宇野宗佑
テンプレート:政治家 宇野 宗佑(うの そうすけ、1922年(大正11年)8月27日 - 1998年(平成10年)5月19日)は、日本の政治家。位階は従二位。勲等は勲一等。
滋賀県議会議員(2期)、滋賀県議会副議長(第45代)、衆議院議員(12期)、防衛庁長官(第32代)、科学技術庁長官(第31代)、行政管理庁長官(第44代)、通商産業大臣(第44代)、外務大臣(第115代)、内閣総理大臣(第75代)、自由民主党国会対策委員長、自由民主党総裁(第13代)などを歴任。
目次
来歴・人物
青少年期
1922年(大正11年)8月27日、滋賀県野洲郡守山町(現・守山市)に、宇野長司と民子の長男として生まれる。家は造り酒屋「酒長(あらちょう)」で、前任の竹下に似ている。明治以後の政治史では、地方名望家と呼ばれる階層が重要な役割を演じ、中でも酒造を家業とした者が多い(佐藤栄作、池田勇人、金丸信、井出一太郎ら)。
宇野の生家は地元の町年寄を務め、祖父・正蔵は守山町長を2期勤めるなど、地方政界では知られた存在だった。また、伯父・宇野豊蔵は、教科書出版社・実教出版の元名誉会長だった。
1929年(昭和4年)に旧制・吉身尋常小学校(現在の守山市立吉身小学校)に入学。宇野はこのころから成績がよかった。絵もうまく『少年倶楽部』に漫画を送ってよく当選し、このころに乗馬も覚えた[1]。同年に同町吉身に新設・開館した映画館・大黒座に通い始める[2]。
1935年(昭和10年)に滋賀県立八幡商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)に入学。中等学校時代は映画に夢中になり、また剣道を始めるようになった [3]。1940年(昭和15年)に彦根高等商業学校(現滋賀大学経済学部)に入学し、2年生のときに全国高商剣道大会で初の全国優勝に導いた[4]。
宇野は外交官を目指して[5]、1943年(昭和18年)10月に旧制神戸商業大学(現神戸大学)に進学。しかし2か月後に学徒出陣となり、戦後のシベリア抑留を経て、復学せずそのまま中退した。
シベリア抑留
1943年(昭和18年)2月1日に学徒出陣により敦賀連隊に配属された。宇野は主計試験を受けたが、当初は成績が悪かった[6]。三重の津連隊に一時分遣後、5か月間、満州の新京経理学校で主計将校として訓練を受けた後、12月に主計少尉として朝鮮北部の連浦連隊に配属された。
1945年(昭和20年)の終戦後、8月23日にソ連軍により武装解除され、4日後に朝鮮の宣徳収容所に入った。ソ連の船に乗り、10月7日にナホトカに上陸してマラザ収容所に入所した。それから宇野は2年間ソ連に抑留された。
1947年(昭和22年)7月28日に収容所から出所、10月15日に帰還船「信洋丸」に乗って帰国して抑留生活を終えた。1948年(昭和23年)11月に自身の抑留体験を綴った『ダモイ・トウキョウ』(テンプレート:Lang-ru, 「故郷・東京に(帰る)」の意)を出版。この本は1952年(昭和27年)に阿部豊によって『私はシベリアの捕虜だった』というタイトルで映画化され、大きな反響を呼んだ[7]。故郷の大黒座で試写が行われた際には、上映に関与し舞台挨拶を行っている[2]。
1949年(昭和24年)2月22日に裏千家十三世圓能齋千宗室の姪・廣瀬千代と結婚。馴れ初めは、シベリアに抑留されていた広瀬の兄の帰還を、北野天満宮に祈願していたことからだった。宇野家には、嫁入りした妻は旧姓とともに本名をも捨て去るしきたりがあり、千代も結婚後は「弘子」の名を与えられ、宇野の首相就任まで40年間、「宇野弘子」を名乗った[8]。
初期の政治活動
1947年(昭和22年)に守山市(当時:野洲郡守山町)の商工会が初めて行った会長選挙で商工会長に当選し、芝居などの企画を手がけた[9]。
1951年(昭和26年)4月に、滋賀県議会議員(野洲郡選挙区)で初当選した。最年少で守山町から二番目(最初は祖父・正蔵)の当選だった[10]。宇野は最初に自由党に入党したが、民主党の森幸太郎が知事になると民主党に入った[11]。1955年(昭和30年)にトップ当選で二期当選し、5月21日に県議会副議長に就任した[12]。1956年(昭和31年)3月24日に県会選出の教育委員となった[13]。
