ジョン・レノン

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テンプレート:Notice テンプレート:Infobox Musician ジョン・ウィンストン・オノ・レノン (John Winston Ono Lennon, MBE1940年10月9日 - 1980年12月8日) は、イギリスミュージシャンロックバンドザ・ビートルズのメンバーで、ヴォーカルギター作詞作曲を主に担当した。身長178cm。

出生名はジョン・ウィンストン・レノン (John Winston Lennon) であったが、オノ・ヨーコと結婚後ジョン・ウィンストン・オノ・レノンと改名。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第5位。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第38位。

2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第55位。

Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第5位[1]

概説

1960年代に世界的人気を得たザ・ビートルズのリーダーポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」としてソングライティングチームを組み、大半の楽曲を製作し、メイン・ボーカルを務めた。1970年のビートルズ解散後はアメリカを主な活動拠点とし、ソロとして、また芸術家オノ・ヨーコと共に平和運動家としても活動した。1975年から約5年間音楽活動を休止した後、1980年12月8日23時頃(米国東部時間)にニューヨークの自宅アパートダコタ・ハウス」前においてファンを名乗る男性により撃たれ亡くなった。

ヒット曲

ギネス・ワールド・レコーズ』では、最も成功したソングライティングチームの一人として、「チャート1位の曲が米国で盟友のポール・マッカートニーが32曲、レノンが26曲 (共作は23曲) 、英国チャートでレノンが29曲、マッカートニーが28曲 (共作が25曲) 」と紹介されている。ビートルズ時代には、「抱きしめたい」や「シー・ラヴズ・ユー」、リード・ヴォーカルを採る「プリーズ・プリーズ・ミー」「ハード・デイズ・ナイト」「ヘルプ!」「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」「愛こそはすべて」「アクロス・ザ・ユニヴァース」「カム・トゥゲザー」、ソロ時代は「ラヴ」「イマジン」「スターティング・オーヴァー」などを発表した。

生涯

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ジョン・レノンのサイン

生い立ち

幼年期

1940年10月9日18時30分、第二次世界大戦ナチス・ドイツによる空襲下に置かれたリヴァプールで誕生。出生時、父親のアルフレッドは商船の乗組員として航海中で不在、母親のジュリアも他の男性と同棲していたため、母親の姉・メアリー(ミミ伯母)夫婦のもとで育てられた。ミドルネームのウィンストンは、当時のイギリスの首相のウィンストン•チャーチルから。

1946年、父親のアルフレッドが帰国し、父親に引き取られ数週間一緒に暮らすものの、母親のジュリアがジョンを連れ戻すが、母親と暮らすことはできず、再び、ミミ夫婦のもとで育った。父親も行方不明になった。

ビートルズ・デビューまで

少年時代

実の両親と共に育つことがなかったことから、少年時代は反抗的でケンカ騒ぎを起こすことも少なくなかったという。1952年9月グラマー・スクールのクオリー・バンク校に入学した。1955年に父親代わりだったミミの夫・ジョージが死去。

1956年のある日、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴き、ロックンロールの洗礼を受ける。この頃ジュリアが近くに住んでいることを知ったジョンは、ジュリアの家へ行き来するようになった。ジュリアはジョンにバンジョーのコードをいくつか教え、音楽へと関心を向けさせた。

1957年、第1作にあたる「ハロー・リトル・ガール」を作曲(この曲は1962年デッカのオーディションの際に歌われ、「アンソロジー1」で公式に発表された)。当時からギター・ヴォーカルを担当していたが、前述の通り実際に教わったのはバンジョーのコードだったため弦を4本しか使っていなかったという。

ポールとの出会い

3月、クオリー・バンク校で、ビートルズの前身であるスキッフルバンド「クオリーメン」を結成した。 7月6日、ウールトンのセント・ピーターズ教会で行なったクオリーメンのコンサートで共通の友人、アイヴァン・ボーンの紹介によりポール・マッカートニーと出会う。数日後、ポールはクオリーメンのメンバーになった。エルヴィス・プレスリーチャック・ベリーバディ・ホリーと言ったアメリカロックンロールに夢中になった。

ジョージ・ハリスンとの出会い

1958年2月、ポールの紹介でジョージ・ハリスンと出会う。間もなくして彼のギターの腕を買い、クオリーメンへの加入を認めた。

母の死

1958年7月15日、母・ジュリアは非番の警察官が運転する車にはねられ死去。[2]この母・ジュリアの死は、ジョンのその後の人生に大きな影響を与え、また既に(1956年 14歳の時)母親を乳癌で亡くしていたポールとの友情を固める要因にもなった。

