民主主義

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テンプレート:民主主義 テンプレート:統治体制 民主主義(みんしゅしゅぎ、デモクラシー、テンプレート:Lang-en)とは、国家や集団の権力者が構成員の全員であり、その意思決定は構成員の合意により行う体制政体を指す。日本語では特に政体を指す場合は民主政(みんしゅせい)とも訳される。日本語の広義の「民主主義(みんしゅしゅぎ)」は上記の体制政体をも指すが、狭義ではこの民主制・民主政を他の制度より重んじる主義(思想・運動)を言う「=民主制主義」。

歴史的に多くの意味で使用されており、各意味に応じて対比語は寡頭制君主制貴族制独裁専制権威主義などである。 テンプレート:See also

用語

デモクラシー[1](democracy)の語源は、古代ギリシアの、「デモクラティア」(テンプレート:Lang-eldēmokratía)で、「人民・民衆」の意味の「デモス」(テンプレート:Lang-eldêmosテンプレート:Lang-en)と、「権力・支配」の意味の「クラティア」(テンプレート:Lang-elkratosテンプレート:Lang-en)を組み合わせたもので、「民衆支配」、「人民権力」、「国民主権」などの意味である[2]。この用語は、同様に「優れた人」の意味の「アリストス」(テンプレート:Lang-elaristosテンプレート:Lang-en)と「クラティア」を組み合わせた「アリストクラティア」(テンプレート:Lang-el、優れた人による権力・支配、貴族制寡頭制)との対比で使用され、権力者・支配者が構成員の一部であるか全員であるかの用語である。

古代ギリシアの衰退以降は「デモクラシー」の語は衆愚政治の意味で使われるようになった。古代ローマでは「デモクラシー」の語は使用されず、王政を廃止し、元老院市民集会が主権を持つ体制は「共和制」と呼ばれた。

近代啓蒙主義以降は、「デモクラシー主義」は自由主義思想の用語として使われるようになった(自由民主制主義)。更にフランス革命後は君主制貴族制神政政治などとの対比で、20世紀以降は全体主義との対比でも使用される事が増えた。なお政治学の用語では、非民主制(の政体)の総称は「権威主義制(権威主義制政体)」と呼ぶ。これには独裁専制などが含まれる。

日本語では「デモクラシー」は、その制度の意味では「民主制」、特に政体を指す場合は「民主政」と訳されている。また民主制主義(思想・理念・運動)の意味では「民主主義民主主義思想)」と訳されている。なお政治学では「民主制主義」(の思想)を正確に指すために「デモクラティズム」(テンプレート:Lang-en)を使用し、「民主制(デモクラシー)」(テンプレート:Lang-en)と区別する場合がある。

なお、18世紀のアメリカでは、democracyとrepublicの言葉がほぼ同じ概念を示す言葉として使われていた。日本の幕末には democracy(民主制)とrepublic(共和制)の概念がどちらも「共和制」と日本語訳されることもあった。

概要

デモクラシー(民主主義・民主制・民主政)とは、諸個人の意思の集合をもって物事を決める意思決定の原則・政治体制だが、これらは歴史的に発展してきた概念であり、その時代や論者によって内容の異なる多義的な概念である。哲学者の真下信一は、民主主義を固定した型のようなものではなく、現実の矛盾をそれ自身に即して解決してゆこうとする運動として理解すべきであると述べている[3]

歴史的にはデモクラシーに相当する概念や制度は色々な社会に見られるが、その用語は古代ギリシアで使用され、その衰退後は衆愚政治という否定的な意味合いで長く使われたが、啓蒙主義以降は自由主義、更には国民主権立憲主義人権などの概念と結びつき、近代に至って大きくその意味合いを変じていった。

現代の大半の民主主義国家では、間接民主主義(間接民主制)の形態として議会制民主主義が採用されている。民主主義には、多数の立場や観点からの多くの評価や批判が存在している。また、ハンガリーインターネット民主党のように、昨今の技術革新を積極的に活用して直接民主制への復古を目指す政党も存在している。更にインターネットを使った民主主義を直接民主制とも間接民主制とも異なった新たな民主主義として位置づけようとする動きもある(→創発民主制)。

