隠れキリシタン
隠れキリシタン(かくれキリシタン)は、日本の江戸時代に江戸幕府による禁教令の後、
- 強制改宗により仏教を信仰していると見せかけキリスト教(カトリック)を偽装棄教したキリスト教信者(潜伏キリシタン)。
- 1873年(明治6年)に禁教令が解かれて潜伏する必要がなくなっても、江戸時代の秘教形態を守り、カトリック教会に戻らない信仰者の群(カクレキリシタン)。
上記両者を特に区別せず指す俗称である。
目次
潜伏キリシタン
日本では、1549年にフランシスコ・ザビエルが来日して以降、キリスト教の布教がおこなわれて次第に改宗する者(キリシタン)が増えていったが、1614年に徳川家康による禁教令によってキリスト教信仰は禁止され、さらに1637年に起きた島原の乱の前後からは幕府による徹底したキリスト教禁止、キリシタン取り締まりが行われた。こうして、当時のカトリック信徒(キリシタン)やその子孫は、表向きは仏教徒として振る舞うことを余儀なくされ、また1644年以降は国内にカトリックの司祭が一人もいない状況ながらも、密かにキリスト教の信仰を捨てずに代々伝えていった。これを「潜伏キリシタン」と呼ぶ[1][2]。彼らは、ごく小さな集落単位で秘密組織を作ってひそかに祈祷文「オラショ」を唱えて祈りを続け、慈母観音像を聖母マリアに見立てたり(今日、それらの観音像は「マリア観音」と呼ばれる)、聖像聖画やメダイ、ロザリオ、クルス(十字架)などの聖具を秘蔵して「納戸神」として祀ったり、キリスト教伝来当時にならったやり方で生まれた子に洗礼を授けるなどして信仰を守りつづけた(これらの信仰の形式は地方によって異なる[3])。当初は国内のあちこちに広く潜伏していたと思われるが、多くの土地ではすぐに途絶えていったとみられる。しかし、長崎県をはじめ熊本県の天草など九州の一部では、キリスト教伝来当時から継続的に宣教師の指導を受けて信仰が広く浸透していたこともあって、幕末まで多くの信仰組織が存続していた。
幕末の開国後の1865年(慶応元年)、長崎の大浦天主堂を浦上(現・長崎市浦上)在住の信者が訪ねてきたこと(「信徒発見」と呼ばれる)から、潜伏キリシタンの存在が国内外で知られるようになった。その後、浦上の他にも長崎県の外海や五島などでも信仰を表明する者が多数あらわれた。しかしキリスト教はいまだ禁教であったため、信仰を表明した信者は投獄や拷問によって棄教を迫られ、あるいは全国に配流されるなどの大規模な弾圧にあった(浦上四番崩れ・五島崩れ)。明治政府によるキリスト教弾圧は諸外国の非難・批判を招くことになり、いわゆる『外圧』によって1873年(明治6年)に、江戸幕府以来の『キリシタン禁教令』が解かれて信仰の自由が認められた。それ以降はキリスト教信者ということだけで重罪に処されることが無くなり、一部を除く多くのキリシタンたちが堂々とキリスト教信仰を表明し、再宣教のために来日したパリ外国宣教会などによって、祖先の信じたカトリック教会の信仰に復帰することとなった。現在では日本国憲法により『信教の自由』が保証されているため、定義上潜伏キリシタンは現存しない。
カクレキリシタン
江戸時代潜伏していたキリシタンたちは、200年以上もの間司祭などの指導を受けることなく自分たちだけで信仰を伝えていったため、長い年月の中でキリスト教の教義などの信仰理解が失われていき、仏教や神道、民俗信仰などとも結びついたり、あるいは地元の殉教者に対する尊崇を精神的な拠り所としつつ、キリシタン信仰当時の聖具からなる御神体や、殉教者が没した聖地などを主要な信仰対象とするもの[4]に変化していった。このため、明治時代以降にキリスト教の信仰が解禁されて再びカトリックの宣教がなされても、これを受け入れず[5]、今なお独自の信仰様式を継承している人たちが、長崎県の一部地域に現在でも存在する。現地では「古ギリシタン」「旧キリシタン」「元帳」などと呼んでいるが[6]、学術的には、これを「カクレキリシタン」(すべてカナ表記)と呼ぶ[7]。カクレキリシタンの研究者である宮崎賢太郎・長崎純心大学教授は、次のように定義している。
これまでの研究・調査によると、大正から昭和30年代の頃には約2万人~3万人弱の「カクレキリシタン」の信徒がいたと推計されているが、近年、過疎や高齢化による後継者不足、生活様式の世俗化などによってその数は急激に減少している[8]。少数ながら、昭和以降にカトリックに復帰した集落があったり、結婚などを機に個人・家族単位でカトリックになった人もいるが、それよりも多くの人がキリシタンの信仰をやめて仏教や神道だけになっている。地域によっては、明治以降カトリックに復帰せず教会との接触を嫌ったことや近年の世俗化によってさらなる信仰の希薄化や変容が進んで元々のキリスト教から程遠いものになってしまった例もあり、集落の信仰伝承が途絶える原因の一つになっているとも考えられている。最近まで伝承が継続されている地域としては、長崎県の長崎市外海地区(旧西彼杵郡外海町)や五島列島、さらに平戸市の平戸島や生月島(旧北松浦郡生月町)などの地域が挙げられる[8]。
