千葉真一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:ActorActress テンプレート:Infobox Musician 千葉 真一 (ちば しんいち、JJ Sonny Chiba, 1939年1月22日 - )はテンプレート:Refnest日本俳優歌手体操選手空手家芸能プロモーター映画プロデューサー映画監督作詞家作曲家ナレーター声優

日本を代表する映画スターとして海外ではSonny Chiba (サニー ちば)の名で知られている[1][2][3][4][5][6]。特技の器械体操極真カラテ四段・少林寺拳法弐段・乗馬スキーを活かしたアクロバティックスタント擬斗殺陣に定評がある[1][4][6][7][8]吹き替えに頼らないで自ら演じるアクションスターの元祖ともいえる存在で[1][7][9][10][11][12]映画テレビドラマ演劇コマーシャルメッセージと半世紀以上にわたり、幅広く活躍している。ジャパンアクションクラブ (JAC ) の創始者。

本名 : 前田 禎穂 (まえだ さだほ)[13]愛称千葉ちゃん[注釈 1]所属事務所アストライア[注釈 2]

来歴

オリンピックを目指して

福岡県福岡市博多区雑餉隈で二男三女の長男(第二子)として生誕[14]。父親は大刀洗町に在った陸軍飛行戦隊に所属する軍人で、母親は熊本県出身で学生時代に陸上競技をしていた[14]テストパイロットの父親は初めて建造された空母へ初着艦を成功させるなど、危険な重責業務で給料の半分が飲み代となり、家庭は裕福でなかった[15]。4歳の時、父親が千葉県木更津市へ異動となったため、家族で千葉県君津市へ転居した。終戦後、軍が解体され、父親は漁業組合の役員へ転職したが、家計は厳しかった[15]。しかし「貧乏だったものの大自然に囲まれていたため、以外は不自由せずにいろいろな食物を食べることができ、自分の土台となった」と当時を述懐している[16]。君津中学校へ進学すると、千葉の進路に影響を与えることとなる体育教師の松本と出会う[17]。松本は千葉を陸上競技バレーボール野球投手で4番打者[18])など、複数の大会に出場させていた[17]。この頃ヘルシンキオリンピックが開催され、日本勢が体操競技でメダルを獲得したことにより、体操競技の一大ブームが発生する[19]。松本はその時勢に乗り、千葉を「体操部を創るから部員になれ」と勧誘したので、運動部を掛け持ちしながら練習し始める日々となった[17]。勧められての体操競技だったが、やがてオリンピック日の丸を掲げたいという夢を抱くようになり[1][7]、松本に相談すると「体操するなら木更津一高へ行け」とアドバイスされた[19]。進学校のため躊躇していると、松本は練習後にも勉強をみてくれる先生を手配し、その甲斐有って合格[19]。入学後は体操競技に専念し、1年生で全国大会上位入賞、3年生で全国大会優勝を成し遂げた[1][20]。その一方でアラン・ラッドの『シェーン』やゲイリー・クーパーの『真昼の決闘』など、西部劇アメリカ映画を夢中で観ていた[20]

1957年日本体育大学体育学部体育学科へ進学[21][12][22][23][24]。同級生には東京オリンピック跳馬金メダリスト山下治広がおり、ヘルシンキオリンピックの跳馬銀メダリスト竹本正男に指導を受けた[1][12]。オリンピック出場を目指して練習に明け暮れていたが、学費を稼ぐために時給が高い土工や引越しのアルバイトを、身体鍛錬も兼ねて並行していた[25]。大学2年生の夏、跳馬を練習中に着地で失敗し、腰・両膝を痛めてしまう[21][12][18][26]。練習とアルバイトの掛け持ちで身体を酷使していたことも加わり悪化し、医者から「1年間運動禁止」と宣告されたため、1週間も練習を休めば差がつくこの時期に選手を続けることが困難となった[21][12][24][25]休学も検討したが、学費を工面できないので余儀なく退学テンプレート:Refnest。将来を模索し始めた千葉は、実家に帰る途中の代々木駅で「東映第6期ニューフェイス募集!」のポスターを偶然見かける[27]。地元に戻り、相談した親友も賛成してくれたことや[27]、かつてミスタースポーツウエア・コンテストに入賞し[28]東映ニューフェイスを受験するよう勧められていたことから応募した[27][28]。日本体育大学で器械体操をしていた経歴を珍しがられたが、2万6千人の応募からトップの成績で合格を果たす[27]。しかし父親は芸能界入りを猛烈に反対して千葉を勘当した[27]

アクションスター

1959年大学中退して[注釈 3]東映へ入社。男性6名・女性14名の同期生には亀石征一郎新井茂子茅島成美太地喜和子真山知子都築克子らがおり、俳優座で6か月の研修を受けた[29]1960年1月7日テレビドラマ新 七色仮面』の二代目・蘭光太郎として主演デビューし、続けてテレビドラマ『アラーの使者』にも主演した。当時からスタントを自らこなしていたが[30]、作品のジャンルが替わっても東映は千葉へアクションスターであることを常に求めていく[7]。息子の主演作品を観た父親はようやく勘当を解いていた[31]

1961年映画警視庁物語 不在証明(ありばい)』に出演後、 深作欣二の初監督映画『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』に主演して、2期先輩の曽根晴美と「拳銃コンビ」のキャッチコピーで売り出された[32]。千葉にとって深作はかけがえのない師匠・盟友・最も尊敬する映画監督であり[11][33]、17の映画でコンビを組みヒットを連発していく[11]。主演映画『ファンキーハットの快男児シリーズ』ではカーチェイス、左右に開脚して2人の敵を同時に倒す跳び蹴り器械体操で培った筋骨隆々な肉体美を大車輪で披露している[1][10]1962年は映画『事件記者シリーズ』の第1作『恐怖の魔女』に主演したほか、尊敬する高倉健の主演映画[34][35]青春恋愛映画『恋愛学校 ラブ・スクール』、ギャング映画『恋と太陽とギャング』、青春・戦争映画『南太平洋波高し』などに助演した。1963年には映画『八州遊侠伝 男の盃』で時代劇初出演や『事件記者シリーズ』の第2作『殺人鬼の誘惑』と『柔道一代』に主演。シングル男一匹生きるなら」をリリースして歌手デビューも果たしたが、シリーズ化された映画『柔道一代 講道館の鬼』(1964年)の乱闘シーンで骨折してしまう[36]テンプレート:Refnest

