若山富三郎

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テンプレート:出典の明記 テンプレート:Mboxテンプレート:ActorActress 若山 富三郎(わかやま とみさぶろう、1929年9月1日 - 1992年4月2日)は、日本俳優歌手テレビドラマ監督。本名は奥村 勝(おくむら まさる)。別名は城 健三朗(じょう けんざぶろう)。東京市深川区(現在の東京都江東区)出身。映画テレビドラマ演劇で幅広い役柄を演じ、特に殺陣に関しては当代随一の名手と評された[1][2][3]。父は長唄三味線杵屋勝東治、弟に勝新太郎、息子は若山騎一郎、前妻は藤原礼子

経歴

幼少の頃より勝とともに長唄の修行を始めるが専念せず、日大三中在学中は一年生を三回落第するほど素行に問題があった。しかし一方では柔道に熱中して、師範(伍段)を目指していたという。1949年、20歳のときに長唄の和歌山富十郎に弟子入りし、芸名を若山 富三郎とした。1954年新東宝からスカウト、演技経験のない新人としては破格の高給と、運転手付きの車での送迎を約束させた上で入社を決める。

1955年に『忍術児雷也』でデビュー。『人形佐七捕物帖』シリーズなどの時代劇に主演。1958年にはKRテレビ(現・TBS)のテレビ時代劇『銭形平次 捕物控』に主演[注 1]。新東宝が経営不振に陥ると1959年東映へ移籍し、新東宝時代同様に『人形佐七捕物帖』シリーズで主演した他、多数の脇役もこなす。

1962年に勝が在籍する大映へ移籍、城 健三朗と改名。白黒作品の『打ち鴉』に主演した他は市川雷蔵や弟の勝新太郎の脇役に甘んじ仕事では不遇の日々であった。1963年に同じく大映所属の女優、藤原礼子と結婚。一男を儲ける。1964年にはテレビ時代劇『風雲児半次郎 唐芋侍と西郷』(東伸テレビ映画 / 毎日放送[注 2]に主演したが、1965年に藤原と離婚、その後の1年間、干されて役がつかない挫折を味わった。

1966年に出演した大映での最後の作品『処女が見た』(主演:若尾文子、監督:三隅研次)で共演した女優、安田道代と恋愛関係となり、その後、長期間にわたり交際が続いた(安田はその後1976年に大楠裕二と結婚し、大楠道代に改名)。この年、城は再び東映に移籍し、芸名を若山 富三郎に戻した。脇役からのスタートだったが鶴田浩二主演の『博奕打ち 総長賭博』の助演で認められ、主演映画も制作され始める。1968年より始まった『極道シリーズ』や『前科者』では従来の義理人情のヤクザ映画に若山のコミカルな演技が加わり、他の任侠路線とは一線を画す人気作となった。その他にも『賞金稼ぎシリーズ』、『極悪坊主シリーズ』などに主演した。

1970年代の勝プロ制作の映画『子連れ狼シリーズ』では拝一刀に扮し、凄みのあるダイナミックな殺陣と寡黙な演技は「一刀の若山か、若山の一刀か」と評されるほどの代表作になり、海外でも興行された。個人事務所「若山企画」を設立し、1973年の『唖侍鬼一法眼』、1975年の『賞金稼ぎ』などのテレビ時代劇に主演、『賞金稼ぎ』では全22話中3話を監督している。

白塗りの二枚目から三枚目、悪役、豪放なアクション・殺陣と、幅広いタイプの役柄を演じているが、1974年には睦五朗に招かれ、『エスパイ』に出演し、敵役のリーダー「逆エスパイ・ウルロフ」を演じた。特徴的な髪型は若山の考案で、クランクインの際には一つのセリフを様々な抑揚・表情でサンプルのように演じ分けてみせ、監督に選んでもらった。1977年公開の『悪魔の手毬唄』の磯川警部と、1978年から放送されたテレビドラマ『事件』の菊池弁護士は、優しい人間味と哀愁を湛えた等身大の中年像であり、抑えた演技はそれまでのイメージを一新した。『悪魔の手毬唄』と映画『姿三四郎』の村井半助で、第20回ブルーリボン助演男優賞を受賞。1979年の映画『衝動殺人 息子よ』で、キネマ旬報主演男優賞・ブルーリボン賞毎日映画コンクールの主演男優賞、第3回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞を受賞した。 また、1978年パラマウント映画がんばれ!ベアーズ大旋風 -日本遠征-』では少年野球日本代表チームの監督役として出演し、トニー・カーティスと共演。また、劇中「黒田節」を歌い自慢ののどやバック転も披露している。

