黒い霧事件 (日本プロ野球)

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日本プロ野球における黒い霧事件(くろいきりじけん)は、プロ野球関係者が金銭の授受を伴う八百長に関与したとされる一連の疑惑および事件。新聞報道などをきっかけに、1969年から1971年にかけて相次いで発覚した。

日本野球連盟は八百長への関与について「(野球協約第355条が規定する)『敗退行為』に該当する」との見解を発表。関与が疑われた現役選手には永久出場停止(追放)、長期間の出場停止、年俸減額などの処分を下した。

また、上記の選手の一部はオートレースの八百長事件にも関与。この事件では現役のオートレース選手19名が警察に逮捕されている。

事件の経緯

  • 1969年
    • 報知新聞(現在のスポーツ報知)の西鉄ライオンズ担当記者が西鉄野手のカール・ボレスから「チームメイトにわざと失策する選手がいる」という話を聞き調査を開始。その結果、報知が八百長の疑惑を抱く。報知は読売新聞社会部と組んでさらに調査を開始する[1]
    • 10月7日 - 西鉄投手の永易将之が公式戦で暴力団関係者にわざと試合に負ける「敗退行為(八百長)」を持ちかけられ、それを実施していたことが判明。西鉄は永易をシーズンオフを以て所属契約の更新を行わず、解雇とすることを決定する。翌10月8日、読売新聞報知新聞がこれを報道[1]
    • 11月28日 - コミッショナー委員会(当時はコミッショナーの権限については委員長宮沢俊義金子鋭、中松潤之助の3人が合議制で担当した)が永易に対し、永久出場停止(追放)という日本野球界初の処分を下す。
  • 1970年
    • 巨人コーチの藤田元司が当時副業として経営していた会社で発生した人事トラブルを解決するために暴力団員を雇っていたことなどが問題となり、球団から1か月間の謹慎を言い渡されている[2]
    • 4月1日 - 永易と週刊ポスト記者による独占インタビューの録音テープがフジテレビの深夜番組『テレビナイトショー』で放送され、その中で永易は「西鉄選手に頼まれた」と告白し、八百長をしていたことを認めた。
    • 4月6日 オーナーの楠根宗生は永易の「西鉄ライオンズから逃走資金約500万円を貰っていた」との告白を完全否定。
    • 4月10日 永易は衆議院第二議員会館第一会議室にて午後三時より記者会見。その中で疑われた西鉄の6人の選手(投手の池永正明与田順欣益田昭雄捕手村上公康内野手船田和英基満男)の氏名、西鉄球団の球団幹部から約500万円の逃走資金をもらっていたこと事実を公表。記者会見後、東京・銀座のプロ野球コミッショナー委員会事務局へ、その後パリーグ事務局へ赴きいずれも八百長について証言。
    •  同日、西鉄球団は上記6名を呼び事情聴取しいずれも八百長を否定。また逃走資金についてもそのような事実はないと否定。
    • 4月22日 - オートレースの競走(レース)中の違反で送検されたオートレース選手が「プロ野球選手がオートレースの八百長に参加した疑いがある」と自供。
    • 4月23日 - 小型自動車競走法違反の容疑で前年に中日ドラゴンズを引退した元西鉄投手の田中勉、元大洋ホエールズ投手の高山勲、元暴力団森岡組準組員の藤縄洋孝が逮捕される。
    • 4月28日 楠根宗生オーナーがこれまで否定していた永易への金銭授受を認めたと毎日新聞と読売新聞が報道。
    • 5月4日 プロ野球コミッショナー委員会は西鉄6名選手を呼び事情聴取。聴取後、与田と益田は疑惑が深まったとされる。