1958年9月、ジョンはクオリー・バンクを卒業後、同校校長の取り計らいでリヴァプール・カレッジ・オブ・アート (Liverpool College of Art) に入学する。そこで最初の妻となるシンシア・パウエルと出会った。 1959年1月、バンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージ3人だけになる。この後しばらく、ドラマーはパートタイマーが続いた。

ハンブルク

この頃からリヴァプールだけでなく、ハンブルクのクラブなどでも演奏活動を始めている。ジョンはハンブルクの楽器店で1台目のエレキギターであるリッケンバッカー325を購入した。

1960年1月、ジョンの説得により、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートでの友人、スチュアート・サトクリフがメンバーに加わりヘフナーNo.333ベースを演奏した。バンド名も「クオリーメン」から「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」そして「ザ・シルヴァー・ビートルズ」と変わっていた。8月「ザ・ビートルズ」になりピート・ベストが加入した。

1961年4月ハンブルクでスチュアートは画家に専念するため脱退。ジョンはすぐにポールを説得してベーシストにする。ポールはヘフナー500/1を演奏することになる。[3]また、ジョンはこの時、クラウス・フォアマンの加入の希望を断っている。なお、スチュアートは恋人アストリッドとハンブルクに残るがまもなく脳腫瘍で死去した。6月ドイツで活動していたイギリス人歌手トニー・シェリダンのバック・バンドとして「マイ・ボニー」をレコーディングした。

ブライアン・エプスタインとの出会い

1961年12月ジョン達は「マイ・ボニー」を買いに来た客からビートルズを知ったレコード店経営者ブライアン・エプスタインとマネージメント契約を結び、これからロンドンのレコード会社へのビートルズの売り込みが始まった。 1962年1月1日デッカ・レコードのオーディションを受けるも不合格となった。 6月にパーロフォンとレコーディング契約を結ぶ。8月にピートを解雇し、以前から付き合いのあった、「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」のドラマー、リンゴ・スターが加入した。 10月5日「ザ・ビートルズ」としてレコード・デビューを果たした。

最初の結婚

1962年8月23日、シンシア・パウエルが妊娠したのを切っ掛けに彼女と結婚した。

シンシアとの間の長男・ジュリアン・レノン1963年4月8日に誕生した。しかし、両親と生活したことのないジョンは、ジュリアンにどう接すればいいのか分からずに戸惑っていた「『どうしたらジュリアンが喜ぶか教えてくれないか? やり方が分からないんだ』とジョンに聞かれたことがある」とポールは語っている。ジュリアンも後に「ポールはかなり頻繁に遊んでくれたよ、父さんよりね。僕らはいい友人だった。その頃の僕とポールがいっしょに遊んでいる写真は、父さんとの写真よりもはるかに多い」と語っている。

キリスト教発言

1966年3月4日ロンドンイヴニング・スタンダード紙のモーリーン・クリーヴとのインタヴューでジョンは次のような発言を行なった。(参照:More popular than Jesus(英語)

キリスト教は消えてなくなるよ。そんなことを議論する必要はない。僕は正しいし、その正しさは証明される。僕らは今やイエスよりも人気がある。ロックン・ロールとキリスト教。そのどちらが先になくなるかは分からない。イエスは正しかったさ。だけど弟子達がバカな凡人だった。僕に言わせれば、奴らがキリスト教を捻じ曲げて滅ぼしたんだよ」

この発言はイギリスではほとんど無視され、大きな反響を呼ばなかったが、同年7月にアメリカのファンマガジン『デートブック』に再収録されると、バイブル・ベルト(キリスト教根本主義が信奉される南部や中西部)の保守宗教団体によるアンチ・ビートルズ活動に結びついた。ラジオ局はビートルズの曲の放送を禁止し、彼らのレコードやグッズが燃やされた。スペイン及びヴァチカンはジョンの言葉を非難し、南アフリカ共和国はビートルズの音楽のラジオ放送を禁止した。最終的に、1966年8月11日にジョンはシカゴで以下のように釈明会見を行い、ヴァチカンも彼の謝罪を受け入れた。

「僕がもし、 "テレビがイエスより人気がある" と言ったなら、何事もなかったかもしれない。あの発言には後悔しているよ。僕はに反対しないし、反キリストでもなければ反教会でもない。僕はそれを攻撃したわけでもなければ、貶めたわけでもない。僕はただ事実を話しただけで、実際アメリカよりイギリスではそうなんだ。僕はビートルズがイエスより良くて偉大だとは話してないし、イエスを人として僕らと比べたりもしていない。僕は僕が話したことは間違っていたと話したし、話したことは悪く取られた。そして今全てがこれさ」