長崎市外海地区、および隣接する旧三重村の樫山(現・長崎市樫山町)などは、江戸時代から多くの潜伏キリシタン組織が継承されてきた地域で、その後カトリックに復帰した者も多かったが、いまも旧外海町の黒崎、出津にはカクレキリシタンの組織が残っている。このうち黒崎には、隠れキリシタンの神社「枯松神社」があり、「サン・ジワンさま」[9]を祀っている。黒崎の潜伏キリシタンは、明治になってカトリックに復帰した者、隠れキリシタンをかくまった天福寺(長崎市樫山町、仏教曹洞宗)の檀家に留まった者、カクレキリシタンとして先祖の信仰を維持した者とに分かれ、三者の間で互いにわだかまりが残っていた。1998年にこの地のカトリック黒崎教会に主任司祭として赴任した野下千年神父はこれを憂慮し、三者が心を寄せ合う場として枯松神社で共に集い、信仰を守り抜いた先祖を慰霊する祭を実施するよう呼びかけ、2000年に三者の協力による「枯松神社祭」が行われ、現在も毎年行われている[10][11]。
テンプレート:要出典範囲。五島列島ではカクレキリシタンの組織は大半が既に解散してしまい、信仰の道具の一部が福江島の堂崎天主堂キリシタン資料館に収蔵されているが、いまも福江島や奈留島、および中通島(旧南松浦郡若松町)にわずかに組織が残っていて信仰が受け継がれている[12]。
平戸島では、カクレキリシタンの集落単位の信仰組織はすべて解散・消滅してしまったが、地元の殉教者・殉教地はいまも大切に崇められていて、カトリック教会と合同で慰霊祭が継続して行われている地区もある。また、代々信仰の対象となってきた聖画・聖具などの一部が平戸市切支丹資料館に収蔵されているほか、いまも各家庭で聖画等を保管して個人的に信仰を受け継ぐ信者もいる[13]。
そして生月島では、現在最も多くカクレキリシタンの組織が残っており、独自の信仰行事がいまも伝承されている[14]。平戸市生月町博物館「島の館」には、生月島のカクレキリシタンが信仰の対象としてきた「納戸神」の一部が展示されているほか、カクレキリシタンの人たちによるオラショがCDに収録されて出版もされている。
カトリックに戻らない理由
カクレキリシタンが未だカトリックに復帰しない理由については、さまざまな要因が考えられているが、主なものとしては、
- 先祖からの伝統形態を守り続けることが正しいとする考え方。
- 仏教、神道を隠れ蓑として来たが、長い年月のうちに精神と生活に定着し、神仏を祀るのに矛盾を感じなくなり、カトリックへ復活することによって神仏や先祖の位牌を捨てることへの抵抗感。
- 先祖から受け継いだ習慣を放棄すると、罰を受けるのではないかという恐れ。
などが挙げられている[15]。カムフラージュであったはずの仏教や神道の信仰が強くなってキリスト教の信仰理解が失われてしまい、カクレキリシタンにとって大切なのは、先祖が伝えてきたキリスト教起源の祈りや行事を、本来のキリスト教の意味は理解できなくなってしまっても、それを絶やすことなく継承していくことであって、それが先祖に対する子孫としての務めと考えられている[16]。また、明治初期のカトリック教会による宣教の際には、前述の浦上四番崩れなど直前にあった激しい迫害や差別を恐れたり、当時のカトリックの教義が厳格であったため容易に戻って行けなかったこと[17][18]なども、理由として考えられている。
そして現代においては、カトリックとカクレキリシタンの間での認識の違いも生じていて、カトリック教会・信者の側はカクレキリシタンもカトリックと同じ信仰だとみなしているが、カクレキリシタンの人たちは「カトリックとは違う」と意識している例が見られる[19]。あるいは、現代日本において仏教や神道でも見られるように、強い信仰心が失われて単なる伝統として宗教を受け継いでいるに過ぎず、カクレキリシタンもまたその例外ではなく、それゆえにあえてカトリックに復帰する必要性を感じないというケースも見られる。ただ、前述の外海地区のように、同じ地域や集落の中で同じ信仰を受け継いでいてもカトリックに復帰した者とカクレに留まった者が混在している例は多く[20]、また、そもそも信仰心は個人の内面の問題であって当然ながら他人からは伺い知れないものであり、一概に明確な理由を見出すことは困難である。