演劇では1977年の蜷川幸雄演出のミュージカル『三文オペラ』や1978年の『アニー』で、長唄で鍛えた美声を披露。また同年の『歌舞伎模様・天保六花撰』では河内山宗俊に扮して、第33回芸術祭大賞を受賞した[4]

1980年代には映画『魔界転生』で柳生宗矩に扮し、紅蓮の炎の中で行われた柳生十兵衛千葉真一)との決闘では華麗ながらも凄みのある戦いを演じ、劇中最大のクライマックスとなっている[3][5]。魔界衆がまばたきをしないのは、歌舞伎でのお化けの演技からヒントを得た若山の発案である。本作は観客動員数200万人、配給収入10億5千万円となった[6](詳細は ⇒ 魔界転生)。千葉は本作後も再び若山との殺陣を望み、テレビドラマ『影の軍団III』第1話「二つの顔の男」では千葉が直接、若山へ出演依頼をして共演を実現させた。ほかにはテレビドラマ『御金蔵破りシリーズ』でも殺陣と復讐に燃える忍者からコミカルな役まで幅広い演技を見せる。

そうした一方、喘息でありながらショートホープを愛煙するチェーンスモーカーで、糖尿病でありながら平気で羊羹1本や大福を平らげるなど、持病をかかえながらも不節制、不養生を続ける生活習慣が祟り、1984年には心筋梗塞で入院。その後ハワイで血管5本に及ぶバイパス手術を受ける[7]。手術は無事に成功し現場に復帰、特に、1989年アメリカ映画ブラックレイン』では英語の台詞も流暢にこなし、凄みを効かせたヤクザの親分を演じ、その存在感を示した。しかしこの間、医師の忠告を無視、生活習慣を改めることはなかった。この頃から体調に変調をきたし、1990年、勝がハワイでコカインマリファナの不法所持で逮捕され、その後も長期滞在しているさなか、心臓の状態は再び悪化。翌1991年には入院を余儀なくされ、この時医師から「(このままの生活を続ければ)来年の夏までもたない」と余命宣告を受けている[注 3]。その後は京大病院に転院し一時小康状態となり、仕事にも復帰している[8]

1992年4月2日、勝・中村玉緒清川虹子麻雀をしている最中に倒れ、急性心不全のため死去。テンプレート:没年齢。兄想いだった勝は、カメラの前でその遺骨を食べ、涙を流しながらその死を悼んだ。

殺陣

数多い時代劇俳優の中にあって殺陣が最もすぐれた俳優と評され[1][2][3]千葉真一峰打ちの殺陣を若山から教わるなど[1]、「若山先生から殺陣を本格的に教わり、ある意味(若山先生は)僕の師匠」と語っている。弟の勝新太郎も「殺陣はお兄ちゃんにかなわない」と証言している[9]

勝の代表作である『座頭市シリーズ』でも『続・座頭市物語』(1962年)、『座頭市千両首』(1964年)の2作品に出演している。『続』では過去の因縁から市(笠間の市太)と反目する実兄・渚の与四郎役、『千両首』では剣客・仙場十四郎役で、どちらも勝と迫力ある殺陣を演じている。

嵐寛寿郎竹中労のインタビューで「若手で巧かったのは一に萬屋錦之介、二に若山(と勝)で以下は無い[10]」としているが、テレビドラマ『賞金稼ぎ』の殺陣を担当した上野隆三(東映)は「殺陣が特に巧い人は誰かというなら、若山富三郎さんだ。あの人は何を持たせても巧い。武芸百般というけれども、薙刀棒術などいろんなのがあるが、若山さんは何をやってもできる人だったね[2]」と評している。

代表作である映画『子連れ狼シリーズ』では長巻を駆使した殺陣を披露し、トンボ切り(前方宙返り)も得意とした。宙返りは他にも映画『極悪坊主 念仏人斬り旅』、『賞金稼ぎシリーズ』、『魔界転生』やテレビドラマ『賞金稼ぎ』、『御金蔵破りシリーズ』、『影の軍団III』、『暴力中学シリーズ』などで披露している。