ジョンとヨーコ

1966年にビートルズがライヴ・ツアーを休止した後、ジョンは映画『How I Won The War』(日本では1993年ビデオで初めて発表。邦題: 『ジョン・レノン僕の戦争』)に出演。11月にはロンドンのインディカ・ギャラリーで彼は後に二人目の妻となるオノ・ヨーコに出会った。美術学校時代に東洋文化を専攻していた友人がいたことから日本や東洋文化に興味を持っていたジョンは、の概念に強い好奇心を寄せており、これを色濃く反映させたヨーコのアートに強い興味を示した。ヨーコの個展に出掛けたレノンが見た ヨーコの作品に、YESという言葉を虫眼鏡で見る仕掛けがあり、レノンがそれをいたく気に入った逸話は有名である。

二人は同年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の録音期間より、ヨーコの個展にジョンが出資するなどして交際を始めた。ジョンは1968年2~4月のインドでの修行中も、ヨーコと文通で連絡を取り合っていた。5月、ヨーコへの思慕を募らせたジョンは、シンシアの旅行中にヨーコを自宅に招き入れ、以後ヨーコはジョンとの同棲生活を始めた。シンシアはその年の7月に離婚申請を行い、11月8日に離婚が成立した。

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ベッド・イン風景、(奥左)ジョン・レノン、(奥右)オノ・ヨーコ、(中央)ティモシー・リアリー。「平和を我等に」のレコーディング中(1969年)

1969年3月にジョンとヨーコはジブラルタルで挙式し、新婚旅行で訪れたアムステルダムモントリオールで「ベッド・イン」という平和を訴えるパフォーマンスを行った。

結婚後間もなくジョンはミドルネームのWinston(イギリスの首相ウィンストン・チャーチルにちなんで名付けられた)からOnoへの変更を申し立てたが、変更は認められずパスポート、グリーンカードなどはJohn Winston Ono Lennonと表記された。

彼らは多くのメディアから奇妙なカップルとして取り上げられる一方、反戦運動における重要人物としても見なされるようになった。このほかにも1969年以降は、ジョンはヨーコと共にプラスチック・オノ・バンドとしての活動やヴェトナム戦争に対する反対と平和を求める活動に参加した。イギリスがヴェトナム戦争の支持を表明したことで、大英帝国勲章を返却した。「バギズム」や「ドングリ・イヴェント」 (ともに1969年) などヨーコと共同で行ったパフォーマンス・アート、「ベッド・イン」(1969年)や 'War Is Over (If You Want it)'(1971年)の街頭広告を行った。

ジョンの本格的なソロ活動前に二人は前衛的な『トゥー・ヴァージンズ』、『ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ』、『ウェディング・アルバム』の3枚のアルバムを発表した。またジョンのソロ時代発表されたアルバムと対になって『ヨーコの心』(1970年)、『フライ』(1971年)、『無限大の宇宙』(1972年)、『空間の感触』(1973年)が発表され、それぞれにジョンが参加した。

二人の共同名義の音楽作品として、ほかに『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』(1972年)、『ダブル・ファンタジー』(1980年)、『ミルク・アンド・ハニー』(1984年)が発表された。

ソロ・キャリア

ジョンはビートルズ時代の1968年にソロ活動を開始し、翌69年から1976年に活動を休止するまでプラスティック・オノ・バンド(Plastic Ono Band)の名義で作品を発表した。名称に若干の推移はあるが、このプラスティック・オノ・バンドはヨーコとのユニットで、メンバーは流動的だった。初期はベースにビートルズのデビュー以前からの知り合いだったクラウス・フォアマン、ドラムはアラン・ホワイトまたはジム・ケルトナー、ピアノはニッキー・ホプキンスが担当することが多かった。

1969年、シングル『平和を我等に』、『コールド・ターキー』を、12月にはトロントで行われた同バンドのステージを収録したライヴ・アルバム『平和の祈りをこめて~ライヴ・ピース・イン・トロント1969~』を発表した。このライヴにはクラウス・フォアマン、エリック・クラプトン、アラン・ホワイトが参加しており、その模様の映像はDVDスウィート・トロント』に収録されている。

