ヒルズボロの悲劇
テンプレート:Infobox 事件・事故 ヒルズボロの悲劇[注 1](ヒルズボロのひげき、テンプレート:Lang-en)は、1989年4月15日にイングランド・シェフィールドのヒルズボロ・スタジアムで行われたFAカップ準決勝のリヴァプール対ノッティンガム・フォレスト戦において発生した群集事故である。「テンプレート:仮リンク」と呼ばれるゴール裏の立見席に収容能力を上回る大勢のサポーターが押し寄せたことにより死者96人、重軽傷者766人を出す惨事となった。この事故はイギリスのスポーツ史上最悪の事故と評されており[9][10]、事故原因について当初はフーリガニズムとの関連性が指摘されたが、事故後に公表されたテンプレート:仮リンクにより警備側による観客誘導の失敗が直接原因であったことが明らかとなった[9][11]。同レポートの公表はイングランドサッカー界を取り巻く環境を一変させる契機となったが、その一方で責任者に対する追及が積極的に行われることはなかった[12]。事故から20周年を迎えるにあたり全記録文書の調査を目的とした「ヒルズボロ独立調査委員会」が設立され、2012年9月12日に公表された報告書により観客誘導の不備のほか、不適切な医療行為や警察関係者により捜査資料の改ざんが行われたことが明らかとなった[13]。
目次
背景
フーリガニズム
テンプレート:Main 1985年5月29日にベルギーのブリュッセルで行われたUEFAチャンピオンズカップ 1984-85決勝・リヴァプール対ユヴェントス戦の際に両チームのサポーターの衝突がきっかけとなり39人が死亡した事故(ヘイゼルの悲劇)の制裁措置としてイングランドの全クラブは欧州サッカー連盟 (UEFA) から5年間の欧州での国際試合出場禁止処分(事件当事者のリヴァプールは6年間の禁止処分[14])を受けたが、この事件以降は自粛ムードが強まり[15]、イギリス政府はフーリガン排除を目的とした「サッカー観戦者法案」を提出し法案成立に向け与野党間での協議が続けられていた[15][16]。法案はサッカー場の入場者に対し顔写真入りのIDカードの掲示を求め、暴力事件を引き起こしたものに対しては年単位での入場や国際大会の際の渡航を禁止する内容が盛り込まれていたが野党からは「警察国家へと繋がる」と反対意見が挙がっていた[16]。
1989年4月11日、UEFAは「サポーター達が自重自戒を続ける」ことを条件に1990-91シーズンからのイングランドのサッカークラブの国際大会復帰を決定した[16]。
マーガレット・サッチャー政権下の1980年代当時はフーリガニズムが拡大した時期でもあるが、多くのフーリガンは挑発的な言動で相手に威勢を示すことを目的とし、暴力行為に価値を見出す者はごく少数だったといわれている[17]。一方、警察当局では一般のサポーターとフーリガンを同列に扱っており、スタジアムで観戦するサポーターに対し過剰ともいえる警備態勢を強いていた[17]。
スタジアム
1980年代当時のスタジアムの多くは建築から50年以上を経過した老朽化したものであり、スタジアム内の半数から3分の2までが立見席で占められていた[16]。こうした立見席には椅子席とは異なり多くの観客を収容することが可能となっていたため、サッカークラブにとっては大きな収入源となっていた[16]。
立見席には熱狂的なサポーター達が集まりやすく、牧歌的な時代には試合終了と共にファンがピッチへと飛び降り人気選手にサインを求める風景も見られたが[18]、1960年代頃から暴力的サポーター同士による抗争などのトラブルが頻発すると、立見席では観客の安全性確保と警備上の対策が講じられるようになった[18]。最前部には高いフェンスが張り巡らされて侵入を阻止する対策が採られ、側部は群衆整理の為の鉄柵で仕切られ、いくつかのブロック毎に区分された[18]。サポーター達はそれぞれの区画に押し込められる環境の中での観戦を強いられたが、この鉄柵による区画は「家畜檻」(pen) と呼ばれた[18]。
一方で立見席では1946年3月9日にボルトンで行われたボルトン・ワンダラーズ対ストーク・シティ戦で鉄柵が超満員の群集の圧力に耐え切れず崩壊したことにより群集雪崩が発生し33人が死亡、500人以上が負傷する事故(バーンデン・パークの惨事) や、1971年1月2日にスコットランドのグラスゴーで行われたグラスゴー・レンジャーズ対セルティック戦の終了間際に退場する群集と再度入場しようと試みる群集の波が衝突したことにより66人が死亡、200人以上が負傷した事故(アイブロックスの惨事)が発生するなど安全性の面で問題視されていた[16]。グラスゴーでの事故後の1975年にスポーツ競技場安全法が採択され、事故防止に向けた公式入場者数を削減する条件が適用されていたが[19]、更にスタジアムから立見席を撤廃し椅子席に改修するには多額の費用を捻出する必要があった[16]。