歴史

古代インド

広い意味での民主主義文明の最古の一例は古代インドに見られる。『リグ・ヴェーダ』の中で国々はほとんど君主制の面が描かれているが、SabhaとSamitiと呼ばれる民主的機関があったことも述べられている[4]

古代ギリシア

テンプレート:See also 現代の民主主義・民主制・民主政は、古代ギリシアにその起源を見ることができる。デモクラシーの語源は古典ギリシア語の「デモクラティア」で、都市国家(ポリス)では民会による民主政が行われた。特にアテナイ直接民主制の確立と言われている。またヘロドトスの『歴史』では更に寡頭制(Oligarchy)と専制(Monarchy)を加えた三分類が登場し、プラトンアリストテレス貴族支配君主支配の概念とともに整理した。

ただし古代アテネなどの民主政は、各ポリスに限定された「自由市民」にのみ参政権を認め、ポリスのため戦う従軍の義務と表裏一体のものであった。女性や奴隷は自由市民とは認められず、ギリシア人の男性でも他のポリスからの移住者やその子孫には市民権が与えられることはほとんど無かった。しかし、後に扇動的な政治家の議論に大衆が流され、政治が混乱しソクラテスが処刑されると、プラトンアリストテレスアリストパネスなどの知識人は民主政を「衆愚政治」と批判し、プラトンは「哲人政治」を主張した。後にアテネを含む古代ギリシアが衰退して古代ローマの覇権となると、大衆には国家を統治する能力は無いと考える時代が長く続いた。

古代ローマなど

古代ギリシアに代わって覇権を握った古代ローマでは、「デモクラシー」の言葉は古代アテネの衆愚政治を意味するため避けられ続けた。しかし専制君主制度ではなく、王政ローマでは王は世襲ではなく市民集会で貴族を含めたローマ市民の中から選ばれ、共和政ローマでは元老院市民集会による統治が形成され、帝政ローマでも主権者は元老院と市民で、ローマ皇帝プリンケプス(市民の第一人者)として複数の職位を兼任した形であった。

カトリック教会では、古代ローマの影響もあり教皇を選挙で選出している。また上記の王政ローマ以外でも一部の君主制では選挙君主制を採用した。

近代

今日的な意味での民主主義は、西欧の近代市民革命を通して広まり、近代市民社会の根本的原理となった議会制民主主義である。プラトンやアリストテレスが整理した3分類の概念を、ホッブスを始め、モンテスキュージョン・ロックジャン・ジャック・ルソーらが引用した上で、新たな意味合いを吹き込んだのであるが、その内容は論者によって異なり、多岐にわたっている。

民主主義ないし民主政の発現形態は、人民主権三権分立の概念との関係も含め、その国の歴史に応じて一様ではないが、ルソーやロックらの啓蒙思想は、フランス革命アメリカ独立戦争に多大な影響を与えた。アンシャン・レジームの代表である裁判官への不信があったフランスではルソー流の人民主権論が、法の支配の下司法権の優位が確立されていたアメリカ合衆国では、ロック流の人民主権論が影響を与えているが、イギリスでは、現在も立憲君主制がとられている。

現代の民主主義

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全国民が平等な権利を持つ民主主義において投票は重要である(フランス

民主主義が自由主義と結びつくと「立憲民主主義」と呼ばれる。その場合、憲法に、思想・良心の自由言論の自由表現の自由結社の自由参政権等の人権条項が規定される。

現代の民主主義国と呼ばれる多くの国では、間接民主主義である自由選挙による議会制度に、解職請求や、重要な決定に関する国民投票住民投票などの直接民主主義を組み合わせた制度を、憲法法律などで定めている。

現代では無記名普通投票が公平・公正な民主主義に不可分なものと見なされがちであるが、選挙制度は選挙区や定員、単純選抜と比例、ドント方式ヘア=クラーク制など設計方式により結果が大きくことなることが知られており、公平・公正にも重要な論点がある。また歴史的には「くじ」方式や制限選挙(所得制限、性別制限、年齢制限)も重要な議題であった。社会状況や民族構成によっては民主主義の帰結として「くじ」が選ばれやすいとの仮説も提起されている[5][6]。選抜区ごとに合議で代表を選出しても良い(無投票当選)。住民が政策へ直接投票する住民投票国民投票直接民主制には批判が多い。