1970年代

ビートルズ存続中の1970年2月にメンバーのジョージ・ハリスンも参加した「インスタント・カーマ」を発表、「レット・イット・ビー」とほぼ同時期に発表されチャートを上昇し米英でトップ5ヒットとなりゴールドディスクを獲得した。

1970年4月10日、ポールが脱退を発表しビートルズが事実上解散したのち、アメリカのアーサー・ヤノフ博士が提唱した精神療法である原初療法を受けた。約半年間のち、ビートルズのメンバーであったリンゴ・スター(ドラムス)、クラウス・フォアマン(ベース)、ゲストにビリー・プレストンを迎え、アルバム『ジョンの魂』を制作し発表した(米6位、英8位)。「マザー」がシングルとして発表された。

1971年6月、アルバム『イマジン』の制作を開始した (発表は10月) 。ここではジョージ・ハリスン(ギター)、アラン・ホワイト(ドラムス)、ジム・ケルトナー(ドラムス)、キング・カーティス(サキソフォーン)らが参加した。米国1位、英国1位、日本1位(オリコン総合チャート)と大ヒットを記録した。9月、ジョンは活動の拠点をアメリカのニューヨークに移し、グリニッジ・ヴィレッジのアパートで暮らし始めた。ここで多くの反体制活動家やミュージシャンと知り合い、政治的活動に積極参加した。大麻所持で通常よりも重い10年間の禁固刑をうけた反体制活動家ジョン・シンクレアの救済コンサートへの出演、アッティカ刑務所の入所者家族のための慈善コンサート(ともに1971年12月)などが代表的なものである。ジョンは公式に特定政党を支持したことは一度もなかったが、「人々に力を、民衆に権力を」と左翼的なフレーズを立ててアメリカ国内でデモ行進をした。この時期のFBIによる監視については、ジョンの死後に関係者の訴訟により膨大な量の調査報告書が公開されている[4]。この様な理由から、ジョンの大麻不法所持による逮捕歴を理由としたアメリカへの再入国禁止処分について再延長の手続をとり続けた[5]

1972年2月にTV番組「マイクダグラス・ショー」に出演し、チャック・ベリーと共演した。5月にワシントン・スクエアの教会で慈善コンサートに出演した。6月発表の次作『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』は(ニューヨークのローカル・バンドのエレファンツ・メモリーがバックをつとめた)、刑務所での暴動、人種問題や性差問題、北アイルランド紛争アメリカ合衆国グリーンカードについて歌われているだけでなく、アルバム・ジャケットは裸踊りをするリチャード・ニクソン毛沢東の合成写真が使われた。1972年8月30日、ジョンはエレファンツ・メモリーと共に、精神発達遅滞児童を援助する2回の慈善コンサート「ワン・トウ・ワン」をニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行い、スティーヴィー・ワンダーとは「平和を我等に」を共演したほかビートルズ時代の「カム・トゥゲザー」を披露した。このコンサートのもようは『ライヴ・イン・ニューヨーク・シティ』として1986年に発表された。9月に筋ジストロフィーの患者のためのテレビ番組に出演した。

1973年4月1日、ジョンはヨーコとニューヨークで会見を開き、架空の国家「ヌートピア」の建国を宣言した。またリンゴのソロアルバム『リンゴ』に参加し、「アイ・アム・ザ・グレーテスト」を提供しジョージ、リンゴと共演した。11月、アルバム、『マインド・ゲームス』を発表した。その前9月に、ジョンはヨーコのもとを離れ、個人秘書のメイ・パンとともにロサンゼルスで生活を始め、いわゆる『失われた週末』をリンゴやハリー・ニルソンザ・フーキース・ムーンらと過ごした。この時期には、前妻シンシアとの間に生まれたジュリアンと再会を果たし、ビートルズのメンバーとも交流した。

1974年3月からはハリー・ニルソンの『プシー・キャッツ』をプロデュースした。同年、セルフ・プロデュースしたアルバム『心の壁、愛の橋』 (Walls And Bridges) を発表した。このアルバムはローリング・ストーン誌でレノンの最高傑作と評価され、『イマジン』以来、ソロとして2作目の全米1位を獲得した。またこの中で「真夜中を突っ走れ」と「予期せぬ驚き」でエルトン・ジョンと共演した。ハリー・ニルソンとも「枯れた道」を共作した。このアルバムからは11月に「真夜中を突っ走れ」 (全米1位) 、「夢の夢」 (同9位) がそれぞれシングルカットされた。

