武田信虎

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武田 信虎(たけだ のぶとら)は、戦国時代武将甲斐守護大名戦国大名武田信玄の父。甲斐源氏宗家武田氏第18代当主にあたる。

略歴

武田宗家の統一から国衆勢力との抗争

明応3年(1494年)1月6日、武田氏の第17代当主・信縄の嫡男として生まれたという。初名は信直(のぶなお)。生年の明応3年説は江戸時代前期に成立した軍記物甲陽軍鑑』や、江戸後期に編纂された地誌『甲斐国志』に拠るもので、昭和戦前期には広瀬広市が信虎の菩提寺である甲府市の大泉寺過去帳・位牌に記される「天正2年3月5日逝去81歳」から逆算して明応3年を生年としている。明応3年説は昭和戦後期に磯貝正義上野晴朗笹本正治小和田哲男らによって支持されてきたが、2006年には秋山敬が『高白斎記(甲陽日記)』や『大井俣神社本紀』に記される明応7年正月6日であった可能性を指摘している。

室町期に甲斐国では守護代跡部氏国人勢力の台頭により守護武田氏の勢力が弱体化していたが、信虎の祖父にあたる信昌期には跡部氏を排斥し国人勢力を駆逐し、守護権力が回復する一方で河内領主の穴山氏や郡内領主の小山田氏など新勢力が台頭していた。

これらの国人勢力は隣国駿河の今川氏や相模の伊勢氏(後北条氏)と連携して守護武田氏と対抗。信縄期には信昌の嫡男・信縄と信昌が後見する弟の油川信恵が対立し、武田宗家の内訌も関係し甲斐一国は乱国状態に陥っていた。

永正2年(1505年)に信昌、同4年(1507年)に信縄が相次いで死去し(『高白斎記』)、家督を継承する。信直の叔父にあたる信恵は弟の岩手縄美栗原昌種や甲斐東部郡内地方領主の小山田弥太郎らを味方に信直に対抗するが、永正5年(1508年)10月4日の坊峰合戦(笛吹市境川村)において信恵をはじめ信恵方の大半が戦死し、信直による武田宗家の統一が達成される。永正6年(1509年)には郡内へ侵攻し、翌7年(1510年)には小山田氏を従属させ、当主の小山田信有(越中守信有)に実妹を嫁がせて講和し[1]、郡内へ近い勝沼には実弟・勝沼信友を配した。

その後、甲斐北西部の国衆今井氏を従わせるが、駿河国今川氏に属していた武田一門である河内の穴山信懸、西郡の大井氏との対決は続いた。永正12年10月17日、信直は大井信達信業父子の拠る西郡上野城(南アルプス市、旧中巨摩郡櫛形町)を攻め(『勝山記』『一蓮寺過去帳』)、今川氏は大井氏救援のため出陣し甲駿国境を封鎖している(『勝山記』『塩山年代記』)。大井氏・今川氏との抗争はその後も続き、今川氏は甲府盆地都留郡にも侵攻し信直や小山田氏との合戦が展開された。

永正14年(1517年)には一時今川氏と和睦し、1520年(永正17年)には征圧した大井氏と同盟して大井信達の娘を室に迎える。

甲斐統一と甲府開設

永正16年(1519年)には、守護所を武田氏歴代の居館であった石和(笛吹市石和町)より西の甲府へ移り、初め川田に館を置く(川田館)。のちに府中(甲府市古府中)に躑躅ヶ崎館を築き城下町(武田城下町)を整備し、家臣を集住させた(『高白斎記』)。

その後も国人領主今井氏や信濃の諏訪氏との争いに加え、大永元年(1521年)に今川氏配下の土方城主・福島正成を主体とする今川勢が富士川沿いに西郡まで侵攻し甲府へ迫ると、甲府館北東の要害山城へ退き、今川勢を飯田河原合戦(甲府市飯田町)、上条河原合戦(甲斐市、旧中巨摩郡敷島町)で撃退する。この最中に、要害山城では嫡男・晴信が産まれている(『高白斎記』『王代記』)。

大永年間には対外勢力との抗争が本格化し、大永4年(1524年)には、関東における両上杉氏と新興勢力の後北条氏の争いに介入し、都留郡の甲相国境付近で北条勢と争い、大永6年(1526年)には梨の木平で北条氏綱勢を破っているが、以後も北条方との争いは一進一退を繰り返した。翌大永7年(1527年)には佐久郡出兵を行い、同年には駿河国の今川氏親と和睦する。