意思決定多数決の他、多数派による独裁を防止するため内容により満場一致拒否権が必須とされる場合もある。また単なる意思決定だけではなく、参加者全体の合意形成を重視し、事前の情報公開報道の自由、少数意見も尊重しての議論、その過程の一般公開なども求められている場合が多い。

アーレンド・レイプハルトは、世界の民主主義諸国を多数決型民主主義と合意形成型民主主義に類型化した。

多数決型民主主義
ウェストミンスターモデル」とも言われる。アングロサクソン諸国が該当する。二党制、単独政権、首相もしくは大統領の優越、小選挙区制多元主義中央集権的単一国家、一院制軟性憲法憲法裁判所の不在、従属した中央銀行などのうち、多数の点に当てはまることを想定している。
合意形成型民主主義
「コンセンサスモデル」とも言われる。ヨーロッパ大陸の小国が該当する。多党制、連立政権、議会もしくは政党の優越、比例代表制コーポラティズム地方分権連邦制二院制硬性憲法、憲法裁判所の存在、独立した中央銀行などのうち、多数の点に当てはまることを想定している。

フランシス・フクヤマは、リベラルな民主主義が唯一の合理的で普遍的なイデオロギーであり、政治体制だと主張し、ソ連の崩壊により、民主国家諸国は他のイデオロギー国家群に対して最終的な勝利を治め、もはやくつがえすことのできない政治的・経済的・軍事的優位を確立したとして、歴史の終わりを説いた。

マイケル・ドイルブルース・ラセットは、民主国家同士が交戦可能性が低いことを経験的に見出し、民主的平和論を説いた。

現代の議会制民主主義国家の基準

ファイル:Democracy Index 2008.png
民主主義指数による地域別の政治判断。色が薄い地域ほど民主傾向が強い

民主主義の成功のためには国民の有権者全体が知的教育を受けられること、恐怖や怒りなどの感情、個人的な利害、メディアによる情報操作プロパガンダなどに惑わされず理性的な意思の決定ができる社会が不可欠である。つまり徳を持つことである。逆の言い方をすれば、民主主義を無条件に広めると、知的教育を受けていないもの、恐怖や怒りなどの個人の感情や利害損得に影響されやすい非理性的なものも有権者となり、結果として衆愚政治となりかねない危険がある。

実際に、明らかに独裁体制である国が民主国家を自称している場合もあるので、外部からチェックできる基準として以下のようなものが用いられる。この議論はポリアーキー(Polyarchy)と呼ばれる。たとえば「Polyarchy」の草案者ロバート・ダールは7つの基本的条件を挙げている[7]

  • 行政決定を管理する選挙された官吏
  • 自由で公正な選挙
  • 普通選挙
  • 行政職に対する公開性
  • 表現の自由
  • 代替的情報(反対意見)へのアクセス権
  • 市民社会組織の自治

また、フクヤマによれば次のような基準が提案される。

  • 相対立する複数立候補者が存在する、自由で、無記名で、定期的な男女普通選挙の実施
  • 普通選挙によって構成された議会が立法権の最高権限を持っていることの憲法などの公式文書での明文化
  • 議会内における相互批判的な複数政党の存在
  • 自由で多様な行政府批判を行う国内大手メディアが存在し、それを不特定多数が閲覧できること

世界には多様な民主国家が存在しているが、これらはおおむね共通して存在する基準である。逆に、これらを満たしていない民主国家はまだ改革の余地がある民主体制だと認識される[8]

国境なき記者団は2002年以降、「世界報道自由ランキング」を発表している。

民主主義の多義性

政体としての民主政

テンプレート:See also 国家政体として、民衆・人民・国民が支配の正当性を持つ主権者であり、かつ実際の政治権力を持つものを民主政と呼ぶ。この意味では、民衆主権・人民主権・国民主権などとほぼ同義であり、対比語は神権政君主政貴族政である。

古典的な意味での民主政は、共同体における意思決定に民衆が関与するだけでなく、過半の民衆がその政策の執行も担当することを前提としている[9]。近現代の民主主義は社会契約の概念を導入しており、意思形成に関与する人民一般が政策執行にも関与する古典的な意味での民主政とは必ずしも同じものではない。