1966年、映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』(合作)、映画『海底大戦争』(日合作)にそれぞれ主演し、国際的にも活動し始め、後に『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』(1973年、日合作)、『激殺! 邪道拳』(1977年、日香泰合作)、『ゴルゴ13 九竜の首』(1977年、日香合作)など、諸外国との共同作品に主演するきっかけになった。『カミカゼ野郎 真昼の決斗』は台湾ロケーション撮影され、離陸する軽飛行機の翼に飛びつき乗り込むスタントをした[1]。しかし疾走する自動車を追いかけアンテナに飛びつくスタントでは後輪の跳ねた石が脛に突き刺さり、台湾で一週間入院する代償を払っている[36]。立て続けにケガしたため、同年に傷害保険と父親を受取人にして生命保険に加入[36]。その合間に前年のテレビドラマ『くらやみ五段』、遠藤実の自伝を映画化した『太陽に突っ走れ』、『子守唄シリーズ』、『河内遊侠伝』、『陸軍諜報33』など次々と主演していた。

1968年からテレビドラマ『キイハンター』に主演。これまで誰も見たことのないスーパーアクションで人気をさらい、千葉ちゃんの愛称で一躍国民的アイドルとして親しまれた[1][37][38][39][注釈 4]。瞬く間に視聴率は30パーセントを超え、1年の放送予定が5年に延ばされた[37][40]。山頂駅を出発したを行き来するロープウェイワイヤを投げてぶら下がってからよじ登り、走行する列車バスに飛び降りて屋根で敵と格闘、自動車から並走する軽飛行機に飛び移る、雪渓から回転しながら転落、滑落しそうなの前で格闘など数々のスタントを演じてるがケガを絶えず負い、大きなものでは左足首骨折や日本刀を斬られていた[36][41][42][43]海外でもオンエアされ、千葉の活躍に深い興味を示したブルース・リーは共演の申し入れをしてきたが[1]、リーの突然の死により実現しなかった。千葉のアクションやスタントを観てから熱狂的なファンとなったジャッキー・チェンは、千葉のようなアクションスターになる夢を抱いていた[44]。チェンはスターとして認められだした頃に東映京都撮影所へ出向き、千葉を表敬訪問して念願であった対面を実現させている[44](他の逸話は ⇒ #キイハンター)。

転機

1969年オールスターキャスト映画日本暗殺秘録』では小沼正に扮して主演テレビドラマキイハンター』を休んだため、TBSやファンから復帰の要望が高まっていたが[45]、ドラマのイメージから脱皮しようと本作に賭ける思いはとても強かった[45]監督中島貞夫と協議しながら小沼を創り上げていき、撮影見学に来ていた小沼本人からもその演技は太鼓判を押された[45]。同年の京都市民映画祭では本作で演技賞を獲得[45]。喜びと共に「人気者になるだけでなく、様々な作品に出演していかなくてはいけない。『キイハンター』を卒業しよう[45]」と決意する転機になった。降板をボス役の丹波哲郎に申し入れ[37][46]、丹波と東映は続けたかったが[46]、丹波は「千葉が居ないのでは『キイハンター』は成り立たない。だったら一度番組を終わらせよう」と理解を示し、大ヒットしていた同ドラマは1973年に終焉[37][46]。千葉は「丹波さんの決断にとても感謝している」と述懐している[46]

1970年、アクション・擬斗を演じる相手やスタントマンの不足に悩み[注釈 5]アメリカ映画で活躍するような俳優・スタントマンの育成、若年層の教育に関心を持っていたことから、ジャパンアクションクラブ (JAC ) を設立。初期は上述のような人材を育成する場だったが、ウエスト・サイド物語に感動して「いつかはミュージカルをやりたい」という夢を抱いていたことから[47]、「肉体は俳優の言葉」というポリシーに「五体で喜怒哀楽を表現する」を加えて生徒を育てていく[48]テンプレート:Refnest。主な門下生には大葉健二金田治・斉藤一之・西本良治郎春田純一山岡淳二志穂美悦子真田広之黒崎輝山本亨高木淳也伊原剛志堤真一真矢武土家歩山口祥行らがおり、俳優・アクション監督・スタントマン・スーツアクターで活躍する人材を輩出した[11]

1973年の映画『仁義なき戦い 広島死闘篇』では、配役が予科練出身のヤクザ・山中正治に決まり、セリフも全て覚えて撮影に入る直前だった[38][39][49]。しかし狂犬のようなヤクザ・大友勝利を演じることが決まっていた北大路欣也が「大友は粗暴で下品すぎて、どうしても自分では演じられない。山中をやらせてほしい」と言い出したことから、プロデューサー日下部五朗と宣伝担当者らは千葉を突然訪ね、「山中と大友を交代してもらえないか」と依頼してきた[38][39][49]。『日本暗殺秘録』に続いて『広島死闘篇』の脚本を執筆した笠原和夫は、小沼正の一面を山中のキャラクターに取り込んでいたこともあり、東映と笠原は「小沼を好演して受賞した千葉に、山中を演じさせよう」とキャスティングしていた[49]。このような経緯から千葉も、小沼と山中に共通点を見出して役作りしてきたため、初めは交代に難色を示した[49]。ほどなくして監督の深作欣二が会議で唯一「千葉に大友を演じさせたほうが、絶対おもしろくなる」と主張していたことを知り、似たような役を再び演じることは俳優として停滞するのではないかと再考し、「役作りし直すから、出番を少し後にずらしてほしい」と交代を了承した[38][39][49]。千葉が北大路に役を譲ったのはこれが初めてでなく、1963年の映画『海軍』に続いて二度目となるテンプレート:Refnest

当時の千葉はブロマイドの売上げが俳優部門で4年連続No.1のアイドルでもあったが[37][38][39][50][51]、過激なセリフに悩みながら「これまで良いと思ったものを全て捨てる」という姿勢で、サングラスを常時掛けて眼を隠し、唇を裏返しにして糊付けするなど、役柄にふさわしい演技・扮装を工夫した[39][52]。そして作り上げた大友勝利はシリーズ中1, 2を争う名キャラクターとして人気をつかんでおり[38][51][53]、後のヤクザ映画でも「『仁義なき戦い』の千葉真一さんがやった大友勝利のような」と影響を与え続け、ヤクザ役のひな型となっている[54]。封切り公開されると千葉のイメージチェンジは話題となり[5][38][39][55]俳優座養成所1期生で千葉と何度か共演している岩崎加根子などからも絶賛され[56]、それを聞いた千葉は「とても自信がついた。悪役の妙味を知ることができ、実に大きなものを与えてくれた作品だった」と語っている[38][39][56]。大友勝利は人気キャラクターだけあって主人公にした企画が出され[38]、『仁義なき戦い 頂上作戦』にも大友で出演する予定だったが[57]、『広島死闘篇』と同時進行で『柔道一代シリーズ』以来、10年ぶりの格闘映画となる主演作品『ボディガード牙シリーズ』(1973年)の撮影に入り、続けて主演映画『殺人拳シリーズ』もクランクインしたため、『仁義なき戦いシリーズ』の再出演は実現しなかった[58]。これ以降は格闘映画で主演作品が製作されていき、学生時代から極真カラテを修行して、黒帯を允許された技量が生かされることとなった(力量は ⇒ #空手道)。