テラスの文化
格安の料金で観戦が可能となるテラスには労働者階級を中心としたサポーター達が集い[20]、彼らが歌う贔屓のチームを後押しする手拍子とチャント(応援歌)による野太い声援は独特な雰囲気を作り出していたが[21]、この応援スタイルは1962年にチリで行われたFIFAワールドカップでのブラジル代表サポーターの応援を参考にリヴァプールのサポーター達が独自にアレンジしたものに由来している[22]。リヴァプールのサポーター達による伝統的な楽曲[23]や流行歌[22]の歌詞を自分達のクラブへのメッセージに置き換える応援スタイルは他チームのサポーター達に影響を与え[22]、各地へと伝播していった[22]。
こうした応援には自分達のチームを後押しするチャントだけでなく、やがて審判や相手サポーターを猥褻な台詞で侮辱する内容のチャントや[20][23]、さらに黒人選手に対する人種差別的内容のチャントも加わるようになった[23]。また、テラスでは公序良俗に反する様な悪戯[24]や、敵対するチームのサポーター同士による抑止された暴力活動が常態化していた[24]。
テラスに陣取るサポーターは大きく三つの年齢層に分類されており[25]、スタジアムに通い始めて日の浅い駆け出しの少年少女達はテラスの最前部に位置し、そこで周囲のサポーターたちの行動様式を体感し学習していった[25]。一通りの行動様式を学び年齢を重ね周囲から一人前と認められた者はテラスの最後尾に下がりサポーターを統率する者や相手チームのサポーターとの間で暴力沙汰を起こす「フーリガン」と化する者へと変化した[25]。更に年齢を重ねると、先鋭的な行動からは身を引きメインスタンドの椅子席などで静かにサッカー観戦をする者、あるいはテラスに残りつつも目立った行動を控える者などに分かれた[25]。
経緯
運営
テンプレート:Location map ヒルズボロ・スタジアムではこれまで1966 FIFAワールドカップやFAカップ準決勝の会場として何度も使用された実績があり、1987-88シーズンのFAカップ準決勝でも使用された[26]。スタジアム警備を担当するテンプレート:仮リンクの警備責任者(前年度のFAカップ準決勝を担当した[26])はフットボール・アソシエーション (FA) が1989年3月にFAカップ準決勝の会場としてヒルズボロ・スタジアムを指定した時までは職務に就いていたが[26]、3月27日限りで退任し新任のA警視正へと引き継がれた[26]。
事故当日はメインスタンドとバックスタンドにはリヴァプールとノッティンガムのサポーターが混在し、熱狂的なサポーターが集まるテラスに関してはスパイオン・コップ (Spion Kop End) と呼ばれる東側スタンド(収容数21,000人)をノッティンガムに割り当て、レッピングス・レーン・エンド (Leppings Lane End) [27]と呼ばれる西側スタンド(収容数14,600人)をリヴァプールに割り当てた[28]。レッピングス・レーン・エンドは上段と下段の2層に分割されており下段は立見席だったが、立見席の最前部は青色に塗装されたフェンスで覆われ[9]、側部は群衆整理のための鉄柵により5つのブロックに分割されていた[9]。
リヴァプールはノッティンガムに比べて多くのサポーターを保持していることで知られ、事故当時のリヴァプールの平均入場者数が4万人であるのに対し、ノッティンガムは1万7千人と下回っていた[29]。サッカーの試合に関してはサポーター数の多いクラブに対しチケットを多く配分される傾向があり通常であればリヴァプールに多くのチケットが配分されることになるが[28]、この試合に際してはノッティンガムのサポーター用に2万9千枚のチケットを配分し、リヴァプールのサポーター用に2万4千枚のチケットを配分された[28]。この配分に対してリヴァプール側からは不満が沸き起こっていた[29]。
事故の経過
12時00分、シェフィールド市内の最寄り駅からスタジアムへ繋がる動線では両チームのサポーターによる衝突を回避するため、リヴァプールサポーターに対しては警察当局により、迂回路を通行するように誘導がされていた[28]。シェフィールド周辺には74のパブがあり、それぞれの店で20から100人以上のサポーターにアルコール飲料を販売したが、大きなトラブルは報告されなかった[30]。
