極真会館

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テンプレート:Infobox 組織 極真会館(きょくしんかいかん)は、日本空手道団体。創始者 : 大山倍達。正式名称は国際空手道連盟 極真会館(こくさいからてどうれんめい きょくしんかいかん)。前身は日本空手道極真会 大山道場で、極真の由来は「千日を以って初心とし、万日を以って極とす」という言葉の“心”を“真”に変え、名称とした。

最盛期は1990年代の大山存命中で各都道府県へ支部が設置され、世界123ヵ国に公認支部道場が1,000以上、会員1,200万人の規模だった[1]。しかし1994年に大山が亡くなると弟子たちが分かれて各々極真会館を名乗り、団体毎に門下生や大会や付随する各種大会が行われている( ⇒ 詳細は#分裂騒動)。

当該記事では大山が館長および総裁に就いていた時代とその分裂を記す。

概要

1964年4月大山倍達日本空手道極真会 大山道場財団法人極真奨学会の傘下にして、国際空手道連盟 極真会館を設立した。会長に佐藤栄作(当時国務大臣)、副会長に毛利松平(当時衆議院議員)を迎え、大山は館長(後に総裁)に就任。同年6月に東京都豊島区西池袋に本部道場(後に総本部)が竣工。建設には資金援助をしてくれた人たちのほか、「黒崎健時師範の貢献がとても大きい」と中村忠は証言している[2]

極真会館は伝統派空手に対し、対戦相手にをダイレクトに当てる直接打撃制(フルコンタクト空手)の提唱と啓蒙を行い、

がそれぞれ相乗効果を働き、発展してきた。

以下、次章から順に記す。

他格闘技・他団体との交流・試合・技術の吸収

大山倍達自らボクシング柔道合気道を学んでいたことから、道場には進取の精神があった。大山道場から極真会館へ組織変更した1964年にはタイ王国へ遠征し、黒崎健時中村忠藤平昭雄ムエタイルールで、ムエタイと試合をした。

1969年4月NETは「ワールドキックボクシング」を開催し始めたが、2か月前から各方面より選手を集め、ムエタイ選手や日本拳法空手道らに出場要請をし、極真会館へもオファーがあった。大山は高弟の山崎照朝添野義二及川宏を選りすぐり、極真ジム所属として参戦。キックボクシングはNET他、TBS日本テレビ東京12チャンネルの4局で放映され、「キック戦国時代」と呼ばれるほど、4局が視聴率争いにしのぎを削るブームで、新興スポーツとして注目されていた。参戦した山崎や添野がKO勝ちして強さをアピールしたことにより、結果的には後に開催されるオープントーナメント全日本空手道選手権大会の宣伝にもなった[3]

直接打撃とオープン参加の大会

開催までの道のり

直接打撃制による組手試合は、山田辰雄1962年に初めて実施していたが、寸止め試合を行う伝統派空手の諸流派から黙殺され失敗に終わった。大山倍達は極真会館竣工以降、1964年に行われた東京オリンピックの各種オリンピック競技をたびたびスタジアム観戦していたことで「極真会館内の競い合いではなく、他流派・他格闘技の参加を認めたオープン制とトーナメント制の選手権大会」を開催しようと検討し始め、名称もこのときは「全日本格闘技選手権大会」としていた。今でこそ直接打撃制の空手道選手権大会をいろいろな流派が開催しているが、当時は直接打撃に危惧を抱く会場側は決して協力的ではなく、極真会館は試合会場をなかなか確保できなかった。東京体育館とは都合3年も交渉を行い、その頃、盛んになり出したキックボクシングの例をあげ、その安全性をよく説明することにより許可を得て、ようやく1969年9月に念願であった第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会(以降、全日本選手権に略)として開催に至った[1][4][5]