    • 5月6日 - オートレースの八百長に参加した罪で中日のエースだった小川健太郎が逮捕される。
    •  同日、コミッショナー委員会は与田、益田について「はっきり黒と断定できないものの疑惑が濃い相当の理由がある」として野球協約第四〇四条に基づき出場停止処分とする。
    • 5月7日 西鉄球団は池永、船田、基、村上の4選手の公式戦出場を5月いっぱい見合わせると発表。
    • 5月8日 西鉄球団は4名を球団事務所に呼び事情聴取、その結果、6名はかなずしもシロではないとの調査結果を発表。
    • 5月13日 楠根宗生西日本鉄道社長が午後1時より記者会見し、本社社長、球団オーナーその他公務から一切引くと発表。
    • 5月9日 - 敗退行為に関わった疑いのある選手として東映フライヤーズ田中調森安敏明の両投手の名前が公表される。
    • 5月14日 - 近鉄バファローズ球団職員の山崎晃が1967年のシーズンに八百長を強要されたことが報道される。
    • 5月19日 - 阪神タイガース内野手の葛城隆雄がオートレースの八百長容疑で逮捕。
    • 5月25日 - コミッショナー委員会は西鉄の6人の当該選手について以下の処分を下す。
      • 池永、与田、益田の3人の投手は永久追放処分。理由は与田と益田については敗退行為を認めたため。池永については本人が否定したものの、敗退行為の勧誘に際して受け取った100万円の返却を怠ったことと野球機構に通報しなかったことがプロ野球協約第179条違反となった。
      • 村上と船田は1970年11月30日まで試合を含む完全野球活動禁止処分。
      • 基は厳重注意処分。
    • 6月から7月にかけて、コミッショナー委員会裁定が発表される。
      • 6月3日 - 中日・小川を永久追放。
      • 6月15日 - 近鉄球団職員・山崎を永久追放。
      • 6月18日 - 阪神・葛城を3か月間の期限付失格選手に指名。(解除後に自由契約選手となりその年に現役引退)
      • 7月30日 - 東映・森安を永久追放、田中に厳重戒告。
    • 同時期に、次の不祥事とその処分がある。
      • 6月17日 - ヤクルトアトムズ捕手の加藤俊夫が自動車の無免許運転で逮捕される。翌6月18日、ヤクルトは無期限出場停止の処分を課す(後に自由契約となり1年のブランクの後東映で現役復帰)。
      • 7月1日 - 近鉄外野手土井正博が賭博の疑いで書類送検され、後日パ・リーグ会長より出場停止1か月の処分が課される。
    • 9月8日 - ヤクルト内野手の桑田武がオートレース八百長の疑いで逮捕。10月1日にコミッショナー委員会は桑田を3か月の期限付失格選手に指名する(解除後に自由契約選手となるも、これが致命傷となりその年現役引退)。
    • 11月30日 - 阪神投手の江夏豊が「野球賭博の常習者との交流をしていた」という理由で、セ・リーグ会長から戒告処分を受ける。
  • 1971年
    • 1月11日 - 南海ホークス投手の三浦清弘がチームメイトの佐藤公博投手から敗退行為の誘いを受けてその報告を怠ったとして戒告処分とする。
    • 1月29日 - 大洋コーチの鈴木隆、投手の坂井勝二が暴力団とのかかわりを持った疑惑が持たれていたことから球団から同日付で1軍の出場無期限禁止と減俸処分を課される。(出場停止は5月31日付で解除)
    • 2月15日 - ロッテオリオンズ投手の成田文男が野球賭博の常習者である暴力団と交流していた疑いで、球団から1か月間の謹慎を言い渡される。