リヴァプールサポーターは当日の正午頃からスタジアム周辺に到着し、スタンドへの入場を待ち構えていた[30]。正午の時点で「レッピングス・レーン・エンド」の入場ゲートは開放され53人の警察官が配備されていたが[30]、スタジアム周辺に集まるサポーターに対しチケットを所持している者については速やかにスタジアムに入場するように誘導を行った[30]。
14時00分、警備本部では監視カメラの映像によりノッティンガム側のスタンドがほぼ満席であったのに対し[30]、リヴァプール側のスタンドでは第3・第4ブロックには満員に近いサポーターで埋め尽くされていたものの、それ以外のブロックはほぼ空席に近い状態だった事が確認された[30]。14時から14時30分の間に「レッピングス・レーン・エンド」の入場ゲート周辺では入場するファンで混雑が始まり[30]騎馬警官達は群集整理の対処に追われていたものの、この時点において群集の間で大きなトラブルは確認されなかった[30]。
14時30分、試合開始時間が近づいた事もあり「レッピングス・レーン・エンド」の入場ゲートでは混雑が激しくなった[31]。回転式のゲートを使用していたが数が少ない上に老朽化が進んでいたこともあり、当日のサポーターの入場に支障を来たしており[9][31][32]、入場の進まないことに苛立ったサポーターと群衆整理に当たっていた騎馬警官達が一触即発の状態になるなど統制を失い始めた[31]。
14時45分、スタジアム西側にある入場ゲート付近で入場出来ない5,000人のリヴァプールサポーター達で溢れていた[31]。これらのサポーターが試合開始時間までに入場する事は困難であり[31]、スタジアム外に配置された警官から「試合開始時間を遅らせるように」との要請が行われたが[31]警備本部からこの要請は拒絶された[31]。
14時50分、「テラス」の中央部に位置する第3・第4ブロックは既に満員のサポーターで溢れかえっていたが[9]、その一方でスタジアムの外部には数千人のリヴァプールサポーターが入場出来ない状況にあった[9]。なお第3・第4ブロックを併せた収容人数は公式には2,200人としていたが、3年前に設置された鉄柵は公式な安全基準を満たさないとして1,600人にまで削減する様に求められていた[9]。A警視正は、入場の出来ないサポーターが暴徒化することを懸念し[16]入場ゲートの脇にあるスタジアムからの退場者専用に設定されたCゲートを開放し、スタジアム外に溢れていた大勢のサポーターを入場させる命令を下し、14時52分にCゲートは開放された[9][31]。
14時52分、Cゲートを開放したことにより約2,000人のサポーターが「テラス」の中央部に位置する第3・第4ブロックへ繋がるトンネルへと押し寄せた[9]。なお、Cゲートの開放により入場した多くのサポーター達はチケットを事前に所持していた可能性が高いが[31]、チケットを所持せずに入場した者も間違いなく含まれていた[31]。この流入により第3・第4ブロックはサポーターで過密状態となり身動きとれなくなるなどの深刻な状況に陥り、他の密集度の低い第1・第5ブロックへと避難する者やフェンスによじ登り難を逃れようとする者が続出した[9]。なお、Cゲートが開放されてから試合開始までの時点で安全基準の2倍にあたる約3,000人のサポーターが寿司詰めになっていたと推測されている[9]。
15時00分、主審のテンプレート:仮リンクの笛が鳴らされ試合開始。第3・第4ブロックは依然として超満員の状態にあったが、開放されたCゲートからは次々に観客が押し寄せた[33]。最前部にいたサポーター達は後方から押し寄せるサポーター達の圧迫によりフェンスに押し付けられ熱気と圧力で次々と気を失った[33]。中にはフェンスをよじ登りピッチへと逃れようと試みる者もいたが[33]、ピッチへの乱入行為と考えた警官により追い返された[33]。
15時04分、リヴァプールのピーター・ベアズリーが放ったシュートがクロスバーに直撃すると歓声が上がり[33]、この歓声と共に第3・第4ブロック内では群集による大きなうねりが発生した[33]。第3ブロック内では観客が密集し安全基準を上回る荷重が掛かったことにより各ブロックを隔てていた鉄柵が崩壊[9][33]。これにより第3ブロック内で将棋倒しが発生し、観客は互いの体に押しつぶされた[9][33][注 2]。「テラス」から上段にある2階席へとよじ登り難を逃れようとする者が続出した[9]。
