トニー・ブレア

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テンプレート:政治家 アントニー・チャールズ・リントン・"トニー"・ブレアAnthony Charles Lynton "Tony" Blair1953年5月6日 - )は、イギリス政治家弁護士

首相(第73代)、労働党党首(第18代)、下院議員(7期)を歴任する。

経歴

生い立ち

スコットランドエディンバラ生まれ。父親レオは法廷弁護士、ダラム大学法学講師などを務め、保守党の下部機関「ダラム保守協会」の会長も務めた。彼は、オーストラリアアデレードイングランドダラムで幼年期のほとんどを過ごす。ブレアが10歳のころ、父親レオは心臓発作で倒れてしまう。

「スコットランドのイートン校」として知られるエディンバラのフェテス・カレッジ1971年に卒業。そこでの人間関係で、後に彼が大法官に任命することになるチャールズ・ファルコナーに出会った。ただし、ファルコナーは、グレナールモンドのトリニティ・コレッジ出身。フェテス・カレッジは校則の厳しい学校であったが、ここでのブレアはよく規則を破る問題児であった。

卒業後、1年間の休暇を取ってフランスへ渡り、アルバイトなどをして過ごす。そのため、ブレアのフランス語は流暢である。その後、オックスフォード大学セント・ジョンズ・カレッジで法律を学ぶ。在学中には長い髪をし、「アグリー・ルーマーズ(醜い噂)」というハードロックバンドボーカリストとしても活動した。と同時に、かなり年上の友人ピーター・トムソンから影響を受け、スコットランドの哲学者・ジョン・マクマレイの思想、キリスト教社会主義に傾倒する。アイザック・ドイッチャーを通してマルクス主義の影響も受けたと語っている[1]。また、この時期の友人に後にウガンダの外相となるオララ・オタンノがいた。

大学卒業の2週間後、母親を亡くす。また、労働党に入党したのも大学卒業の直後である。法廷弁護士資格試験のためにロンドンのリンカーン法曹院で修習を行い、法廷弁護士となる。また、この司法修習を担当したブレアの師が後の大法官デリー・アーヴァインで、後に妻となるシェリー・ブースとは同僚であった。1980年春、シェリーと結婚する。

政治家への転身

ファイル:TonyBlairArmagh1998.jpg
1998年首相在任当時、アルスター地方アーマーにて演説を行うブレア

1982年ビーコンズフィールドでの補欠選挙に出馬するものの、ここは元々保守党の地盤であり、なおかつフォークランド紛争の真っ只中で、保守党への追い風が吹いていた選挙だけに、当選は果たせなかった。しかし、この補選でブレアの応援に駆けつけたマイケル・フット党首やニール・キノックジョン・スミスら党指導部は一様にブレアの才能を認め、中でもフット党首はBBCのインタビューで「我々はブレアが言っているすべてのことを誇りに思う。結果がどうであれ、彼はイギリス政治の中で大人物になると信ずる」と絶賛したほどだった[2]

1983年の総選挙において、30歳でイングランド北部のセッジフィールド選挙区から労働党下院議員に選出される。翌1984年、大蔵・経済関係担当野党スポークスマンとなる。1987年には影の内閣の「閣僚」となり、1988年まで影のエネルギー担当大臣、1988から1989年まで影の雇用大臣として活動した。その後、雇用担当野党スポークスマンを経て、1992年から1994年まで影の内相を務めた。

ブレアはその盟友ブラウンらとともに、党の近代化を唱える「モダナイザー」と呼ばれるグループのリーダーだった。モダナイザーたちは、反資本主義的な政策を改め、サッチャー革命の恩恵を受けた中産階級に新しい支持層を求めるべきだと主張した。

1994年、前党首ジョン・スミスの急死後に開かれた党首選で臨時党首であったマーガレット・ベケットらを破り、労働党党首になる。労働党の大会での一般党員の投票権を強くして、労働組合のブロック投票を著しく制限した。労働党の党綱領から、生産手段と輸送の国有化を削除して経済政策を自由市場経済に転換する「第三の道」と呼ばれる路線に変更する。1997年の総選挙で労働党を地滑り的勝利(659議席中419議席を獲得)に導き、英国首相となる。