関係者の処分

選手名 所属球団 守備位置 罪状 処分
永易将之 西鉄 投手 敗退行為の実行 永久追放処分
池永正明 西鉄 投手 敗退行為の依頼を受け現金受理 永久追放処分
与田順欣 西鉄 投手 敗退行為の実行と勧誘 永久追放処分
益田昭雄 西鉄 投手 敗退行為の実行と勧誘 永久追放処分
小川健太郎 中日 投手 オートレース八百長に参加 永久追放処分
森安敏明 東映 投手 敗退行為の依頼を受け現金受理 永久追放処分
村上公康 西鉄 捕手 敗退行為の勧誘を受け、報告せず 1年間の野球活動禁止
船田和英 西鉄 内野手 敗退行為の勧誘を受け、報告せず 1年間の野球活動禁止
葛城隆雄 阪神 内野手 オートレース八百長に参加 3か月の期限付失格選手に指名
桑田武 ヤクルト 内野手 オートレース八百長に参加 3か月の期限付失格選手に指名
成田文男 ロッテ 投手 野球賭博疑惑のある暴力団と交流 1か月の謹慎処分
坂井勝二 大洋 投手 暴力団と交流 無期限出場停止と減給処分
江夏豊 阪神 投手 野球賭博疑惑のある暴力団と交流 戒告処分
三浦清弘 南海 投手 敗退行為の勧誘を受け報告せず 戒告処分
田中調 東映 投手 敗退行為の勧誘を受け報告せず 厳重戒告処分
基満男 西鉄 内野手 敗退行為の勧誘を受け報告せず 厳重注意処分
高山勲 大洋 投手 オートレース八百長に参加、勧誘 事実上の永久追放処分
田中勉 中日 投手 オートレース八百長に参加、勧誘 事実上の永久追放処分
佐藤公博 南海 投手 オートレース八百長に参加、勧誘 事実上の永久追放処分

事件の影響

主力選手が永久追放処分を受けた中日と西鉄は戦力が低下、特に3名の永久追放処分者と2名のシーズン出場停止処分者を受けた西鉄は戦力が激減した。1970年から72年まで3年連続最下位となった上、球団経営に行き詰まり、1972年オフに福岡野球へ身売りされることにつながった。

1969年に西鉄に入団した東尾修は、入団1年目にウエスタン・リーグで負け続け自信を失い、武末悉昌コーチに野手転向を申し出たものの、この事件が発生したことで野手転向の話が立ち消えになるどころか、1軍でフル回転せざるを得ない状況になってしまった。投手としての実力が伴わないうちから登板を重ねたことにより、200勝達成よりも200敗達成のほうが早くなってしまった。

この事件の余波で甚大な被害を被った人物にオートレース選手の広瀬登喜夫がいる。広瀬は当時オート界随一のスター選手として全盛期であった1970年10月に逮捕されたことでオートレース界を追われ、30代前半という選手として最も充実するはずの時期を4年半以上に渡って裁判闘争に費やす羽目になった。冤罪であったとして控訴審で無罪判決を得てこれが確定し、オートレース選手としてようやく復帰がかなったのは1975年10月で、逮捕から実に丸々5年を費やした。

また、野球界では高山勲が大洋を退団処分された後に鬱病を患い、1978年に睡眠薬自殺した。

1980年代に入ると、青田昇が野球賭博に関与していたと報道されている。

余談だが、西鉄の後身にあたる埼玉西武ライオンズの主催試合でのイベント『ライオンズ・クラシック』の2010年の第1章(対オリックス・バファローズ戦)において、この事件によるライオンズやパ・リーグの状況を趣旨とした「パ・リーグ苦難の時代〜ライオンズ消滅の危機〜」というサブタイトルが付与されている。

永久追放処分の解除へ

池永は永久追放処分を受けてから、福岡市博多区の繁華街・東中洲で「ドーベル」というバーを経営していた。その一方で西鉄ライオンズの関係者(稲尾和久豊田泰光尾崎将司など)や池永の親族、池永の出身校である下関市立下関商業高等学校のOBなどは処分の決定直後から処分解除を求めて街頭での署名運動を展開。前述の通り西鉄ライオンズが福岡野球へ球団譲渡した1972年末には中村長芳(当時の福岡野球社長、太平洋クラブライオンズオーナー)や松園尚巳(当時のヤクルトアトムズオーナー、長崎県出身)がオーナー会議で池永への処分解除を提案したが、佐伯勇(当時の近鉄バファローズオーナー)や正力亨(当時の読売ジャイアンツオーナー)が賛成した一方、森薫(当時の阪急ブレーブスオーナー)や川勝傳(当時の南海ホークスオーナー)が強硬に反対し、意見の調整が付かないまま雲散霧消で終わった[3]

1996年には、有志で結成された「復権実行委員会」が下関大丸での「豪腕ふるさとへ帰る 池永正明展」開催期間中(1か月間)に18万7,787人もの署名を集めた。1997年6月3日には、池永への処分解除を求める嘆願書と上記の署名簿を日本野球機構および当時コミッショナーだった吉国一郎宛てに提出。しかし、1998年に吉国の後任で3月にコミッショナーに就いたばかりの川島廣守が6月24日付で嘆願を却下した[4]