15時06分、警官がピッチ内にいるルイス主審に向かって駆け寄り試合中止を指示[9]。これを受けて主審は試合の中止を宣言した[9]。犠牲者は直立のまま意識を失っており[35]、瞳孔が開きチアノーゼ反応を起こし嘔吐や失禁をした状態だった[35]。その一方で、警察や消防による救出活動は即座に進行せず、警察や事故現場を写真に収めるカメラマンに批判が沸き起こるなど混沌とした状態となった[35]。
15時12分、ピッチとスタンドを隔てるフェンスの除去が行われ、第3・第4ブロック内にいる被害者の救出が始まった[35]。サポーター達は応急措置としてスタジアムにある広告看板を担架として代用し負傷者の搬出と人工呼吸や心臓マッサージなどの応急手当てが行われた[9][35]。一方で、負傷者を救出する為の消防や救急車の要請が行われていたが、警備関係者から「群集によるトラブル」が報告されていた為、スタジアム内に到着するまでに時間が掛かることになった[9]。
15時15分、FAの最高経営責任者であるグラハム・ケリーやシェフィールド・ウェンズデイの関係者が情報収集のために警備本部を訪れた際、A警視正はCゲートに設置されていた監視カメラからの映像を指し「リヴァプールサポーターがゲートを破壊して場内に侵入した」と説明[36]。
15時20分、ピッチはスタンドから運び出された死傷者で溢れた[29]。スタジアム外には救急車が到着を始め、合計42台の救急車[37]で、16時30分までに約172人の負傷者を近隣の病院へ搬送した[37]。
16時10分、主催者側により試合中止が発表された[37]。
犠牲者
この事故により4月15日のうちに10歳から68歳までの94人が死亡し766人が重軽傷を負ったが、4月19日に14歳の男性が病院で死亡し死者の数は95人となった[38]。死者の多くはリヴァプールサポーターの若者や子供であり[39]、そのうち7人が女性だった[37]。年齢層別では20才未満が38人[37]、20代が39人[37]、50歳以上は3人となった[37]。死因は胸部を圧迫されたことによる酸欠や窒息が多く[37][39]、内臓破裂や頭部を強打したことにより死亡した者もいた[37][39]。死者の多くは立見席の最前部で亡くなり[37]、そのうちの殆どが第3ブロックの最前部で亡くなったが[37]、第4ブロックでは5人[37]が、第2・第3ブロック後方部でも数人が亡くなった[37]。証拠品や犠牲者の親族や友人の証言により死者のうちの16人から21人は14時52分にゲートが解放された後に入場した者だったことが判明した[37]。
犠牲者の中には後にリヴァプールやイングランド代表の選手となるスティーヴン・ジェラードの従兄弟も含まれていた[40]。従兄弟は当時10歳であり最年少の犠牲者となった[40]。また、事故当時17歳のテンプレート:仮リンクは植物状態のまま生命維持装置が取り付けられ延命措置が施されていたが、両親や担当医師が彼の尊厳死を求める訴訟を起こした[41]。これに対して男性の代理となる公選弁護人は「延命措置の停止は殺人に匹敵する」と主張し、審議は貴族院に持ち込まれたが1993年2月に両親と担当医師の訴えを認めた[41]。この判決はイギリスの裁判所として延命措置の中止を命じた初の事例となっている[41]。男性は同年2月22日に生命維持装置が取り外された後の3月3日に死亡が確認され[41][42]、最終的な死者は96人となった[41]。
国際社会の反応
- マーガレット・サッチャー首相は事故の一報をニュースで知り「信じられない出来事」と発言し事故原因の真相解明を指示[29]。翌4月16日、サッチャー首相はダグラス・ハード内務大臣やテンプレート:仮リンクスポーツ大臣らと共に事故現場を視察し[29][32]、サッカー観戦における新たな規制を設ける可能性を明らかにした[32]。元首のエリザベス2世は4月15日にシェフィールド市長宛に見舞いのメッセージを送り弔意を示した[29]。負傷者の入院する病院にはサッチャー首相、モイニハン・スポーツ大臣、チャールズ皇太子、ダイアナ妃らが見舞いに訪れた[28]。犠牲者の葬儀にはリヴァプールのケニー・ダルグリッシュ監督や選手らが参列した[2]。
国際サッカー連盟 (FIFA)
欧州サッカー連盟 (UEFA)