極真の看板を守り抜く

“オープントーナメント”と謳った全日本選手権は、「空手界の各流派はもちろんのこと、武道全般・拳法ボクシングキックボクシング等、誰でも参加できる」というキャッチフレーズで参加の呼びかけを行なった。韓武舘をはじめ、申し込みをした選手の半数が他流派で、なかには柔道参段で体重100キログラムを超すギドン・ギダリー(イスラエル)、黒人ヘビー級ボクサーのポール・ジャクソン(アメリカ)、ムエタイのランキングボクサー、ビラホン・ハンピーン、サカオ・チャルムーン、サマンソー・アディソン(以上タイ)と、他格闘技からもエントリーしてきたことで、さながら“異種格闘技戦”の様相を呈していた。無差別級で直接打撃制によるKOで決定するとし、反則は「顔面への正拳肘打ち貫手」「頭突き」「金的」攻撃のみで、投げや掴みも認められていた。6時間にわたる激しい試合展開となったが、キックボクシングでも活躍した山崎照朝が優勝、添野義二が準優勝と主催者である極真会館の選手が上位を守った。大山倍達も「これで極真の看板を下ろさずにすんだ・・・」と溜飲をさげ、興行的にも7,000人の観衆を集め、成功した。このことが翌年以降の継続に繋がり、年に1回の全日本選手権が開催されている[3][5]

1972年パリで開催された世界空手道選手権大会で全日本空手道連盟翼下の日本選手が団体戦で惨敗。個人戦は試合を放棄した事で「柔道に続き、空手よ、お前もか」と各種マスメディアで取り上げられた。これに対して大山倍達は「日本の空手は負けていない。近い将来、国際空手道連盟極真会館主催の世界選手権を開催して、日本選手の強さを示す」と声明を発表して、1975年には第1回オープントーナメント全世界空手道選手権大会(以降、全世界選手権に略)を開催し、佐藤勝昭が優勝した。その後4年に1回、全世界選手権は開催されている。

ルールと運営の変遷

第1回全日本選手権のルールや運営手法が、選手権大会の回数を重ねるごとにそれぞれ改定、変更がされてきた。以下、その内容を記す。

ルール

1971年 第3回全日本選手権

  • 「倒して決めの下段突き」は動きに少しの無駄もなく、スムーズな一連の流れによる一動作でも、技ありまでと改正される
1970年 第2回全日本選手権は閉幕後、「相手を投げ倒して決めにいけば、それで一本勝ちとする」というルールが問題となっていた。優勝した長谷川一幸は、山崎照朝には「絡み倒して下段正拳突きをピタリと顔面に止め」、添野義二にも「巻き倒しての決めの下段突き」で一本勝ちを得ている。他の試合でも同様な「倒して決めの下段突き」があまりにも多く、パターン化することを回避するためである[4]

1979年 第2回全世界選手権

  • 掴みを完全に禁止
接近戦になった時に相手の道着を掴んで押したり、投げ技を使うことで、殴打技蹴り技の攻防が少なくなることを避けるための措置である。

1980年 第12回全日本選手権

  • 柔道の技を完全に禁止
1979年 第2回世界選手権にて、東孝が掴まないで柔道の足技を使ったことが問題となり、空手柔道の区別化を明確にするため、使用を禁止した。

1984年 第3回全世界選手権

  • 対戦相手の背後からの攻撃を禁止
各国選手により、対戦相手が試合の流れで後ろを向いてしまった時に攻撃を継続する選手としない選手がいた為、禁止と統一した。なお、対戦相手自らが逃げるために後ろを向くことは減点になり、回数が多いと技ありをとられることになる。

運営

1971年 第3回全日本選手権

  • 試合場を一つに集約した
1970年 第2回全日本選手権まで試合場は2つあり、それぞれ試合が同時に進行する方式が採られていた。しかし、観客の気が散って試合に集中できないという理由で取り止めされた。

