野際陽子

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テンプレート:ActorActress 野際 陽子(のぎわ ようこ、1936年1月24日 - )は、日本女優フリーアナウンサータレント声優ナレーター司会者。元NHKアナウンサー身長163 cm血液型A型[1]。特技は英語フランス語[1]ラヴァンス所属。

人物・来歴

富山県富山市に生まれ、3歳から東京都杉並区天沼で育った[2]区立杉並第五小学校2008年平成20年)2月23日閉校)、立教女学院中学校・高等学校立教大学文学部英米文学科卒業。大学時代はESSの英語劇セクションと劇団テアトルジュンヌに所属し、数々の作品に出演[2]。テアトルジュンヌの1年先輩には東海林のり子が、大学の同級生には長嶋茂雄がおり、在学中にはミス立教や日米対抗アメリカンフットボールの応援団のクイーンなどに選ばれた[3]

大学卒業後、1958年(昭和33年)にNHKにアナウンサーとして入局し、3か月の研修後に名古屋放送局に赴任[2]。天気・婦人番組を担当。翌年の伊勢湾台風の災害報道にも関わっている。1960年(昭和35年)にNHK東京放送局に赴任。テレビ『おはようみなさん』の司会を週1回担当。以降の2年間は週3本のレギュラー番組を担当した[4]。名古屋赴任時に独身寮の野際の部屋に折悪しく給料日に強盗が入り、ナイフを突きつけられ金銭を要求された経緯を『徹子の部屋』、『いつみても波瀾万丈』、『ボクらの時代』出演時に語っている[5][6]

1962年昭和37年)3月にNHK退職後、企画を説明する係として広告代理店へ転職。しかし出番が来ないまま3か月が経ち、給料だけもらうのは忍びないと気兼ねしていると、15分の生放送番組である『女性専科』(TBS)の司会者を担うこととなった。1963年(昭和38年)にテレビドラマ悲の器』で既に女優デビューしていたことから、『女性専科』以降は女優活動が中心となった。1964年(昭和39年)には、東京都現代美術館で開催された現代美術展に出展する絵のために、画家伊東深水のモデルとして起用された。

1966年昭和41年)2月にかねてから念願であったパリへ留学。ソルボンヌ大学で古典仏文学の授業を受けながら、アリアンスフランセーズにも通い、1年を過ごした。翌年帰国後『女性専科』に復帰し、パリで培ったファッションセンスを活かした[4]。1967年にはパリからの帰国時に着用していた、まだ日本では珍しかったフランス製のミニスカートが話題になった。このことから日本人で初めてミニスカートを穿いた女性であるとも言われている[7]

1968年(昭和43年)にテレビドラマ『キイハンター』がスタートし、5年間放映され、視聴率30%以上を記録し一世を風靡した。ディレクターにどうしても歌わせて欲しいと直談判して[7]、主題歌の『非情のライセンス』も歌った。1972年(昭和47年)には共演の千葉真一と婚約、翌年結婚。1975年(昭和50年)に真瀬樹里を出産。38歳11か月での初産は当時の芸能人の高齢出産最高齢記録だった[8]

1992年平成4年)、テレビドラマ『ずっとあなたが好きだった』で息子・冬彦(佐野史郎)を溺愛する強かな姑役を演じ、以降はこれまでの母親役以外に強烈な姑役が加わった。1994年(平成6年)に俳優としてアメリカ進出を切望した千葉[9]、との意志不一致から離婚[9]会見の際には同席してマスコミに臨んだ。ただ、後年のテレビ出演では、当初から結婚生活自体に違和感を感じており、「結婚前から大変な結婚になりそうだ、という予感はあった」、「離婚に向け、全てが整うまで21年かかった」、「結婚してからも夫婦というより仲間の延長のような感じだった」と語っている[10]

近年はテレビドラマやCMで結髪に着物を着て登場することが多く、着物の似合う女優として挙げられることが多い。

1996年(平成8年)10月5日、『オールスター感謝祭'96超豪華!クイズ決定版この秋お待たせ特大号』では50問234.30で60歳8ヶ月での最年長優勝を果たした[11]