- マイグナー総務主事は、FIFAが厳しいコメントを残したのに対し「当面はイギリス政府とFAの対応を静観する」との方針を示した[43]。一方、テンプレート:仮リンク会長は4月17日にフランスのラジオ局のインタビューに応じ「イングランドのサポーターはまるで野獣だ。UEFA主催の国際大会への復帰はありえない」と発言した[28][44]。これに対しイングランドのサッカー界を統括するFAや多数の犠牲者を出したリヴァプールの関係者は「犠牲者に不謹慎[44]」「現実を知らない無責任な会長は即刻辞めるべきだ[28]」と批判した。ジョルジュ会長は4月18日、FAのバート・ミリチップ会長に宛て「事故に衝撃を受けたあまり言葉が過ぎた」との謝罪文を送った[44]。
メディアの反応
サンデー・タイムズは事故の内容を大きく報じる一方で警察の不手際と、これまで幾度かの事故が発生していたにも関わらず抜本的な対策を怠っていた主催者側の姿勢を批判した[32]。英国放送協会 (BBC) は「警察が14時52分に入場ゲートを開放しスタジアム外に溢れていた数千人のファンを入場させた判断は適切だったのか」について検証する番組を放送した[32]。
一方、事故直後には「酩酊したサポーターが入場ゲートを破壊しスタジアム内に侵入したことが主原因」とする報道も行われた[45]ほか、大衆紙の『ザ・サン』は事故の翌日に「The Truth」(真実)と題し「一部のファンが犠牲者のポケットから財布を盗んだ[45][46]」「警官に向かって排尿した[47]」といった内容の記事を掲載した。
『ザ・サン』によるサポーターが人道に反する行為を行ったとする報道は裏付けとなる証拠が見つからなかったことから後に謝罪を行った[46]が、リヴァプール市民は一連の報道に反発して『ザ・サン』の購買をボイコットする活動を展開[45][47][48]。それまでリヴァプールでは平均20万部の売り上げがあったが、ボイコット運動により平均1万部にまで減少した[48]。
『ザ・サン』を傘下に置くニューズ・コーポレーションの副最高執行責任者であるテンプレート:仮リンクは2011年11月、「記事は間違いだった。22年前の私はまだ若く、遠く離れた場所にいた為に関係を持たなかったが、記事の掲載により人々に苦痛を与えたことは認識している」と謝罪した[49]。
対応
リヴァプールのジョン・スミス会長は4月16日、フットボールリーグやFAカップの試合参加を当面の間は延期する事を発表[29]。FAはヒルズボロの犠牲者に対し喪に服すため、リーグ戦を2週間延期した[29][28]。中止されたFAカップ準決勝について、リヴァプールはFAから再試合に応じるか回答を求められていたが、遺族からの要望もあり出場が決定した[28]。再試合は5月7日にマンチェスターのオールド・トラッフォードで行われることになった[50]。
イギリス政府はサッカークラブやファンに対し次の様な発表を行った[28]。テンプレート:Quotation また、今回の事故で問題となったフェンスの是非についてFAは各クラブ、警察署、消防署の判断に任せるとした[28]。これを受けてリヴァプール、トッテナム・ホットスパー、ダービー・カウンティの3クラブとウェンブリー・スタジアムが鉄柵の全面撤去を決定[28]。また、リヴァプールは1990年中に全席を椅子席に改修することを発表した[28]。
試合
テンプレート:Footballbox 再試合 テンプレート:Footballbox 再試合は5月7日にマンチェスターのオールド・トラッフォードで行われ3-1でリヴァプールが勝利し、決勝ではエヴァートンを延長戦の末に3-2で下し1985-86シーズン以来、4度目の優勝を果たした[50]。
1988-89シーズンの影響
ヒルズボロ・スタジアムでの事故を受けてリーグ戦は2週間延期された[51]。これにより4月23日にホームで行われる筈だったリヴァプール対アーセナル戦は5月26日に日程が変更されたが、リーグ最終戦として行われたこの試合は首位のリヴァプールを勝ち点差3で追うアーセナルとの優勝を賭けた直接対決となった[51]。リヴァプールは1点差でアーセナルに破れても優勝が決まる条件だったが、試合は52分にテンプレート:仮リンクの得点でアーセナルが先制すると、アディショナルタイムにテンプレート:仮リンクの得点でアーセナルが更に1点を追加して2-0で試合終了。得失点差で両チームは並んだものの総得点で上回るアーセナルが優勝した[51]。リヴァプールはFAカップ決勝で延長戦を戦った3日後に試合をこなし、その2日後にこの試合を迎えるなど、過密日程が響いた形となった[51]。