1973年 第5回全日本選手権

  • 1972年の第4回全日本選手権迄、参加選手は48名でA・B・Cとトーナメントに分けられ、3つのトーナメントを勝ちあがった3名の選手による決勝リーグ戦で実施されてきたが、64人の選手が参加する1日のトーナメントとして、決勝まで進めば6試合を行う形式へ変更

1974年 第6回全日本選手権

  • 128人の選手参加による2日間のトーナメント開催で、決勝まで進むには初日に2試合、2日目に5試合を行う形式で実施
  • 準決勝敗退者2名のうち、試割り枚数多い方から3位・4位、5位~8位は試割り枚数の多い順に入賞と決めていたが、3位・4位を3位決定戦で決める方式に変更

1979年 第2回全世界選手権

  • この年から、世界選手権のみ3日間のトーナメント開催となり、各国選手権の優勝・準優勝者などシードされた選手は初日の1試合が免除され、2日目に2試合、3日目に5試合行われる形式となる。その後の世界選手権も参加した選手数はその時々で変動したが、3日間開催とシード権は継続

大会結果

全日本選手権

毎年11月に無差別級の「オープントーナメント全日本空手道選手権大会」を開催し、他流派や他団体の選手も参加できる。1984年から毎年6月に体重制の「オープントーナメント全日本ウェイト制空手道選手権大会」も開催している。

無差別級(男子) ※1995年以降は極真会館 松井派のみ
優勝 準優勝 3位 4位
1 1969年 山崎照朝 添野義二 長谷川一幸 朴邦治
2 1970年 長谷川一幸 山崎照朝 添野義二 増田賢一
3 1971年 佐藤勝昭 大山泰彦 大石代悟 三浦美幸
4 1972年 三浦美幸 ハワード・コリンズ 佐藤俊和[注釈 1][5] 山崎照朝
5 1973年 盧山初雄 山崎照朝 佐藤俊和 佐藤勝昭
6 1974年 佐藤勝昭 東孝 盧山初雄 西田幸夫[注釈 2][5]
1975年 第1回全世界空手道選手権大会と兼ねる
8 1976年 佐藤俊和 二宮城光 東孝 沢柳俊夫
9 1977年 東孝 中山猛夫 中村誠 浜井識安
10 1978年 二宮城光 三瓶啓二 中村誠 廣重毅
11 1979年 中村誠 三瓶啓二 東孝 野口敏郎
12 1980年 三瓶啓二 中村誠 為永隆 松井章圭
13 1981年 三瓶啓二 中村誠 松井章圭 白石昌幸
14 1982年 三瓶啓二 水口敏夫[注釈 3][5] 松井章圭 三好一男
15 1983年 大西靖人 小笠原和彦 竹山晴友 三好一男
16 1984年 黒澤浩樹 竹山晴友 水口敏夫 木元正資
17 1985年 松井章圭 黒澤浩樹 増田章 ジェームズ・北村
18 1986年 松井章圭 増田章 八巻建志 小井義和
1987年 第4回全世界選手権と兼ねる
20 1988年 桑島靖寛 石井豊[注釈 4][6] 八巻建志 山口徹
21 1989年 八巻建志 田村悦宏[注釈 5] 桑島靖寛 増田章
22 1990年 増田章 緑健児 岩崎達也 外舘慎一[注釈 6][6]
1991年 第5回全世界選手権と兼ねる
24 1992年 田村悦宏 数見肇 岡本徹 七戸康博[注釈 7][5]
25 1993年 数見肇 田村悦宏 岡本徹 七戸康博
26 1994年 八巻建志 数見肇 市村直樹 岡本徹
1995年 第6回全世界選手権と兼ねる
28 1996年 数見肇 ギャリー・オニール 高久昌義 高尾正紀
29 1997年 数見肇 ギャリー・オニール 堀池典久 田村悦宏
30 1998年 数見肇 田村悦宏 木山仁 野地竜太
1999年 第7回全世界選手権と兼ねる
32 2000年 木山仁 木村靖彦 市村直樹 木立裕之
33 2001年 木山仁 木村靖彦 足立慎史 市川雅也
34 2002年 数見肇 木山仁 田中健太郎 徳田忠邦
2003年 第8回全世界選手権と兼ねる
36 2004年 田中健太郎 徳田忠邦 ミハエル・コズロフ マキシム・デディック
37 2005年 内田義晃 塩島修 徳田忠邦 加藤達哉
38 2006年 内田義晃 アルトゥール・ホヴァニシアン ディミトリー・ルネフ クリストフ・ハブラシカ
2007年 第9回全世界選手権と兼ねる
40 2008年 谷口誠 ザハリ・ダミヤノフ 田中健太郎 木立裕之
41 2009年 田中健太郎 アレハンドレ・ナヴァロ 赤石誠 木立裕之
42 2010年 タリエル・ニコラシビリ 森善十朗 田中健太郎 沢田秀男
2011年 第10回全世界選手権と兼ねる
44 2012年 アレハンドロ・ナヴァロ ゴデルジ・カパナーゼ 荒田昇毅 ダルメン・サドヴォカソフ

