道頓堀
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道頓堀(どうとんぼり)は、大阪府大阪市中央区の地域名および町名。または、同所を流れる道頓堀川の略称。
一部で「とんぼり」と略称される事もあるが定着しておらず、地元では略さずに「どうとんぼり」と表現している。(なお、かつては「どとんぼり」、「どとんほり」と呼ばれていたとする出典もある[1]。)
目次
概要
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歓楽街
一般的に日本橋 - 大黒橋間において道頓堀川南岸の道頓堀通沿いに広がる繁華街を指す。現行の町名はかつての二ツ井戸町など堺筋以東も含んでおり、御堂筋以東が1丁目、同以西が2丁目となる。
大阪ミナミの東西基軸となる道頓堀通の両側町で、南は難波新地と千日前、北は道頓堀川を挟んで島之内の宗右衛門町や久左衛門町に接する。飲食店が集中し、グリコネオン、かに道楽本店、づぼらや、くいだおれ(閉店)、道とん堀関西支社、なんば道頓堀ホテル、中座くいだおれビル、道頓堀極樂商店街(閉館)など、多種多様な看板・建物の店舗であふれている。
道頓堀川は東横堀川の南端から西流して木津川に合流する全長約2.9kmの河川で、西横堀川(阪神高速1号環状線北行き)以西は西道頓堀川とも呼ばれる。日本橋 - 浮庭橋間では、両岸に遊歩道「とんぼりリバーウォーク」(後述)が整備され、道頓堀や宗右衛門町の繁華街を川岸から楽しむことが可能になった。
とんぼりリバーウォーク
テンプレート:出典の明記 道頓堀川の日本橋(堺筋) - 浮庭橋(旧桜川分岐点。湊町リバープレイス)間の両岸に設けられた遊歩道で、行政区としては中央区・西区・浪速区にまたがる。
太左衛門橋付近のドン・キホーテ道頓堀店前には「太左右衛門橋船着場」が設置され、遊覧船(とんぼりリバークルーズえちぜん号・アクアミニ水都号)などが発着している。
特例措置として河川敷地利用の規制が一部緩和され、一定の条件下ではあるが、社会実験としてイベントや物販行為などが行われている。イベントは主に太左衛門橋 - 戎橋間に設置されたイベントスペースで行われる。
歴史
1612年(慶長17年)に南端が堀止になっていた東横堀川と西横堀川を結んで木津川へ注ぐ堀川の開削が開始され、摂津国住吉郡平野郷の安井道頓(成安道頓)が新川奉行に任命された。しかし、大坂の陣で道頓が戦死したため、従弟の安井道卜(どうぼく)や安藤藤次(平野藤次)らが引き継ぎ、1615年(元和元年)に完成した。当初は新堀・南堀川・新川などと呼ばれていたが、大坂城主の松平忠明が道頓の死を追悼し、また、相当な私財が投じられたことや功績を鑑み「道頓堀」と命名した。
道卜は振興策として、南船場の塩町通付近に形成されていた芝居町を道頓堀川の南岸に移転させた。当初は道頓堀通の北側に川を背にして芝居小屋が立ち、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎が行われていたが、前者は1629年(寛永6年)に、後者は1652年(慶安5年)に禁止された。1653年(承応2年)に芝居名代5株が公認され、興行権免許の印として櫓を正面に掲げた劇場が道頓堀通の南側に立つようになり、歌舞伎や人形浄瑠璃が演じられた。
現在、堺筋の日本橋北詰交差点北東角に安井道頓・道卜紀功碑が建立されている。
1707年(宝永4年)10月の宝永地震および1854年(嘉永7年)12月の安政南海地震では、大阪湾に押し寄せた津波が河川を遡上し、道頓堀付近まで水没したと伝えられている[2][3]。
風物詩
- 船乗り込み
- 歌舞伎役者など、道頓堀の芝居小屋で興行を行う際、船に乗り込み道頓堀川の船上にて芝居のPRを行う一種のパレード。毎年の夏の公演の他、襲名披露公演でも実施(近年では中村勘三郎襲名披露等)。
- 春・秋に開かれるアートイベント。
道頓堀川八丁
道頓堀開削とともに成立した8町。島之内南端の北岸に西から久左衛門町・御前町・宗右衛門町・大和町。芝居小屋が並ぶ南岸に西から湊町・九郎右衛門町・吉左衛門町・立慶町。現在も宗右衛門町と湊町の2町名が残っている。
道頓堀五座