甲斐国内の統一、対外勢力との和睦が確立した大永2年(1522年)には富士登山を行っている[2]

享禄元年(1528年)に信濃諏訪攻めを行うが、神戸・堺川合戦(諏訪郡富士見町)で諏訪頼満頼隆に敗退する。享禄4年(1531年)には諏訪氏の後援を得て甲斐国人栗原兵庫・飯富虎昌らが反旗するが、信虎は今井信業・尾張守らを撃破し、同年4月には河原部合戦(韮崎市)で国人連合を撃破した。また、享禄3年(1530年(享禄3年)には上杉朝興の斡旋で上杉憲房後室側室とする。

また、享禄元年(1528年)には甲斐一国内を対象とした徳政令を発している[3]

天文4年(1535年)には今川攻めを行い、国境の万沢(南巨摩郡富沢町)で合戦が行われると、今川と姻戚関係のある後北条氏が籠坂峠を越え山中(南都留郡山中湖村)へ侵攻され、小山田氏や勝沼氏が敗北している。同年には諏訪氏と和睦している。

翌天文5年(1536年)には、駿河国で今川氏輝死後に発生した花倉の乱で善徳寺承芳(後の今川義元)を支援し、義元側が勝利したことにより今川氏との関係は好転する。天文6年(1537年)には長女・定恵院を義元に嫁がせ、今川氏の仲介により嫡男・晴信の室に公家の三条家の娘を迎え、今川氏とは和睦して甲駿同盟を結ぶ。さらに後北条氏とも和睦するが、甲駿同盟は駿相同盟の破綻を招き、今川と北条は抗争状態となる(河東の乱)。天文9年(1540年)には今井信元を浦城(旧北巨摩郡須玉町)で降伏させる[4]。諏訪氏とは諏訪頼満の孫諏訪頼重の時代になると和睦し、三女・禰々を頼重に嫁がせて和睦する[5]

甲斐追放から晩年

天文10年(1541年)6月14日、信虎が信濃国から凱旋し、娘婿の今川義元と会うために河内路を駿河国に赴いたところ、晴信は甲駿国境を封鎖して信虎を強制隠居させる(『勝山記』『高白斎記』)。板垣信方甘利虎泰ら譜代家臣の支持を受けた晴信一派によって河内路を遮られ駿河に追放され、晴信は武田家家督と守護職を相続する[6]。 信虎は今川義元の元に寓居することになり、正室・大井夫人は甲斐国に残留しているが、信虎側室は駿河国へ赴いており、同地において子ももうけている。

信虎追放については同時代の記録資料のほか『甲陽軍鑑』にも見られるが、文書上からは同年9月23日に今川義元が晴信に隠居料の催促を求める文書が残されており(『堀江家文書』『戦武』4012号)、晴信と義元により隠居料など諸問題を含めた協定がおこなわれていたと考えられている。信虎の駿河時代の給分は武田家からの隠居料のほか今川家からの支出もあり、給地も存在していた。

事件の背景には諸説ある。信虎が嫡男の晴信(信玄)を疎んじ次男の信繁を偏愛しており、ついには廃嫡を考えるようになったという親子不和説や、晴信と重臣、あるいは『甲陽軍鑑』に拠る今川義元との共謀説などがある。信虎の可愛がっていた猿を家臣に殺されて、その家臣を手打ちにしたというものまで伝わっている。いずれにせよ家臣団との関係が悪化していたことが原因であると推察される。また、『勝山記』などによれば、信虎の治世は度重なる外征の軍資金確保のために農民や国人衆に重い負担を課し、怨嗟の声は甲斐国内に渦巻いており、信虎の追放は領民からも歓迎されたという。[7]

天文12年(1543年)6月には上洛し「京都南方」を遊覧している。晴信は今川氏、後北条氏と甲相駿三国同盟を形成すると信濃侵攻を本格化させ越後国上杉謙信との川中島の戦いを展開しているが安定した領国支配を行っており、この頃に信虎は出家して「無人斎道有」を名乗っていることからも信虎は甲斐国主への復権を諦め隠居を受けいれていたと考えられている。