Sonny Chiba

1973年に封切公開された映画ボディガード牙シリーズ』を皮切りに、『殺人拳シリーズ』(1974年 - 1976年)、『地獄拳シリーズ』(1974年)、『少林寺拳法』(1975年)、『けんか空手シリーズ』(1975年 - 1977年)、『激殺! 邪道拳』(1977年)と、前後して『やくざ刑事シリーズ』(1970年 - 1971年)、『狼やくざシリーズ』(1971年 - 1972年)、『麻薬売春Gメンシリーズ』(1972年)や、小説劇画を映画化した『ウルフガイ 燃えろ狼男』(1975年)、1977年は『空手バカ一代』、『ドーベルマン刑事』、『ゴルゴ13 九竜の首』など数々の映画主演した。これらの作品にはテレビドラマキイハンター』と同様のスタントに、空手道拳法器械体操などが加わり、アクロバティックでスリリングとシャープな演技は好評を博した[1][5][7][9][59][60][61][62]

とりわけ1974年に主演した映画『激突! 殺人拳』は、ヤクザ映画が下火になっていた東映にとって、久々の大ヒットをとばした作品となった[5][63]アメリカ合衆国ヨーロッパオーストラリアカナダの映画会社も、『激突! 殺人拳』を買い付けに来ていた[64]。なかでもアメリカのニュー・ライン・シネマは「ブルース・リー以上だ。素晴らしい[64]」と評して興行権を買い取り、『The Street Fighter 』とタイトルをつけ、千葉をSonny Chiba (サニー ちば)とネーミング[注釈 1][65][5]。同年11月12日から主にアメリカ中南部の都市18館で封切られ、3週間でベスト5に躍り出て千葉の代表作となった[5][64][66]。アメリカで最も権威のある総合情報週刊誌・Variety12月18日付にもこの出来事が掲載され、同誌が初めて日本映画を取り上げるという快挙を成し遂げた[64][66]。大ヒットした要因として「リーの舞踊劇的な功夫と違い、ワザと力もより本物に近く、迫力がある」、「器械体操を利用した、トランジスター的器用さが面白い」が挙げられている[64]忍者の末裔に扮した同年の主演映画『直撃! 地獄拳』は、千葉のスピードあるアクションと石井輝男のユーモアとウィットを盛り込んだ演出が組み合わされた作品となった。1974年度に4億1700万円の配給収入を上げ、同年度の日本映画配給収入ランキング第5位に入り、アメリカでは『The Executioner 』というタイトルで1999年現在、10万本以上のビデオが売れている[4][5]

当時の欧米では空手カンフーを区別することが無く、「空手 = ブルース・リー」というイメージも、これら千葉主演の格闘映画以降は「空手 = 千葉真一」というのが欧米での一般的な認識となっている[2][67][68]アメリカ州・ヨーロッパ・東南アジアを中心に、世界中にマーシャルアーツの大スターであるSonny Chiba の熱狂的な人気は根強く[2][67][69][70]、著名人の熱烈なファンにはサミュエル・L・ジャクソン[4][71]クエンティン・タランティーノ[4][67][72]キアヌ・リーブス[73]インドネシア格闘家俳優ヤヤン・ルヒアン[70]、らがおり、世界の映画人にも影響を与えている[4][67][70][71][72][73]。ジャクソンは初めて千葉に会った時、直立不動で「サインをください」と頼んでいた[4]。タランティーノはアメリカ映画トゥルー・ロマンス』で主人公が『激突! 殺人拳』を映画館で観て、部屋には『カミカゼ野郎 真昼の決斗』、『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』のポスターを貼るなど、千葉の熱狂的ファンである主人公を描いている。リーブスは「僕はSonny Chiba の映画とともに育ったようなものなんだ」とその影響と憧れを語り[73]、ルヒアンはインドネシア映画『ザ・レイド』のプロモーション2012年来日した際、「千葉さんのアクションは本当に勉強になります」と日本が誇る世界のアクションスターに敬意を表している[70]谷川貞治も「千葉さんの映画のおかげで格闘技人口がかなり増え、格闘技界の宝だ[74]」と述べている。

この頃フランシス・フォード・コッポラは「千葉真一とアル・パチーノの共演で映画を製作したい」と東映社長岡田茂 へオファーし[75]、千葉も「海外で勝負させてください」と岡田に懇望したが[76]、「まだその時期ではない」と岡田は承認しなかった[11]。そのため上記以外の映画やテレビドラマザ・ボディガード』、『ザ★ゴリラ7』、『燃える捜査網』、『大非常線』など立て続けに主演し、若手の育成にも追われる多忙の日々を日本で過ごすこととなったが、1976年の映画『沖縄やくざ戦争』では京都市民映画祭の主演男優賞を受賞した。

ジャンルを越えた活躍

名実共に日本を代表するアクションスターとして活躍していたが[1][9][60][61]1978年から本格的に時代劇へ進出。木刀殺陣の練習を1日8時間行い臨み、20mからへ飛び込むスタントをした主演映画柳生一族の陰謀』は興行収入30億円以上の記録的大ヒット[77][78][79][80]。この作品は千葉が『裏柳生』というタイトルで深作欣二へ提出した企画がベースになっており[54][81]1979年第2回日本アカデミー賞の優秀助演男優賞を受賞した。柳生但馬守宗矩若山富三郎)・宮本武蔵緒形拳)と華麗で凄みのある一騎打ちを披露した主演映画『魔界転生』(1981年)は観客動員数200万人・配給収入10.5億円を超し[82][83]、映画『赤穂城断絶』(1978年)、『里見八犬伝』(1983年)などにも出演。特に『柳生一族の陰謀』、『魔界転生』、テレビドラマ柳生あばれ旅シリーズ』(1980年 - 1983年)の柳生十兵衛三厳と『影の軍団シリーズ』(1980年 - 1985年)の服部半蔵十八番となり[84][85][86][87][88][89][90]、従来の時代劇に空手器械体操の技を取り入れたアクロバティックな殺陣は人気を得ていた[1][4][89][90][91]2012年ハリウッド映画アベンジャーズ』のサミュエル・L・ジャクソンが扮した役柄は千葉の柳生十兵衛を参考としているなど後の作品にも影響を与え[71]福岡ソフトバンクホークス監督秋山幸二は「あなたにとってサムライとは?」という問いに「千葉真一の柳生十兵衛は、生きるか死ぬか究極の真剣勝負というイメージがいい」と評し[92]、根強い人気がある[71][92]。しかし十兵衛で長時間、左目に眼帯をしていたため千葉の右目は酷使され視力を失い、人工レンズを入れる代償も払っていた[93]