同時期、ビートルズ時代の「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」をエルトン・ジョンと共演した。同曲はシングルカットされ、エルトンは3枚目の全米1位を獲得した。その後、11月にエルトン・ジョンのコンサートにゲストとして出演、「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「真夜中を突っ走れ」で共演した。コンサート後ジョンはヨーコと再会したと一説には言われており、1975年1月には『失われた週末』を終えてヨーコのもとへ戻った。この時期にはさらにミック・ジャガーの曲「トゥー・メニー・クックス」をプロデュースする。この曲ではジョンもはプロデュースをした。長く未発表で、2007年発表の『ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー』に収録された。また、リンゴのアルバム『グッドナイト・ウィーン』にも参加し「オンリー・ユー」をプロデュースした (全米6位) 。

1975年2月、カヴァー・アルバム『ロックン・ロール』を発表。ここからは「スタンド・バイ・ミー」のヒットが生まれた。デヴィッド・ボウイとの親交も深まり、ボウイの『ヤング・アメリカン』 (3月発表) でビートルズ時代の「アクロス・ザ・ユニヴァース」を共演、さらにボウイ、カルロス・アロマーと「フェイム」を共作し、コーラスとギターで参加した。この作品でボウイは初の全米1位を獲得した。ボウイによるとスタジオでの作業でジョンの発した「フェイム!」というかけ声から着想を得たという。ボウイはインタヴューで「あれほどオリジナリティのある人は将来現れないであろう」と述べている。6月にはテレビ番組「サリュート・トウ・サー・リュー・グレイド」に出演した。10月9日、本人の誕生日と同じ日にショーン・レノンが誕生した。同年10月にはベスト曲集『シェイヴド・フィッシュ~ジョン・レノンの軌跡』を発表した。

1976年にリンゴのソロ・アルバム『ロート・グラビア』に「クッキン」を提供した後、75年に誕生した次男・ショーンの養育に専念にするため音楽活動を休止した。7月27日にアメリカの永住権を取得した。その後、ほぼ5年間ジョンはハウス・ハズバンド業に専念していたが、その間も自宅で作曲活動は続けており、暇を見つけてはテープに録音していた。その時期に作られた楽曲のデモ・テープの数々は1998年に『ジョン・レノン・アンソロジー』で発表されている。

1980年代

晩年は政治的・思想的に保守化しラジカリズムを放棄、ロナルド・レーガンの支持者だったと、最晩年2年間のアシスタントであるフレッド・シーマンが記録映画「ビートルズ・ストーリーズ」の中で証言、反響を読んだ。ただし、フレッド・シーマンはダコタハウスからジョンの日記をヨーコに無断で持ち出して訴えられるなど、自伝作家のアルバート・ゴールドマンと並んでいかさま詐欺師であり信用は出来ない。

1980年6月にバミューダ諸島で録音を開始した。8月にスタジオで新曲のレコーディングを開始した。ショーンが偶然友達の家で見た映画『イエローサブマリン』の中でジョンを見つけ、「パパは本当にビートルズだったの?」と発した一言がきっかけとなったとする説があるが、本人は同年のインタヴューの中で否定している。 (クイーンの「愛という名の欲望」、ポール・マッカートニーカミング・アップに触発されたという説もある)

1980年11月、ジョンはヨーコとの共作名義のアルバム『ダブル・ファンタジー』(米1位・英1位・日1位)を発表した。このアルバムからは「スターティング・オーヴァー」(米1位・英1位)、「ウーマン」(米2位・英1位)、「ウォッチング・ザ・ホイールズ」(米10位)などの大ヒット曲が生まれ、アルバムも全世界で500万枚以上を売り上げた。

没後、『ダブル・ファンタジー』は1982年グラミー賞年間最優秀アルバム賞をJohn Lennon/Yoko Onoで獲得し、授賞式に参加したヨーコは謝辞を述べた。

音楽性の発展

ビートルズ時代

1960年代、ビートルズはロックンロールに大きな影響をもたらし、このジャンルの発展に貢献した。ジョンが単独あるいは中心となって書いた曲は、内省的であり、一人称で書かれた個人的な内容であることが多い。ジョンのこうした作風とポールのポジティヴな作風とは、ビートルズの楽曲においてしばしば好対照をなしてきた。

ビートルズにおけるレノン=マッカートニーの共作においては「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」「エイト・デイズ・ア・ウィーク」などにおける開放感のあるメロディーを生み出した。「ア・ハード・デイズ・ナイト」「ヘルプ!」は実質的にはレノンが書いた曲だが、「ミッシェル」「恋を抱きしめよう」などで聴かれるややブルージーでマイナー調のメロディーは、共作者ポールの楽天的に聴こえるメロディーに陰をつけ曲に哀愁感をもたらしたとジョンは述べた。[6]