教義の変容
一部の隠れキリシタンの神話では、アダムとイヴが禁断の果実を食べた後神に赦しを請うと神はこれを聞き届けてしまう、というものがある。旧約聖書の義の神とは明らかに異質なものとなっており、西方キリスト教(ラテン教会)の中核ともいうべき原罪の観念が消滅するに至っているようだ[21]。
その他
- 福岡県三井郡大刀洗町には福岡県指定文化財の今村教会堂があるが、この教会堂が建つ今村地区は、1867年(慶応3年)に隠れキリシタンが発見された場所である。
- 大阪府茨木市北部(千提寺地区)の高山右近旧領に大正時代まで発見されなかった隠れキリシタンの家々があり、ある旧家は信仰の品々を入れた「あけずの櫃」を長男にのみ伝承して誰にも見せなかった。こうした中から、現在神戸市立博物館蔵の重要文化財「聖フランシスコ・ザビエル像」もこの地の旧家で発見されている。現在茨木市立キリシタン遺物史料館で「あけずの櫃」や絵画、彫刻等の資料が公開されている。
- 長野県の木曽谷を通る旧中山道沿いの各所には隠れキリシタン信仰の名残が散在している。塩尻市奈良井の大宝寺には子育て地蔵として隠し奉っていたのだが、首を落とされてしまったというマリア像があり、木曽町日義には折畳みマリア像、大桑村の妙覚寺には千手観音に姿を借りたマリア観音像、天長院には子育地蔵と呼ばれているマリア地蔵がある。
- 岩手県一関市の大籠地区は、隠れキリシタンの里である。1640年(寛永17年)には約3万人の信者がいた。現在は、大籠キリシタン殉教公園として整備され、資料館などの施設が建てられている。また、周辺にはいくつかの処刑場の跡が残されている。
- 兵庫県加西市の大日寺で、1972年(昭和47年)に背面に十字を刻んだ石仏(背面十字架地蔵)が発見される。その後隠れキリシタンとの関連をうかがわせる石仏が加西市内に150体近くあることが確認されている[22]。
- 大分県竹田市竹田には、隠れキリシタンが礼拝を行うために溶結凝灰岩を刳り貫いて造った全国でも例を見ない「キリシタン洞窟礼拝堂」(県指定史跡)と、それに隣接してブルドリノ、ナバロを含む5名の南蛮人宣教師を匿った「キリシタン神父の住居趾」がある。これらはいずれも藩の家老であった古田氏の私邸敷地内であった(現在は私邸敷地内ではない)。また、キリシタンの遺物と言われる1612年に製造された「サンチャゴの鐘」が、歴代の岡藩主を祀る中川神社に奉納されている。
- 島根県津和野町の乙女峠には、明治時代初期に長崎から連行されてきた隠れキリシタンの殉教地跡に建てられた「乙女峠マリア聖堂」があり、毎年5月3日には殉教者を偲ぶ乙女峠祭が行われている。
- 鹿児島県の甑島には、「クロ宗」(クロ教)と呼ばれる隠れキリシタンが現存していると言われている[23]。
音楽
合唱曲や吹奏楽曲などの中に隠れキリシタンを題材としたものがある。
合唱曲
- 交響曲「御誦」・男声合唱曲「御誦」:大島ミチル
- 宇宙について:柴田南雄
- おらしょ・どちりなきりしたん・きりしたん 天地始之事:千原英喜
- ミサ曲第二番“オラショ”・ぱらいぞ/オラショ:荻久保和明
- 邪宗門秘曲:木下牧子
- 十字架(クルス)の島:岩河三郎
- マリア観音:藤原義久
吹奏楽曲
- 吹奏楽のための交響詩「ぐるりよざ」:伊藤康英
- 切支丹の時代:藤田玄播
CD・DVD
- 洋楽渡来考 4枚組 皆川達夫 日本伝統文化振興財団
参考文献
- 洋楽渡来考 皆川達夫 日本キリスト教出版局
小説
漫画
参考
- ↑ 『かくれキリシタン』_歴史と民俗_(片岡弥吉・著)13頁、日本放送出版協会、ISBN 4140010568)
- ↑ 『カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・著)21頁、長崎新聞社、ISBN 4931493408)
- ↑ たとえば外海・五島ではマリア観音が特に重要な信仰対象となっていた例が多いが、生月島ではマリア観音は見られず、聖画を掛け軸に仕立てて納戸に秘蔵していた例が多い。(『カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・著)132-134頁、長崎新聞社
- ↑ 平戸市生月町博物館 島の館 (生月島のかくれキリシタン信仰)