1979年には芸能生活20周年記念作品である映画『戦国自衛隊』で[94]、主演と日本映画初のアクション監督を兼務し[2]配給収入で13.5億円のヒットをした[95]時速100kmで飛ぶヘリコプターロープ1本でぶら下がり、乗馬では地面にあるを左右に傾き、拾い上げるスタントを演じたほか、ヘリコプターから宙吊りになるシーンは自前のハイスピードカメラを足に括りつけて撮影し[7]、騎手の目線を写すためにカメラを取り付けたヘルメットを被り乗馬するなど[96][注釈 6]、アクション監督として撮影を自ら行っており、これらの敢行はスタッフをとても心配させた[7]の脇腹に隠れての乗馬は、テレビドラマ『柳生一族の陰謀』第27話「美女と野獣」で千葉が既に演じていたものをジャパンアクションクラブ (JAC ) のメンバーに再現させている。その演出が評価され、1980年にブルーリボン賞のスタッフ賞を受賞した。

東映から「好きな映画を作っていい」と許可され、企画した1981年の主演映画『冒険者カミカゼ -ADVENTURER KAMIKAZE-』はフランス映画冒険者たち』をオマージュした作品で、空手・拳法の達人や剣豪・忍者とは異なるしがない大学職員に扮して活劇を演じた[97]。前年の『忍者武芸帖 百地三太夫』ではワイヤーアクションを初めて取り入れ、『吼えろ鉄拳』と同様に俳優とアクション監督を兼ね、『燃える勇者』ではアクション監督に専念。1989年の『将軍家光の乱心 激突』では再び、アクション監督と俳優を兼務したが、この作品は第39回ベルリン国際映画祭に招待された。1990年にはプロデューサーと初の監督を兼ねた映画『リメインズ 美しき勇者たち』を手がけ、アクション映画の全盛期を牽引していた。この頃は演劇にも進出し、3年間にわたって満員御礼となる記録的な成功を収めたミュージカルゆかいな海賊大冒険』(1982年 - 1984年[98]、『酔いどれ公爵』(1985年)など複数の作品を企画・演出・主演し、JAC ミュージカルとして定期的に公演した。

これまで話題作に数多く主演してきたが、それとは裏腹に「アメリカで撮影が始まるときには『Ready camera. Action! 』と声がかかる。“アクション”は本来『あらゆる演技』を意味するものだけど[30]、『体が動くからアクション俳優をやれ』と要望通りに何でも演じてきたことで、日本では逆にアクションのみが先行してしまい、あまり良くないイメージを持たれた[30][48]」と複雑な心情を吐露している。『キイハンター』が大ヒットしていた頃には高倉健から「アクションスターのイメージを世間に持たれないほうがいい」とアドバイスされており[99]1970年代から1980年代にかけて、テレビドラマ『七色とんがらし』(1976年)や『十字路』(1978年)、『深夜にようこそ』(1986年)、『夢に見た日々』(1989年)のホームドラマにも主演。1982年には楽曲誓い(JACのテーマ)」を作詞、1985年には10年ぶりに歌手としてリリースした「曠野」の作曲も手がけ、俳優・歌手に留まらない映画監督・映画プロデューサー・作詞家作曲家など、その活躍ぶりはジャンルを越えて幅広いものであった。

海外進出

日本諸外国との合作映画カミカゼ野郎 真昼の決斗』 、『海底大戦争』、『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』、『激殺! 邪道拳』、『ゴルゴ13 九竜の首』などに主演し、『武士道ブレード』(1981年合作)にも出演していたが、既述のとおり本格的な海外作品への出演を認めてもらえず、関係者に「あきらめた」と思われていた[11]。しかし水面下のアピールや主演映画の評判などで、1990年頃からアメリカ映画の出演依頼が届き始めていた[11]。折しもロサンゼルスでは映画『激突! 殺人拳』(1974年)、『子連れ殺人拳』(1976年)など、14本の主演格闘映画がリバイバル公開されていた[100]

1991年ジャパンアクションクラブ (JAC ) の売却を経て、1992年にアメリカ映画『エイセス / 大空の誓い』に出演。これを機に拠点をロサンゼルスへ移して、アメリカでも俳優活動をするようになり、グリーンカードも取得した[101]日本未公開作品のアクション映画も多いが、長年の経験で培ったそのアクションは高く評価されている[4][102]

1998年に出演した香港映画風雲 ストームライダーズ / 雄覇天下』では、ラスボス“雄覇(ホンパ / ホンファ)”を演じた。原作のイメージを彷彿とさせるその演技は話題に上り、翌年の第18回香港電影金像奨では、外国人として初めて優秀主演男優賞にもノミネートされた。2001年には台湾でも連続ドラマ化された。

2000年代

2003年、友人でもあるクエンティン・タランティーノのアメリカ映画『キル・ビル』シリーズでは出演はもちろん、ユマ・サーマンルーシー・リューらハリウッドスターへ剣術指導を務めて、大きな話題を呼んだ[103]。千葉についてサーマンは「Sonny (サニー)は大好きよ。私にとって彼は大スターだし、偉大な俳優だと思う[104]」と、一方のリューは「Sonny は本当にいろいろなことを教えてくれた[105]」と、それぞれ語っている。第30回サターン賞では『キル・ビル』で助演男優賞にノミネートされた。

2005年10月29日に開催されたハワイ国際映画祭では、これまでの功績を讃えたMAVERICK AWARD を受賞した。2006年3月福島県会津若松市にある會津藩校 日新館を運営する会社の取締役に就任し、9月には映画撮影所「日新館会津撮影所 武士乃陣」をオープンさせた。

