浪速区

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テンプレート:Pathnav テンプレート:日本の行政区 浪速区(なにわく)は、大阪市を構成する24区のうちのひとつ。

地理

一帯は上町台地西側の平地で、北辺では道頓堀川(西道頓堀川)が、西辺では木津川が区境となっている。また区東部には1733年(享保18年)に難波入堀川(難波新川)と呼ばれる運河が開削されたが、1958年(昭和33年)に埋め立てられた[1]

日本一面積の小さな行政区でもある。(最も大きいのは静岡県静岡市葵区

歴史

  • 1925年(大正14年) - 南区(現在の中央区南部)から分区によって誕生。
  • 1943年(昭和18年) - 南区・西区天王寺区との間で区の境界を調整し、現在の区域となる。

1925年(大正14年)に南区から分区によって誕生した。旧西成郡難波村今宮村木津村・西浜町)の地域を中心にしている。区名は、王仁が詠んだと伝えられる古歌「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」(難波津の歌)からとられた[2]1943年(昭和18年)、湊町日本橋筋の一部が南区から、日東地区が天王寺区から、幸町が西区からそれぞれ編入され、また難波東部の河原町地区の一部を南区へ分離して現在の区域となった。

近世には、大坂城下へ野菜などを供給する「畑場八ヶ村」の一画を占めた。難波村は、今宮村は瓢箪、木津村は大根菠薐草などが名産であった。これらの野菜類は天満青物市場まで持ってゆく決まりであったが、旧淀川以北の天満は城下南郊に位置する畑場八か村から遠く不便であった。農民達は道頓堀川付近に市を建てたり自前で売ろうとして、天満商人と対立した。その後、1809年(文化6年)に13品目限定で難波木津市場が開設されるに至った。

明治時代以後は1885年(明治18年)に阪堺鉄道(後の南海鉄道)の難波駅が、1889年(明治22年)には大阪鉄道(後の関西鉄道、現在の西日本旅客鉄道)の湊町駅(現在のJR難波駅)が開業し、奈良県や和歌山県の木材や農産物などが集まった。木津には大きな市場(現在の木津地方卸売市場)ができ、日本橋以南の堺筋松坂屋ほか商店、古物商や古本屋が軒を並べる繁華街となった。また1903年(明治36年)の第5回内国勧業博覧会以後は新世界がレジャーセンターになるなど遊興地としても栄えた。一方、市街地の拡大に伴い、大正時代には堺筋の裏側に長町スラムが広がっていたため、当時の大阪市は画期的な鉄筋アパート[3]を建設するなどこの地域の社会改善、住宅改良に力を入れた。スラムは西成区釜ヶ崎に移転し、現在のあいりん地区となった。

戦後は日本橋(恵美須町)が焼け野原から電気街として繁栄したが、産業構造の変化などに伴い中小企業や工場主体の地域の活力は落ち始めた。この地域にあった大阪球場クボタの工場、湊町駅の貨物駅などが相次いで再開発の対象となった。バブル崩壊後、これらの再開発は足踏みしたが、2000年代以降には超高層マンション群やオフィスビル、商業施設の開発が行われている。また中小工場の廃業が相次いだほか、日本橋では郊外の大規模電気店・梅田へのヨドバシカメラ出店などの影響で多くの家電店が撤退に追い込まれ、オタク向けの街へと変貌している。新世界は繁華街としてはすっかり老朽化したが、戦後の雰囲気を色濃く残すため観光に来る人も多い。

比較的地価が安いため、アジアヨーロッパアメリカオセアニアなどからの出稼ぎ労働者やホステス、外国語教師など外国人の居住が多いほか、若い単身者向けのワンルームマンションも多いのも特徴。区の人口は1940年(昭和15年)に約15万人いたが、その後の空襲による市街地の破壊やドーナツ化現象、生活環境の著しい悪化などに伴い長く減少傾向にあった。しかし近年再開発によりマンション建設が進み、都心回帰によって再び増加傾向にある。特に単身男性の転入が加速しており、浪速区の性比(女性を100とした時の男性の比率)は大阪市95.0に対して104.8とかなり男性の割合が高い。なおこの数値は南隣の西成区に次いで大阪市内第2位である。長らく大阪市内で人口が最も少なかったが、都心回帰による流入増加で2014年5月に此花区と大正区の人口を上回った。

こうした浪速区の都心再開発プロジェクトにはOCAT湊町リバープレイスを中心としてオフィスビル、高層マンション群と産経新聞社などを誘致したルネッサなんばプロジェクト、南海なんば駅前、大阪球場跡を再開発した商業施設、シネマコンプレックスとオフィスビル、高層マンションの複合体なんばパークス等がある。

交通

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日本を代表する電気街の一つ、日本橋でんでんタウン(日本橋3南歩道橋から恵美須町方面を撮影)
ファイル:Namba parks01s3872.jpg
円形劇場からパークスガーデンとパークスタワーを望む

鉄道

バス

道路

教育

大学

高等学校

中学校

小学校

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  • 統廃合による小学校の閉校
    • 大阪市立難波小学校、大阪市立元町小学校 - 1985年(昭和60年)に統合で難波元町小学校となる。
1874年(明治7年)に難波小学校が創立。1901年(明治34年)に元町小学校が「難波第四小学校」として開校。戦災により1946年(昭和21年)に両校は一時統合して「元町小学校」となった。その後1954年(昭和29年)に元町小学校難波分校を設置し、1956年(昭和31年)に難波小学校が再分離。児童数減少により1985年(昭和60年)に再統合して旧元町小学校敷地に「難波元町小学校」を設置。旧難波小学校跡地はその後、大阪市立浪速スポーツセンターとなっている。
2014年(平成26年)に立葉小学校が塩草小学校と統合され閉校。

特別支援学校

マスメディア

新聞社

放送局

浪速区に本社を置く企業

名所・旧跡・文化・観光施設

出身有名人

脚注

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関連項目

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外部リンク

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  1. 埋め立て後の旧河道には阪神高速道路1号環状線が建設された。
  2. 浪速区ウェブサイトより。ちなみに同じ大阪市内の此花区の区名も同じ歌に由来する。
  3. 下寺住宅・日東住宅などの通称「軍艦アパート」。