テイラー・レポート
テンプレート:Main 事故調査を担当した高等法院王座部のテンプレート:仮リンク主席判事は8月4日に中間報告書を発表し、警察が当日の14時52分にCゲートを開放した際に既に満員の状態だった第3・第4ブロックへ通ずる回廊を封鎖して、他のブロックへ誘導する対応を怠ったことを指摘[9]。スタジアム外に溢れていたファンの誘導の不備や、事故発生後の警察の対応の遅れについても非難する内容となった[9]。これにより「ヒルズボロの悲劇の責任はリヴァプールサポーターにある」との疑惑[45]や、「ヘイゼルの悲劇」に代表されるフーリガニズムとの関連性についての指摘も払拭した[52]。
一方、警察側では事故原因として「リヴァプールサポーターの来場の遅れ」を挙げ[53]「彼らの多くは泥酔し非協力的で、尚且つチケットも所持していなかった。彼らが試合開始時間までに入場しようと試みたため入場ゲートでの混雑を誘発した」と主張していた[53]。これに対し、テイラー判事は「道路工事による交通渋滞は想定の範囲内であり重大な影響は及ぼしていない[53]」「泥酔して威勢を示す者はごく少数であり、大多数は一般のサポーター達だった[53]」「第一にリヴァプールのサポーターは試合間近に入場する傾向がありその多くはチケット所持者である。第二に監視システムによる計測と実際に割り当てたチケット数とを照合した所、大きな差異は確認されなかった[54]」として警察側の主張を否定した。
1990年1月に発表された最終報告書ではテンプレート:Quotationとサッカー界の問題点を指摘[55]。その上で「安全対策上の最善の方策ではない」と前置きをしつつ「立見席の廃止と椅子席の導入を達成する事で、より多くの結果をもたらす」として[56]、イングランドとスコットランドの1部リーグと2部リーグに所属するサッカークラブの使用するスタジアムに対し「テラス」の廃止を提唱した[45][56][57]。また、サッチャー政権下で協議が進められていたIDカード導入計画については入場ゲートでの混雑を更に誘発するだけだとして否定[57]する一方、「サッカー観戦者法」 (Football Spectators Act 1989) の中で定められた「スタジアム内でのアルコール類販売禁止」「危険物持ち込み禁止」の内容を支持した[57]。また、スタジアム内での猥褻表現や人種差別的行為などのサポーターによる問題行動に対し新たに法規制を設けるように提案した[58]。
テイラー判事によるレポートを受けてイギリス政府はスタジアムの建設基準を改正し従来の立見席を廃止し椅子席に改修することを義務化[18]。フーリガン対策として設置され事故の要因となったフェンスは廃止され[18]、それに代わる対策として監視カメラがスタジアム内の各所に設置される事になった[18]。IDカードの導入については最終報告書を受けて撤回する決定を下した[59]ほか、スタジアム内でのサポーターによる問題行動への措置については1991年に「サッカー犯罪防止法」(Football (Offences) Act 1991) として法制化された[58]。
裁判
テイラー判事により報告書が提出されたにも関わらず、1990年8月14日に公訴局長は証拠不十分を理由にいかなる個人や団体に対し刑事告訴を執り行わない評決を下した[9]。1996年にテンプレート:仮リンク監督による「ヒルズボロの悲劇」についてのドキュメンタリードラマが放送され世論の関心を集めると、ジャック・ストロー内務大臣は事故原因の再調査を指示した[9]。問題は高等法院での審査に持ち込まれたが、ストロー内務大臣は「新たな証拠は見つからなかった」として調査の中止を命じた[9]。
1998年、遺族は刑事訴訟を起こし、事故の際に治安維持の最高責任者だったA警視正と、グラウンド管理の責任者だったB警視の2人を殺人罪で告訴した[9]。2000年に行われた裁判ではAが事故直後にFAに対し虚偽の報告を行い隠蔽を諮った理由が明らかにされ「真実を認めた場合に騒動が起こることを懸念した為」と指摘されると[60]、一転して「事故原因はリヴァプールサポーターにある」と発言したことを謝罪した[60]。6週間の審議の結果、Bは無罪となったが[9]、Aについては規定時間内に陪審員の評決がまとまらなかったとし[9]、裁判を担当したフーバー判事は陪審を解散させた[9]。この判断に対し弁護側も詰め寄ったが再審については「公正な裁判は不可能である」として拒否した[9]。