2007年には英国放送協会 (BBC ) 製作の、日本をテーマにしたドキュメンタリー番組Japanorama 』に出演。「Densetsu (Legends )」(伝説)をテーマにした回で取り上げられ、4月9日に放送された。7月16日に行った記者会見で、「千葉 真一という名前を返上する」と発表した。大河ドラマ風林火山』に出演が終わった翌日の出来事だった。「たとえ撮影中に死にそうになった時にも、肉体の限界を感じたことはなかった。しかしこの1年間、どうも身体がついてこない。今年いっぱいで(芸名を)葬りたい[50]」、「10年前に喘息を発症し、それ以来、毎日朝夕に気管を広げる薬を飲んでいる。肉体は俳優の言葉。やはり自分の中に、(千葉真一としての)イメージがある。応援してくださるファンの方々にぶざまな格好を見せるわけにはいかないし、ここが引き際だなと思った[50]」と胸中を明かした。11月には海外通称としていたJJ Sonny Chiba (JJ サニー チバ)を日本でも使うようになり[106]和千永 倫道(わちなが りんどう)の名で、映画監督業への進出を表明した[107]。母親の旧姓・和智永(わちなが)と千葉を併せ、「人の道」を由来としたものである[107]11月26日には厚生労働省から「健康大使」にも任命された[108]

日本・アメリカ東南アジア世界各国で、後進の育成・空手道の普及に活動しており、毎年10月には旧武徳殿がある京都市武道センターで少年少女オープン空手道選手権大会「千葉真一総裁杯」を催している。2008年10月から2009年3月まで京都造形芸術大学教授を務めた。

2010年10月22日には東京グランドプリンスホテル赤坂で、結婚披露宴を兼ねた芸能生活50周年記念式典を開いた。もともとは、アントニオ猪木池谷幸雄石田純一市川亀治郎今井雅之内野聖陽梅宮辰夫岡崎二朗ガッツ石松川地民夫神取忍樹木希林北の湖敏満京本政樹具志堅用高郷田勇三小林幸子コロッケ高橋英樹竹本直一田中好子谷村新司津川雅彦十朱幸代夏八木勲白竜張本勲布施明風吹ジュン松井章圭松坂慶子美川憲一三田佳子やまさき十三山本KID徳郁横峯良郎ラモス瑠偉ら計60名を発起人とした芸能生活50周年記念式典が先に決まっていたところ、現妻と挙式や披露宴をしていなかったため、千葉の要望で記念式典と合わせて企画された[109][110][111][112][113][114][115]

前半の披露宴には家族でキャンドル点灯のほか、長男の俳優真剣佑と次男からも千葉夫妻へスピーチが行われた。後半の記念式典では出演した260本の映画テレビドラマなどが順に紹介され、息子達と空手道の演武でと杉板の試割りを、まな娘の女優真瀬樹里とは殺陣を披露した。勝野洋小堺一機夏樹陽子らは花環を贈呈し、出席者に上記発起人ほか、太田昭宏北島三郎関根勤高岡早紀高橋和也デヴィ・スカルノ南部虎弾ビリー・ブランクス堀田眞三魔裟斗松木安太郎ら、多数の芸能人を含む各界から約600人がお祝いに集まった。千葉は「あっという間の50年だった。まだまだ、やり残したことがあるので精進したいと思う。ハリウッドで日本の俳優を育てたい」と新たな目標を掲げた[109][110][111][112][113][114][115]

2011年以降、芸名を日本のみ千葉 真一に戻し、海外ではJJ Sonny Chiba としている[116]。同年9月29日から10月2日にロサンゼルス・ウエストウッドビッグフット・クレスト・シアターにて開催された、アジア - アメリカ映画を祝す国際フィルムフェスティバル「SINGAFEST 2011 」(ビッグフット・エンターテインメント主催)では、LIFETIME ACHIEVEMENT AWARD を受賞し、代表作の一つである『魔界転生』が上映された[67][117]。授賞式には長女の真瀬樹里、長男・真剣佑、次男も駆けつけ、息子たちは空手を、千葉と真瀬は殺陣を披露し、集まった多くのファンをわかせた[117]。同年11月、徳島県鳴門市で生産・販売されている「本格焼き芋焼酎“斬”」の監修をした[118]

2013年3月10日日本体育大学から正式に卒業を授与され、これにより最終学歴は「日本体育大学体育学部体育学科卒業」となり、学校教育法第104条および学位規則第2条の規定に従って「学士(体育学)」の学位が与えられた[注釈 3]

人物

家族・人柄・交友

テレビドラマ『キイハンター』で共演した野際陽子1972年に結婚し、一人娘の真瀬樹里を儲ける。おしどり夫婦として有名だったが、ハリウッドで仕事が増え始めて拠点を移したい千葉と[119]日本に居たい野際の意志不一致から[119]1994年に離婚。記者会見を野際と一緒に行うなど憎みあっての離婚ではないため、真瀬共々良好な関係を続けており、真瀬とはテレビ時代劇寺子屋ゆめ指南』、『風林火山』で共演し、複数のトーク番組へ一緒に出演している。その後、千葉は28歳年下の一般女性と1995年に再婚して長男・真剣佑と次男を授かり、アメリカ合衆国カリフォルニア州ビバリーヒルズに在住している[11][111][112][114]矢吹二朗は弟。

スポーツニッポン文化部次長だった脇田巧彦は「何事においても、とことん、のめりこむ性質で、適度ということを知らない熱血漢である[7]」と評し、真瀬樹里も「何があっても進んでいく前向きさと、映画への情熱は世界一。パパは私の誇り[113]」と話している。高平哲郎は「打ち合わせ相手を待っていると、後ろのテーブルには千葉さんが女性と仕事の話をしながら食事していた。思わず『高平です。ご無沙汰しています』と声をかけると、千葉さんは立ち上がり、笑顔で『お元気ですか』と答えてくれた。2回しか会ってない私にきちんと挨拶をしてくれるのが、千葉さんの真面目さと優しさなんだと思う[5]」と記している。ピラニア軍団にも特別後援者として関わっており、1975年に軍団の結成式が大阪市御堂会館で催され、深作欣二渡瀬恒彦と共に立会った。千葉は舞台へ上がらず、カメラ片手に客席からメンバーに声をかけて裏方に徹し、場を盛り上げていた。そんな千葉に川谷拓三は感謝し「ワシ、生まれて初めてこんな派手なスポットライトを浴びましたわ。ホンマおおきに!」と号泣していた。

