堀内恒夫
テンプレート:複数の問題 テンプレート:政治家 テンプレート:Infobox baseball player 堀内 恒夫(ほりうち つねお、1948年1月16日 - )は、日本の政治家。元プロ野球選手(投手)、監督。自由民主党所属の参議院議員(1期)、日本テレビ放送網野球解説者、スポーツ報知野球評論家。
ニックネームは「悪太郎」、「甲府(甲斐)の小天狗」、「ホリさん」など。
目次
経歴
プロ入りまで
山梨県甲府市出身。小学生時代に右手人差し指をうどん製作機に挟まれ、1cmほど切断する大怪我を負っている。しかしそのハンディキャップが逆に独特の大きなドロップカーブを生み出すことになった。
甲府市立甲府商業高等学校では1年生次から中堅手、控え投手として活躍。テンプレート:By夏の甲子園県予選決勝では、3年生エース大石勝彦(大洋-東映)をリリーフして機山工を降す。しかし第45回記念大会は出場校が多く、会場に阪急西宮球場と甲子園を併用し、甲府商は西宮組に入ったために甲子園を経験することはなかった。これは『巨人の星』でもエピソードに使われている。大会では武雄高、宮崎商を降し山梨県勢初の3回戦に進出するが、優勝した明星に0-11で完敗。堀内はリリーフで2試合に登板している。2年上のチームメートには雨宮捷年右翼手がいた。
翌テンプレート:By夏はエースとして西関東大会決勝に進出するが、熊谷商工に0-1で惜敗。テンプレート:By夏も西関東大会準決勝で熊谷商工に敗れ、甲子園出場を逸する。高校同期には古屋英雄一塁手(明大-日本鋼管)がいる。
現役時代
1965年のドラフト1位で読売ジャイアンツに入団し、1年目のテンプレート:Byから一軍に定着。プロ初登板(初先発)の投球練習時には1球目をわざとバックネットに投げて緊張をほぐしたという。5月30日の対大洋戦から6月22日の対サンケイ戦にかけて44回連続無失点を記録するなど、セ・リーグ記録(新人記録でもある)となる開幕13連勝を含む16勝を記録。最優秀防御率、最高勝率、沢村賞、新人王のタイトルを獲得。入団時の背番号は21だったが、翌テンプレート:Byからはエースナンバー18を背負った。
27歳で150勝を達成するなどテンプレート:Byまで13年連続2桁勝利を挙げ、V9時代のエースとして活躍。通算12回のリーグ優勝、9度の日本一に貢献した。テンプレート:Byには26勝を挙げ、セ・リーグMVPに選出されている。この年の堀内を最後にセ・リーグでシーズン25勝以上した投手はいない。V9を含め、巨人はテンプレート:Byからテンプレート:Byまでセ・リーグMVPを独占したが、この間ON(王貞治・長嶋茂雄)以外で受賞したのは堀内が唯一。
1歳年下の江夏豊(阪神タイガース)とはライバル関係にあった。江夏が堀内と呼び捨てに記者に話している事を聞きつけて、腹を立てていたという。ともに99勝で迎えた一戦で投げ合い、この時は堀内が完封で勝利して先に100勝を達成したが、150勝を懸けた試合でも対戦し、この時は江夏に軍配が上がっている。
守備では、ダイヤモンドグラブ賞を創設年のテンプレート:Byから7年連続で受賞。非常にクイックがうまく、福本豊をして「全く癖が見抜けなかった」と言わしめ、一度も盗塁を成功させなかったテンプレート:要出典。
打撃では通算21本塁打を記録。特に1967年10月10日の対広島戦(後楽園球場)ではノーヒットノーランを達成し[1]、さらに自ら3打席連続本塁打を放っている[1]。投手による3打席連続本塁打は史上唯一[1]。これに関して本人は現役引退後、「4打席目にホームランを打てずガッカリしてベンチに戻った際に他の選手に言われるまでノーヒットノーランに気付いていなかった。『4打席連続本塁打の代わりにノーヒットノーランでいいや』『あーあ、しょうがねえ、じゃあノーヒットノーランでもやるか』と思った」と語っている。1973年の日本シリーズ第3戦では2本塁打を放っているが、日本シリーズで投手の1試合複数本塁打も史上唯一。この2本塁打などの活躍で1972年、1973年と2年連続で日本シリーズMVPを受賞している。