2011年平成23年)3月の原発事故を受け、「原発からでた放射能を無害にする技術ができない限り、原発はありえない」と反原発のスタンスであることをインタビューで語っている。このため、震災後に自宅の照明器具を全て省エネのためLEDに交換している[12]

2013年平成25年)12月現在、特定秘密保護法の制定に関して反対表明をしている芸能人の1人である[13]

人物

家族仲が良く実家の家族とよくバーベキューを楽しみ[14]、還暦を迎えたのを機に「脱いでみようか」というタイトルのエッセイを出版している。本人曰く「還暦を機に心の中を少し脱いでみようか」との意味でこのタイトルに落ち着いた[15]

多趣味であり、独身時代から勉強していた語学に加え、結婚後も子供と一緒にアイスダンスピアノなどを習っていた事がある[14]。近年は雑誌の取材で玉村豊男のアトリエを訪れた事がきっかけで水彩画を描いている[16]。健康おたくを自称するくらい健康には気を使っており、自分で考案したり人に聞いたりした健康ドリンクを長年飲み続け[14]、「老いは股関節から来る」と主治医に聞いてからストレッチを続け、180度開脚できるようになった[16]

テレビドラマ『キイハンター』や『鬼平犯科帳』などで共演した丹波哲郎から妹のように可愛がられ[17]、所属しているラヴァンスも丹波が設立した「丹波プロダクション」が元である。佐野史郎はドラマ『ずっとあなたが好きだった』で野際と共演していた時に、丹波から「陽子をヨロシク!」と声をかけられている[17]。『ずっとあなたが好きだった』の後も『ダブル・キッチン』など着物を着た姑役が続くが、「私の後(の姑役)は、浅野ゆう子さんにでもお願いしようかしらね」と語り、浅野とも交流が続いている。

夫婦役では『ダブル・キッチン』以降伊東四朗との共演が多く、伊東は「野際さんは本当にお若いし努力家で素晴らしい人」と評している。橋爪功とは映画『善人の条件』、ドラマ『ずっとあなたが好きだった』『スウィート・ホーム『京都迷宮案内』『新・京都迷宮案内』(無印から9シリーズ連続共演)『笑う三人姉妹』、『告発〜国選弁護人』などで共演している。黒柳徹子とはNHKアナウンサー時代から公私にわたり50年以上の親交がある。そのため『徹子の部屋』の草創期からの常連出演者であり、2000年代以降は番組の節目や特別番組などに招かれている。

主な出演作

テレビドラマ

NHK

日本テレビ

TBS

フジテレビ

テレビ朝日

テレビ東京

映画

舞台

  • 山城新伍芸能生活30周年記念『泣き笑いキネマの夢・チャンバラ物語』

バラエティー・教養番組

吹き替え

ラジオ

CM

音声ガイド

  • 東京国立博物館 特別展「京都-洛中洛外図と障壁画の美」(2013年)

歌・著書

脚注

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関連項目

外部リンク

テンプレート:TBSオールスター感謝祭チャンピオン
  1. 1.0 1.1 テンプレート:Cite web
  2. 2.0 2.1 2.2 自著 「脱いでみようか」
  3. 立教未来計画 校友メッセージ
  4. 4.0 4.1 「近代映画」 近代映画社、1970年1月号、152頁。
  5. 1980年5月30日出演の徹子の部屋
  6. 2012年4月8日出演のフジテレビ・ボクらの時代
  7. 7.0 7.1 「女優が語る私の人生」 ラジオ深夜便、2010年8月7日放送分。
  8. 徹子の部屋、2011年2月4日出演分。
  9. 9.0 9.1 テンプレート:Cite book
  10. テンプレート:Cite web
  11. TBS
  12. 革新懇ニュース 2011年9月号。
  13. 毎日新聞2013年12月8日掲載
  14. 14.0 14.1 14.2 elan、2001年12月号。
  15. 1996年出演の徹子の部屋
  16. 16.0 16.1 毎日が発見 2010年6月号
  17. 17.0 17.1 テンプレート:Cite web
  18. 「芸能人のおしどり夫婦がCMで出演」という流れの始まりだった。