2006年、事故当時15歳で亡くなった男性の遺族は事故後の検死結果を不服として欧州人権裁判所に提訴した[61]。事故後の検死結果ではすべての犠牲者が15時15分の時点で死亡したか脳死状態だったとされていたが[61]、この遺族は「息子は16時の時点まで生存しており、外傷性窒息で死亡したのではなかった」と主張していた[61]。2009年3月、同裁判所は「遺族の異議申立て期間が終了した」ことを理由に訴えを退けた[61]。
影響
テイラー・レポートを受けて政府から1994年までに達成する様に義務化されたスタジアムの近代化の問題は各クラブの財政を圧迫した[62]。一部の資金をフットボール基金から援助されたものの総改築費の4分の1程度に過ぎず[62]、テラスの廃止により財政収入が激減する事は免れないこともあり、各クラブは入場料の値上げに踏み切った[62]。
またテレビ放映権料の分配率の不満に端を発した新リーグ設立の機運が高まる中で1991年7月に構想が具体化し[63]、フットボールリーグ1部に所属する全22チームがリーグを脱退しプレミアリーグを設立[63]。同リーグはルパード・マードックが経営するニューズ・コーポレーション傘下のBスカイBとのスポンサー契約により巨額の放映権料を獲得し[63][64]、さらに収益を上げるために株式を公開し上場するサッカークラブが登場するなど積極的な経営努力が行われる様になった[62]。これにより当初、懸念されていたスタジアムでの大規模な改修や設備投資が可能となったほか[63]、世界的なスター選手が加入するなど移籍市場が活発化しリーグとしての実力の底上げが計られた[63]。
入場料が高騰したことにより従来の観客層だった平均所得の低い労働者階級の人々は淘汰され[62]、代わりに中流階級の人々や女性や家族連れの観客が増加[62]。1980年代には数々のトラブルが発生した事により1980年代末には最盛期の1960年代から1970年代(1,400万人以上)に比べて半数にまで減少していたトップディヴィジョンの年間観客数は[62]、プレミアリーグ発足後の1998-99シーズンの調査では2,500万人を記録するなど最盛期を上回る数値を示した[65]。
「ヒルズボロの悲劇」における混乱の原因の一つとなった立見席の廃止とそれに伴う法制定によりスタジアム内の安全性が確保され暴力行為が追放された[66]結果、サポーターの熱意だけが残され[66]、女性と子供が安心して観戦の出来る環境も整い[63]、リーグの魅力を国内外に示すことが可能となった[63]。その一方、入場料金の高騰に伴い旧来の観客層である平均所得の低い階層や若者の試合観戦が困難な状態にあることに疑問を呈す意見もあり[67]、1990年代に1部リーグと2部リーグに相当するトップディヴィジョンにおいて全座席式スタジアムが義務化された後もサポーター達による立見席復活を求める活動が行われている[68]。2010年代においてもテンプレート:仮リンク (FSF) は「古き伝統への懐古ではなく、ドイツやオーストリアやアメリカ合衆国の事例が示すように、座席と立見席の中から選択が出来るように法規制を緩和するべきである」として立見席の復活に向けた署名活動を行っている[69]。また連立与党第2党の自由民主党は立見席の復活を政策として掲げ活動を行っている[69]。
追悼式典
1999年4月15日にリヴァプールのホームスタジアムであるアンフィールドで行われた10周年追悼式典には約1万人のファンが参加した[70]。犠牲者を弔うためのロウソクに火が点火され、10年前の試合と同じ審判のレイ・ルイスの笛と共に試合が中止された15時06分の時間に合わせて黙祷が捧げられた[70]。式典にはジェラール・ウリエ監督、現役選手のロビー・ファウラーやスティーヴ・マクマナマン、OBのアラン・ハンセンらが参加[70]。司教により犠牲者の名前が読み上げられ、「ユール・ネヴァー・ウォーク・アローン」を合唱して式典を終えた[70]。
式典に際してトニー・ブレア首相は「10年前の事故を反省するために時間がかかることは、きわめて妥当である。我々はあの日の出来事を決して繰り返してはならない」とメッセージを送り[70]、式典に参加したトニー・バンクススポーツ大臣は「サッカーファンの記憶から決して消し去ってはならない」とコメントした[70]。