全世界選手権

男子

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試割り

厚さ2.4センチメートルの杉板[注釈 8]正拳・足刀[注釈 9]手刀猿臂で割った合計枚数により競い合う。松井派では再延長で勝敗がつかなかった場合にのみ、手刀による試割りを行い、勝者を決めている。

第1回全日本選手権から行なわれ、以下の更新をしている。

歴代記録および保持者
大会 正拳 足刀 手刀 猿臂 合計
1969年 第1回全日本選手権 山崎照朝 3 4 5 4 16枚
1973年 第5回全日本選手権 山崎照朝 4 7 6 7 24枚
1979年 第2回全世界選手権 ウィリー・ウィリアムス 5 6 8 7 26枚
1984年 第3回全世界選手権 増田章 6 8 7 8 29枚
1992年 第24回全日本選手権 阿部清文 6 9 8 8 31枚

啓蒙

海外の要人と関係を強化

国賓に指導したり、演武を披露することにより、国際的な普及に務めた。

1968年8月にヨルダン王室に招かれ、フセイン1世モハメド皇太子など王室関係者に指導を行った[7]1970年6月14日にはフセイン1世の妻・ムナ王妃、フェリアール王弟妃一行が来日し、滞在先である東京ヒルトンホテルで演武会を催した[8]芦原英幸頭突きを割り、とりわけ山崎照朝添野義二組手を観た王室一行はふたりの実力・迫力に驚嘆していた[8]

1972年2月にスペインカルロス皇太子ソフィア夫人が来日した。カルロス皇太子(現・国王)は空手を習っていたことから、当時、極真会館副会長の毛利松平の仲立ちで演武会が催された。同月21日に大山倍達以下、大山泰彦・山崎照朝・添野義二・鈴木浩平三浦美幸佐藤勝昭磯部清次大石代悟ハワード・コリンズなど黒帯茶帯約20名からなるメンバーが、赤坂迎賓館に訪問。基本稽古から各種試割りのあと、第1回全日本選手権チャンピオンの山崎照朝と第3回全日本選手権チャンピオンの佐藤勝昭の模範試合が行われるなど、夫妻の前で数々の空手のを披露した[9][10]

1981年6月にサウジアラビアファイサル皇太子が総本部に来訪した。ファイサル皇太子は演武を堪能後、指導員の派遣を要請した[6]

弟子を世界各地へ派遣し、孫弟子の輩出

1950年代大山倍達が国内外を遠征をしていたが、1960年代半ばから、弟子を国内外各地に派遣し、支部の設立と門下生を育成した。海外では1966年黒崎健時が渡欧したのを皮切りに中村忠大山茂・大山泰彦・三浦美幸・岸信行アメリカ各地へ、加藤重夫オーストラリア松島良一[注釈 10]シンガポール、磯部清次をブラジルへと派遣し、帰国した者を除き、支部長として永住させた。また、自ら来日し本部道場で稽古したジョン・ブルミンヤン・カレンバッハルック・ホランダー(以上、オランダ)、スティーブ・アニール、ハワード・コリンズ(以上、イギリス)、ジャン・ジャービスニュージーランド)、ジョン・テイラー[注釈 11](オーストラリア)らを帰国後、現地の支部長や指導員に任命した。