1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙で自由民主党の候補として初出馬するが落選。宇野は河野派(春秋会)に入る約束をしており、河野一郎が選挙の応援に訪れていた[14]。選挙後、河野に師事することが認められ、単身上京して河野の議員秘書となった[15]。
1960年(昭和35年)の衆院選挙で再び出馬した。河野派は宇野を自民公認に推したが、党滋賀県連の支持が得られず、無所属で立候補した[16]。宇野は社会党の西村関一についで二番目の得票で当選した。当選後、11月25日に自民党に入党した。
1961年(昭和36年)に自由民主党青年局部長となった。日本海外青年奉仕隊を構想し、局長の竹下登とともにインド・パキスタンや東南アジアを歴訪して青年海外協力隊発足に尽力した。また、自民党青年憲章を制定し、青年の家を創設した[17]。
1966年(昭和41年)8月1日に第1次佐藤内閣第2次改造内閣・第3次改造内閣で三木武夫通商産業大臣の下で通産政務次官に就任した。1967年(昭和42年)の選挙では初のトップ当選を果たした。
1968年(昭和43年)に河野派を引き継いでいた森清の死後、森派から中曽根派に合流し、若手議員らと佐藤栄作首相の再選に抵抗した[18]。
閣僚として
1974年(昭和49年)11月に第2次田中角榮内閣第2次改造内閣で、防衛庁長官として初入閣した。宇野は防衛庁長官として、第十雄洋丸事件では海難事故で炎上した石油タンカーを撃沈する指令を出した[19]。この内閣は29日で終わり、離任式で宇野は「国を守る防衛長官がどうしてくるくる代わるのか」と話した[20]。
1974年(昭和49年)12月に田中角栄に代わり、三木武夫が自由民主党総裁に就任すると、自民党国会対策委員長に就任した。まもなくロッキード事件が発覚。野党から執拗な追及を受け、国会対策委員長の仕事は非常に多忙であった[21]。
1976年(昭和51年)に福田赳夫内閣で科学技術庁長官に就任した。宇野は科学技術庁長官として、日米原子力交渉を担当、核燃料特別対策会議を開き、議長となった。宇野は核拡散問題担当大使テンプレート:仮リンクらと交渉し、9月には首席代表として訪米、協定に調印した。スミスは宇野を「はっきりモノを言う初めての日本人だった」と評価した[22]。
1978年(昭和53年)12月7日に自民党広報委員長に就任した。
1979年(昭和54年)に第2次大平内閣で行政管理庁長官に就任した。行政管理庁長官として特殊法人1割削減を計画。その計画において、各大臣を大臣室に呼びつけるが、省庁幹部が大臣の代理で大臣室に来ても面談を拒否をする徹底した政治主導を行い、計18法人を整理した[23]。
1982年(昭和57年)の自由民主党総裁選で、出馬した中曽根康弘の代表世話人となった。中曽根が総裁に当選すると、自民党幹事長代理に就任し、1983年(昭和58年)1月の中曽根の訪韓に同伴。6月に山中貞則が病気により通産大臣を辞任すると後任に就任した。通産大臣として貿易黒字、貿易摩擦の対策に取り組んだ。中曽根退陣に伴い、竹下登を後継総裁に指名する中曽根の裁定文を幹事長代理として発表した。
宇野内閣
リクルート事件発覚と消費税導入により支持率が急落した竹下登首相が、1989年(平成元年)4月25日に辞意を表明した。しかし、ポスト竹下と目されていた安倍晋太郎、宮澤喜一、渡辺美智雄ら自民党の有力者は軒並みリクルート事件に関与していたため身動きが取れず、河本敏夫は三光汽船経営危機問題から敬遠され、さらに伊東正義や田村元、坂田道太、後藤田正晴からも断られて後継の総理総裁選びは難航する。
そこで、主要閣僚の中でリクルート事件との関連性が薄く、総理総裁任期を満了した中曽根の派閥ナンバー2であり、サミットが近かったこともあり外相であった宇野に白羽の矢が立ち、宇野が急遽後継総裁に擁立される事になった。6月2日、宇野外相は自民党両院議員総会で全会一致に出来ずに異例の「起立多数」で第13代自民党総裁に選出される。自民党史において、派閥領袖ではない自民党総裁は宇野が初めてであった(鈴木善幸は就任当時こそ派閥領袖ではなかったが、間もなく派閥領袖となっている)。
1989年(平成元年)6月3日、宇野内閣が発足。党三役の経験も無く知名度が低かった宇野だけに、就任当初はメディアで宇野について紹介する特集が組まれたこともあった。閣内にはリクルート事件と関係の薄い人物を優先的に登用し、クリーンな内閣というイメージを作ろうと奔走する。