日刊スポーツの記者は「圧倒的な存在感をオーラと呼ぶが、それを感じた[11]」、東映ニューフェイスの後輩である堀田眞三は「かつて大流行した『カッコいい! 千葉ちゃん!』の言葉通り、 “ カッコよさ ” の象徴だった[120]。国中を席巻したカリスマであり、正真正銘の映画スターとして、醸し出す雰囲気や存在感が全然違う[120]。共演俳優や東映の後輩らも、威厳とパワフルで圧倒されるけど明るくて格好良いと言ってるし、滲み出る男を感じさせてくれる[121][122][123]」、サミュエル・L・ジャクソンは「タフガイを演じる時には、いつも千葉さんの演技を参考にさせてもらっているんだ。カリスマ的な存在感のある、最高にクールな俳優だと思うよ[71]」、あさ美は「かっこよすぎだし、オーラがすごいし、魅入っちゃった[124]」、大木凡人は「とにかくカッコ良く情熱をもったスターです[125]」など、異口同音に「(千葉さんには)オーラやカリスマ性がある」と証言している。

そのほかの著名人ではいしだあゆみ[126]今井雅之[127][128]関根勤[5]園子温[129]クエンティン・タランティーノ[4][67][72]キアヌ・リーブス[73]インドネシア格闘家俳優ヤヤン・ルヒアン[70]、らの熱狂的なファンがおり[4][5][67][70][72][73][126][127][128][129]、いしだは仕事の合間を縫いながら必ずテレビドラマキイハンター』を観て、千葉と会ったときには「大ファンです」と伝えている[126]ジャパンアクションクラブ (JAC ) には千葉の勇姿に憧れ、大葉健二[130]春田純一[131]志穂美悦子[131][132][133]、らが入団していた[130][131][132][133]

大山倍達高倉健深作欣二を「人生で最も影響を受けた特別な存在で、最も敬愛する人物[134]」、親友は東映の先輩でもある高倉と夏八木勲であると語る[6][135]。夏八木とは1967年映画あゝ同期の桜』で知己を得て以来、最も共演が多かった[6][135]。夏八木は「新人で京都にきたばかりで挨拶の仕方も知らなく、そんな僕を千葉ちゃんがいろいろと面倒みてくれた。『何も知らない奴だから、あまりいじめないでくれよ』と周囲に言ってくれたんです。お陰で見知らぬ京都でかなり過ごしやすくなったので、本当に感謝しています。千葉ちゃんのそういう性格はもちろんだけど、あそこまで自分の肉体を意のままに操れるよう鍛えていたことに、僕はビックリした[6]」と評し、千葉と夏八木を知る関係者も「夏八木さんの口からは、千葉さんを絶賛する言葉しか聞いたことがない。千葉さんも夏八木さんを『僕の人生の中で最高の俳優』と認めていて、事あるごとに仕事に誘っていた。互いによき理解者で、尊敬し合えるかけがえのない友だった」と証言している[135]

空手道

東映に入る前から大山道場(後の極真会館)に通っており、きっかけは大学生の時に大山倍達を知っている韓国人から紹介を受けて入門[4]格闘映画で千葉の敵役を演じた石橋雅史極真カラテ先輩にあたる[4][136]。大山は「千葉は学生時分から道場へ通ってきており、仕事の関係でまとまった稽古をしていないまでも、門下生の序列で言うと相当古い方になるんだよ[137]」と語っている。千葉は名誉段位ではなく、一般門下生と同様に昇段審査を受け、1965年10月15日黒帯初段)を允許[8]1977年2月3日弐段を越えて飛び段で参段[8]1984年1月20日四段へ昇段した[8]

1977年3月16日空手道による真剣勝負をすることが発表され[138]4月ハワイで開催された「日本代表極真会館チーム対ハワイ代表チーム」というフルコンタクト空手の対抗戦に参戦した[1][68]。他の日本代表メンバーには大石代悟二宮城光東孝中村誠などがおりテンプレート:Refnest、対戦相手は「前アメリカ東海岸空手チャンピオンのグレッグ・カーフマン」という180cm以上ある黒人であった[4][68]。千葉は通常の空手技の他に、跳び右後ろ回し蹴り胴回し回転蹴りの元となった前方宙返りして踵で蹴るなど攻撃して、第2ラウンドに二段蹴りKO勝ちを収めた[1][4][68]。結果的に同年5月14日に封切り公開された映画空手バカ一代』の宣伝にもなった。大山は「千葉真一の空手映画は欧米で非常なブームとなっており、本職の空手家らの『Sonny Chiba (サニー ちば)の空手は本物』という批評が聞かれていた。極真カラテの黒帯である千葉だからそれも当然で、この対抗試合に出場してその実力を示したのは立派と言うしかない[68]」と述べている。

1984年1月20日 - 22日に開催された極真会館主催の第3回オープントーナメント全世界空手道選手権大会で、千葉は志穂美悦子真田広之JACメンバーを率い、演武テレビのゲスト解説した。同年8月、極真会館ブラジル支部長・磯部清次の招待により、志穂美・真田・大葉健二を連れてサンパウロへ行き、25日 - 26日に開催された第1回・第8回ブラジル極真空手道選手権大会でも演武を行った[139]

新 影の軍団シリーズ』で共演した高野八誠は「最終章のラストシーンで千葉さんと殺陣をするんですが、休憩中に千葉さんが後ろ回し蹴りを見せてくれて、すっごい感動しましたね。動きは昔と変わってないなって、改めてビックリさせてもらいました[140]」と、当時66歳の千葉について語っている。

キイハンター

テレビドラマキイハンター』の大ヒットで、1969年近代映画10月号臨時増刊では『千葉真一特集号』を刊行され、週刊マーガレットでは同年のNo.17から『千葉真一物語』が連載されるなど、人気はさらに上昇していった[1][37]海外でも放映され、後に香港タイ王国映画東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』(1973年)、『激殺! 邪道拳』(1977年)、『ゴルゴ13 九竜の首』(1977年)、『HAKEN 覇拳 ふりむけば修羅』(1992年)、『地雷原 A mine field.』(1992年)など、千葉主演監督作品がロケーション撮影された際には現地で大歓迎されている。

