では推定で1平方キロメートル当たり約210キログラムものゴミが沈んでいることがわかった[5]。
沿岸の自治体
脚注
- ↑ 朝日新聞 2006年5月19日付 朝刊、社会面、P.28
- ↑ 昭和46年版公害白書
- ↑ ダイオキシン類対策・環境・施設の状況・環境の各年度ダイオキシン類に係る環境調査結果
- ↑ 平成18年版大阪府環境白書
- ↑ 朝日新聞 2008年2月14日付 朝刊、社会面、P.29