人物

親分肌で、気に入った役者やスタッフらを取り巻きとして公私に関わらず引き連れていたため、いつしか「若山組」と呼ばれるようになった。面倒見のいい反面、手を上げることもよくあり、自分より格下と思われる相手からは「若山さん」ではなく「若山先生」と呼ばれない限り、返事もしなかった。大部屋俳優等、弱い立場の人に対してだけでなく、撮影スタッフや監督、大映時代には会社幹部にまで暴力をふるうことがあったため恐れられていたが、子役には優しかった。1989年のこと、新東宝時代からの友人である丹波哲郎は若山に、自身が企画・製作・脚本・総監督を務めた映画『丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる』(丹波企画 / 松竹富士 )への出演を依頼。若山は既に心臓疾患を患い、体調に不安を抱えつつもこれを引き受ける。丹波は若山の体調を気遣いながら撮影を進めたが「おまえはすぐ人を殴る。体調が悪くなったのはそのバチが当たったんだ」と苦言を呈している。

若山組には大木実山城新伍安岡力也高岡健二潮健児関山耕司らのメンバーがいたが、大木とはお互いに「きょうだい」と呼び合う仲だった[11]。若山組への加入は「固めの杯」を任侠の世界と同様に行っていたが、下戸で自他共に認める名うての甘党だった若山の「固めの杯」は「羊羹を煮溶かし、食パンの上に塗ったものを食べるというものであった」と山城は語っている。後輩を壁際に立たせて、若山得意の手裏剣を投げつけるという荒っぽい「入組試験」もあった[12]

弟である勝新太郎とは容姿がそっくりなだけでなく、「借金が得意」、「親分肌で取り巻きを大勢連れ回したがる」など、その性格・言動やプライベートが酷似していた。そのため、大映時代には「二人も勝新太郎は要らない」、「愚兄賢弟」などと揶揄されたほどであった。しかし大酒飲みで遅刻が多く台本をあまり読んでこない勝と違い、若山は撮影前の台本チェックなど事前の準備を怠らなかった。後年東映でスターダムにのし上がり、映画賞・演劇賞を数々受賞するに至ってからは名優としての評価を高めたのに対し、勝は不祥事が目立つようになり、評価は逆転した。事実、勝は「演出プロデュースでは自分が上だが、演技力はお兄ちゃんに敵わない」と最高の賛辞を送っている。兄弟仲は非常に良く、勝が大麻所持で逮捕された際、マスコミの前では勝を批判しながらも、執行猶予付きの判決が出たときは若山は「良かった」と涙を流して喜んだ。また、勝はある役者の演技を叱ろうとしたとき、その役者が「若山先生の言われた通りにしたんですけど…」と答えると、「あぁそう、お兄ちゃんがそう言ったの」と一転して機嫌がよくなり、叱るのをやめたという。