「悪太郎」とあだ名される通り、「鬼軍曹」と恐れられていた当時寮長の武宮敏明は巨人歴代三ワルとして王貞治、柴田勲と堀内を挙げている。寮生活では門限破りの常習犯として知られていて、武宮の目を逃れるため風呂場の窓から入った、寮から抜け出すために非常用のはしごを買っていた、帰宅を待ち構えていた王に殴られた(『見かねた王の鉄拳伝説』)、ファンが家族を装って寮に電話をかけてきたために部屋を抜け出していたことが発覚したなどの逸話は数知れない。本人曰く、門限破りで見つかったのは100回以上のうち3回だけとの事。巨人では当時門限を一度破ると8万円、二度目は16万円と回を重ねるごとに罰金が倍になる決まりであったが、当時堀内の毎月の手取りは30万前後だったため、3回目の門限破りをした月には、給料袋にマイナス6万円と書いた紙が入っていたという。外へ飲みに行っていたため、チームメイトと一緒に門限を破っていたわけだが、堀内一人が門限破りで見つかった時も、ほかのチームメイトのことは黙っていたという。しかし自らの監督時代には、キャンプ中の夜の外出を全面的に禁止した。
テンプレート:Byに引退した王貞治は、同年のファン感謝デーの紅白戦にて堀内を投手として最終打席に立っている。しかし、堀内は2球のドロップに渾身のストレートを投げ王を空振り三振に仕留めている。その後、王が入団時のポジションである投手に、打席には堀内が立って再び勝負をしたが、堀内は王の初球を打ってホームランとした。
テンプレート:By4月9日の対中日戦で、球団通算3000勝目の勝利投手となる。1980年6月2日の対ヤクルト戦で通算200勝を達成。巨人一筋で200勝を挙げたのは中尾碩志と堀内のみ[2]。しかしテンプレート:Byに藤田元司が監督に就任すると、江川卓、西本聖、定岡正二の台頭により登板が急激に減り、同年の日本シリーズでは登板機会がなく、テンプレート:Byには投手コーチ兼任となる。
テンプレート:By、引退を発表。引退試合(10月22日の対大洋戦)では、巨人3点リードの8回表から登板。8回裏に回ってきた現役最終打席で本塁打を放っている。投手としては2イニングを抑えてセーブを記録。引退試合後の1983年の日本シリーズには出場しなかった。
評論家・巨人コーチ時代
現役引退翌年のテンプレート:Byから王貞治監督の下で巨人投手コーチ専任。テンプレート:Byから日本テレビのプロ野球解説者やスポーツ報知野球評論家。テンプレート:Byからテンプレート:Byまでは監督・長嶋茂雄の下で巨人の一軍投手コーチ、ヘッドコーチを歴任した。テンプレート:Byから日本テレビ野球解説者、スポーツ報知野球評論家に復帰。また読売新聞スポーツアドバイザーとして、野球教室のイベント等にも携わっていた。
テンプレート:By3月29日には、東京ドームで開催された日本初のメジャーリーグ公式戦・ニューヨーク・メッツ対シカゴ・カブスで、この試合を観戦に来た皇太子徳仁親王夫妻の横に座り、野球解説を行った。
巨人監督時代
テンプレート:Byオフ、原辰徳が突然辞任した後継として巨人監督に就任する。就任会見では「青天の霹靂。この時期に全く予想していなかったし、大変なことになったなと…」と複雑な心境を吐露した。一方で「投手を中心とした守りの野球」「藤田元司さんのようなチーム作りを目指す」と早くも抱負を述べるなど意欲を見せた。監督時代の背番号は88で、これは甲府商時代の恩師・菅沼八十八にちなんでつけたもの。なお、2リーグ制以降の投手出身の巨人監督は藤田に続き2人目。
2004年度
大阪近鉄バファローズからタフィ・ローズ、福岡ダイエーホークスから小久保裕紀とパ・リーグ本塁打王経験者が2選手同時に加入。怪我のため前年出場ゼロの小久保は41本塁打、96打点と復活。ローズも45本塁打、99打点と猛打を発揮し、本塁打王とベストナインを獲得。一番から仁志敏久、清水隆行、ローズ、高橋由伸、小久保、ペタジーニ、阿部慎之助、二岡智宏と続く「史上最強打線」はプロ野球記録のチーム259本塁打を記録し、究極の形となる。しかし、投手陣の不調を補って前半戦こそ優勝を争ったものの次第に超重量打線に極力サインを省いた戦いが機能しなくなり、機動力不足や高齢化による守備力の低下が目立つようになる。6月の中日戦で同一カード3連敗を喫し、首位を奪われ失速。優勝した中日に8ゲーム差を離されて3位に終わる。優勝した中日は福留孝介、アレックス、荒木雅博、井端弘和ら「打って走って守れる選手」と、川上憲伸を中心とする安定した投手力による“守り勝ち”野球だった。
