宮古市

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ファイル:Miyako city center area Aerial photograph.1977.jpg
宮古市中心部周辺の空中写真。1977年撮影の10枚を合成作成。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。
ファイル:QUATRE MIYAKO.jpg
キャトル宮古(宮古駅前のショッピングセンター)(2013年6月1日)
ファイル:Miyako ekimae.jpg
宮古駅前(2013年6月1日)
ファイル:Tunami toutatuhi1.jpg
宮古駅前通りの津波到達碑(2013年6月1日)
ファイル:Miyako downtown.jpg
宮古市中心街(2013年6月1日)

宮古市(みやこし)は、岩手県三陸海岸に面する

本州最東端の地である魹ヶ崎を擁する。

概要

本州最東端のまち」を掲げ、三陸沖の豊かな資源と、三陸復興国立公園浄土ヶ浜早池峰国定公園を代表とする海・山・川の豊かな自然環境を背景に、漁業と観光に力を入れている。
相次ぐ市町村合併により広大な面積を持ち、それは琵琶湖の面積の約2倍、日本一狭い都道府県である香川県の面積の約70%ぐらいである。山間部の川井新里地区と、北部の田老地区、旧・宮古市部に大きく分けられる。人口は岩手県沿岸部の市町村の中で最も多いが、県庁所在地である盛岡市からは北上山地を隔てて車で2時間という地勢的不利のため、人口も経済も減退傾向にある。また老齢人口比率も30%を超えている。
2011年3月11日に発生した東日本大震災により大きな被害を受けた。市内中心部の被害はある程度抑えられたものの、田老地区を始め沿岸の集落は壊滅的被害を受けた。

地理

宮古市は、三陸におけるリアス式海岸の北端にあり、県庁所在地盛岡市より直線距離でおよそ90km東に位置する。2010年平成22年)1月市町村合併によって市の面積は696.82km²から1,259.89km²に拡大し、一関市を抜いて岩手県の市町村で最大の面積を有することとなった[1]。これは東北では鶴岡市に次いで2番目、全国でも11番目の大きさである。(2011年現在)しかしその8割は山林であるため、可住地面積は約117km²と、総面積の約9%に止まり、少ない平地に人家が密集している状態である。そのため総面積当たりの人口密度は小さいものの、可住地面積当たりの人口密度は約490(人/km²)と県内平均を上回る。

市域中央部を西から東に閉伊川が貫流し、市街地のある宮古湾へと注いでいる。西部の川井地区は平地はほとんど無く、川沿いに人家が密集する地区が多い。周囲には早池峰山青松葉山がある。北部の新里地区には刈屋川が南へ流れ、茂市(もいち)で閉伊川に合流する。閉伊川と刈屋川に沿って、国道106号(旧・閉伊街道)と国道340号が並走する。市の南東部から北に向かって津軽石川が流れ、宮古湾に注いでいる。

市街地を覆うように重茂半島が南から延び、宮古湾を形成している。重茂半島には、月山(標高455.9m)があり、市街地への見通しが良い関係から、テレビ・ラジオの中継塔が設置されている。山道口まではバスで行くことができる。太平洋に突き出る重茂地区の魹ヶ崎本州の最東端であり、観光協会が「本州最東端訪問証明書」を発行するなど「最東端の市」として観光にも力を入れている。南に隣接する山田町との境に位置する十二神山には、自衛隊の通信施設があるため、入山に制限が設けられている。

鼻曲がり鮭新巻鮭として正月に食される。

自然

隣接する自治体

cf. 岩手県の市町村全図 :≪外部リンク≫ テンプレート:Cite web

地名の由来

以下の諸説がある。

  • 「港」の転訛
  • 貿易物としての「都物」が収められる場所
  • 「宮」のある「処」であること
  • 閉伊郡の政治、経済の中心地で都のように栄える場所
  • ミヤ(野原)コ(土地)

また、京の「都」と同訓異字の「宮古」を天皇から賜ったとする、和泉式部源義経に関連する伝説が存在する。

いずれにしても中世文書においては「宮古」と地名を記している文献は見受けられない。鎌倉時代においては「閉河」や「閉崎」という特定の地名で呼ばれている。公的な文献で初めて宮古の文字が登場するのは、元和四(1618)年に、盛岡藩の船員の名前を記した『浜田家文書』(岩手大学所蔵)であり、船員の一人に「宮古衛門二郎」という人物の名が見られる。これ以前の中世の時代に、地名及び集落としての「宮古」が存在したかは不明である。
少なくとも宮古の地名が公的な領地名として広まったのは、領内統一した南部氏が新たに町を制定し、宮古村及び宮古代官所を置いた慶長年間以後の事である。