後期においては単独作が増え、「グッド・ナイト」「アクロス・ザ・ユニヴァース」「ビコーズ」のような洗練された美しいメロディーを持つ曲や、「ヤー・ブルース」「カム・トゥゲザー」のようなブルース・ロックの曲を発表した。

ソロ時代

こうしたビートルズ時代に比べ、ソロではよりシンプルな和声の進行と歌詞に特徴づけられる曲調へと変化し、「ヤー・ブルース」「カム・トゥゲザー」の路線を継ぐ「マザー」「コールド・ターキー」「ウェル・ウェル・ウェル」「真実が欲しい」「アイム・ルージング・ユー」のようなヘヴィーなロックを発表している。そして、「インスタント・カーマ」や「ノーバディー・トールド・ミー」のような早口のラップ調のヴォーカルが特徴の軽快なロックも創作された。

また「ラヴ」「ウーマン」「グロー・オールド・ウィズ・ミー」のような美しいメロディーの曲がある一方でビートルズ時代の「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」「ジュリア」のように繊細なメロディーで、かつ不安定な和声進行を示す独特の曲調は、同時期 (1967~68年) に原曲が書かれたとされる「ジェラス・ガイ」へと発展した。

また、レゲエカリプソのリズムはビートルズ時代の「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」での有名なレノンの冒頭のピアノ・プレイが先鞭をつけたが、さらに「マインド・ゲームス」における本格的なレゲエの導入へと至った。1980年のインタヴューではレゲエのリズムを共演ミュージシャンに説明することを要したとの発言がある[7]ブラック・コンテンポラリー調の曲が多い『心の壁、愛の橋』の「愛を生き抜こう」ではビートルズの「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」の通作形式[8]を踏襲した複雑な楽曲構成に挑んだ。

こうした中でレノンの作曲の到達点の一つといえるのは、わずか15分で書かれたといわれる「ウーマン」である。この中で半小節ごとに変化する和声進行に従って、ギターの美しいアルペジオのフレーズが奏でられ、最終部で半音階上昇などカデンツにさまざまなテクニックが駆使された楽曲となった。曲の着想はビートルズ時代の「ガール」を発展させたとレノンが1980年のインタヴューで述べている[7]

編曲・プロデュース

『レット・イット・ビー』でのアレンジを高く評価したレノンはビートルズ末期のシングル「インスタント・カーマ」に続いて、ソロ前期『ジョンの魂』『イマジン』ではプロデューサーにフィル・スペクターを起用した。スペクターは、ストリングスを用いた厚い音による編曲が特徴で、「音の壁 (Wall Of Sound) 」で知られている。しかし、両作品ともアレンジはそれとは異なり、レノンの目指すシンプルな音作りがなされた[7]

ソロ後期の『マインド・ゲームス』『心の壁、愛の橋』『ロックンロール』、復帰後の『ダブル・ファンタジー』では、セルフ・プロデュース(『ロックンロール』では一部をフィルスペクターが担当、『ダブル・ファンタジー』はジャック・ダグラス、ヨーコが共同プロデュース)により共演者に敬意を払いながらセッションの中でアレンジを組み立てていった[9]。 これが、共演者の敬意を得ていたという多くの発言 (デヴィッド・スピノザトニー・レヴィンなど) がある[10]。 マインド・ゲームスに参加したスピノザによれば、レノンはスタジオミュージシャンを使って基本ラインを録音したあと、レノン自身のギター、スライドギターなどによる音を緻密に重ねてオーケストレーションを造り出し[11]、アダルト・オリエンテッド・ロックの先駆となった[12]。 ビートルズ以来の作曲語法となったベースのクリシェ[13]、分散和音的なアプローチも取り入れている。『心の壁、愛の橋』ではストリングス、ホーンも多用した編曲を行った。

また、エコーを効かせた「インスタント・カーマ」、「マザー」、「愛の不毛」、「スターティング・オーヴァー」などの作品は、レノン自身が中音域における豊かな声質の再現、倍音の効果を意識していたことが伺える[14]