逸話

撮影所

監督との関係
若山は、学歴に対するコンプレックスが強かった。それゆえ新人監督が若山に接するときは、とにかく「帝大を出た事にしろ」とアドバイスされたという。また、仕事に対するこだわりが強く、撮影現場でもさまざまなアイデアを進言することがあったが、無茶を言って監督を困らせるようなものも少なくなかった。そんな若山をなだめるのがうまかったのが山下耕作で「若山さん、それは素晴らしいアイデアだ。でも、もったいないから、次回に取っておきましょう」と、若山の熱意と顔を立てながら現場を収拾していた[11]
楽屋
あるとき東映の若山の楽屋の隣から工事の音がし始めた。若山の取りまきが聞いてきた話では、高倉健が自分の楽屋が狭いため、拡張工事をしていると言う。それを聞き激怒した若山は「そっちがそんな勝手するなら俺だって」と、音のする壁と反対側の壁を自ら叩き始め楽屋を広くしようとした。若山に壁を叩かれた隣の部屋では大川橋蔵が弁当を食べていたが、びっくりして飛び出してきた。大川が「いったい、何やってるんですか?」と尋ねると、若山は「壁壊して部屋広くするんや」と返答。大川は呆れ気味に「それはいいですけど、僕の部屋はどうなるんですか?」と尋ねると、若山は正気に戻ったのか「あ、すんまへん」と謝った。さらにそこに通りかかって話を聞いた鶴田浩二も激怒し、同じく自分の楽屋を広くするため壁を叩き始めたという[11]片岡千恵蔵を非常に尊敬しており、千恵蔵の使用していた楽屋が自分のものになると感激のあまり、号泣した[11]
楽屋には大福キャラメルコーヒー牛乳などを常備する甘党で、夜中に後輩俳優を呼び出して汁粉を振る舞ったこともあった[注 4]。若山が下戸であることを知らなかった高倉は、日頃のお礼の意味で撮影前の若山に日本酒を一瓶贈ったことがあった。若山は困惑しながらも高倉の思いに応えようと快く受け取り、高倉の眼前でラッパ飲みして見せた。しかし飲んだ直後に卒倒し当日の撮影は中止。高倉はひたすら平身低頭、謝罪したという。
菅原文太
1967年、松竹に在籍していた新東宝時代の後輩・菅原文太が東映に移籍し若山に挨拶に行った際、東映への移籍は安藤昇からの勧めがあったことから、若山は「おめぇは安藤の子分になったのか」と訊ねた。菅原はそれを否定し「そーか!ならワシんとこの若い衆になれ!」と、それ以降菅原を可愛がるようになった。その後、菅原は1969年に『現代やくざ 与太者の掟』で東映で初主演、1973年には『仁義なき戦い』シリーズが大ヒットし、一躍東映の看板スターとなるに至り、菅原を妬んだ東映生え抜きの役者連中は若山に「菅原が天狗になってます。何とかしてください」等と告げ口を始める。菅原自身は若山には礼を尽くしていたので、若山は意に介していなかったが、遂に乗せられ「アイツ自身のためにみんなの前で殴る」と菅原を殴ることになった。
東映京都撮影所の俳優会館の前に椅子を持ち出して待ち構え、通りかかった菅原を見つけ「オイ、文太!」と声を掛けた。ところが機敏に察知した菅原は、若山に走り寄りその手をとって「オヤッさん、ありがとうございました。ぼくみたいな下手な役者が、小さな賞ですけど京都市民映画祭の主演男優賞を獲れたのはオヤっさんのおかげです。ありがとうございました。」と恭しく挨拶した。気勢をそがれた若山は「おお、そうか・・・。文太、お前の部屋(東映の控え室)にテレビはあるのか?」と聞き、菅原が「ありません」と答えると、「じゃあみんなでお祝いに買ってやる」として奥で隠れてやり取りを見ていた子分の山城新伍から三万円を出させ、テレビを買い与えた。当時のテレビの価格では三万円は頭金にしかならず、かといって他の役者達は金を出さなかったので、電器屋が菅原のところへ代金を請求に行ったところ「取れるもんなら、取ってみい!」と凄まれて泣く泣く帰る羽目になり、結局電器屋は丸損となった[11]
仲裁を待つ
ある時東映撮影所で大喧嘩になり、若山は「ぶち殺してやる」と机を持ち上げて相手に投げつけようとした。若山を止めてもらおうと呼び出された山城が駆けつけると、若山は机を振り上げた姿勢のまま固まって待っていた。山城は若山に「早く止めに来んかい」と怒られた[11]
「ヤナギザワシンゴ」
お笑いタレント柳沢慎吾松方弘樹主演の『名奉行 遠山の金さん』(テレビ朝日系)に同心・間半平役でレギュラー出演していた頃、若山が第3シリーズ第3話「怪盗の顔を見た! 」(1990年7月26日放送分)でゲスト出演した際に、東映京都撮影所内ですれ違った時のことである。まだ駆け出しの若手だったため、若山に対する「暗黙のルール」(若山と顔を合わせた場合、座っていれば立ち上がり、必ず立ち止まって『若山先生、おはようございます』と声をかけて最敬礼する。共演する場合には遅刻厳禁、楽屋挨拶厳守など)を知らされておらず、ちょうど食事を終え、食堂から出てきた柳沢は若山に対し、楊枝をくわえながら「チィーッス! 」と何気なしに頭を下げた。この態度に若山が激怒し、「あの野郎、後で俺の部屋ぁ来いって言っとけ! 」とスタッフに指示。東映京撮俳優会館内の自分の楽屋(特別室)に柳沢を呼び付け、大慌てで自己紹介し謝罪する柳沢を尻目に、自分のソファーの真向かいに座らせ、無言のまま長時間睨みつける事態となった。ただならぬ異変に気付いた松方が楽屋に入り「富兄い、今、俺と一緒に『金さん』やってる慎吾って若い奴だから・・」と間を取り持つと、若山は「知ってるよ、だから俺ぁ、シンゴと話してたんじゃねぇか」(実際には一言も無かったという)と告げ、その場は一旦収束した。
しかし撮影に入ると、同心役の柳沢の刀の取り扱いや所作に注文をつけ、「ヤナギザワシンゴ!! (決して「やなぎさわ」とは呼ばなかった)おめぇ今、どっちの手で刀ぁ持ってたんだよ! おめぇの役は同心じゃねぇのか? ・・・ヤナギザワ!! 」とその場で叱責。柳沢が必死に「これは松尾(正武)監督の指示なので、」と説明すると今度は「おい! 松尾!! 」と監督の松尾に演出について1時間ほど意見する事態となり、撮影は遅々として進まなかった。業を煮やした松尾は、柳沢が若山に対して言う台詞「うるせぇ、このジジィ!てめぇは黙ってろ!」の「ジジィの前に『くそ』を付けろ」と柳沢に指示。渋る柳沢をよそに「うるせぇ、このクソジジィ」の台詞で撮影は進行。一応そのシーンは撮了したものの、若山が「ヤナギザワシンゴ! おめぇ何て言った? 今、台詞が2つばかり増えてなかったか? 」と録音技師を呼びつけて何度も音声をチェックし始め、台詞が変わっている事を知った若山は激怒し柳沢に怒りの矛先を向ける。ここで再び「い、いや、違います。これは監督の指示で・・」と狼狽する柳沢から説明されると「松尾、てめぇこっち来い! この野郎!! 」と今度は松尾に喰ってかかり、結局この日の撮影は中止となった[注 5]。しかしその後、若山は柳沢を懇意にし、良好な関係だったという。柳沢の実家には若山に肩を組まれて撮ったスナップ写真を引き延ばしたパネルが飾られている。