しかし、この急造内閣も宇野自身のスキャンダルに足をすくわれることとなる。宇野が首相に就任した3日後に、『サンデー毎日』(毎日新聞)が神楽坂の芸妓の告発[24]を掲載し、宇野の女性スキャンダル[25]が表面化。初めは国内の他のマスコミは無視したが、外国メディアに「セックススキャンダルが日本の宇野を直撃」(ワシントンポスト紙)等と掲載されると、それが引用される形で日本で話題となった。
1989年(平成元年)7月の第15回参議院議員通常選挙は、従来の3点セット(リクルート問題、消費税問題、牛肉・オレンジの輸入自由化問題)に加え宇野首相の女性問題が争点となり、さらにいわゆるマドンナブームが止めを刺し、自民党は改選議席の69議席を大幅に下回る36議席しか獲得できず、特に一人区では3勝23敗と惨敗。参議院では結党以来初めての過半数割れとなる(これ以降2013年現在まで自民党は参院選後の単独過半数を確保できていない)。
翌日、宇野は敗北の責任をとり退陣を表明。会見での「明鏡止水の心境であります」との言葉が有名になった。当初はここまで敗北したからには宇野一人の責任にできないと言う意見も党内にはあったが、結局同年8月8日には自民党両院議員総会で河本派の番頭格であった海部俊樹が新総裁に選出された。宇野の総理在任期間はわずか69日、日本政治史上4番目の短命内閣に終わった。
退陣後
その後自民党最高顧問に就任したが、1996年(平成8年)の第41回衆議院議員総選挙には出馬せず政界を引退。また、1995年(平成7年)11月に森口華弘と共に初の守山市名誉市民に表彰された[26]。
1998年(平成10年)2月から体調不良となって通院を繰り返し、5月18日に滋賀県立成人病センターに入院。翌5月19日午前11時4分に死去、享年75。死因は肺癌だったが、怖がりの本人には知らされなかった。「今何時だ」が最後の言葉だった[27]。同年7月18日に県立体育館で県民葬、9月13日に市民ホールで「守山市名誉市民・元内閣総理大臣故宇野宗佑氏を偲ぶつどい」が開かれて市民ら1100人が参加した[28][29][30]。
2002年(平成14年)11月30日に守山市市民ホールで宇野の銅像の除幕式が行われた[31]。
2003年(平成15年)の第43回衆議院議員総選挙では、女婿の宇野治が自民党公認で宇野の地盤であった滋賀3区から立候補し、比例復活で初当選した。だが、2009年の第45回衆議院議員総選挙で落選後、政界復帰することなく2012年に政界引退を表明した(同時に自民党滋賀3区総支部長も退任、後任には武村展英が就任し、武村は2012年の第46回衆議院議員総選挙で初当選した)。
評価
閣僚時代の評価としては、政策研究大学院大学准教授の本多雅俊によると、「閣僚としての宇野には、二つの見方が残っている。一つは権柄ずくに振る舞いながらも、みずから汗をかかなかったというものである。たとえば行政管理庁長官時代には、単にふんぞり返っていたとの評判がある。その一方、リーダーシップを発揮しながら、内閣の重要課題を手堅く処理していったとの評価もある。官僚を相手にせず、全閣僚を順次呼びつけ、「馬鹿にしちゃいかんぞ」と怒鳴りつけながら18の特殊法人を整理したというエピソードをかんがみれば、後者の見方の方が説得力を有する。実際、大平は宇野の手腕を讃えた」[32]。
総理時代の評価は、在任期間が69日と短かったこともあり多くの評者が評価不能としている。その上で、徳島文理大学教授の八幡和郎は、「みずから進む方向について緻密な政策を組み立てるタイプではないが、現実感覚に秀でたプラグマティストだったし、理屈よりフットワークの良さは際立っていた。良いスタッフさえ集まれば、海部、宮沢などと違ってあれこれ考えずに思い切った政策展開ができたかもしれない。外交でも各国首脳の懐に飛び込むようなスタイルで相手によっては成功したのではないか」[33]としている。
同じ文人政治家としても親交の深く、福田・竹下両内閣で共に閣僚だった石原慎太郎(後に東京都知事→日本維新の会代表)は、「私自身はこの人事には密かに期待した者の一人だった。宇野氏とは個人的にも親しく、磊落で文人気質のこの人物が思いがけぬ状況の所産として総裁、総理になったことで、この国の政治家のイメイジが少しは変わってくるのではないかとも思っていた。残念なことに女性問題で宇野氏は苦境に立たされ短命に終わったが、もしあの政権が続いていたなら党の中にもある大事な変化があり得たのではないかと思っている」[34]と述べている。なお、福田内閣で宇野は科学技術庁長官、石原は環境庁長官としてそれぞれ入閣し、11年後の竹下内閣でも宇野は外相、石原は運輸相に就任した。