国内でも加藤重夫・芦原英幸・添野義二・高木薫長谷川一幸大石代悟花澤明東孝浜井識安らを派遣や帰郷などで、各地の支部長に据えた。これらの活動が佐藤俊和[注釈 1]二宮城光田原敬三水口敏夫[注釈 3]増田章松井章圭ら孫弟子が国内から出てきた。前後して大学の空手道部も傘下にし、城西大学に在学していた添野が同部二期生の高木、三期生の三浦・吉岡幸男・六期生の花澤を、早稲田大学に在学していた東は三瓶啓二を輩出している。

1985年以降は山田雅稔の東京都下城西支部か、廣重毅の東京城南川崎支部のいずれから、チャンピオンや上位入賞者を多く輩出する時代が続いた。海外ではチャールズ・マーチン[注釈 12]ウィリアム・オリバーウィリー・ウィリアムス(以上、アメリカ)、アデミール・ダ・コスタフランシスコ・フィリォ(以上、ブラジル)、ジャン・リビエール[注釈 13][5]カナダ)、ハワード・ロブマン、ミッシェル・ウェーデルジェラルド・ゴルドーピーター・スミット(以上、オランダ)、アンディ・フグスイス)、マイケル・トンプソン(イギリス)、ハンス・ラングレンスウェーデン)、サム・グレコ(オーストラリア)、ケニー・ウーテンボガード南アフリカ)らの孫弟子輩出となり、組織拡大に繋がった。しかし、1975年(昭和50年)代前後から相次いで弟子の破門、独立が発生(独立した団体)。ほとんどの支部が独立採算を取っていた為、現地の門下生も一緒に離れることとなった。一時的に縮小したりしたものの拡大の勢いは落ちず、1990年代に入ると各都道府県へ支部の設置が完了し、最盛期には世界123ヵ国、公認支部道場1,000以上、会員1,200万人の規模となった[1]

マスメディア戦略

出版

大山倍達自らも精力的に執筆した。1966年には極真会館の機関誌として、月刊『近代カラテ』を発行[注釈 14]1978年からは新たに『月刊パワー空手』を機関誌として創刊した。また、『空手バカ一代』に登場した弟子のほとんどが、各々自叙伝や技術本を出版した。

映画

007は二度死ぬ』の撮影で、姫路城の屋根で忍者部隊役で戦うシーンに藤平昭雄加藤重夫が出演した[注釈 15][11]。この撮影には各流派の空手家が集まっていたが、撮影の合間にも大沢と加藤は練習していた[11]。その熱心さにジェームズ・ボンド役のショーン・コネリーが彼らを気に入り「あなた達の道場に行きたい」と言い、1966年9月3日にコネリーが本部道場に来訪して演武会が行われた[11]。藤平・加藤の他に大山茂郷田勇三芦原英幸鈴木浩平らが参加し、数々の試割りや演武を披露した[11]。なお、コネリーには名誉参段が贈呈された[12]

東映は、大山道場時代からの弟子である千葉真一主演で、大山倍達を主人公にした『けんか空手 極真拳』 (1975年)、『けんか空手 極真無頼拳』 (1975年)、『空手バカ一代』 (1977年)を、三協映画が『地上最強のカラテ』、『地上最強のカラテ2』 (1976年)、『最強最後のカラテ』 (1980年)を制作し、それぞれ公開された。東映の3作品には、大山道場や設立直後の極真会館で師範代を務めた石橋雅史も出演している。これらの映画に極真会館は全面的に協力した。