民主政では、為政者と被治者が同一である(治者と被治者の自同性)。このため、仮に失政があっても自己責任であり、失政による責任問題や損害補償の問題は理論上は発生しない。反面、政策の一貫性や責任の所在が曖昧になりやすく、衆愚政治に陥る危険性がある。また間接民主主義では、選挙の時期を除けば実質的には寡頭制とも考えられ、民意の反映が不十分な場合は貴族政などと同じ問題が発生する。逆に、君主や貴族や教会などが存在しても、立憲君主制などで主権者が人民であれば、人民主権や民主主義とは共存できる。

制度としての民主制

制度としての民主制は、構成員による選挙と、選挙により選出された議会、その議会での議論多数決などによる意思決定が典型的である。

しかし、国家やさまざまな集団で、全体の指導者または意思決定に構成員の意思を反映させる制度は、部分的なものを含めれば古代より多数存在している。古代アテナイでの民会陶片追放、古代の共和制ローマでの元老院トリブス民会護民官など、世界各地での選挙君主制キリスト教教会での会衆制キリスト教民主主義、王権の制限であるマグナ・カルタ、更には各種の自治弾劾制度などが挙げられる。

17世紀以降は啓蒙思想に基づく自由主義の立場による、複数政党制自由選挙を前提とした議会制民主主義である自由民主制主義が、市民革命などを経て普及した。ヨーロッパ大陸では地域・民族・階級・思想・宗教などの多様な集団を母体とした多党制が、イギリスアメリカ合衆国では階級対立ジャクソン流民主主義などにより政権交代が容易な二大政党制が普及した。

18世紀以降の社会主義では、19世紀末に議会制民主主義を支持する改良主義社会民主主義思想と、議会制民主主義をブルジョア民主主義と呼んで批判し暴力革命プロレタリア独裁を掲げる革命思想のマルクス主義に分裂した。マルクス主義から派生したマルクス・レーニン主義一党独裁を原則とし、部分的には共産党内部の民主集中制、一部の社会主義国人民民主主義毛沢東の初期の新民主主義なども存在するが、これらはプロレタリア独裁を根拠とした共産党による指導を大前提としている。しかしユーロコミュニズムはプロレタリア独裁の放棄や複数政党制の容認など、議会制民主主義の容認に転じ、社会民主主義との差は縮小した。

逆に、形式的には投票と議会など議会制民主主義の制度を採用していても、国民に判断の前提となる自由で公正な情報が提供されていないなど、実質的には機能していない場合は、比喩的に非自由主義的民主主義などと呼ばれる。また形式的には複数政党制でも、競合が行われておらず実質的には一党独裁制の場合は、ヘゲモニー政党制とも呼ばれる。他方では間接民主主義の弊害を補う草の根民主主義E-デモクラシー創発民主制なども提唱されている。

民主主義と独裁

一般には「民主主義、民主制」の対立概念が「独裁、独裁制」とされる。しかし「独裁」の語源は共和政ローマ独裁官で、非常時に1名に強大な権限を与えて事態に対処させる制度である。政治学者のカール・シュミットは、人民の意思を実現するのが民主主義であり、独裁制は非常時に一時的に法を侵犯することで長期的に法秩序を回復する制度で、一時的でない独裁は専制に転化するとした。このように独裁者が民主的に選ばれ、非常時克服後に民主制に復帰する場合は、民主制度と独裁制は必ずしも矛盾しない。

非民主制から民主制に移行した著名な例には、17世紀以降の市民革命や、20世紀の東欧革命などがある。

逆に、部分的にせよ民主制が機能した後に、衰退したり独裁に移行した著名な例には以下がある。

これらの中で、近代的な民主制度の確立後に発生した例には、アドルフ・ヒトラー国家社会主義ドイツ労働者党が良く挙げられる。当時のヴァイマル憲法は世界で最も民主的と言われていた。またヒトラーの激しい民主主義批判は、著作「我が闘争」、多数の演説、突撃隊の暴力、ミュンヘン一揆などで当初より広く知られていた。しかし1932年7月の議会選挙で第一党、1933年1月にヒンデンブルク大統領からの任命で政権獲得3月の議会選挙で連立過半数、全権委任法で国会が「自主的」に権限委譲、大統領権限のヒトラー個人への委託が1934年8月の国民投票で投票率95.7%、賛成89.9%で承認され「総統」となった。この過程では、ドイツ国会議事堂放火事件を口実とした事件翌日のヴァイマル憲法の事実上の廃止、反対派の大弾圧、全権委任法の採決時の反対派議員の締め出しなど非民主的な行為が多数行われたが、強力なプロパガンダもあり国民の大多数はヒトラーとナチスを支持した。エーリヒ・フロムはこれを“自由であることによる不安が人間を権威主義に走らせる”と読み解き「自由からの逃走」と呼んだ(著書の題名にもなっている)。