気候

ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候だが最暖月が22.2度と日本ではかなり涼しく、西岸海洋性気候に近いような気候である。 テンプレート:Weather box

歴史

盛岡藩の外港

現在の宮古市の発祥は、初代盛岡藩主、南部利直によって盛岡藩の外港として宮古の町が開かれたことに由来する。また現在の普代村から山田町豊間根までの行政を管轄する宮古代官所(北閉伊代官所)が置かれ、周辺地域の政治、経済の中心地であった。江戸時代に東北と江戸とを結ぶ海運が盛んになると、沿岸部で産出される俵物を集荷し江戸へ移出するための拠点となり、前川善兵衛や鍬ヶ崎の和泉屋などの三陸の水産物を取り扱う豪商や、廻船問屋の活動が活発となった。また東北諸藩が江戸へ米や材木などを輸送するための廻船の重要な寄港地として、料亭や遊郭が軒を連ねる奥州でも有数の商港として賑わった。

陸の孤島、海の幸と災害

宮古は海岸の西にすぐ山地が峙えているため、平野部が狭く、また、周囲を山と海に囲まれているために「陸の孤島」になりやすく、古来、内陸からの物資輸送がとどこおることの多い土地柄であった。飢饉ともなると、この地理的制約がゆえに被害は周辺地域と比べてもひときわ大きなものとなった(江戸四大飢饉昭和東北大飢饉)。
僧・牧庵鞭牛に代表されるような、陸の孤島になりがちな当地の交通網の整備に尽力する人材が現れた江戸時代中期には、盛岡などとの往路の大規模整備を推し進められ、これらの功績は今もって賛えられている(cf. 閉伊街道など)。

宮古はまた、V字型のの両岸が奥に進むにつれて狭くなるリアス式海岸地形の特殊性によって津波の被害も大きく、古来より大規模な被害の出る津波に襲われている(「三陸沖地震」、「三陸海岸」の「津波」の項を参照のこと)。
また、戦後もカスリーン台風アイオン台風三陸フェーン大火などの自然災害に悩まされた。

歴代の支配者

市内の遺跡からは、8世紀のものと見られる蕨手刀和同開珎が出土しており、それまでは須賀君古麻比留のような蝦夷の有力者が地域を治めていたと考えられている。9世紀初めの征夷大将軍坂上田村麻呂や、文屋綿麻呂による蝦夷征伐は閉伊地方にも及んだ。しかしながら、鎮守府の置かれた胆沢城の勢力下にあったのは奥六郡と呼ばれた北上盆地周辺の地域が主であり、北上山地を隔てた辺境の地である閉伊地方への影響力は少なかった。
そのため11世紀後半になると、蝦夷の完全制圧を目指した後三条天皇により源頼俊清原貞衡が派遣され延久蝦夷合戦が開始される事となる。そして「閉伊七村山徒」は制圧されたと伝わる。これにより力を付けた出羽清原氏であったが内紛による後三年の役で滅亡。以後の統治は清原氏の養子で戦いに勝ち残った藤原清衡に任せられることとなる。
平泉に本拠地を移した清衡は中尊寺金色堂などを建立し、四代に渡る奥州藤原氏による統治が始まる。 江戸期の盛岡藩の文書『奥南落穂集』には、奥州藤原氏の配下に「閉伊右衛門太郎武国」という武将の一族が居たと記している。

源頼朝による平泉侵攻(奥州合戦)で藤原泰衡が倒されると、閉伊地方は鎌倉幕府御家人である閉伊氏の領地となる。閉伊氏は地頭として鎌倉時代を通して地域を支配し、建武の新政後は鎮守府将軍北畠顕家から所領を安堵されている。
閉伊氏は南北朝時代には、北畠顕家に従い奥州武士団の一人として足利尊氏らの軍勢と戦ったが、石津の戦いに敗れ敗走した。その後は北朝側に転じ、奥州総大将石塔義房に従った。