バラエティー

クイズダービー
1988年(昭和63年)10月8日(第661回、ドラマ大会)、同日放送の『妻たちの鹿鳴館』の番組告知も兼ね、共演の池内淳子と共にに出場した。若山は第1問目で、5枠・ゲスト解答者だったビートたけしに「たけし君にね、『3,000点』はダメか?」といきなり持ち点の全部を賭けようとした。しかし司会の大橋巨泉に「3000点はまずいですよ、無くなっちゃうじゃないですか。早く帰ろうと思ってるなぁ!淳子ちゃん何か言って下さい」と呆れながら止められてしまい、結局全額を賭けることはできなかった。会場の観客らは大爆笑、池内も苦笑いしつつ1,000点に賭け点を変更したものの、たけしは不正解。持ち点は2,000点と減点された。なお番組の歴史上、第1問で3,000点全部を賭けようとした番組出場者は若山と、とんねるず(本件とは逆で、高正解率を誇るはらたいらの確実性に賭けた)のみである。
第5問目では若山が1枠・北野大を指名。「(北野博士の)ファンなんだよ」と言いながらも、持ち点の1,500点から賭けたのは「200円」だった。巨泉は「200『』!これが、ファンにしてはケチなんだよなあ。まあ良いでしょう」と笑う。その後池内が500点に変更したが、結局北野大は不正解で1000点に減額。巨泉に「200円にしとけば良かったね、若山さん今のねぇ」と苦笑された。第6問の作詞問題では、若山が歌う『男道』からの出題であった。問題が読まれた直後に若山は「これ俺じゃないよ。だって覚えが無いもん」と困惑していたが、巨泉から「オレですよぉー。そうやって書いてあるんだもん、レコードに。それは、単に忘れちゃっただけですよ!」と呆然とされた。
第7問終了時にはわずか100点にまで減っていた。最終問題で池内は掛け率8倍の4枠・竹下景子を指名して、100点全部を賭けた。竹下が正解したので、結果若山・池内ペアの賞金獲得額は900円だった。エンディングで池内は「でも偉いでしょ?ゼロにならなかったのがねぇ」と笑い巨泉も「エライですよ」と褒めたが、巨泉は若山に「自分がレコーディングしたの忘れないで下さいね」と繰り返し言っていた。
どっきりカメラ
若山は清川虹子と共に安岡力也へのどっきりの仕掛け人として出演。若山と清川が結婚するという偽の招待状を受け取った安岡は、御祝儀をいくら出すか悩んで周囲に相談し、一般常識レベルの金額を出すことにした。当日、出席者の山城新伍や松方弘樹ら御祝儀の金額が次々と読み上げられたが、すべて100万円といった桁違いに高い金額であった。力也の前に読み上げられた高岡健二の金額が、桁違いに低い(それでも力也より少し高い)ことに若山が驚愕し激怒、連れ出されて暴行される(実際にはメイクなど)など手痛い仕打ちを受ける。その様子を間近で見ていた力也が緊張のあまり震え上がるという趣向だった。
8時だョ!全員集合
ゲストとして出演した際、たまたまぎっくり腰を患い、松葉杖をつきながらもこの日の「学校コント」や「時代劇コント」に出演。特に「時代劇コント」では、志村けんに松葉杖を預けた上で、ぎっくり腰とは思えぬ見事な殺陣を披露した。志村からの「賞金稼ぎがぎっくり腰とはお笑いだ」とのツッコミに、若山も「金貰ってるから、やらねぇとしょうがねぇんだよ」と返し、しっかり笑いもとった。