これに対し、「復権実行委員会」のメンバーや復権運動の趣旨に賛同した有識者や弁護士などは「豪腕・池永正明氏の復権と名誉回復を心から願う人々の会(通称『池永復権会』)」を新たに設立。嘆願書の提出後から小説の執筆を前提に池永との交流を始めた笹倉明直木賞作家)が代表に就任するとともに、赤瀬川隼藤本義一難波利三阿部牧郎伊集院静若一光司赤江瀑古川薫軒上泊(いずれも作家)が相談役を引き受けた。さらに、池永との付き合いが長い小野ヤスシ中野浩一をはじめ、ライオンズOB以外のスポーツ関係者や芸能人からも多数の賛同会員が現れた。

「池永復権会」では当初、「池永の永久追放は『疑わしきは罰する』という姿勢の下に為された『灰色有罪』の処分でしかなく、コミッショナーの裁定でこの処分を続けることは人権問題に当たる」という認識の下に、講演活動を展開しながら日本弁護士連合会の人権委員会への提訴を計画していた。しかし、当の池永が復帰運動に消極的な姿勢を示し始めたため、途中からは弁護士による月1回ペースの「勉強会」に衣替えした[5]。その一方で、途中から「池永復権会」の相談役に加わった楢崎欣弥(当時は民主党_衆議院議員)は超党派の国会議員による懇談会の設立に尽力している[6]

復権運動の風向きが変わったのは、プロ野球マスターズリーグ2001年に池永の選手登録を認めてからである。池永は同年、稲尾が監督を務めていた福岡ドンタクズに入団。12月25日の福岡ドーム(現在の福岡ヤフオク!ドーム)での対名古屋80D'sers戦に先発で初登板を果たすと、3回を無安打・無失点に抑えて交代した。ちなみに試合後のインタビューでは、「(永久追放処分について)もう許していただきたい」という旨のコメントを残している。

「池永復権会」は2002年、川島による前述の処分嘆願却下に対する反論書を添えて、日本野球機構に参加する全12球団のオーナーおよびコミッショナー事務局へ嘆願書を提出[7]。請願自体は事務局から却下されたものの、2005年3月1日のコミッショナー実行委員会および同年3月16日のオーナー会議で、不正行為とその処分について定めたプロ野球協約第177条の改正が提案・承認。処分対象者からの申請による球界復帰への道が開かれた。

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上記の協約改正を受けて、池永は球界への復帰を申請。2005年4月25日に復権を果たした。2007年に「ドーベル」を閉店すると、2011年まで山口県社会人野球クラブチーム「山口きららマウンドG」(現:山口防府ベースボールクラブ)の監督を歴任。2008年からプロ野球マスターズリーグの活動休止(2010年)までは福岡ドンタクズの監督も務めていた。

池永が八百長行為に手を染めた可能性が極めて低いことや「幻の300勝投手」と呼ばれるほど[8]将来を嘱望されていたこともあって、八百長の疑いを掛けられた球界関係者への処分にはかねてから疑義が呈されている[9]

なお、協約改定時に既に亡くなっていた森安敏明は本人からの申請が出来ないため、処分が解除されないままでいる[10]