室町時代から戦国時代になると南部氏の勢力が進出し、南部家の武将櫻庭光康らの攻撃を受けて閉伊氏系の一族は衰退していく。
豊臣秀吉から領地を安堵された南部信直は反乱分子であった九戸政実を倒して領内統治を進めていった。当地の有力豪族だった田鎖氏や一戸千徳氏らもこれに従い、文禄の役に従軍した。その後閉伊地方の領地の一部は櫻庭、野田、楢山氏などの南部家の武将やその家臣に与えられ支配された。
慶長年間には南部利直に任命された最初の宮古代官である小本正吉が派遣され、以後約260年の間、盛岡藩の統治下となる。

戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わった盛岡藩が敗れると、南部氏は仙台白石に転封(白石藩)となり、閉伊郡松代藩の取締地となる。
半年後、盛岡に復帰した南部利恭1870年明治3年)、廃藩置県に先立ち廃藩を願い出て盛岡藩知事を辞任した。その後閉伊郡は江刺県の管轄となり、江刺県廃止後は盛岡県に編入される。盛岡県はその後岩手県と改称し、磐井県の一部を編入して現在の形となる。

三閉伊一揆

江戸時代末期には、東北地方最大の一揆である三閉伊一揆が勃発した。これは、盛岡藩の失政のツケを宮古を始めとする閉伊郡に対して重税を課して住民から搾取しようとしたことが直接の原因であり、話の流れ自体は平凡な一揆であったが、この場合、問題なのは規模であった。弘化4年(1847年)、圧制に耐えかねた一揆団は1万数千人という他に例を見ないほどの人数で、遠野城下に押しかけ、藩側に要求を呑ませた。ただし、藩側はのちにこの要求も破り、さらなる人数での一揆へと発展する。

宮古湾海戦

ファイル:Kaiten vs Kotetu.jpg
宮古湾海戦の一場面を描いた挿絵
戊辰戦争当時の日本で唯一の装甲艦であった明治政府軍艦隊主力艦「CSS Stonewall」(東艦)を奪い取ろうと、蝦夷共和国軍艦隊旗艦「回天丸」(右手前)が接舷攻撃を試みる。

幕末から明治にかけての戊辰戦争においては、蝦夷地にて独立を図る榎本武揚土方歳三らの旧幕府軍艦隊(蝦夷共和国軍艦隊。総司令官:荒井郁之助。旗艦「回天丸」[艦長:甲賀源吾])が、宮古湾の鍬ヶ崎湊(くわがさきみなと。現在の宮古港の前身)に停泊する新政府軍艦隊の主力艦である装甲艦「CSS Stonewall (ストーンウォール[日本名:甲鉄艦]。1871年12月に「東艦」と改称)」を奪取すべくアボルダージュ(接舷攻撃)作戦を決行する、いわゆる、宮古湾海戦が勃発した[2]

宮古空襲

太平洋戦争末期の昭和20年8月9日、10日、宮古は米第3艦隊空母エセックス及びランドルフの艦載機(F6FTBF等)による空襲を受けた。ラサ工業宮古製錬所、同田老鉱山、岩手窯業宮古工場、三井造船の木造船造船所、鉄道関連施設、湾内停泊中の輸送船、湾岸の倉庫群などが標的となった。特に藤原地区は倉庫内の燃料に引火し燃え広がったため焼け野原となった。