ポール・マッカートニーとの関係

ビートルズ解散直後の二人の確執は当人のみならず、ファンやマスコミも周知の事実だった。解散後しばらくは互いの楽曲中で中傷しあったり[15]、ポールがニューヨーク滞在中、ジョンに電話すると「おまえが俺に何の用があるってんだ?」と返され、挙句には「Yeah, yeah.」という言葉遣いにポールが「そんな刑事コジャックみたいな言い方(ニューヨーク訛りのアメリカ発音)するな!」と言い返すなど深い確執が存在したが、ビートルズのアラン・クレインとのマネージメント問題、アップルレコードの管理など一連の訴訟が解決に向かう中、1970年代も中頃になると、マッカートニーが自分のバンド「ウイングス」でアメリカ・ツアーを行なった際には時折レノンのもとを訪れるなど親交を取り戻すようになった。また1974年にはスティーヴィー・ワンダーらとともにジャム・セッションを行ない、「スタンド・バイ・ミー」や「ルシール」などロックンロールのスタンダードを一緒に演奏したテープも残されている。現在では、ポールはビートルズの楽曲を歌う際にジョンのパートを歌ったり、ジョンのソロ曲をカバーするなどしている。

ジョンとポールが最後に会った日はテレビ番組のネタで「『サタデー・ナイト・ライブ』にビートルズを出演させるとしたらいくら払う?」、「一流クラスの標準ギャラで3200ドル」という話を見た。2人は盛り上がり、「ダウンタウンならすぐ近くだ。これから2人で乗り込もうぜ!」と意気投合し、盛り上がった。実現はしなかったものの、ポールは「昔に戻れたみたいでとてもうれしかった」と語っている。

またレノンは「ポールの悪口を言っていいのは俺だけだ。他の奴が言うのは許さない」と発言した。ハリー・ニルソンや秘書・メイ・パンにでさえ、ポールの悪口を言うことは許さなかったという。またレノンは「人生のうちで2回、すばらしい選択をした。ポールとヨーコだ。それはとてもよい選択だった。」[16]と述べた。

次代のミュージシャンへの影響

ポールと並び、20世紀で最も影響力のあるミュージシャンとして知られる。その影響を与えたミュージシャンとして同僚のポールとジョージ、70年代に共演したエルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイ、ハリー・ニルソン、そしてU2ボノニール・ヤングオアシスリアム・ギャラガーを挙げている[17]

ジャクソン・ブラウンは「彼はつねに真実を述べた」と賛辞を送っている[18]。映画「イマジン」では、マイルス・デイヴィスとの交流も知られる。

本邦で編集されたNowhere誌の中で、元ポリススティングは「我々のようなロックミュージシャンが何ごとかを言えるのはジョンのおかげである」と語ったと報じている。

1995年発売のジョン・レノンのトリビュート・アルバム『Working Class Hero』のライナーノーツはTimes誌の記事を紹介し、「聞き手と非常に親密で個人的な関係を築く希有なミュージシャン」「複雑なリズム、コード進行によってロックの限界を拡張し、その発展に貢献した」と評した。

また、ヴォーカルの二重録音にヒントを得たエフェクターの一種のフランジャー開発への貢献、ヴォーカルの電気処理を導入したことでも知られる。

日本においては桑田佳祐が少年時代からの熱狂的なビートルズファンであり、多大な影響を受けたことを公言している。

ローマ教皇庁による赦免

ジョンの死後四半世紀を経た2008年11月、ローマ教皇庁(ローマ法王庁)はジョンの発言を赦す声明を教皇庁の日刊紙オッセルヴァトーレ・ロマーノ紙上で発表した。教皇庁は、有名になった若者が豪語したにすぎない、予想外の成功による自慢話だという見解を示し事件を収束させた[19]

日本との関わり

ビートルズとしての初訪日以降も、ヨーコと頻繁に訪日した。アルバム『ジョンの魂』発表直後の1971年1月13日から21日に訪日した際、同作品への俳句の影響を示唆し、日本語で「しぶいアルバム」と表現している[20]。 また、2人で歌舞伎隅田川を観劇し、感涙したという。その際に歌舞伎役者中村歌右衛門の楽屋を訪れたことが縁となり、ジョンは1975年に行われた歌右衛門の英国公演を支援している[21]

1977年から1979年には、ヨーコ、ショーンと毎年訪日し、東京京都、小野家の別荘がある軽井沢で夏を過ごした(合計約9ヶ月)。軽井沢では万平ホテルの旧館2階にも宿泊し、ホテル内の記念館にはジョンのサインを始め、欲しがったといわれるピアノなどが収められている[22]