漫画・劇画・

梶原一騎の原作で『虹を呼ぶ拳』、『空手バカ一代』、『四角いジャングル』などで、大山倍達と極真会館は実名で取り上げられた。特に『空手バカ一代』は大山を主人公にし、弟子も紹介された作品で、アニメ化や映画化もされた。

通信教育

梶原一騎らとの協力によりマス大山カラテスクール1972年に設立。自宅に居ながらにして極真空手を学べるとして少年漫画誌を中心に大々的な宣伝を行い、多数の受講生を獲得した。1973年には渋谷に通信生向けの実技道場を構え、師範代山崎照朝、指導員を鈴木浩平などが務めた。

テレビ・雑誌

1973年の第5回全日本選手権からテレビ中継され、その後、全日本・全世界選手権開催毎に東京12チャンネルNETで放送された。雑誌では『ゴング格闘技』 (日本スポーツ出版社)、『格闘技通信』 (ベースボール・マガジン社)、『月刊フルコンタクトKARATE』 (福昌堂)にも頻繁に登場した。

百人組手

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分裂騒動

ファイル:Kyokushin-Kaikan Tokyo headquarters 02.jpg
分裂後、移転した松井派本部道場
ファイル:Kyokushin-Kaikan Tokyo headquarters 01.jpg
分裂後の松井派本部道場が入った建物の外観

1994年4月26日、極真会館の創始者である大山倍達は逝去した。

弟子たちにとって絶対無比のカリスマであった大山を喪失した極真会館では没後間もなく、その後継の座を巡っての主導権争いが始まった。やがて、団体幹部や支部長、それに準ずるクラスの人物、大山の遺族との間で、団体は四分五裂の様相を呈してゆく。その後も数多くの人物による分派や独立も続き、「極真」という商標も奪い合いとなり、これらは訴訟係争という事態に繋がっていた。その他の指導者や一時代を築いた有力選手にも、知名度が上がると共にこのような政治的な争いに巻き込まれることを嫌って「極真」から離れ、独自の空手道を求めていった者が少なくない。

本項ではこれらについて記す。

1994年

大山逝去の翌々日、極真会館の審議(評議)委員長であった梅田嘉明が「大山総裁は遺言松井章圭を次期後継者に指名された」と発表。5月10日に、梅田を財団法人極真奨学会理事長、松井を館長、郷田勇三を最高顧問、盧山初雄を最高顧問・主席師範、支部長協議会の会長を西田幸夫[注釈 2]とし、新体制による運営が始まった。6月に入り、遺族が記者会見を行い「遺言に疑問があるので法的手段にでる」と発表し、本葬時にも抗議活動を行なった。国内の支部長では9月迄に高木薫ら計5人が、新体制に異を唱えて離れた。

1995年

2月に高木ら5人の支部長が大山智弥子未亡人を館長とし、結集(遺族派)。4月に新体制が松井派と、西田・三瓶啓二ら35人の支部長がいる支部長協議会派に分裂。この国内の分裂は海外にも波及し、世界各地で支部の取り合い、選手の引き抜きも行われ、分裂が生じた。

松井派は中村誠山田雅稔ら12人にまで減ったが、半年後には川畑幸一ら9人が支部長協議会派から復帰した。8月には智弥子館長を頭とし支部長協議会派と遺族派が合流(大山派)。同年から各種大会が松井派と大山派に分裂して開催されるようになった。

1996年以降

松井派と大山派は、それぞれの機関誌である『ワールド空手』と『極真魂』誌上で数年間、双方の正当性を主張しあっていた。1997年3月17日に遺言書の有効性を否定する判決が最高裁で確定した。その間に大山派は、協議会派と遺族派に再分裂。協議会派は1997年に西田・増田章が離脱。さらに理事の役職にあった田畑繁・七戸康博[注釈 7]桑島靖寛らが離れ、前後して離脱した長谷川一幸大石代悟らと全日本極真連合会を発足させる。協議会派に残留した者が現在の新極真会となった。遺族派は松島派、手塚グループ、極真会館 宗家に分かれる。