天文12年の上方遊歴においては京都から高野山・奈良を遊歴し、国主時代から交流のあった本願寺証如も使者を派遣して挨拶している(『証如上人日記』)。さらに信虎は武田家と師檀関係にあった高野山引導院を参詣し(なお、晴信は実弟・信繁を介して謝礼を行っている)、さらに奈良へ赴き同年8月9日には多聞院英俊が信虎の奈良遊歴を記している(『多聞院日記』)。信虎は奈良を遊歴すると同月15日には駿河国へ戻っている。天文19年(1550年)には今川義元の室になっている娘が死去している。

その後は上方における消息もみられず駿河国で過ごしていたと考えられているが、その後も上洛した在京奉公が確認される。今川家では永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いにおける当主義元が討死すると氏真へ当主交代する。武田家では、翌永禄4年の第四次川中島の戦い以降、北信を巡る越後上杉氏との抗争が収束し、永禄7年(1567年)には義元娘を正室とする晴信嫡男の義信が廃嫡される義信事件が発生し、これらの情勢の変化を背景に甲駿関係は悪化し、甲駿同盟は手切となり永禄11年(1568年)には武田氏による駿河今川領国への侵攻が開始される(駿河侵攻)。

『甲陽軍鑑』や『武田源氏一統系図』において信虎の再上洛は桶狭間以降としているが、公家の山科言継[8]は義元生前の永禄元年(1558年)から例年にわたり信虎への年始挨拶などを行っており(『言継卿記』)、信虎は京に邸をもち継続的に在京奉公を行っていたと考えられている。信虎は在京前守護として将軍足利義輝に仕候し、言継は永禄2年(1559年)において信虎の身分を「外様」「大名」と記しており(『言継卿記』)、儀礼的には高い席次であり、信虎は上洛していた同じ甲斐源氏の一族でもある南部信長ら諸大名と交流しており、飛鳥井雅教万里小路惟房ら公家との文化的交流もしており、永禄3年(1560年)には菊亭晴季に末女を嫁がせている。

永禄8年(1565年)には将軍・義輝が松永久秀に討たれる永禄の変が発生する。『言継卿記』においては信虎の動向が記されず不明で、一時的に駿河国に戻っていた可能性も考えられている(丸島)。永禄10年(1567年)には在京であることが確認され、その後も在京活動を続けている。

永禄11年(1568年)には尾張国織田信長が三好政権を駆逐して上洛し、足利義昭を将軍に奉じている。武田氏は信長と同盟関係にあり信虎も将軍義昭に仕候しているが、信長と同盟関係にあった三河国徳川家康とは敵対しており、元亀年間には信長との関係も手切となり、信玄は将軍・義昭が迎合した反信長勢力に呼応して大規模な遠江・三河への侵攻を開始する(西上作戦)。元亀4年(1573年)3月10日に義昭は信長に対して挙兵するが、義昭の動向は信長に内通した細川藤孝により知らされており、信虎は義昭の命で甲賀郡に派遣され、反信長勢力の六角氏とともに近江攻撃を企図していたという(『細川家文書』)。義昭の挙兵は、同年4月12日に信玄が西上作戦の途上で死去し武田勢が撤兵したことで失敗し、反信長勢力は滅ぼされ義昭も京から追放されている。

甲斐国では信玄側室との間に生まれた勝頼が家督を継いでおり、天正2年(1574年)に信虎は三男・武田信廉の居城である高遠城に身を寄せ、勝頼とも対面したという(『軍鑑』)。同年3月5日、伊那の娘婿・禰津神平元直の長男)の庇護のもと、信濃高遠で死去した。享年81。葬儀は信虎が創建した甲府の大泉寺で行われ、供養は高野山成慶院で実施されている(『武田家過去帳』)。織田信長により武田家が滅亡するのは信虎の死から僅か8年後の事であった。

人物

  • 江戸時代に成立した『甲陽軍鑑』に拠れば、粗暴で傲慢であったという。諫言した家臣を度々手打ちにしたと伝えられている。内藤虎資馬場虎貞山県虎清工藤虎豊ら、重臣の数々を一時の感情に任せて成敗したと言われる(信虎に殺されて絶えた名跡の多くを、子の信玄が復活させている。内藤氏内藤昌豊馬場氏馬場信春山県氏山県昌景)。
  • 嫡男・晴信(信玄)に公家の三条公頼の娘を迎え、婚姻政策を展開して今川氏などの近隣勢力と同盟を結ぶなど、積極的な外交政策をとった。この婚姻により晴信と顕如が義兄弟(顕如の妻は三条氏の妹)の間柄となり、後の武田家の外交政策にも影響を及ぼした。
  • 息子の武田信廉によって描かれた信虎の肖像画が現存している。晴信以外の息子との関係は良かったとも推測されている。
  • 名刀「宗三左文字」を所有しており、今川義元に伝わる。桶狭間の戦い後に織田信長に渡ったが、本能寺の変により焼失した。後に豊臣秀吉が焼け跡より回収し、豊臣秀頼より徳川家康に伝わり現在に至る。