2005年度
開幕に向けて「今年はうちと中日の一騎討ちになるだろう」と語った。前年度の反省から「守りの野球」をフロントに要請し、中堅手としてゲーブ・キャプラー、抑え投手としてメジャーリーグで活躍したダン・ミセリを補強した。また、ペタジーニと清原を構想外とし、清水をファーストにコンバートするという構想だったが、これに対し契約を1年残した清原が球団に直訴、堀内自身も球団フロントの意を汲み、一転して4番ファースト清原で開幕を迎えることとなる。
しかし補強の目玉だったはずのミセリとキャプラーが大誤算で、ミセリは数試合で解雇となり、キャプラーは古傷の影響もあってかシングルヒットで一塁ランナーに生還されることもあるほどの守備力だった(この両選手には二軍に落とせない契約を交わしていた)。その後、高橋由やキャプラーに代わりセンターを守っていたローズに対し、コーチの弘田澄男が『緩慢』と叱責したことでローズの怒りが爆発し首脳陣批判。また、清原は夏場に打撃不振に加え持病の悪化から二軍落ちし、そのため肩を故障した捕手の阿部をファーストに起用する、など、当初の構想から大幅に外れる戦いを強いられた。
シーズン終盤は高橋由・ローズ・清原などが離脱した反面、矢野謙次、亀井義行など生え抜きの若手選手が活躍を見せる光明もあった。しかし、先発投手陣は崩壊したままで、投手陣の明るい話題は工藤公康の11勝のみでチーム防御率は2年連続で球団のワースト記録を更新した。チームはBクラスに低迷し、一部週刊誌には堀内の采配を批判する記事が後を絶たなかった。テンプレート:要出典範囲終盤はやや盛り返して5位となり、30年ぶりの最下位こそ免れたものの、球団シーズンワースト記録となる80敗を喫した。優勝した阪神は1,2番の機動力と下位打線のつなぎにより1点を確実に取り、JFKによる安定したリリーフ陣によって守る“安定型”野球だった。この年を持って「敗軍の将、兵を語らず」の言葉を残し辞任した。球団史上初の優勝経験無しの監督という、非常に不名誉な記録を残すこととなった。
巨人監督辞任後、2005年11月25日の巨人納会に出席。退団会見から約1か月半ぶりに公の場へ姿を現し、選手に対しては「今年の負けた悔しさと痛みをバネに、原監督の下で優勝をして頂きたい」と激励の言葉を発した。後に清原が「名前は言えないけど僕も独裁者のような監督と出会いました。参院選でしたっけ?(中略)感じ悪い人で僕も戦いましたね」と参院選を控えた堀内について発言するなど、一部選手との不仲などは噂されていたものの、辞任会見に際して仁志ら主力野手陣が胴上げできなかったことの無念さを口にしている。堀内やフロントに重用され、投手陣・野手陣のリーダー的選手となった小久保(翌年度FA権を行使してソフトバンクに復帰)と工藤(門倉健のFA人的補償として横浜に移籍)が「巨人でやりのこしたことは?」と質問を受けたときも同様の事を語っており、小久保は「堀内さん一人のせいにすることも出来ますけど、実際にプレーするのは僕らなんです」と擁護している。
工藤は2004年度、通算200勝達成を目前にして負けが続き(本人曰く「何試合か足踏みして意識してしまった」)、チームも下降線を辿っていたが、堀内は変えることなく工藤を先発で起用し続け、200勝を達成した。工藤は引退後「チームがあんな状況で若い子を試してもよかったのに僕を使っていただいて本当に救われました。今でも感謝してもしきれません」と語っている[3]。
また、2005年には二軍で投げていた内海哲也の才能を見抜き、先発ローテーションの一角として登板させている[4]。結果は4勝9敗、防御率5点台だったものの、堀内が去った翌年は二桁勝利を挙げる活躍を見せ、以後はチームのエースピッチャーへと成長した。内海自身も「今の自分があるのは勝てなくても堀内さんが使ってくれたおかげです」と述べている[5]。