宇野内閣で防衛政務次官に抜擢された鈴木宗男(現新党大地代表)は「宇野さんは外務官僚から『歴代外務大臣で一番手がかからない』と言われたほど、国会答弁など完璧にこなす勉強家であり、宇野内閣が短命に終わったことは、日本の政治にとって不幸だった」と述べている[35]。
総理としての職務にも大きな影響を与えた女性問題の過剰報道により、宇野は第15回参議院議員通常選挙開票日までの間、女性をはじめとした「世間」から糾弾の嵐を浴びせられることとなった。この報道の仕方があらゆる点において常軌を逸していたことから、八幡和郎は「メディアは同じようなケースについて公平でなければおかしい」として宇野をワイドショーの犠牲者と位置づけ、また「一部の外国メディアの報道を一般的論調のように喧伝するのは、外国が気に入らない日本の政治家を排除するために利用される危険性がある」と指摘する[36]。
エピソード
- 政策通で小説や歴史書もよく著し、著書は10冊以上に上る。俳句を嗜み俳号は犂子(れいし)、句集も残す。ピアノ、ハーモニカ、絵画などの技も素人離れした才人であった。剣道や馬術で身体を鍛え、剣道は高商時代に全国優勝し5段を有していた[32]。
- 初登院の日に詠んだ句は「枯園に 総理乗用車 呼ぶ声す」。
- 自民党派閥では河野派に属し、河野死去後、派閥が分裂した際は森派へと参加した。しかし、間もなく派閥会長の森清が亡くなり園田直が派閥を継ぐと、「森との縁で派閥に参加したが、園田とはこれといった接点がないから」と、中曽根派へと移籍した。その中曽根派では幹部に上り詰めたが、派内では子分などはいなかった。
- 核拡散問題担当大使ジェラルド・スミスは「はっきりモノを言う初めての日本人だった」と評している[37]。
- 1988年(昭和63年)3月26日における参議院予算委員会で、日本共産党の橋本敦の北朝鮮による日本人拉致問題に関する質問が出て、梶山静六国家公安委員会委員長が北朝鮮による拉致が濃厚であると答弁した時、宇野は外務大臣として北朝鮮の拉致が現時点では仮定の話ではあることを前置きした上で、「我々の主権が侵されていたという問題」「全くもって許しがたい人道上の問題」「強い憤り」「主権国家として当然とるべき措置はとらねばならぬ」と答弁した。
- 1988年6月に日本の外相として初めてイスラエルを訪問し、シモン・ペレス外相と会談した際、「イスラエル軍は、占領地から全面撤退すべきだ。日本の繁栄は国民の汗と涙の結晶。武力で土地を取る国には、金は一銭も出せない」と言うと、ペレス外相から「愛国心を喚起しないと、われわれは選挙が大変なんだ」と理解を求める声が返ってきた[38]。
- 外務大臣在任中の外遊先で昭和天皇崩御の報に接し、テレビカメラの前で涙を見せた。
- 非常な演説の名手としても知られ、所信表明演説を聞いた「ニュースステーション」の久米宏は「大化けするかもしれない」とコメントした。
- 総理就任時にはピアノ演奏を披露し、趣味の広さや遊びごころが好意的に報道された。またハーモニカの達人でもあり、閣僚時代にもしばしば、各国との晩餐会などでハーモニカの即興演奏をし喝采を浴びている[32]。
- 総理時代に妻子を含む閣僚の資産公開を開始した。
- 女性問題の報道に関して妻・千代は「宇野は私を大切にしてくれておりますし、私も宇野をずっと心から信頼してまいりました。もちろん、そんなことはなかったと信じております。デッチ上げだと思っております」と語っている[39]。
- 没後生家は「宇野宗佑記念館」となり、生前の写真パネルのほか、宇野が国内の視察先や外遊先などで購入・収集した絵画・骨董品・民芸品などが展示されていたが、宇野家の資金難から閉鎖。土地・建物は売却された。自宅の裏には「中仙道守山宿 郷土人形館」が建てられ、宇野が収集した内外の人形約2万点、自作品も50点ほど展示されていた。こちらは現在限定公開となっている[40]。
- 外務大臣時代に「原子力発電所に反対する人はクーラーを使うなと言いたい。」と発言して脱原発団体から抗議された事がある。
略歴
- 1922年(大正11年)8月27日 - 滋賀県野洲郡守山町(現在の守山市)に生まれる。
- 1943年(昭和18年) - 大学在学中に学徒出陣となり、2年間のシベリア抑留を経験する。帰国後、滋賀県議会議員、河野一郎秘書