上記のドイツの全権委任法の他、大日本帝国では太平洋戦争直前、全ての合法政党が解散して大政翼賛会に合流した。このように議会や政党が制度的には「合法的」または「自主的」に権限を委譲したり解散する事も民主主義なのか、あるいは民主主義の否定または自殺なのかは、「民主主義」の解釈にもより多くの議論がある。同様に、民主主義の否定を公言する集団の言論や行為に対しても、どこまで自由を認める事が民主主義なのか、反民主主義の言動を保障する事が民主主義の自殺と考える立場や、逆に異なる主張を抑圧する事自体が民主主義の自殺と考える立場など、「民主主義」の解釈にもより多くの立場や議論がある。

第二次世界大戦後のドイツなどではナチスの台頭を許したとの反省からナチス賛美の主張や集団を違法とする「戦う民主主義」を採用している他、市民的及び政治的権利に関する国際規約が第5条で、“自由を破壊し人権を侵す自由は何人にもない。本規約はそのような自由や権利を認めない”と定める。また共産主義の支配を受けた旧東欧諸国の一部では、共産主義のシンボルの「鎌と槌」等を法律で禁止している(詳細は鎌と槌#禁止運動を参照)。これらの言論の自由の制限には、民主主義の立場からの批判もある。

独裁国家の多くは、国民を敵から守るためや、安定を保証するため、あるいは伝統や文化の差、合法的な処置、などを主張して、継続的な独裁や検閲を正当化している。ソビエト連邦などの社会主義国は、当初過渡的な処置とされていたプロレタリア独裁を延長して、一党独裁体制を続けた。多くの開発独裁も同様である。

寡頭制の鉄則[12](⇒寡頭制)では、どのような体制でも権力は必然的に集中するため、独裁に対置するものは、正確に言えば民主主義というよりも自由主義であるという意見もある[13]

為政者や与党が、野党や少数政党を議会から追放したり、少数派の政治活動や、言論、思想の自由を弾圧するようになれば、たとえ大衆の支持があったとしても「非民主的」と言う。また、民主国家では、議員や大統領は任期制をとっており、彼らに強い権限が集中しても、それは一時的であり、独裁国のように終身制、世襲にならないように配慮している。しかし、選挙民の選択によっては、大物議員が何十年も当選を繰り返したり、その息子や娘が政治家になったり、実質的に終身制や世襲が行われている場合も多い。

朝鮮民主主義人民共和国民主カンボジアドイツ民主共和国などのように、元首や特定政党による独裁体制が敷かれていても国名で民主主義を標榜している国家もあり、特に社会主義共産主義国に多い。 戦う民主主義は、民主主義を価値中立的で純粋に手続的な保証から踏み出し、民主主義的な価値に拘束し防衛するため、政党・結社の自由や表現の自由の一部を制限・禁止する[14]ことがある。

批判と評価

民主主義に対する主な批判や評価には以下のものがある。

民主主義は、「過去の人たち」がもし現在の意思決定に参加したならどう判断するのかという視点、あるいはまだ生まれていない人たちがもし現在の課題に対して意思決定に参加したならどう判断するかといった視点から、単なる現在「たまたま」参加できる投票者による多数決を否定する見解(歴史主義)が存在する。歴史主義は保守・革新の双方から尊重される一方で、現実に直面している課題を解決することを先延ばししているだけであるという批判に対して論理的な証明ができない弱点がある。国民を歴史的な存在と抽象することは代表民主政治においての論題の一つである(⇒ナシオン主権とプープル主権を参照)。歴史主義を強調すると検証不能な歴史観なるものを盾に独裁政を助長する可能性がある(唯物史観による共産党一党独裁や皇国史観など)。