巨人監督退任後
テンプレート:Byから日本テレビ野球解説者、スポーツ報知野球評論家に復帰。研究と趣味を兼ね、スケジュールの合間をぬってメジャーリーグ観戦に熱心に足を運んでいる。2006年3月5日には、東京ドームで行われたWBC1次リーグの日本vs.韓国戦を皇太子夫妻が観戦に訪れた際、巨人球団会長の渡邉恒雄、コミッショナーの根來泰周とともに同席。解説を務めた。
テンプレート:By1月11日、野球殿堂競技者表彰選考にて、野球殿堂入り。殿堂入り表彰式は、2008年8月1日のオールスターゲーム第2戦(横浜スタジアム)の際に執り行われた。2009年9月からは読売新聞のTVCMに解説者役として出演している。
巨人はレギュラーシーズンで過去4度、相手チームの胴上げを目の前で見る屈辱を喫したが、堀内はそのうち3度もグランドで立ち会った。テンプレート:Byは後楽園球場で選手、テンプレート:Byは明治神宮野球場でコーチ、2005年は阪神甲子園球場で監督として見ることになってしまった。
政治活動
2010年4月22日には、同年7月の第22回参議院議員通常選挙に、自由民主党からの出馬を表明した[6]。7月11日の当開票の結果、比例代表で101,840票を獲得し党内で13位につけたが自民党として12名しか当選しなかったため次点で落選した。落選後に出演したテレビ番組では「俺は頭なんか下げないよ」「知らない人に下げる頭は持ってない」と発言している[7]。日本における外国人参政権や選択的夫婦別姓制度に反対していた[8]。
2013年7月31日に中村博彦が死去したため、繰り上げ当選の資格が生じた。これを受けて堀内は「前向きに検討している」とコメントし[9]、同年8月6日に中央選挙管理会告示により正式に繰り上げ当選が決定した[10][11]。
人物像
現役時代
- 入団当時は、投げ終わった後に帽子が脱げそうになるぐらいのダイナミックな投球フォームが特徴的であった。しかし、実は少し大きめの帽子を被り、ダイナミックさを演出していた。
- ロサンゼルス・ドジャースのベロビーチキャンプに参加した際、ビル・シンガーからチェンジアップを学んだ。
- 新人の開幕連勝記録を更新中の時、週刊朝日編集部がホームプレート上に光電式の速度計測装置を使用して測定した結果、155 km/hを記録している。
- 引退試合での現役最終打席は、「ホリさんまで打順を回そう。」と攻撃陣が打ちまくったことにより実現した。
監督時代
- 歴代の読売ジャイアンツの監督の中で、唯一、通算成績で負け越している。
- 選手別応援歌のカセットテープ・CDが発売された1985年以降で唯一、監督としての応援歌が作られなかった。
- 2004年シーズン中は、『スポーツうるぐす』で「ジャイアンツ城」というコーナーを持っていた。
- 巨人のキャッチフレーズは「For The Glory 〜Over The Limit〜」。2004年はFor The Gloryのみだったが、2005年はOver The Limitが付与された。For The Gloryの日本語訳は「ただ栄光のために」。
野球解説者として
辛口の発言をする傾向があり、選手だけでなく時に首脳陣のベンチワークに対しても苦言を呈するときもある。肯定的な表現の際に「○○でなくはないんでしょうけど」という逆の言葉遣いをする特徴がある。
参議院議員として
- 2013年8月6日、中村博彦参議院議員の死去に伴い、参議院議員に繰り上げ当選を果たす。
詳細情報
年度別投手成績
テンプレート:By2 | 巨人 | 33 | 22 | 14 | 7 | 1 | 16 | 2 | -- | -- | .889 | 714 | 181.0 | 125 | 5 | 69 | 2 | 4 | 117 | 5 | 0 | 34 | 28 | 1.39 | 1.07 |
テンプレート:By2 | 23 | 16 | 13 | 2 | 0 | 12 | 2 | -- | -- | .857 | 609 | 149.0 | 126 | 7 | 59 | 1 | 1 | 82 | 6 | 0 | 41 | 36 | 2.17 | 1.24 | |