  • 労働党を選んだ理由

トニーブレアの父親は造船所の整備工に養子として育てられ、若い頃はグラスゴー共産主義青年団の事務局長を務めるほどの左翼だった。しかし、のち学者・弁護士を経て活発な保守主義者に変身した。この父親の転向をみて世間一般にいう「成功=保守」というつながりを断ちたいという政治的野望をもつにいたった。[3]

イギリス首相へ

1997年、バッキンガム宮殿へ首相任命式に訪れる。エリザベス2世はトニーに「あなたは私の10人目の首相です。最初はウィンストン。あなたが生まれる前のことね」と語りかけた。後にトニーは「彼女は元首であり、私は彼女の首相だった」と振り返る[4]

首相1期目、ブレアは北アイルランド問題の解決に努め、アイルランド首相のバーティ・アハーンとともに北アイルランド和平に向けた協議を進めた。そして1998年にイギリスとアイルランドの間でベルファスト合意(聖金曜日協定)を締結した。

2001年6月の総選挙で、413議席とほぼ前回並みの議席数で圧勝した。

2005年5月5日実施の総選挙でも、議席数は356(この時の総議席数は646、過半数は324)と大幅に減ったものの勝利を収め、労働党史上初の3期連続政権を実現させた。しかし、議席大幅減の責任をとって、党内ライバルであるゴードン・ブラウンへの党首、首相職の禅譲の可能性が取り沙汰されはじめた。この総選挙の後、野党保守党が若手のデービッド・キャメロンを党首に選出し、支持率で与野党が逆転するようになった。

さらに労働党議員の造反によってテロ対策の法案が否決されたことや、地方議会の選挙で労働党が大きく議席を減らしたことなど、政権の弱体化が取りざたされるようになり、早期退陣論は強まっていった。こうして2006年9月7日、2007年秋までに退陣する意向であると首相官邸の報道官が表明した。

アメリカ合衆国のブッシュ政権が行った対テロ戦争(アフガニスタン紛争 (2001年-)イラク戦争)への批判が高まるにつれ支持率も低下した。一方で演説の巧みさから人々を団結させることができた。貧困問題や地球温暖化問題、途上国債務問題など地球的難題に積極的に取り組む一方、内政では15年以上に及ぶ景気拡大を実現した。

退陣後

2007年5月10日、ブレアは地元セッジフィールドでの支持者らを前にした演説[5]で、労働党党首を辞任すること、同年6月27日、エリザベス2世に首相としての辞表を提出することを発表した。

ブレアのこの演説から約1週間後には、ゴードン・ブラウンが次期労働党党首となることが決まり、2007年6月24日開催の臨時党大会で正式にブラウンが党首に選出されたことにより2007年6月27日に首相を退陣し、庶民院議員も辞職した。なお、副党首で副首相を務めてきたジョン・プレスコットもブレアと同時に辞任するほか、ジョン・リード内務大臣、ゴールドスミス司法長官ら側近も退陣した。

退陣後もリスボン条約の発効により設置される初代「欧州連合(EU)大統領」の筆頭候補にフランスのサルコジ大統領などから推薦され注目を集めたが、EU主要国から反対され実現しなかった。また、世界経済フォーラム年次総会などを通じ、環境問題などに対する積極的な発言を続けている。ほかに2008年イェール大学経営大学院・神学大学院にてフェローとして教壇に立った。