本放送がされていた頃は並行して、グループ・サウンズの「ザ・サタンズ」というエレキバンドを率いて、地方公演もしており、新宿で「キイハンター」というスナック・バーを経営し、カーマニアでもあった。愛車は白のマツダ・コスモスポーツであり、選んだ理由は「小回りが利くから」と実にアクションスターらしい動機である。その後はマーキュリー・クーガーフォード・マスタング・Mach1へと乗り継いだ。1971年初めには地元の君津市に実家を新築して[141]、時には実家から東映東京撮影所へ通っていた。

当時の野際陽子は千葉に比べると役者として駆け出しだったが、放映し始めた頃の野際のギャラは、多くの映画に主演経験のある千葉より高かった[142]。それを知った時、「追い越してやる」と奮起して2年後に抜かした[142]宮内洋は「千葉さんにはアクションのことでいろいろ教わり、それを仮面ライダーV3で生かした。その一つにアクションシーンで必ず手袋を着用したのも怪我を防ぐためだが、これは千葉さんのアイデアを取り入れたものだ[143]」と語っている。

ハリウッド

友人であるサミュエル・L・ジャクソン[71]クエンティン・タランティーノのほかには[72]スティーヴン・セガール[4]デニス・ヘイスバート、『ブシドー(原題) / Bushido 』で共同プロデューサーを務めるデスティン・パフ[144]、らと親交がある[4][71][72][144]。セガールは流暢な大阪弁で「千葉先生、居てはりまっか?」などと頻繁に連絡してきており[4]、パフは「Sonny Chiba (サニー ちば)のような伝説の俳優と組めるなんて、これ以上の幸せはない[144]」と語っている。

松方弘樹は千葉が海外で活躍している要因を テンプレート:Cquote と評している。

風林火山

風林火山』で共演した内野聖陽テンプレート:Cquote と語っている。

受賞

「おきなわシネマ&ミュージックフェスタ2006」にて、映画の発展に貢献したクリエイターとして表彰
MARTIAL ARTS LEGEND Sonny Chiba を表彰

出演

映画

日本作品

☆太字は主演スタッフ兼務作品。諸外国との合作映画は#海外作品を参照。社名のない作品は東映

海外作品

☆太字は主演スタッフ兼務作品で、日本との合作映画も含む。

ドラマ

☆太字は主演スタッフ兼務作品。

日本のテレビドラマ
海外のテレビドラマ
ラジオドラマ

演劇

☆太字は主演スタッフ兼務作品。

オリジナルビデオ

☆海外で公開された作品、シリーズに映画とOV両方がある作品は#映画を参照。

語り手・雑誌

語り手
雑誌
  • 過去のない男・胡蝶幻太郎探偵シリーズ - 胡蝶幻太郎 (写真出演)
※『中一コース』(学研)の1971年4月 - 1972年3月号に連載されたミステリ

ライブ

  • 千葉真一ショー (1969年) - ザ・サタンズと共に歌謡ショーを地方公演
  • 春を呼ぶフェスティバル (1971年1月30・31日、梅田コマ・スタジアム