テンプレート:By2 | 40 | 29 | 12 | 3 | 0 | 17 | 10 | -- | -- | .630 | 845 | 206.2 | 153 | 31 | 105 | 4 | 4 | 142 | 4 | 0 | 81 | 76 | 3.31 | 1.25 | |
テンプレート:By2 | 41 | 29 | 12 | 4 | 0 | 14 | 13 | -- | -- | .519 | 1004 | 236.2 | 211 | 21 | 107 | 5 | 6 | 160 | 6 | 1 | 94 | 82 | 3.12 | 1.34 | |
テンプレート:By2 | 42 | 34 | 18 | 1 | 0 | 18 | 10 | -- | -- | .643 | 1130 | 282.2 | 202 | 22 | 103 | 4 | 7 | 228 | 2 | 0 | 82 | 65 | 2.07 | 1.08 | |
テンプレート:By2 | 40 | 33 | 14 | 3 | 0 | 14 | 8 | -- | -- | .636 | 924 | 226.0 | 183 | 18 | 82 | 5 | 6 | 155 | 7 | 0 | 83 | 78 | 3.11 | 1.17 | |
テンプレート:By2 | 48 | 34 | 26 | 4 | 1 | 26 | 9 | -- | -- | .743 | 1282 | 312.0 | 292 | 34 | 95 | 5 | 3 | 203 | 3 | 0 | 110 | 101 | 2.91 | 1.24 | |
テンプレート:By2 | 39 | 33 | 15 | 2 | 1 | 12 | 17 | -- | -- | .414 | 953 | 221.0 | 238 | 28 | 70 | 6 | 6 | 113 | 1 | 1 | 117 | 111 | 4.52 | 1.39 | |
テンプレート:By2 | 46 | 37 | 21 | 3 | 1 | 19 | 11 | 1 | -- | .633 | 1106 | 276.2 | 217 | 31 | 80 | 6 | 7 | 127 | 2 | 0 | 101 | 82 | 2.67 | 1.07 | |
テンプレート:By2 | 38 | 29 | 8 | 2 | 1 | 10 | 18 | 0 | -- | .357 | 893 | 213.2 | 212 | 28 | 75 | 4 | 6 | 118 | 4 | 1 | 100 | 90 | 3.79 | 1.34 | |
テンプレート:By2 | 34 | 27 | 11 | 2 | 0 | 14 | 6 | 0 | -- | .700 | 763 | 177.1 | 173 | 23 | 71 | 1 | 4 | 82 | 2 | 0 | 84 | 78 | 3.96 | 1.38 | |
テンプレート:By2 | 34 | 23 | 4 | 1 | 1 | 10 | 9 | 3 | -- | .526 | 657 | 151.1 | 163 | 20 | 53 | 3 | 5 | 86 | 3 | 0 | 81 | 77 | 4.58 | 1.43 | |
テンプレート:By2 | 35 | 31 | 7 | 3 | 1 | 12 | 9 | 0 | -- | .571 | 829 | 201.0 | 190 | 22 | 59 | 4 | 3 | 113 | 1 | 0 | 86 | 79 | 3.54 | 1.24 | |
テンプレート:By2 | 24 | 14 | 1 | 0 | 0 | 4 | 7 | 0 | -- | .364 | 400 | 86.1 | 111 | 16 | 35 | 5 | 2 | 59 | 1 | 0 | 68 | 64 | 6.67 | 1.69 | |