年表

ファイル:Symbol of Miyako Iwate.svg
宮古市章
1942年6月20日制定
近世以前
近代以降
ファイル:US Navy 110315-N-5503T-756 A Japanese search and rescue team searches the rubble near a high-rise building in Northern Japan.jpg
東北地方太平洋沖地震に伴い発生した津波によって甚大な被害を受けた田老地区で、観光ホテル付近の瓦礫を捜索する日本の救難捜索隊。アメリカ合衆国海兵隊による2011年3月15日の航空写真
ファイル:US Navy 110320-M-0145H-063 A large ferry boat rests inland amidst destroyed houses after a 9.0 earthquake and subsequent tsunami struck Japan March.jpg
同じく、津波によって壊滅した宮古市港町地区。陸に打ち揚げられたフェリー1隻と漁船2隻も見える。アメリカ合衆国海兵隊による3月20日の航空写真。
  • テンプレート:Anchor2011年(平成23年)3月11日午後2時46分:東北地方太平洋沖地震が発生し、宮古市全域が震度5(茂市地区震度5強川井地区田老地区・五月町地区・長沢地区・鍬ヶ崎地区・門馬田代地区で震度5弱を観測)で被災[16][17]。さらに、この地震に伴って発生した大津波にも襲われ、沿岸部は壊滅的被害を負った[18]東日本大震災)。
    • 津波の高さは地震発生から約40分後の午後3時26分頃に襲来した第2波が最大で、8.5m以上(気象庁発表)[16]。遡上高(陸を駆け上って到達した高さ)は、重茂半島にある姉吉地区が全被災地中で最も高い38.9mに達していたことが東京海洋大学教授・岡安章夫(沿岸域工学)の調査で判明し、4月15日に公表された[19][20]。海岸線より400- 450m離れた重茂半島の姉吉漁港近くの山の斜面に津波で倒された木が発見されており、斜面を駆け上がった津波の遡上高において明治三陸地震1896年)で記録された気仙郡綾里村(現・大船渡市綾里地区。cf. 三陸町)の遡上高38.2mを日本の観測史上初めて上回った[19][20]。また、姉吉地区を流れる川の上流で津波によって海岸から流されたと見られる材木等が発見されていることから、実際の津波の到達点はさらに高い所であった可能性もある[20]。なお、田老地区小堀内漁港近くでも遡上高37.9mが確認されており[19][20]、日本最大規模を誇った防潮堤田老万里の長城)も破壊された[5] (a/b)。田老地区の死者・行方不明者数は5月15日の発表で200人弱[5]
    • テンプレート:Anchor重茂半島にある姉吉地区では、漁港(姉吉漁港)から約800m内陸で海抜約60mの高所にある大津浪記念碑が津波から12世帯約40人の住民の命を守った。これは、「此処(ここ)より下に家を建てるな」と刻まれた先人訓に従って住民全員がそこよりも高い場所に居を構えていたからである。[21][22]
    • 3月11日午後2時46分:宮古市災害対策本部、設置[16]
    • 3月11日午後2時49分:市民5,277世帯・12,842人を対象に、市が避難指示を発令(避難者数:最大時8,889人)[16]
    • 3月16日:この時点で、死者157人、行方不明者1,658人、避難者8,836人[23]
    • 3月23日:この時点で、死者394人、行方不明者1,301人、避難者4,063人、住家約4,500棟全半壊[24]
    • 5月17日:この時点で、死者412人、行方不明者355人、避難者1,946人、住家全壊3,669棟(内、田老地区は1,609棟と特に被害甚大)・半壊1,006棟、公共施設全壊41箇所・半壊11箇所[25]
    • 平成25年2月28日時点の県の調査では死者420人、行方不明者94人、負傷者33人、家屋倒壊4005棟となっている[26]

行政区域の変遷(市町村制施行以後)