一般的な批判は、民主主義を君主制や独裁制などと比較して必要な意思決定までに多くの時間・手間・費用がかかる事、特に戦争や大災害などの緊急時では民主主義の手順を踏む余裕が無い場合がある事、議論や意思決定が民衆のレベルで行われるためエリートによる統治より衆愚政治に陥り易い事、多数決では多数派支配となりやすい事、特に議会制民主主義では議員は特定の地域・民族・階級・職種の利益代表になり易く利益誘導型の政治になり易い事、逆に勢力が均衡している場合には議会での駆け引きや妥協により矛盾した決定や中途半端な決定が行われやすい事、頻繁な政権交代では政策の継続性が失われやすい事、また直接民主主義では意思決定者が全体であるために逆に実現可能性の低い無責任な決定がされる場合がある事、更には民主主義を人間に平等に与えられた自然権である人権のひとつとする自由主義思想や社会契約論には科学的な根拠は無い事、民主主義を否定する思想や集団に対しても民主主義的な自由を適用すべきかとの根源的な議論がある事、などが挙げられる。

これらに対しての一般的な反論には、民主主義にかかるコストは必要なコストで武力闘争や復讐による損害よりは少ない、緊急時は事前に非常事態法などの整備が可能、エリートによる統治も汚職や特権階級化の危険がある、少数派配慮の議会運用は可能、民衆の意識や政党の政策力向上で政策の質向上や安定化は可能、民衆主権は国家や組織の正統性となる、君主制や独裁制では失政の場合の検証・交代が困難、民主主義は意思決定の過程で一定の相互理解とコンセンサスが生まれるために決定後の実施がスムーズ、多元主義的に多様な意見を内包し議論が継続するため停滞が避けられる、などが挙げられる。