テンプレート:By2 | 19 | 12 | 2 | 0 | 0 | 3 | 5 | 1 | -- | .375 | 319 | 75.0 | 78 | 12 | 22 | 4 | 1 | 58 | 0 | 0 | 43 | 36 | 4.32 | 1.33 | |
テンプレート:By2 | 9 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | -- | .250 | 92 | 22.0 | 27 | 3 | 1 | 0 | 0 | 11 | 1 | 0 | 16 | 11 | 4.50 | 1.27 | |
テンプレート:By2 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 29 | 7.0 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 5 | 3 | 3.86 | 1.14 | |
テンプレート:By2 | 11 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | -- | 1.000 | 79 | 19.2 | 16 | 2 | 9 | 1 | 1 | 9 | 0 | 0 | 9 | 9 | 4.12 | 1.27 | |
通算:18年 | 560 | 408 | 178 | 37 | 7 | 203 | 139 | 6 | -- | .594 | 12628 | 3045.0 | 2725 | 323 | 1095 | 60 | 66 | 1865 | 48 | 3 | 1235 | 1106 | 3.27 | 1.25 |
---|
- 各年度の太字はリーグ最高
通算打撃成績
1010打数 174安打(.172) 21本 82打点
年度別監督成績
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
テンプレート:By | 巨人 | 3位 | 138 | 71 | 64 | 3 | .526 | 8.0 | 259 | .275 | 4.50 | 56歳 |
テンプレート:By | 5位 | 146 | 62 | 80 | 4 | .437 | 25.5 | 186 | .260 | 4.80 | 57歳 | |
通算:2年 | 284 | 133 | 144 | 7 | .480 | Aクラス1回、Bクラス1回 |
- ※2004年シーズンは、ストライキのため2試合が中止
タイトル
表彰
- 新人王 (1966年)
- 最優秀投手:2回 (1972年、1974年)
- 沢村賞:2回 (1966年、1972年)
- ベストナイン:2回 (1972年、1974年)
- ダイヤモンドグラブ賞:7回 (1972年 - 1978年)
- MVP:1回 (1972年)
- 日本シリーズMVP:2回 (1972年、1973年)
- 日本シリーズ最優秀投手賞:4回 (1970年、1971年、1972年、1973年)
- 野球殿堂入り (競技者表彰:2008年)
記録
- 初記録
- 初登板・初先発・初勝利:1966年4月15日、対中日ドラゴンズ3回戦(中日スタヂアム)、6回2失点
- 初奪三振:同上、4回裏にジーン・スチーブンスから
- 初完投勝利・初完封勝利:1966年5月30日、対大洋ホエールズ11回戦(川崎球場)
- 初セーブ:1974年5月5日、対広島東洋カープ5回戦(後楽園球場)、9回表に4番手で救援登板・完了、1回無失点
- 節目の記録
- 100勝:1972年6月9日、対阪神タイガース8回戦(阪神甲子園球場)、9回完封勝利 ※史上57人目
- 1000奪三振:1972年7月16日、対中日ドラゴンズ16回戦(後楽園球場)、3回表に稲葉光雄から ※史上43人目
- 150勝:1975年5月17日、対阪神タイガース6回戦(後楽園球場)、9回2失点完投勝利 ※史上28人目
- 1500奪三振:1976年8月17日、対広島東洋カープ20回戦(広島市民球場)、6回裏に水沼四郎から ※史上23人目