2008年3月来日し、TBS系列「筑紫哲也NEWS23」の17日放送の回に出演。日本の市民100人とタウンミーティング形式で直接対話を行った。

2010年1月29日、2003年のイラク戦争参戦に関する独立調査委員会の公聴会で証人喚問された。ブレアは参戦を強く正当化し、サッダーム・フセイン元イラク大統領を排除したことは後悔していないと語った。英国をはじめとする多くの国が当時、イラクに大量破壊兵器があると信じていた上、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ以降はテロの脅威に対する認識が劇的に変わったため、イラクの大量破壊兵器がテロ組織に渡る可能性を見過ごせなかったと主張した。結局、イラクで大量破壊兵器が発見されることはなかったため、2002年9月の「イラクは45分間で大量破壊兵器を発射できる」とした報告などで、参戦を正当化するための情報操作が行われたのではないかとの疑念が持ち上がったが、ブレアはこの情報は「訂正されるべき」だったと認めた[6]

同年9月1日、回顧録『ジャーニー』を出版[7]

2011年10月24日にはカザフスタン共和国外務省より、ブレアが同国政府の経済改革担当顧問へ就任することが発表された[8]

2013年9月7日来日し、世界オピニオンリーダーズサミットにスペシャルゲストとして参加し、紛争解決の7原則を提言して世界平和を誓った。主催者の半田晴久と親交が深いために、実現したという[9]

トニー・ブレア・フェース財団

首相退任後、トニー・ブレア・フェース財団を設立し、異なる宗教観の相互理解に努めつつ、中東を初めとする国々で紛争が解決して世界平和を実現するための活動をしている。

私生活

弁護士事務所の同期であった妻シェリー・ブレアとの間に3男1女がいる。首相在職中の2000年5月に末子(三男)のレオが誕生している。育児休暇を取ることも検討したが、公務を外れる形での育児休暇はとらなかった。さらに、2005年には、テロ対策法の強化を進めようとするブレアと、基本的人権を守ろうとするシェリーとの間の政治姿勢に違いを指摘する報道もあった。

読書、サッカー観戦(ニューカッスル・ユナイテッドのファン)、テニススカッシュ、音楽鑑賞が趣味である。音楽ではザ・ダークネスのファンだと公言している。また、1997年オアシスを首相官邸に招いたり、何度かテレビカメラの前でギターを構えたりと「ロック好き」をアピールしている。

2003年にアメリカのアニメーション『ザ・シンプソンズ』にて本人役でゲスト出演している。

信仰

ブレアは、19世紀の英国首相グラッドストン以来初めての、習慣的に聖書を読む首相である。また、宗教への関心が強い彼は、『コーラン』を少なくとも3回、読んでいると言われる[10]

なお、ブレア本人は国教会の信徒であったが、妻子は全員カトリックである。退陣直前の2007年6月には、首相として最後のバチカン訪問を前に、「首相を退いたらすぐにでもブレアはカトリックに改宗する」との報道が相次いだ。[11][12]2007年12月22日、報道を裏付けるようにブレアは国教会からカトリックへ改宗した。

2006年3月4日テレビ局ITV1の番組に出演、イラク戦争を決定する上で信仰が一定程度影響したことを認めた。(I think if you have faith about these things, you realise that judgement is made by other people....and if you believe in God, it's made by God as well)

著作

脚注

  1. Blair, Tony (July 1982). "The full text of Tony Blair's letter to Michael Foot written in July 1982". The Daily Telegraph (London: Telegraph Media Group Ltd.). Retrieved 18 November 2006.
  2. 黒岩徹 『決断するイギリス ニューリーダーの誕生』文春新書 1999年 p71
  3. 「私の履歴書」(日本経済新聞 2012年1月連載)
  4. 余録:イギリスは戦いに勝つと…
  5. news.bbc.co.uk Blair's resignation speech in full, 10 May 2007
  6. 「後悔していない」ブレア元首相、イラク戦争参戦を正当化AFPBB News 2010年1月30日
  7. ブレア元英首相、回想録でイラクへの「心痛」を吐露CNN.co.jp 2010年9月1日
  8. テンプレート:Cite news
  9. テンプレート:Cite news
  10. 菊川智文『イギリス政治はおもしろい』PHP新書、2004 p104
  11. politics.guardian.co.uk After 30 years as a closet Catholic, Blair finally puts faith before politics, 22 June 2007
  12. uk.reuters.com Blair seen converting to Catholicism, 22 June 2007

関連項目

外部リンク

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