戎橋南詰から東側にかつて存在した浪花座・中座・角座・朝日座・弁天座の五つの劇場のことで、1653年(承応2年)に芝居名代5株が公認されたことに始まる。「五つ櫓」とも言う。道頓堀を代表する劇場群で、近代に至るまで、歌舞伎や仁輪加(軽演劇)、人形浄瑠璃などが賑々しく興行された。そして若衆茶屋といわれる陰間(少年)たちが男色を売る茶屋も集まっていた[4]。
昭和初期までにこれらの劇場はすべて松竹の経営に移り、一部は映画館に転向した。第二次世界大戦後、朝日座が東映に売却され大阪東映劇場(後に道頓堀東映と改称)となる。弁天座は文楽座と改称され、人形浄瑠璃の常打劇場となるが、やがて人形浄瑠璃は松竹の手を離れ、朝日座と改称。角座は演芸場に転換、演芸ブームで隆盛を誇ったが、漫才ブーム終了後に失速。いずれも昭和末期に閉鎖された。
平成に入りバブル崩壊を受け、松竹は残った中座(松竹新喜劇の本拠地)、浪花座(松竹芸能の本拠地)を相次いで閉鎖[5]し、映画館の入った商業ビルとして復活していた角座も含めてことごとく敷地を売却。ここに、道頓堀五座は事実上一旦消滅した。なお、中座解体途中に爆発事故を起こして建物は崩壊し、中座の南側にある法善寺横丁が大打撃を受けた。現在商業演劇や歌舞伎の定期公演などは大阪松竹座で行われているが、道頓堀五座とは別個の劇場である。
2013年(平成25年)7月28日、松竹芸能が角座跡地の所有者であるケンズネットワークスから賃借する形で、お笑い劇場「DAIHATSU MOVE 松竹芸能 道頓堀角座」を開場。五つ櫓の一つである角座が復活した。
道頓堀裁判
安井道卜の子孫が1965年(昭和40年)1月4日、道頓堀川の川底の所有権を主張して、大阪地方裁判所に起こした民事裁判。江戸時代の所有権の有効性、目的喪失後の慣行水利権の有無、法律未整備時の所有の概念の有無など、多くの問題を提起した。1976年(昭和51年)10月19日に、安井氏の請求を棄却する判決が出された。
水質
道頓堀川の水質は、昭和40年代には年平均BOD値が30mg/lを超えるなど極めて悪かったが、大阪市都市環境局の対策もあって、近年ではBOD値が5mg/l以下と大幅に改善している。ハスなどの魚の姿も見られるようになってきた。ただし、DO値が2mg/l程度と低く、大腸菌などの有害な嫌気性細菌が多くおり、人が泳ぐには適さない。また、濁度が高く(水が濁っている)、見た目にも綺麗な河川とは言いがたい。現在、合流式下水道の改善などが図られているため、数年後にはさらに水質が改善される見込みである。
また、2003年(平成15年)にNPO法人大阪・水かいどう808が、水質浄化目的で、真珠の母貝のひとつである、イケチョウ貝の養殖を開始した。この貝は、1日にドラム缶1本分の水を浄化できるとされている。2006年(平成18年)1月9日に開貝式があり、真珠も採取された。
道頓堀川に架かる橋
(以降、通称西道頓堀川)
道頓堀を題材とした作品
文芸
楽曲
- 内海一郎『道頓堀行進曲』(作詞:日比繁二郎・作曲:塩尻精八)
- 天童よしみ『道頓堀人情』(作詞・作曲:若山かほる・編曲:山田年秋)
- 貴志康一「日本組曲」より『道頓堀』(管弦楽、1934年初演・1935年に作曲者指揮/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で録音)
脚注
関連項目
外部リンク
- 道頓堀タウンガイド(道頓堀商店会)
- 道頓堀は世界的演劇街(大阪まちプロデュース)
- 道頓堀中座くいだおれビル(くいだおれ太郎)
- 大阪橋ものがたり(大阪都市工学センター)
- 牧英正著『道頓堀裁判』(岩波書店) ISBN 4000091298テンプレート:リダイレクトの所属カテゴリ
- ↑ 牧村史陽・編『大阪ことば事典』講談社(講談社文庫)1998年、495頁。
- ↑ 国をたどりて~震災復興 歴史に学ぶ(2)忘れられた「大阪水没」(産経ニュース2011年9月30日)2011年10月15日閲覧
- ↑ テンプレート:PDFlink 長尾武(2008): 1854 年安政南海地震津波,大阪への伝播時間と津波遡上高, 『歴史地震』 第23号, 63-79.
- ↑ 「オトコノコのためのボーイフレンド」(1986年 少年社)日本男色史より。
- ↑ なお中座は、2009年(平成21年)7月に中座くいだおれビルとしてリニューアルオープンし、くいだおれ太郎が復活し話題となった。