cf. 宮古地方の大字小字名 :テンプレート:Cite web
ファイル:Iwate Miyako-city.png
旧・宮古市、県内位置図
  • 1889年明治22年)4月1日東閉伊郡町村制が施行される。[注 1][注 2]
    • 宮古村と浦鍬ケ崎村(うらくわがさきむら)がそれぞれ単独で町制を施行し、宮古町と鍬ケ崎町(くわがさきちょう)が成立。
    • 旧制度の山口村・近内村(ちかないむら)・田代村が合併した上で村制を施行し、新生の山口村が成立。
    • 旧制度の千徳村(せんとくむら)・根市村(ねいちむら)・花原市村(けばらいちむら)が合併し、新生の千徳村が成立。
    • 旧制度の磯鶏村(そけいむら)・高浜村・金浜村(かねはまむら)・小山田村(こやまだむら)・八木沢村が合併し、新生の磯鶏村が成立。
    • 旧制度の崎山村と崎鍬ケ崎村(さきくわがさきむら)が合併し、新生の崎山村が成立。
    • 旧制度の津軽石村と赤前村(あかまえむら)が合併し、新生の津軽石村が成立。
    • 旧制度の重茂村(おもえむら)と音部村(おとべむら)が合併し、新生の重茂村が成立。
    • 旧制度の花輪村・老木村(ろうきむら)・田鎖村(たくさりむら)・松山村・長沢村が合併し、新生の花輪村が成立。
    • 旧制度の田老村(たろうむら)・乙部村(おとべむら)・末前村(すえまえむら)・摂待村(せったいむら)が合併し、新生の田老村が成立。
    • 旧制度の茂市村(もいちむら)・蟇目村(ひきめむら)・腹帯村(はらたいむら)が合併し、新生の茂市村が成立。
    • 旧制度の刈屋村と和井内村(わいないむら)が合併し、新生の刈屋村が成立。
  • 1889年(明治22年)4月1日:中閉伊郡町村制が施行される。
    • 旧制度の門馬村(かどまむら)・田代村・平津戸村(ひらつとむら)が合併し、新生の門馬村が成立。
    • 旧制度の小国村(こぐにむら)と江繋村(えつなぎむら)が合併し、新生の小国村が成立。
    • 旧制度の川井村・川内村(かわうちむら)・箱石村(はこいしむら)・片巣村(かたすむら)・夏屋村(なつやむら)・鈴久名村(すずくなむら)・古田村(ふったむら)が合併し、新生の川井村が成立。
  • 1889年(明治22年)3月29日:東閉伊郡・北閉伊郡中閉伊郡が合併し、下閉伊郡となる。
  • 1824年(明治43年)4月1日:宮古町と鍬ケ崎町が合併し、新生の宮古町が成立。
  • 1941年昭和16年)2月11日:宮古町山口村千徳村磯鶏村が合併した上で市制を施行し、宮古市が誕生する。
  • 1955年(昭和30年)4月1日:崎山村津軽石村重茂村花輪村編入する。
    • 1955年(昭和30年)7月1日:川井村、小国村、門馬村が合併し、新生の川井村が成立。
  • 2005年平成17年)6月6日:宮古市、田老町、新里村が合併した上で市制を施行し、新生の宮古市が成立。
  • 2010年(平成22年)1月1日:川井村を編入する。

行政

現市制下の歴代市長

姉妹都市・友好都市

日本国内
日本国外

人口

テンプレート:人口統計

経済

産業

古来、水産業で栄え、特産品としては、サケイクラウニアワビ毛ガニワカメなどが挙げられる。
平成22年の水揚高は48,897tと、全国主要港中15位である。特にサケやサンマスケトウダラは全国屈指の水揚げを誇る。

工業では、ヒロセ電機や関連企業などによる電子部品の製造、ラサ工業宮古工場によるガリウムの生成、製造と同NCRI事業部による石油精製触媒の再生事業、コープケミカル宮古工場による化学肥料製造やホクヨープライウッド(株)による合板加工などが主産業である。
宮古税関管内の平成22年の輸出入貿易額は13億66百万円で、そのほとんどがこれら工業に関わる木材とリン鉱石の輸入が占める。
輸出では対ロシア向けの水産加工物の輸出と、対中国向けの県産りんごの輸出が若干あるのみである。
平成22年の製造品出荷額は7,788(千万円)で、岩手県内で8位である。
平成20年の一人当たり市町村民所得は226万円(県調査統計課)で、県内では平均レベルであるが、全国的に見ればかなり低い水準である。

震災による影響

宮古市の東日本大震災による被害総額は2457億円と推計されており、このうち住宅被害が1496億円と全体の約61%を占めている。
また市内では1078の事業所が被災し、業種別ではサービス業が547事業所(51%)、商業が334事業所(31%)、製造業125事業所(12%)などとなっている。

市内金融機関

市内に支店、営業所等を置く主な企業

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テンプレート:Col-break

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商業

市内の主な宿泊施設

テンプレート:Col-begin テンプレート:Col-break 公共の宿

ホテル

  • 浄土ヶ浜パークホテル
  • ホテル近江屋
  • 宮古ホテル沢田屋

テンプレート:Col-break ビジネス

  • 宮古セントラルホテル熊安
  • 宮古ステーション古窯
  • ホテルビックウェーブ
  • 幸プラザホテル

旅館

テンプレート:Col-break ペンション

  • 日昇館

民宿

  • 治郎兵衛屋

ラブホテル

  • ホテルSUZUKAKE
  • 東本陣
  • ねむの木

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市内の主なチェーン店等

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市内の主な外食産業

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娯楽施設など

漁港

漁港:田老漁港と重茂漁港は第2種漁港、他は全て第1種漁港である。[注 3]