- 500試合登板:1979年5月26日、対横浜大洋ホエールズ9回戦(横浜スタジアム)、先発登板で5回2/3を6失点 ※史上39人目
- 200勝:1980年6月2日、対ヤクルトスワローズ7回戦(後楽園球場)、6回1失点完投勝利(6回終了時雨天コールド) ※史上16人目
- レギュラーシーズン
- 新人の開幕連勝:13(1966年)
- ノーヒットノーラン:1967年10月10日、対広島カープ22回戦(後楽園球場) ※史上38人目
- 投手の1試合3本塁打:同上 ※ 川崎徳次に次いで史上2人目(3打席連続本塁打は史上初)
- シーズン勝率.889(1966年、16勝2敗、セ・リーグ記録)
- 日本シリーズ
- 通算登板試合:27(シリーズ記録)
- 通算投球回数:140 1/3(シリーズ記録)
- 通算勝利:11(シリーズタイ記録)
- 通算与四球:61(シリーズ記録)
- 投手の1試合2本塁打:1973年第3戦(史上唯一)
- オールスターゲーム
- オールスターゲーム出場:9回 (1966年、1968年 - 1975年)
- 通算防御率:1.44(20イニング以上で歴代1位)
背番号
- 21 (1966年)
- 18 (1967年 - 1984年途中)
- 73 (1984年途中 - 1985年)
- 70 (1993年 - 1998年)
- 88 (2004年 - 2005年)
関連情報
役職
出演番組
- 現在の出演番組
- 過去の出演番組
- ラジオ日本ジャイアンツナイター(RFラジオ日本)
- いつみても波瀾万丈(日本テレビ)ゲスト
- 秘密のケンミンSHOW(読売テレビ)ゲスト
- 開運!なんでも鑑定団(テレビ東京)ゲスト、2010年8月24日
書籍
- ただ栄光のために―堀内恒夫物語、海老沢泰久著、新潮文庫、ISBN 4101266034
- オレは悪太郎―わが投手人生のMemoir、堀内恒夫著、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583024266
- 堀内恒夫―悪太郎まかり通る! 名球会comics、永島直樹・田中正仁著、ぎょうせい、ISBN 4324026548
- オレの野球、巨人の野球―優等生じゃないけれど、プロ根性なら負けやしない、堀内恒夫著、読売新聞社、ISBN 4643620102
連載
堀内恒夫の多事正論 - 週刊ベースボール、隔週連載
TVゲーム
発売コナミ。いずれも解説者役として出演
脚注
関連項目
- 山梨県出身の人物一覧
- 読売ジャイアンツの選手一覧
- 沢村栄治賞 - 選考委員を務めている
- ノーヒットノーラン達成者一覧
外部リンク
テンプレート:読売ジャイアンツ歴代監督 テンプレート:Navboxes
テンプレート:読売ジャイアンツ1965年ドラフト指名選手- ↑ 1.0 1.1 1.2 週刊ベースボール2012年5月7日号 P70
- ↑ 200勝達成時の背番号は共に、18であった。
- ↑ 週刊ベースボール 2012年1月30日号
- ↑ 週刊ベースボール 2012年5月28日号
- ↑ 雑誌「NUMBER」2009年6月21日号
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 「太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。」2010年7月16日放送分より。この回は生放送だったが、堀内は選挙活動中の密着レポートを収録したコーナーでの出演だった。
- ↑ 「2010参院選 候補者アンケート」毎日jp (毎日新聞社)、2010年6月26日。
- ↑ 堀内恒夫氏 自民参院リリーフ登板へ 中村氏死去で繰り上げ当選対象 スポーツニッポン2013年8月1日配信
- ↑ 官報特別号外(平成25年度第19号)1頁 国立印刷局
- ↑ 元巨人エースがリリーフ登板 堀内氏の繰り上げ当選決定 スポーツニッポン 2013年8月6日閲覧
- ↑ 沢村賞に楽天の田中将大投手 2度目の受賞「嬉しい」 産経新聞 2013年10月28日閲覧
- ↑ 堀内 恒夫(ほりうち つねお) 参議院ホームページ:議員情報