- ↑ しかし、明治初期にはカトリックの宣教を全く受け入れなかったわけではないようで、その頃長崎県のカクレキリシタンは多くの地域でカトリックの宣教師と接触していたと思われ、カトリックに復帰せずカクレキリシタンに留まった地区・組織でも、明治期に宣教師からもたらされた十字架やロザリオなどをいまも信仰の対象として大切に保管している例が、生月島や五島列島などで見られる。(『カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・著)140,210頁、長崎新聞社)
- ↑ 『カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・著)22頁、長崎新聞社
- ↑ 以前は「離れキリシタン」と呼ぶこともあったが、この言葉は、正統なカトリックから離れてしまったという認識でカクレキリシタンを異端と見る差別的なものであり、用いるべきでないとされている。(『カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・著)22頁、長崎新聞社)
- ↑ 8.0 8.1 『カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・著)44-48頁、長崎新聞社
- ↑ 語源はポルトガル語の“São João”(サン・ジョアン=聖ヨハネ)と思われ、長崎で布教した司祭を指すとも、洗礼者ヨハネを指すともいう。
- ↑ 『世界遺産への道』4、外海の文化的景観 独特の精神世界連綿と 2008年7月26日長崎新聞掲載
- ↑ リンデンの長崎ケルン 第10回枯松神社祭(「沈黙」の原点)
- ↑ 『祈りの軌跡 堂崎教会献堂百周年』4、資料館の収蔵物(下) 2008年4月25日 長崎新聞
- ↑ 『世界遺産への道』2、生月・平戸の文化的景観と中江ノ島 2008年5月24日 長崎新聞
- ↑ 平戸市生月町博物館 島の館 (生月島のかくれキリシタン信仰 - 組織)
- ↑ 平戸地方のかくれキリシタン「9.復活しない訳」 平戸市切支丹資料館
- ↑ 『カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・著)283頁、長崎新聞社、ISBN 4931493408
- ↑ 長崎ウエスレヤン大学講師の加藤久雄氏は「当時(明治初期の禁教令廃止の頃)のカトリックの教義が厳格であったこと、そして信仰するにあたって様々な負担もあって、なかなかカトリックには入って行けなかった。しかし、1960年代の第2バチカン公会議以降、日本語ミサや地域への順応など教義が寛容になった。もし、明治初頭の禁教令廃止の際に今のような寛容な教義だったら、潜伏キリシタンは皆カトリックになっていたと思います。」と述べている。(テンプレート:Cite news)
- ↑ 平戸市生月町博物館「島の館」の学芸員・中園成生氏は「生月でも明治初期にカトリック教会から復帰の働きかけがあったが、神棚や仏壇の存在、とりわけ仏壇を廃棄するか否かという問題があった。それは仏様の壇というより、ご先祖様を祀る祭壇として意識されていたもので、ご先祖様こそ、死の危険を感じながら信仰を受け継いできた人たちであり、それを祀らずに捨てるということは考えられないばかりか、場合によっては不吉なことが起こるかもしれないという危惧を持ったようです。当時のフランス人宣教師は、先祖の祭壇としての意味を十分に理解できなかったようで、もし、そのような祖先祭祀のスタイルを上手く組み込むことが出来ていたら、カクレキリシタンは今日存在していなかったかも知れません。」と述べている。(旅する長崎学 歴史発見コラム 【第32回】生月のかくれキリシタンとオラショ 長崎県文化振興課)
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 五島列島でも、カトリックとカクレキリシタンが混在している集落が複数ある他、現在カクレキリシタンが最も多い生月島でも、カクレと比べれば少数ながらカトリック信者が共存している。(『カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・著)、長崎新聞社 より)
- ↑ 河合隼雄「隠れキリシタン神話の変容過程」(『物語と人間の科学』岩波書店)1993年所収
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 『カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・著)42頁、長崎新聞社、ISBN 4931493408
関連項目
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