  • 田老地区の漁港
    • テンプレート:Anchor(こぼりない ぎょこう)[注 4]
    • 青野滝漁港(あおのたき ぎょこう)
    • 小港漁港(こみなと ぎょこう)
    • 田老漁港(たろう ぎょこう):田老地区の中心部にある、岩手県でも有数の漁港。周囲には田老の防潮堤が築かれ、津波防災において先進的な地域であったが、東日本大震災の津波は防ぎきれなかった[注 5]
    • 樫内漁港(かしない ぎょこう)
  • 宮古地区の漁港
    • 宿漁港(やど ぎょこう)
    • 日出島漁港(ひでしま ぎょこう)
    • 蛸の浜漁港(たこのはま ぎょこう):鍬ケ崎(くわがさき)平松に所在。宮古港(旧・鍬ケ崎湊)の基礎となった鍬ケ崎地区にあり、古くから磯漁業を行う。
    • 白浜漁港(しらはま ぎょこう)
    • 津軽石漁港(つがるいし ぎょこう):津軽石川が注ぐ宮古湾最奥部の、赤前地区・小堀内地区・堀内地区に所在。
  • 重茂地区の漁港
    • 浦の沢漁港(うらのさわ ぎょこう)
    • 仲組漁港(なかくみ ぎょこう)
    • 音部漁港(おとべ ぎょこう)
    • 重茂漁港(おもえ ぎょこう)
    • テンプレート:Anchor(あねよし ぎょこう)[注 6]
    • 千鶏漁港(ちけい ぎょこう)
    • 石浜漁港(いしはま ぎょこう)
    • 川代漁港(かわしろ ぎょこう)

公的機関

官公庁等

復興庁

警察

消防

海上保安庁

防衛省

法務省

地方検察庁

厚生労働省

財務省

国税庁

国土交通省

農林水産省

林野庁

環境省

特殊法人

独立行政法人

岩手県

  • 沿岸広域振興局(宮古)

主な市の施設

  • 田老総合事務所
  • 新里総合事務所
  • 川井総合事務所
  • 宮古市民総合体育館
  • 宮古市立図書館
  • 宮古市民文化会館(休止中)
  • 宮古運動公園(休止中)
  • 姉ヶ崎サン・スポーツランド
  • 湯ったり館

メディア

テレビ等

郵便

郵便局

  • 宮古郵便局(集配局)
  • 川井郵便局(集配局)
  • 門馬郵便局(集配局)

テンプレート:Col 簡易郵便局 テンプレート:Col

学校

短期大学

高等学校


岩手県立杜陵高等学校の宮古分室が宮古高校内に設置されている。

中学校

  • 宮古市立第一中学校
  • 宮古市立第二中学校
  • 宮古市立河南中学校
  • 宮古市立宮古西中学校
  • 宮古市立花輪中学校
  • 宮古市立津軽石中学校
  • 宮古市立重茂中学校
  • 宮古市立崎山中学校
  • 宮古市立田老第一中学校
  • 宮古市立新里中学校
  • 宮古市立川井中学校

小学校

  • 宮古市立宮古小学校
  • 宮古市立山口小学校
  • 宮古市立千徳小学校
  • 宮古市立磯鶏小学校
  • 宮古市立鍬ヶ崎小学校
  • 宮古市立花輪小学校
  • 宮古市立重茂小学校
  • 宮古市立千鶏小学校
  • 宮古市立藤原小学校
  • 宮古市立崎山小学校
  • 宮古市立高浜小学校
  • 宮古市立鵜磯小学校
  • 宮古市立津軽石小学校
  • 宮古市立赤前小学校
  • 宮古市立亀岳小学校
  • 宮古市立田老第一小学校
  • 宮古市立田老第三小学校
  • 宮古市立和井内小学校
  • 宮古市立刈屋小学校
  • 宮古市立茂市小学校
  • 宮古市立蟇目小学校
  • 宮古市立川井小学校
  • 宮古市立川井西小学校
  • 宮古市立小国小学校
  • 宮古市立江繋小学校
  • 宮古市立門馬小学校

特別支援学校

学校教育以外の施設

交通

鉄道

ファイル:Settai-Station.jpg
摂待駅津波に備えた堤防の役割を併せ持つ線路施設の一例である。東日本大震災の津波は海岸より1.2kmの内陸部にあるこの駅付近にまで押し寄せた。