2009年4月15日に同じくアンフィールドで20周年追悼式典が行われ、リヴァプールのラファエル・ベニテス監督や選手や関係者のほか、エヴァートンのデイヴィッド・モイーズ監督など約2万5千人のファンが参加した[71]。10周年式典の際と同様に試合の中止された時刻と同じ15時6分には、リヴァプール、ヒルズボロ・スタジアム周辺、ノッティンガムで2分間の黙祷がささげられ[72]、犠牲者の名前が読み上げられ教会の鐘が鳴らされロウソクに火が燈された[72]。式典の際にはエリザベス女王とゴードン・ブラウン首相からのメッセージが読み上げられた[72]。
再調査
事故から20周年を迎えるにあたり、ヒルズボロ・ファミリー・サポート・グループを含めた活動家たちは、事故に関するいくつかの重要証拠が長きに渡って秘匿されていることを理由に[61]、全ての記録文書の公開を求める活動を始めた[61]。2009年4月15日に行われた20周年追悼式典の後、ブラウン首相は内務省と文化・メディア・スポーツ省に対し、情報公開のための最善の方策を調査するように要求した[73]。
この問題を統括するアラン・ジョンソン内務大臣は、同年12月15日にリヴァプール教区のジェームズ・ジョーンズ司教を委員長とした7人のメンバーで構成される「ヒルズボロ独立調査委員会」を設立[61][73]。政府は2011年8月に全ての記録文書の公開に同意し[4]、同年10月17日に独立調査委員会に全文書を引き渡した[4]。同委員会が未公開分を含めた45万ページ[74]におよぶ文書を精査した上で、事故情報に関する一般公開の是非を決定するとした[4]。
2012年9月12日、独立調査委員会による再調査報告書が公表された[13]。報告書では「スタジアムの構造上の欠陥や立見席での群集過密に伴う安全性の問題は古くから認識されており、事故を事前に予測することは可能だった[13]」「警備側の危機対応の不備は組織内や組織間の問題に立脚するもので、雑踏警備における混雑緩和のための管理怠慢、危機的状況時における予測と対応の不備、といった事態を招いた[13]」「サウスヨークシャー警察とスタジアムを運営するシェフィールド・ウェンズデイの間の管理責任の所在が曖昧であり、事故後の救助活動の遅延に繋がった[13]」「検死報告書では15時15分の時点ですべての犠牲者が死亡していたか脳死状態だったとされていたが再調査の結果、そのうちの28人に関しては血液循環障害を負っておらず[74]、31人に関しては心臓や肺が潰れた後も機能を続けていた[74]。適切な救急処置を施した場合、41人に関しては15時15分の後も生存する可能性があった[74]」と指摘した。
また、同報告書では、批判の矛先を逸らすためにサウスヨークシャー警察によって隠蔽工作が行われたことも明らかにされ[13]「警察が入手した164の証言のうち、警察側にとって好ましくない116の証言については削除や修正が加えられるなどの捜査資料の改ざんが行われた[13]」「『ザ・サン』を含めたリヴァプール・サポーター側に問題があったとする報道は、警察関係者から地元紙の記者に提供された情報に基づくものだった[61][13]」と指摘した。
同日、デーヴィッド・キャメロン首相は「犠牲者は警察の不手際によってイギリスのスポーツ史上最悪の惨事に巻き込まれただけでなく、死後も警察やメディアから虚偽の疑いを掛けられるという二重の不正に苦しめられた」として謝罪した[74][75]。
脚注
注釈
- ↑ 英語名のHillsborough disasterのDisasterを日本語訳すると「災害」「惨事」「災難」になるが、日本では「悲劇」 (Tragedy) と表記されることが慣例化している[1][2][3][4][5][6]。1980年代以降に出版された翻訳書では「ヒルズバラの惨事[7][8]」といった表記もある。
- ↑ 群集の密度が1平方メートルあたり8人から10人に近づくと身動きが取れなくなり、圧力の衝撃波が伝播し将棋倒しが発生やすい状態となる[34]。その際、体は持ち上げられ、衣服は破れ、熱気と圧力で体力が急速に消耗する[34]。
出典
参考文献
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外部リンク
- 全て英語
- Hillsborough tragedy - the 1989 disaster remembered
- Hillsborough - Liverpool FC
- Hillsborough Family Support Group
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