その他、歴史的に主な民主主義への批判・批評には以下がある。

  • ポリュビオス政体循環史観を説き、民主政は市民が詭弁家に扇動される“衆愚政”へと堕落して崩壊すると指摘した。
  • ニーチェは、民主主義の価値相対主義と平等主義ニヒリズムであると指摘した。リベラル(寛容)であるということは、命がけで守る信念もこだわりもないということであり、平等であるということは、高貴な貴族が消滅し、国民全体が畜群と化すということである。ニーチェは、“命がけで戦うなど野蛮であり、そんなことはしない自分たちは理知的であり、合理的であり、大人である”と胸を張る民主主義者たちのことを、最後の人間と呼ぶ。“民主主義者たちは胸を張るが、その胸は空っぽだ”と指摘している。
  • マックス・ヴェーバーは、支配の諸類型として、民主的な合法的支配のほかに、カリスマ的支配伝統的支配を挙げている。
  • ロベルト・ミヒェルスは、実行力を持った組織をつくろうと思ったら、必ず権力は集中し、寡頭制化するという寡頭制の鉄則を説き、本質的な意味でチェック・アンド・バランスの機能した権力分立体制をつくることの困難さを指摘している。少数による多数の支配は不可避であり、現代の民主体制でも、国民→議員→政党→党首というように、必ず一個人や一組織に最終的な権力が集中する構造になっている。
  • レーニンは、現代の議会制民主主義は、あくまでブルジョア階級の代表者によって構成されたブルジョア民主主義であり、議会はブルジョア階級の利害の代弁機関に過ぎない。真の民主主義を構築するためにはプロレタリア独裁を経て、階級を消滅させ、共産主義社会を成立させなければならないと指摘した。また、現段階の大衆は愚衆であり、いまだ階級的役目を自覚していない。エリートである理論革命家が前衛党となって大衆を指導、教育しなくてはならないと考えた。この前衛主義ソビエト連邦の共産党一党独裁の理論的根拠となった。
  • ヒトラーは、議会制度は無責任な政治体制だと指摘する。政策が間違っていても誰も責任を取らず、議会がただ解散されるだけであることを指摘し「弱い男を支配するよりは強い男に服従しようとする女のように、大衆は嘆願者よりも支配者を愛し、自由を与えられるよりも、どのような敵対者も容赦しない教義のほうに、内心でははるかに満足を感じている」と述べ、カリスマ的支配指導者原理の重要性を説いた。
  • エーリヒ・フロムは社会心理学の視点から、支配者と大衆の間にサディズムマゾヒズムの関係性を見出し、ファシズムやナチズムなどの独裁体制は、支配したいと言うサディスティックな支配者と、支配されたいと言うマゾヒスティックな大衆の心理的な利益が一致したために成立したのではないかと考察する。また、人間は口先では自由を求めるが、実は付和雷同的で、孤立を恐れて、周囲に没個性的に同調しようとする心理があることを指摘し、これを“自由からの逃走”であると説いた。
  • イギリスの作家・バーナード・ショーは「デモクラシーというものは、腐敗した少数の権力者を任命する代わりに、無能な多数者が選挙によって無能な人を選出することである」と述べた。
  • イギリス首相を務めたウィンストン・チャーチルは「実際のところ、民主政治は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた、他のあらゆる政治形態を除けば、だが」と述べた。
  • コンドルセ投票の逆理アロー不可能性定理を説き、国民の意思を完全に反映する投票、選挙制度を構築することの困難さを指摘している。
  • ヒトラーがアウトバーン建設や軍需産業に尽力し、壊滅的だったドイツの経済を急速に復興させたように、スターリンが中央指令型経済によって、発展途上国だったロシアを、アメリカと肩を並べる超大国に成長させたように、ある産業段階では強力な統制経済が効果を発揮する場合もあり、経済成長を優先させるために、仕方なく独裁体制を維持すべきだという意見もある。これは開発独裁と呼ばれて、発展途上国の独裁政権の大義名分に利用されている。しかし、衣食住が保障されると、国民は知識欲や娯楽欲、表現の自由や言論の自由の充足を求めるようになり、独裁体制は崩壊する傾向性がある。フランシス・フクヤマは、購買力平価ベースの一人当たりGDPが8,000-10,000ドルあたりまで経済発展すれば民主化するという共通点を経験的に指摘できると述べている。
  • 堺屋太一は組織論の視点から、人事圧力(新ポスト・役職獲得欲求)などによって官僚組織は肥大化していく傾向性を持っており、民主的に選ばれた政治家ではなく、巨大な官僚組織が政治の主導権を持って政策や予算配分を決定する官僚支配に陥る危険性があることを指摘している。政治家は選挙で定期的に信任、チェックすることができるが、官僚は基本的に定年制であり、特権階級と化す可能性がある。また、官僚は高度な専門家であるがそれがゆえに専門バカであり、非常に視野が狭く、国益よりも省益を優先し、国家全体としてみたら不合理な行動をとる。堺屋は、戦前の日本が軍部独裁に陥ったのは、軍部と言う官僚組織の肥大化を抑えられなかったことが原因であり、政治家主導ではなく官僚主導で政治が行われている現状を見て、本質的な意味で日本人は太平洋戦争の敗北を反省しきれていないと指摘している。
  • フランシス・フクヤマは著作「歴史の終わり」で、民主主義と資本主義が最終的に勝利すると、戦争やクーデターなどが消滅した安定した社会が続き、社会制度の発展は終了するとした。民主主義体制が世界中の先進諸国に普及して安定した政治体制を築いている理由として、人間の持つ気概、優越願望、ルサンチマンの存在を挙げる。民主国家では、言論の自由が与えられているため、いくらでも権力者である政治家を批判、弾劾、ときに揶揄することができる。風刺漫画やワイドショーで滑稽に描き、その姿を笑うことができる。どんな大物政治家も選挙で落選させることができ、どんな巨大政党も、一回の選挙で弱小政党に転落させることができる。他の政治体制ではもっとも尊大で傲慢な支配者階級の政治家が、一番国民にへりくだらなくてはならない。政治家は選挙期間中は国民一人一人に声を掛け、握手し、ときに土下座のようなパフォーマンスも行う。民主制度はもっとも的確な政策を決定できる政治制度ではなく、国民の支配者に対する不満や嫉妬感情を効率的に消化、分散、ガス抜きできるために、もっとも内乱や革命が大規模化しにくい政治体制である、とした[8]
  • 蓑田胸喜は著書「美濃部博士の大権蹂躪 人権蹂躪・国政破壊日本万悪の癌腫禍根」において、「民主政」の信奉・賛美を「民主教」と呼び、「神」たる「多数」という形式を取れば如何なる決定にも服すというのは「不合理」であり、自己の死敵たる「独裁政」にさえ譲歩できるというのは道徳的自殺または人格的破滅であり、最近の欧州の独裁政は「民主政」の生んだ鬼子に外ならないとして民主政信奉者を批判している[15]