研究史

甲斐国の中世史研究は戦国期の武田信玄を中心に展開されており、頼るべき文書・記録が少ない信虎期の研究は乏しい。戦前には1944年(昭和19年)に広瀬広一が『武田信玄伝』において信虎の伝記的著述を行い、戦後には高島緑雄上野晴朗柴辻俊六らが研究を展開し、従来信玄期の事績とされていた事象を信虎期まで引き上げた。

2007年には新人物往来社から柴辻俊六編『武田信虎のすべて』が刊行され、信虎期に関する諸論考が発表された。

脚注

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参考文献

  • 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』(新人物往来社、2007年) ISBN 978-4-404-03423-6
    • 秋山正典「武田信虎の家督相続」
    • 数野雅彦「武田信虎の甲府開創」
    • 黒田基樹「武田信虎の一族」
    • 黒田基樹「武田信虎と北条氏」
    • 柴辻俊六「武田信虎の系譜」
    • 柴辻俊六「武田信虎の領国経営」
    • 須藤茂樹「武田信虎の信仰と宗教政策」
    • 平野明夫「武田信虎と今川氏」
    • 平山優「武田信虎の甲斐国統一」
    • 平山優「武田信虎追放の背景」
    • 丸島和洋「武田信虎の外交政策」
    • 丸島和洋「甲斐国追放後の武田信虎」
  • 大木丈夫「武田信虎の神社政策と在地支配」『武田氏研究』36号、2007
  • 柴辻俊六「武田氏の外交戦略と領域支配」『戦国期武田氏領の形成』校倉書房、2007

関連作品

TVドラマ

小説

  • 室町お伽草子(1991年、山田風太郎
  • 伊東潤 『画龍点睛』(『戦国鬼譚 惨』収録の短編)

関連項目


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  1. 勝山記』、武田氏と小山田氏の政治的関係については秋山敬『甲斐における中世郡内交通路と小山田氏館』『武田氏研究』(第37号、2007.12.1)
  2. 『勝山記』に拠る。信虎は『勝山記』妙法二年条に信虎が富士登山を行い「八要」を行ったとしており、『妙法寺記』系写本では「八要」を「八嶺」としている。富士山頂の高所は八枚の蓮弁に見立てられて「八葉」と呼称され、後には富士山頂の高所を廻る御鉢参りの習俗が成立しており、御鉢参り習俗が戦国期に遡る可能性として注目されている。信虎の富士登山については、甲斐一国の平定を成し遂げ駿河今川氏、相模後北条氏との緊張関係が続いている情勢から、自身の地位を確立するための宗教的示威行為であると考えられている(堀内亨『武田氏と富士山』、『山梨県史』通史編2中世第十一章第二節三)。
  3. 『勝山記』に拠る。この徳政令は発令時期が不明だが、東国の戦国大名が発令した初めての事例である他、土一揆の勃発以前に発令されている点からも注目されており、『勝山記』では同年夏からの自然災害の頻発が記録されていることから収穫期の秋に発令されたものであると考えられている。黒田基樹『享禄元年の徳政令』『山梨県史』通史編2中世第七章第一節三
  4. 『勝山記』
  5. 『諏訪神社使御頭之日記』
  6. 晴信は家督相続に際して官途名を「左京太夫」から「大膳大夫」に改めており、信虎期の外交方針を転換し、信濃諏訪氏との関係を手切とし、信濃侵攻を本格化させ山内上杉氏とも敵対していく。
  7. 此年六月十四日武田太夫様(晴信)親ノ信虎ヲ駿河ヘ押シ越シ申シ候。余リニ悪行ヲ成サレ候間、カヨウニメサレ候。サルホドニ地下、侍、出家、男女共ニ喜ビ満足候コト限リナシ。(『妙法寺記』)
  8. 山科言継は弘治2年(1556年)に駿河へ下向しており、翌弘治3年2月25日の連歌会においては信虎の子信友が参加している。