小説

1983年(昭和58年)には本人名義で、歴史小説「ゼロの暗殺者」を発表したが、これはゴーストライターによる執筆作である[注 6]

受賞

出演作品

映画

シリーズ

  • 人形佐七捕物帖シリーズ (1956年 - 1961年) - 人形佐七
    • 人形佐七捕物帖 妖艶六死美人 (1956年、新東宝
    • 人形佐七捕物帖 大江戸の丑満刻 (1957年、新東宝)
    • 人形佐七捕物帖 花嫁殺人魔 (1957年、新東宝)
    • 人形佐七捕物帖 浮世風呂の死美人 (1958年、新東宝)
    • 人形佐七捕物帖 腰元刺青死美人 (1958年、新東宝)
    • 人形佐七捕物帖 般若の面 (1960年、東映
    • 人形佐七捕物帖 くらやみ坂の死美人 (1960年、東映)
    • 人形佐七捕物帖 血染めの肌着 (1960年、東映)
    • 人形佐七捕物帖 ふり袖屋敷 (1960年、東映)
    • 人形佐七捕物帖 恐怖の通り魔 (1961年、東映)
    • 人形佐七捕物帖 闇に笑う鉄火面 (1961年、東映)
  • 極道シリーズ (1968年 - 1976年、東映) - 島村清吉
    • 極道 (1968年)
    • 帰ってきた極道 (1968年)
    • 兵隊極道 (1968年)
    • 待っていた極道 (1969年)
    • 旅に出た極道 (1969年)
    • 極道釜ヶ崎に帰る (1970年)
    • 極道兇状旅 (1970年)
    • 極道罷り通る (1972年)
    • 釜ヶ崎極道 (1973年)
    • 極道vsまむし (1974年)
    • 極道vs不良番長 (1974年)
  • 前科者シリーズ (1968年 - 1969年、東映)
    • 前科者 (1968年)
    • 横紙破りの前科者 (1968年)
    • 前科者 縄張荒し (1969年)
  • 極悪坊主シリーズ (1968年 - 1971年、東映) - 真海
    • 極悪坊主 (1968年)
    • 極悪坊主 人斬り数え唄 (1968年)
    • 極悪坊主 念仏人斬り旅 (1969年)
    • 極悪坊主 念仏三段斬り (1970年)
    • 極悪坊主 飲む打つ買う (1971年)
  • 賞金稼ぎシリーズ (1969年 - 1972年、東映) - 錣市兵衛
  • 子連れ狼シリーズ (1972年 - 1974年、勝プロ / 東宝) - 拝一刀

その他

テレビドラマ

演劇

バラエティ

CM

ディスコグラフィ

  • 流れ者 (1975年)
  • ひとつの命 (1975年)

著書

  • ゼロの暗殺者 自由書館 1983.3 ISBN 978-4915574023
  • 鎮魂曲(レクイエム)は地獄で聴け 原案 牛次郎著 広済堂出版 1986.10 ISBN 978-4331052358
  • 鬼畜狩り 若山富三郎原案 牛次郎著 祥伝社 1991.4 ISBN 978-4396322137

脚注

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注釈

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出典

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外部リンク

テンプレート:日本アカデミー賞最優秀主演男優賞 テンプレート:キネマ旬報ベスト・テン主演男優賞 テンプレート:ブルーリボン賞主演男優賞 テンプレート:ブルーリボン賞助演男優賞

テンプレート:毎日映画コンクール男優主演賞
  1. 1.0 1.1 1.2 テンプレート:Cite book
  2. 2.0 2.1 2.2 テンプレート:Cite book
  3. 3.0 3.1 3.2 テンプレート:Cite journal
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  13. 昭和53年度 第33回 文化庁芸術祭賞


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