脚注

  1. 「デモクラシー」の訳語について直接言及した論考に野口忠彦『「民主主義」は適訳か」』(政治・経済・法律研究、拓殖大学論集)がある。Web上では(1)[1](2)[2](3)[3]
  2. Demokratia, Henry George Liddell, Robert Scott, "A Greek-English Lexicon", at Perseus
  3. 「民主主義なるものを観念として構想しておいて、さてのち、この観念について、その長所短所、完全不完全を論議したり、それどころか、この観念そのものに賛成したり、反対したりすることが、しばしば行われているのである。民主主義は社会の、また生活の観念として考案された一つの理想型であるのだろうか。……古いものがくずされて新しいものがつくられることが必要な理由は、正確な表現の仕方をするならば、新しいものの方が一層よいものであるからではないので、むしろ古いもの自身の内に、どうしても新しく生まれかわらねばならない必然性が成熟しているからなのである。古いもの自身の内に、どうしても抜きさしならない矛盾撞着が、解決を求めて苦しみあえいでいるからなのである。……現実のうちに在る矛盾、いやもっと正確に言えば、矛盾そのものであるところの現実が、その矛盾の具体的な解決を求めて動きたがっている方向へ実際に進んで行くことに私たちが協力するところに民主主義の根本の意味があると言うべきである。」(真下信一「新しき人間の型について」『学生の生き方』、河出書房〈河出新書〉、1956年)
  4. Sabha(サンスクリットで集会を意味する)は選挙集会あるいは重要な族長達の集会という意味で散見される。Samitiは特別な事態にのみ招集される族内全ての男性の集まりと解釈されている。SahbaとSamitiは王権を抑止する働きがり、『リグ・ヴェーダ』の中で”パラジャパティ神の娘達”と表されているように、半神的な存在だった。ブッダ誕生以前にあった多くの共和国(それらは紀元前6世紀以前に起源がさかのぼり、このうち現ビハール州にあったヴァイシャリを首都とするリッチャヴィ(Licchavis)に最初の共和制が成立したとされる)のうちいくつかでは民主主義的なシステムー Sangha、Gana、Panchayat ーが用いられていた。後の4世紀アレクサンダー大王の時代、ギリシア人学者が Sabarcae と Sambastai (今のパキスタンアフガニスタン)のことを" 行政は民主的であり、王政ではない " と書いている。古代インドにおける民主主義の別の一例としては、パーラ朝の創始者ゴーパーラが地方名士の選挙によって王として選出された出来事があげられる。また、古代インドでもっとも注目すべき共和国としてアショーカ王に侵略されたカリンガ王国がある。
  5. Rabushka, Alvin and Kenneth A. Shepsle 1972. Politics in Plural Societies: A Theory of Democratic Instability. Columbus, Ohio: Carles E. Merrill Publishing.1972
  6. ただし「くじ」的政策による政治統合の帰結は暴力と分断であり、民主主義は崩壊するとする。「分断社会の政治統合」中村正志(アジア経済2006.1)[4]PDF-P.6以降に紹介あり
  7. テンプレート:Cite journal
  8. 8.0 8.1 フランシス・フクヤマ 『歴史の終わり
  9. 『社会契約論』第3編第3章。
  10. 「日米同盟vs.中国・北朝鮮 アーミテージ・ナイ緊急提言」春原 剛、2010年、文春新書、188ページ
  11. 「占領1945~1952 戦後日本をつくりあげた8人のアメリカ人」、ハワード・ショーンバーガー 著、宮崎 章 訳、時事通信社、1994年、11ページ など
  12. テンプレート:Cite paper
  13. テンプレート:Cite web
  14. テンプレート:Cite journal
  15. 美濃部博士の大権蹂躪 人権蹂躪・国政破壊日本万悪の癌腫禍根 美濃部博士の「国体変革」思想に対する学術的総合的批判 P.74~77 蓑田胸喜 1935年

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