脚注

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関連項目

外部リンク

  • 1.0 1.1 これらの経緯から、事件が読売によって仕組まれた陰謀とする見方が存在していた。「純パの会」会長の宮田親平は1990年代に『週刊ベースボール』のコーナー「熱球フリークお立ち台」で「私は(プロ野球)黒い霧事件は今でも読売の陰謀だと思っている」と発言している。しかし、当時読売新聞社の社長だった務台光雄はプロ野球全体の利益が落ち、自らの収入も減ると考えていたため球団削減に反対し、当時読売ジャイアンツのオーナーだった正力亨は1972年のオーナー会議で選手の処分解除に賛成するとともに、西鉄に複数の選手を供給していることから現在では完全に否定されている。一方では日本学生野球協会の会長を務めた廣岡知男が社長を務めるなど、高校野球をはじめとしたアマチュア野球の利権者でプロ野球と距離を置いていた朝日新聞が読売以上に糾弾報道を繰り返していた。これについて佐野洋(作家)は『現代』1970年8月号で「朝日がこのように懸命に取り組んでいるのは、九州で部数を伸ばすに当たって障害になっている西日本新聞を叩くため、さらにこの八百長事件でプロ野球全体の人気が落ちれば、読売新聞の部数にも影響が生じるためである。」と全国紙の九州での拡販が絡んでいたという見方を示していた。また、処分解除に最後まで強硬に反対したのは阪急ブレーブスと南海ホークスだった。
  • 藤田はこの後、2軍コーチや球団スカウトを経て1974年に巨人を退団した。ただしその後、1981年1983年1989年1992年の2回にわたり、巨人の監督を務めている。
  • 笹倉の著書「復権 池永正明、35年間の沈黙の真相」(2005年、文藝春秋)第二章「追放からの歳月」を参照。中村と松園が池永の復権を主張した背景には、沖縄問題懇談会の座長を兼務していた当時のコミッショナー・大濱信泉沖縄県出身)の下で沖縄返還を機に始まった政界・選挙違反者への恩赦の動きに合わせたとされる。
  • 前掲書「復権 池永正明、35年間の沈黙の真相」第二章「追放からの歳月」によれば、川島は嘆願書の扱いをめぐって球界関係者代表の広岡達朗や有識者代表の中村稔 (詩人)浅利慶太五代利矢子から意見を聴取。その結果、「(池永の永久追放処分を決定した)1970年5月25日付のコミッショナー委員会の採決の当否を再審理することはできない」「仮に(池永への)処分を解除すれば、日本野球機構に属する職務(監督やコーチなど)への従事を池永に認めることになるため、プロ野球界に求められる倫理とは背馳する」などを理由に嘆願を却下した。
  • 前掲書「復権 池永正明、35年間の沈黙の真相」第六章「過去という壁」より。池永は地元・福岡での講演に参加する予定だったが、「球界の大物」と称する人物(詳細不明)から「弁護士を雇って事を起こそうとしているようだが、迷惑する人間が出てくることを承知しているのか」という主旨の電話を受けたことから急遽参加を辞退したという。これに対し、「池永復権会」の発足と同時に参加していた弁護士の西田研志は「我々がいくら頑張っても、依頼人である池永の意思が曖昧なままではどうにもならない」として運動から離脱。後に法律事務所ホームロイヤーズ(現在の弁護士法人法律事務所MIRAIO)を設立した。
  • 前掲書「復権 池永正明、35年間の沈黙の真相」第七章「希望の曲折」より。懇談会の呼び掛け人には球界OBの江本孟紀、かねてから復権運動に賛同していた大橋巨泉(いずれも当時は民主党参議院議員)、元アマチュアレスリング選手の松浪健四郎(当時は自民党衆議院議員)、大分県出身の俳優横光克彦(当時は社民党衆議院議員)、後に麻生内閣内閣官房長官に就任する山口県出身の河村建夫(自民党衆議院議員)、2005年から公明党の副代表を務める東順治(同党衆議院議員)、後に女性初の参議院副議長になった芸能界出身の山東昭子(自民党参議院議員)の7名が名を連ねた。
  • 前掲書「復権 池永正明、35年間の沈黙の真相」第八章「こころの扉」より
  • 蕪木和夫「幻の300勝投手・池永正明 〜永久追放は正しかったか〜」(銀星出版社)
  • 例えば笹倉は前掲書「幻の300勝投手・池永正明 〜永久追放は正しかったか〜」の第一章「黒い霧事件」の中で、コミッショナー委員長として一連の処分を決定した当時の宮沢コミッショナーが在職中に一貫して委員長職の報酬(当時の規定で月給20万円)を拒否していた事実を指摘。さらに八百長疑惑が明るみになった直後の一部報道で、「高潔な法学者」とされた宮沢の姿勢に対して「無給ゆえに無責任なのではないか」という批判が挙がっていたことを紹介している。
  • [1]