- 1960年(昭和35年) - 衆議院議員(自民党・河野派)
- 1961年(昭和36年) - 自民党青年局部長(局長・竹下登) 東南アジアを歴訪。青年海外協力隊発足に尽力する。
- 1974年(昭和49年)11月11日〜12月9日 - 防衛庁長官(第2次田中角栄内閣)
- 1976年(昭和51年)12月24日〜1977年(昭和52年)11月28日 - 科学技術庁長官・原子力委員会委員長(福田赳夫内閣)
- 1979年(昭和54年)11月9日〜1980年(昭和55年)7月17日 - 行政管理庁長官(第2次大平内閣)
- 1983年(昭和58年)6月10日〜1983年(昭和58年)12月27日 - 通商産業大臣(第1次中曽根内閣)
- 1987年(昭和62年)11月6日〜1989年(平成元年)6月3日 - 外務大臣(竹下内閣)
- 1989年(平成元年)6月2日〜8月8日 - 第13代自由民主党総裁
- 1989年(平成元年)6月3日〜8月10日 - 第75代内閣総理大臣
- 6月 - 女性スキャンダル発覚
- 7月14日〜16日 - アルシュ・サミットに出席
- 7月24日 - 参議院選で惨敗(33議席減)し引責辞任を表明。表明時、心境を「明鏡止水」と表現した。
- 1994年(平成6年)4月 - 勲一等旭日桐花大綬章受章。
- 1996年(平成8年)6月 - 政界引退を表明。10月、政界引退。
- 1998年(平成10年)5月19日 - 肺癌のため75歳で死去。
著作
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book - 葛城書房(1949年刊)の再刊。
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book - 著者の肖像あり。
- テンプレート:Cite book - 監修:内閣総理大臣官房。
- テンプレート:Cite book
脚注
参考文献
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
関連項目
テンプレート:S-ppo
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
竹下登
|style="width:40%; text-align:center"|自由民主党総裁
第13代:1989年
|style="width:30%"|次代:
海部俊樹
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
江崎真澄
|style="width:40%; text-align:center"|自由民主党国会対策委員長
第20代:1974年 - 1976年
|style="width:30%"|次代:
海部俊樹
テンプレート:S-off
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
竹下登
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 内閣総理大臣
第75代:1989年
|style="width:30%"|次代:
海部俊樹
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
倉成正
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 外務大臣
第113代:1987年 - 1989年
|style="width:30%"|次代:
三塚博
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
山中貞則
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 通商産業大臣
第44代:1983年
|style="width:30%"|次代:
小此木彦三郎
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
金井元彦
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 行政管理庁長官
第44代:1979年 - 1980年
|style="width:30%"|次代:
中曽根康弘
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
前田正男
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 科学技術庁長官
第31代:1976年 - 1977年
|style="width:30%"|次代:
熊谷太三郎
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
前田正男
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 総理府原子力委員会委員長
第31代:1976年 - 1977年
|style="width:30%"|次代:
熊谷太三郎
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
山中貞則
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 防衛庁長官
第32代:1974年
|style="width:30%"|次代:
坂田道太
- 転送 Template:End
テンプレート:日本国歴代内閣総理大臣 テンプレート:外務大臣 テンプレート:文部科学大臣 テンプレート:経済産業大臣 テンプレート:防衛大臣 テンプレート:行政管理庁長官 テンプレート:総理府原子力委員会委員長 テンプレート:自由民主党総裁 テンプレート:自由民主党国会対策委員長
テンプレート:自由民主党 (日本)- ↑ 柚木&沼田 1988、45-49頁
- ↑ 2.0 2.1 宇野 1984, 309-324頁
- ↑ 柚木&沼田 1988、62-65頁
- ↑ 柚木&沼田 1988、67頁
- ↑ 柚木&沼田 1988、85頁
- ↑ 柚木&沼田 1988、73頁
- ↑ 柚木&沼田 1988、115-116頁
- ↑ 柚木&沼田 1988、121-122頁
- ↑ 柚木&沼田 1988、105-108頁
- ↑ 柚木&沼田 1988、109,112頁
- ↑ 柚木&沼田 1988、301頁
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- ↑ 柚木&沼田 1988、301頁
- ↑ 柚木&沼田 1988、130,132頁
- ↑ 柚木&沼田 1988、134-135頁
- ↑ 柚木&沼田 1988、143-144頁
- ↑ 柚木&沼田 1988、150-154頁
- ↑ 柚木&沼田 1988、157-156頁
- ↑ 柚木&沼田 1988、191-194頁
- ↑ 柚木&沼田 1988、195頁
- ↑ 柚木&沼田 1988、204-205頁
- ↑ 柚木&沼田 1988、62-63頁
- ↑ 柚木&沼田 1988、228-242頁
- ↑ 神楽坂の芸妓の中でも凄い美貌の持ち主だった中西ミツ子に、宇野が「もし自分の愛人になってくれたらこれだけ出す」と言って自分の指を三本出した(30万という意味)。中西は、このような人物が日本の総理大臣であってはいけないと考え、マスコミにこの事実をリークしたという(中西本人がTV出演した際に語っている)なお中西はその後、芸妓を辞めて尼僧となる。そして東京新聞03年4月30日掲載の記事によると、再婚して苗字は変わっているという。
- ↑ スキャンダルそのものの内容や、告発者の告発内容に対する検証がなされず、ただ批判だけが先行する状態であったが、女性票が離れるとして候補者から応援演説の要請がほとんどなかった。また当事者である宇野がこの問題についてノーコメントを通したことも、世論特に女性層の批判を強めた。
- ↑ テンプレート:Cite web
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- ↑ 32.0 32.1 32.2 本田 2008、180頁
- ↑ 八幡 2011、145頁
- ↑ 石原 1999、572頁
- ↑ 鈴木 2012、123頁
- ↑ 八幡 2011、144-145頁
- ↑ 柚木&沼田 1988、62-63頁
- ↑ 宇野外相 俳句もピアノも、口八丁、手八丁の文人 政策通、カネ集めは不得手 読売新聞 1989年6月1日
- ↑ 岩見 2010、181頁
- ↑ テンプレート:Cite web