藤原泰衡

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藤原 泰衡(ふじわら の やすひら)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将奥州藤原氏第4代(最後)の当主。藤原秀衡の嫡男。

生涯

母太郎

奥州藤原氏3代当主・藤原秀衡の次男として生まれる。母は陸奥守藤原基成の娘。異母兄の国衡は「他腹之嫡男」「父太郎」と称されたのに対し、正室を母とする泰衡は「当腹太郎」「母太郎」と呼ばれ、嫡男として扱われた。文治3年(1187年)10月29日、秀衡の死去を受けて泰衡が家督を相続する。

秀衡の死

父秀衡は死の直前、東国の武家政権として勢力を拡大してきた源頼朝との対立に備え、治承・寿永の乱の英雄で頼朝の弟である源義経を大将軍として国務せしめよと遺言して没した。義経は平氏滅亡後に頼朝と対立し、平泉へ逃れて秀衡に庇護されていた。

玉葉』(文治4年正月9日条)によると、秀衡は国衡と泰衡兄弟の和融を説き、国衡に自分の正室を娶らせ、各々異心無きよう、国衡・泰衡・義経の三人に起請文を書かせた。義経を主君として給仕し、三人一味の結束をもって、頼朝の攻撃に備えよ、と遺言したという。これは兄弟間なら対立・抗争がありうるが、親子は原則としてそれはありえないので、対立する国衡と泰衡を義理の父子関係にし、後家として強い立場を持つ事になる藤原基成の娘を娶らせる事で国衡の立場を強化し、兄弟間の衝突を回避したものと考えられる。それほど兄弟間の関係は険悪であった。

文治4年(1188年)2月と10月に頼朝は朝廷に宣旨を出させて泰衡と基成に義経追討を要請する。『尊卑分脈』の記述によると、この年の12月に泰衡が自分の祖母(秀衡の母)を殺害したとも取れる部分がある。真偽は不明だが、親族間の激しい相克があったと考えられている。翌文治5年(1189年)2月15日、泰衡は末弟の頼衡を殺害している(『尊卑分脈』)。2月22日、鎌倉では泰衡が義経の叛逆に同心しているのは疑いないので、鎌倉方から直接これを征伐しようと朝廷に一層強硬な申し入れが行われた。2月9日に基成・泰衡から「義経の所在が判明したら、急ぎ召し勧めよう」との返書が届くが頼朝は取り合わず、2月、3月、4月と執拗に奥州追討の宣旨を要請している。4月にで泰衡追討の宣旨を出す検討がなされた。

ついに屈した泰衡は閏4月30日、従兵数百騎で義経の起居していた衣川館を襲撃し、義経と妻子、彼の主従を自害へと追いやった。同年6月、弟の忠衡を義経に同意したとして殺害している。泰衡は義経の首を差し出す事で平泉の平和を図ったが、頼朝は逆に家人の義経を許可なく討伐したことを理由として、7月19日に自ら鎌倉を出陣し、大軍を以って奥州追討に向かった。

奥州合戦

テンプレート:Main 泰衡は鎌倉軍を迎え撃つべく総帥として国分原鞭楯(現宮城県仙台市青葉区国分町周辺)を本営としていたが、8月11日、阿津賀志山の戦いで総大将の国衡が敗れると、平泉を放棄して中心機関であった平泉館や高屋、宝蔵になどに火を放ち北方へ逃れた。8月21日、平泉は炎上し華麗な邸宅群も百万の富も灰燼に帰した。平泉軍はわずか3日程度の戦いで敗走し、以降目立った抗戦もなく、奥州藤原氏の栄華はあっけなく幕を閉じた。22日夕刻に頼朝が平泉へ入ると、主が消えた家は灰となり、人影もない焼け跡に秋風が吹き抜ける寂寞とした風景が広がっていたという。唯一焼け残った倉庫には莫大な財宝や舶来品が積み上げられており、頼朝主従の目を奪っている。

8月26日、頼朝の宿所に泰衡からの書状が投げ込まれた。『吾妻鏡』によると、以下のような旨が書かれていたという。「義経の事は、父秀衡が保護したものであり、自分はまったくあずかり知らない事です。父が亡くなった後、貴命を受けて(義経を)討ち取りました。これは勲功と言うべきではないでしょうか。しかるに今、罪も無くたちまち征伐されるのは何故でしょうか。その為に累代の在所を去って山林を彷徨い、大変難儀しています。両国(陸奥出羽)を(頼朝が)沙汰される今は、自分を許してもらい御家人に加えてほしい。さもなくば死罪を免じて遠流にして頂きたい。もし御慈悲によってご返答あれば、比内郡の辺に置いてください。その是非によって、帰還して参じたいと思います。」

頼朝は泰衡の助命嘆願を受け容れず、その首を取るよう捜索を命じた。泰衡は夷狄島へ逃れるべく北方へ向かい、数代の郎党であった河田次郎を頼りその本拠である比内郡贄柵(現秋田県大館市)に逃れたが、9月3日に次郎に裏切られて殺害された。享年25、もしくは35。[1]

6日、次郎は泰衡の首を頼朝に届けたが、頼朝は「譜第の恩」を忘れた行為は八虐の罪に当たるとして次郎を斬罪した。泰衡の首は前九年の役の故実にならい、眉間に八寸の鉄釘を打ち付けて柱に懸けられた。泰衡の首は間もなく平泉に戻されて黒漆塗りの首桶に入れられ、父秀衡の眠る中尊寺金色堂の金棺の傍らに納められた。

人物

頼朝に屈して父秀衡の遺言を破り、義経を討ったばかりか命乞いをし、最期は家来に裏切られて奥州藤原氏を滅亡させた泰衡は、偉大な秀衡の不肖の息子として評判は良くない。『吾妻鏡』でも泰衡について「阿津賀志山の陣が大敗したと聞いてあわてふためき我を忘れ」、「一時の命を惜しんで隠れる事鼠のごとく、退くこと貎[2]に似たり」などと酷評している。

泰衡の首と中尊寺ハス

金色堂に納められた泰衡の首については、長年弟・忠衡のものと考えられていたが、1950年(昭和25年)の開棺調査にて、その首には眉間と後頭にある直径約1.5cmの小孔が18cmの長さで頭蓋を貫通した傷跡があり、八寸(24cm)の釘を打ち付けたとする『吾妻鏡』の記述と一致することから、泰衡のものであると確認された。他にも右側頭部に刀傷と見られる深い傷があり、頭や顔に多数の切創や刺創があった。保存状態は良く、顔は丸顔、豊頬で若々しく、父に似て鼻筋が通り頑丈な顔立ちであったという。血液型はB型。歯の状態は綺麗で、レントゲン検査から没年齢は推定2 - 30歳、もしくは25歳と判断されている。首には縫合した跡が見られ、近親者と考えられる人物により手厚く葬られていた。

その時の調査において泰衡の首桶から100個あまりのハスの種子が発見された。種子はハスの権威であった大賀一郎(1883 - 1965年)に託されたが発芽は成功せず、その後1995年に大賀の弟子にあたる長島時子が発芽を成功させた。泰衡没811年後、種子の発見から50年後にあたる2000年には開花に至り、ハスの花は中尊寺の讃衡蔵に保存された。中尊寺ではこのハスを「中尊寺蓮」と称し境内の池に栽培している。

脚注

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泰衡を題材とした作品

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  1. 『吾妻鏡』吉川家本では享年25、北条本では享年35とする。
  2. 小形の獅子、子犬の意か。『現代語訳 吾妻鏡 4 奥州合戦』(吉川弘文館)の訳は「雛鳥」。