東日本旅客鉄道(JR東日本)

三陸鉄道

都市間バス

路線バス

道路

高速道路

高規格幹線道路(一般国道自動車専用道路

地域高規格道路

一般国道

道の駅

都道府県道

主要地方道
一般県道

港湾

名所・旧跡・観光施設、等

景勝

ファイル:Todogasaki 2004.jpg
本州最東端の碑と魹ヶ埼灯台
三陸復興国立公園の中心的な名勝1955年指定)。岩手県指定名勝(第1号)(1954年指定)であり、日本の白砂青松100選1987年)、および、かおり風景100選環境省2001年)の選定地[27] でもある[7]。浄土ヶ浜海水浴場については後述する。
森の巨人たち百選に「『森林浴の森』の木」名義で選定されている。cf.

旧跡

明治2年3月25日1869年5月6日)に起こった宮古湾海戦記念碑
1933年(昭和8年)の昭和三陸地震による津波の後で建てられた災害記念碑で、「此処より下に家を建てるな」との先人訓東日本大震災の津波から現地・姉吉地区の住民の命を守った。

観光施設・多目的施設

  • 土産物
    • 宮古魚菜市場
  • 海水浴場
  • 展示館など
    • 岩手県立水産科学館
    • 宮古市北上山地民俗資料館: cf.
    • 薬師塗漆工芸館
    • 西塔幸子記念館
    • 寄生木展示室(山口公民館)
  • みなとオアシスみやこ: cf.
    • シートピアなあど: cf.
  • 浄土ヶ浜ビジターセンター
  • 浄土ヶ浜マリンハウス
  • 浄土ヶ浜レストハウス

他の名所・施設

ラサ工業宮古工場構内にある、日本で2番目に高い煙突(高さ160m)。小山田地区にある標高90mの山上に建ち、煙突本体と併せて250mの高さを誇る。1939年(昭和14年)6月の操業開始以来、長らく宮古のランドマークである。
田老地区の沖合いに建設された防潮堤cf. 田老の防潮堤は時代を追って巨大かつ堅牢なものとなり、高さ10m[注 8]・長さ2.4kmにも及ぶに至り、中国万里の長城になぞらえて「田老万里の長城」「田老の万里の長城」などと雅称されるようになった。海側と陸側の2重構造になっている、日本最大規模の防潮堤であったが、2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災では、地震直後に20m級の津波が押し寄せたため、海側に面した堤防の半分が崩壊した。
現在は明星大学の所有地である。

祭り

伝統芸能

宮古を舞台とした作品

映画
漫画

出身著名人

江戸時代
明治
大正
昭和
平成
生年非公表

その他の関連事象

三陸沿岸では古来、源義経の末路について、「平泉にて自刃したのは臣下のであって、義経自身は逃げ延び、沿岸を北上していった」と語り継がれてきた[31]cf. 源義経#不死伝説)。岩手県から青森県の沿岸にはこの言い伝えを残す寺社が多く存在し、史実はどうあれ、郷土史研究家の好奇心をくすぐる格好の材料となっている。
宮古市は、東京都品川区上大崎で1996年(平成8年)以来毎年9月開催される「目黒のさんま祭り」に、第4回に当たる1999年(平成11年)以降、水揚げされたサンマ数千匹を無償提供している[10](2007年は5千匹[32]、2008年は6千匹[33]、2009年・2010年は7千匹[34][35])。
2004年(平成16年)12月、沖縄県宮古列島の5市町村が合併する際に合併協議会では新たな市の名称を「宮古市」に決めたが、これを受けて岩手県の宮古市は同じ市名が存在すると混乱する点と事前に岩手県の宮古市への照会が無かったことから猛反発し、宮古列島の協議会に抗議した。その後、宮古列島では住民アンケートの結果、「宮古島市」を希望する意見が多かったため、協議会は「宮古島市」を採用した。cf. 宮古島市#合併の経緯

脚注

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出典

関連項目

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外部リンク

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  6. 図典 日本の市町村章 p32
  7. 7.0 7.1 7.2 テンプレート:Cite web
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  22. テンプレート:Cite web
  23. テンプレート:Cite news
  24. テンプレート:Cite news:被災状況全図。
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  26. 岩手県発行 岩手県東日本大震災津波の記録 p43
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