ドキュメンタリー

情報

紀行旅番組
ニュース情報ワイド番組
教養番組

CM

監督・演出

☆出演兼務の作品は#出演を参照。

映画
演劇

ディスコグラフィ

☆太字は作曲兼、もしくは作詞担当。

シングル
アルバム
  • I面

テンプレート:Columns-list

  • Ⅱ面

テンプレート:Columns-list

作詞

著書・参考文献

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

注釈

テンプレート:Reflist

出典

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:Normdaten
  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 テンプレート:Cite journal
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 テンプレート:Cite journal
  3. テンプレート:Cite journal
  4. 4.00 4.01 4.02 4.03 4.04 4.05 4.06 4.07 4.08 4.09 4.10 4.11 4.12 4.13 4.14 4.15 4.16 4.17 テンプレート:Cite book
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 5.6 5.7 5.8 5.9 テンプレート:Cite journal
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 テンプレート:Cite journal
  7. 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 7.5 7.6 7.7 脇田巧彦「アクションに賭ける男・千葉真一」、21頁。
  8. 8.0 8.1 8.2 8.3 テンプレート:Cite book
  9. 9.0 9.1 9.2 テンプレート:Cite journal
  10. 10.0 10.1 テンプレート:Cite journal
  11. 11.0 11.1 11.2 11.3 11.4 11.5 11.6 11.7 11.8 テンプレート:Cite news
  12. 12.0 12.1 12.2 12.3 12.4 テンプレート:Cite news
  13. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「.E5.92.8C.E5.8D.83.E6.B0.B834」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  14. 14.0 14.1 千葉流 サムライへの道、81 - 82頁。
  15. 15.0 15.1 千葉真一特集、144 - 145頁。
  16. 千葉真一 改め 和千永倫道、38 - 39頁。
  17. 17.0 17.1 17.2 千葉流 サムライへの道、89頁。
  18. 18.0 18.1 テンプレート:Cite journal
  19. 19.0 19.1 19.2 千葉流 サムライへの道、90 - 91頁。
  20. 20.0 20.1 千葉流 サムライへの道、95 - 96頁。
  21. 21.0 21.1 21.2 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「.E6.98.A0.E7.94.BB.com_.E6.97.A5.E4.BD.93.E5.A4.A7」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  22. 千葉流 サムライへの道、96 - 98頁。
  23. テンプレート:Cite news
  24. 24.0 24.1 テンプレート:Cite news
  25. 25.0 25.1 千葉真一 改め 和千永倫道、53頁。
  26. テンプレート:Cite news
  27. 27.0 27.1 27.2 27.3 27.4 千葉流 サムライへの道、100 - 101頁。
  28. 28.0 28.1 千葉真一特集、140頁。
  29. 千葉真一 改め 和千永倫道、60頁。
  30. 30.0 30.1 30.2 千葉流 サムライへの道、184頁。
  31. 千葉流 サムライへの道、103頁。
  32. 『東映の友』 1961年東京国立近代美術館フイルムセンター4階図書室所蔵。
  33. 千葉流 サムライへの道、132頁。
  34. 千葉流 サムライへの道、154 - 171頁。
  35. 千葉真一 改め 和千永倫道、82 - 85頁。
  36. 36.0 36.1 36.2 36.3 テンプレート:Cite journal
  37. 37.0 37.1 37.2 37.3 37.4 37.5 テンプレート:Cite journal
  38. 38.0 38.1 38.2 38.3 38.4 38.5 38.6 38.7 38.8 テンプレート:Cite news
  39. 39.0 39.1 39.2 39.3 39.4 39.5 39.6 39.7 テンプレート:Cite news
  40. 千葉流 サムライへの道、28頁。
  41. 千葉流 サムライへの道、20頁。
  42. 千葉流 サムライへの道、25 - 26頁。
  43. 千葉真一 改め 和千永倫道、65 - 66頁。
  44. 44.0 44.1 テンプレート:Cite web
  45. 45.0 45.1 45.2 45.3 45.4 千葉流 サムライへの道、33 - 35頁。
  46. 46.0 46.1 46.2 46.3 千葉流 サムライへの道、20 - 29頁。
  47. 千葉真一 対談 石崎勝久(映画評論家)、27 - 31頁。
  48. 48.0 48.1 テンプレート:Cite journal
  49. 49.0 49.1 49.2 49.3 49.4 千葉流 サムライへの道、39 - 43頁。
  50. 50.0 50.1 50.2 テンプレート:Cite journal
  51. 51.0 51.1 テンプレート:Cite journal
  52. 千葉流 サムライへの道、43 - 45頁。
  53. テンプレート:Cite journal
  54. 54.0 54.1 54.2 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「.E3.82.A2.E3.82.B5.E8.8A.B8.E6.B7.B1.E4.BD.9C」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  55. 「ザ・インタビュー 千葉真一 序文」、130頁。
  56. 56.0 56.1 千葉流 サムライへの道、36, 48頁。
  57. テンプレート:Cite book
  58. 千葉流 サムライへの道、49頁。
  59. テンプレート:Cite web
  60. 60.0 60.1 テンプレート:Cite journal
  61. 61.0 61.1 テンプレート:Cite journal
  62. テンプレート:Cite book
  63. テンプレート:Cite book
  64. 64.0 64.1 64.2 64.3 64.4 テンプレート:Cite news
  65. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「samurai1151」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  66. 66.0 66.1 テンプレート:Cite journal
  67. 67.0 67.1 67.2 67.3 67.4 67.5 67.6 テンプレート:Cite web
  68. 68.0 68.1 68.2 68.3 68.4 テンプレート:Cite book
  69. テンプレート:Cite web
  70. 70.0 70.1 70.2 70.3 70.4 70.5 テンプレート:Cite web
  71. 71.0 71.1 71.2 71.3 71.4 71.5 71.6 テンプレート:Cite web
  72. 72.0 72.1 72.2 72.3 72.4 72.5 テンプレート:Cite journal
  73. 73.0 73.1 73.2 73.3 73.4 テンプレート:Cite news
  74. テンプレート:Cite video
  75. 映画界のドン 岡田茂の活動屋人生、62 - 73頁。
  76. 千葉流 サムライへの道、242頁。
  77. テンプレート:Cite journal
  78. テンプレート:Cite web
  79. テンプレート:Cite book
  80. テンプレート:Cite web
  81. 千葉流 サムライへの道、59頁。
  82. テンプレート:Cite journal
  83. テンプレート:Cite web
  84. テンプレート:Cite web
  85. 佐藤雅夫「プロダクション・ノート 魔界に祟られたスタジオ」、24 - 25頁。
  86. テンプレート:Cite web
  87. テンプレート:Cite web
  88. テンプレート:Cite web
  89. 89.0 89.1 テンプレート:Cite web
  90. 90.0 90.1 テンプレート:Cite web
  91. テンプレート:Cite web
  92. 92.0 92.1 テンプレート:Cite news
  93. 千葉流 サムライへの道、68頁。
  94. 『戦国自衛隊』、プロダクションノート、26頁。
  95. テンプレート:Cite web
  96. 千葉真一 改め 和千永倫道、73 - 74頁。
  97. 保科幸雄「高鳴る!冒険者たちのメロディ 燃える夢喰い男・千葉真一」、3 - 5頁。
  98. ごあいさつ 株式会社コマ・スタジアム専務取締役・酒井肇、35頁。
  99. テンプレート:Cite journal
  100. テンプレート:Cite news
  101. 千葉流 サムライへの道、246頁。
  102. テンプレート:Cite journal
  103. テンプレート:Cite journal
  104. テンプレート:Cite journal
  105. テンプレート:Cite journal
  106. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「.E8.88.9E.E5.8F.B0.E6.8C.A8.E6.8B.B6」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  107. 107.0 107.1 テンプレート:Cite news
  108. テンプレート:Cite web
  109. 109.0 109.1 テンプレート:Cite news
  110. 110.0 110.1 テンプレート:Cite news
  111. 111.0 111.1 111.2 テンプレート:Cite news
  112. 112.0 112.1 112.2 テンプレート:Cite news
  113. 113.0 113.1 113.2 テンプレート:Cite news
  114. 114.0 114.1 114.2 テンプレート:Cite news
  115. 115.0 115.1 テンプレート:Cite episode
  116. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「.E3.82.A2.E3.82.B9.E3.83.88.E3.83.A9.E3.82.A4.E3.82.A2」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  117. 117.0 117.1 テンプレート:Cite news
  118. テンプレート:Cite journal
  119. 119.0 119.1 千葉真一 改め 和千永倫道、113 - 114頁。
  120. 120.0 120.1 テンプレート:Cite web
  121. テンプレート:Cite web
  122. テンプレート:Cite web
  123. テンプレート:Cite web
  124. テンプレート:Cite web
  125. テンプレート:Cite web
  126. 126.0 126.1 126.2 テンプレート:Cite journal
  127. 127.0 127.1 テンプレート:Cite web
  128. 128.0 128.1 テンプレート:Cite web
  129. 129.0 129.1 テンプレート:Cite news
  130. 130.0 130.1 テンプレート:Cite news
  131. 131.0 131.1 131.2 ジャパン・アクション・クラブ12周年記念 JAC特集号春田純一志穂美悦子インタビュー。
  132. 132.0 132.1 テンプレート:Cite web
  133. 133.0 133.1 テンプレート:Cite news
  134. 千葉流 サムライへの道、131頁。
  135. 135.0 135.1 135.2 テンプレート:Cite news
  136. テンプレート:Cite book
  137. テンプレート:Cite book
  138. テンプレート:Cite news
  139. テンプレート:Cite journal
  140. 特典映像 - 高野八誠インタビュー。
  141. 千葉流 サムライへの道、85頁。
  142. 142.0 142.1 千葉真一 改め 和千永倫道、92頁。
  143. テンプレート:Cite episode
  144. 144.0 144.1 144.2 テンプレート:Cite web


引用エラー: 「注釈」という名前のグループの <ref> タグがありますが、対応する <references group="注釈"/> タグが見つからない、または閉じる </ref> タグがありません