一方、松井は自派を株式会社化し、正式名称を株式会社国際空手道連盟極真会館と刷新したが、こちらもさらなる分裂が続いている。2002年に極真奨学会の梅田が松井と関係を絶つと、同年11月に盧山や地区本部長を務めていた廣重毅湖山彰夫らも去り、彼らは極真館を興し、梅田と一緒に休眠していた極真奨学会を復活させた。2005年には水口敏夫[注釈 3]・河西泰宏らが、2006年には浜井識安が松井派から離れ、極真奨学会の協力団体になった。2008年木村靖彦が全日本極真連合会へ移り、2010年8月には国際委員会委員で欧州地区担当のルック・ホランダーが、傘下の支部と共に松井派から離脱した[13][14]。この期間に黒澤浩樹小笠原和彦八巻建志数見肇が独立し、自派を発足している。選手ではニコラス・ペタス野地竜太が離脱した。

現在の状況

「国際空手道連盟 極真会館」もしくは「極真」を名乗る主な団体として(分裂順)

などが存在している。また、小規模の道場も含めれば更に増加する。

松井派、宗家、新極真などは、自らが大山の極真空手の唯一の正当後継であると主張しており、他の極真諸派の存在を認めなかったり、認めていても消極的である。それに反して社団法人極真会館財団法人極真奨学会は、他の極真諸派の存在を認めようとする団体である。奨学会には極眞會、浜井派などがそれぞれ参加協力している。現在、“極真”の商標を巡って、宗家、社団法人極真会館、奨学会らはそれぞれ松井派と係争中である。

なお、この分裂騒動を報道の他では家高康彦が『極真大乱』で、小島一志が『実戦格闘技論』で著している。

極真会館から派生、独立した団体

以下はあくまでも著名な団体のみを上げる。こちらも小規模な団体や海外も含めれば更に増加する(独立順)。

脚注

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注釈

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出典

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関連項目

外部リンク

  • 1.0 1.1 1.2 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「takagi1990」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  • 月刊フルコンタクトKARATE別冊 - 大山倍達と極真の強者たち』 福昌堂1995年、57頁。
  • 3.0 3.1 「第2章 - 再検証極真ジム」『極真外伝 - ~極真空手もう一つの闘い~』 ぴいぷる社、1999年、76 - 91頁、93頁、101頁、104頁、108頁。
  • 4.0 4.1 ゴング格闘技』 日本スポーツ出版社、3月8日号、1996年、52 - 53頁。
  • 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 5.6 『新・極真カラテ強豪100人(ゴング格闘技1月号増刊)』 日本スポーツ出版社、1997年、72頁、78 - 79頁、85頁、105頁、114 - 119頁、150 - 151頁、164 - 165頁。 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "sgn45817"が異なる内容で複数回定義されています
  • 6.0 6.1 6.2 「ゴング格闘技12月6日号増刊」『極真カラテ強豪100人 - BATTLE SERIES Vol.9』 日本スポーツ出版社、1994年、45頁、123頁、125頁。
  • テンプレート:Cite book
  • 8.0 8.1 テンプレート:Cite journal
  • 極真館吉川支部・鈴木浩平 「極真館吉川支部→思い出の写真」 →昭和47年(1972)スペイン皇太子来日 - 迎賓館
  • 佐藤勝昭 『王道の空手』 講談社1987年、245 - 248頁。
  • 11.0 11.1 11.2 11.3 「特集●郷田勇三 - 空手行路四十年」『格闘Kマガジン』 ぴいぷる社、3月号、2001年、12頁。
  • 「国際空手道連盟極真会館 - 年度別昇段登録簿 - 国内」『極真カラテ総鑑』 株式会社I.K.O.出版事務局、2001年、62頁。
  • テンプレート:Cite web
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