日本人の知己としては、ビートルズとして訪日時に共にインタヴューを受けた加山雄三(初対面で、いきなりジョンが加山の後ろから目隠しをして加山を驚かせた)、ニューヨークのジョン夫妻の下で過ごした時期のある横尾忠則[21]、訪日時に食事を共にした内田裕也樹木希林夫妻、シンコーミュージック(当時)の星加ルミ子らが挙げられる。また、音楽評論家湯川れい子とジョン夫妻の交流は広く知られ、1980年12月5日にも、FM東京のラジオインタヴューを受けている[23]写真家篠山紀信は、アルバム『ダブル・ファンタジー』、『ミルク・アンド・ハニー』のカヴァー写真を撮影している。

日本での売り上げで、シングルでは「マザー」と「イマジン」、「スターティングオーバー」、「ラヴ」が上位を占める。アルバムは「イマジン」の他もオリコン総合チャートで「ジョンの魂」が5位、「マインド・ゲームズ」が6位、「ダブル・ファンタジー」が2位(単日では1位)、「ミルク・アンド・ハニー」が3位と洋楽アーティストの中でも有数の人気を誇っている。シングルとアルバムの合計で、オリコン誌では210万枚以上に達している。

ジョン・レノン殺害事件

1980年12月8日の午前中、自宅アパートのダコタ・ハウスでジョンはアニー・リーボヴィッツによる『ローリング・ストーン』掲載用写真のフォトセッションに臨んだ。11月に発売されたニューアルバム『ダブル・ファンタジー』では、整髪料をまったくつけないマッシュルームカットヘアスタイルにトレードマークの眼鏡を外し、ビートルズ全盛期の頃のように若返った姿が話題を呼んだが、この日のジョンはさらに短く髪をカットし、グリースリーゼント風に整え、眼鏡を外して撮影に臨んだ。その姿はデビュー前、ハンブルク時代を彷彿とさせるものであった(10月ごろには伯母ミミに電話で、「学生の頃のネクタイを出しておいてよ」と頼んでいる)。

ファイル:Lennon apartment.jpg
レノンの自宅のあったダコタ・ハウス

フォトセッションを終えてしばらく自宅でくつろいだ後、17時にはヨーコの新曲「ウォーキング・オン・シン・アイス」のミックスダウン作業のため、レノンはニューヨーク市内にあるレコーディングスタジオ「ザ・ヒット・ファクトリー」へ出掛けた。

一方、レノン夫妻は「ザ・ヒット・ファクトリー」にてラジオ番組のインタヴューを受ける。この最期のインタヴューで、レノンは新作や近況についてや、クオリーメン時代のこと、マッカートニーやハリスンとの出会いについて語っている。そして、「死ぬならヨーコより先に死にたい」、「死ぬまではこの仕事を続けたい」などと発言をしている[24]

22時50分、スタジオ作業を終えたレノンとヨーコの乗ったリムジンがアパートの前に到着した。2人が車から降りた時、その場に待ち構えていた犯人が暗闇から「レノン?」と呼び止めると同時に拳銃を両手で構え5発を発射、4発がレノンの胸、背中、腕に命中し、彼は「撃たれた! (I'm shot!) 」と2度叫びアパートの入り口に数歩進んで倒れた。警備員は直ちに911番に電話し、セントラル・パークの警察署から警官が数分で到着した。

警官の到着時にレノンはまだ意識があったが、既に大量出血し、一刻を争う危険な状態であった。そのため、2人の警官が彼をパトカーの後部に乗せ、近くのルーズヴェルト病院に搬送した。1人の警官が瀕死に陥っていたレノンの意識を保たせるため質問すると、声にならない声で、自分がジョン・レノンであること、背中が痛いことを訴えたというが、彼の声は次第に弱まっていった。病院到着後、医師は心臓マッサージ輸血を行ったが、レノンは全身の8割の血液を失い、失血性ショックによりルーズヴェルト病院で23時過ぎに死亡した。レノンの死亡時に病院のタンノイ・スピーカーから流れていた曲はビートルズの「オール・マイ・ラヴィング」だったという。

事件後犯人は現場から逃亡せず、手にしていた『ダブル・ファンタジー』を放り出し、警官が到着するまで『ライ麦畑でつかまえて』を読んだり、歩道をあちこちそわそわしながら歩いていた。彼は逮捕時にも抵抗せず、自分の単独犯行であることを警官に伝えた。被害者がジョンであることを知った警官が、「お前は、自分が何をしでかしたのか分かっているのか?」と聞いたときには、「悪かった。君たちの友達だっていうことは知らなかったんだ」と答えた[25]

病院でレノンの死を伝えられたヨーコは「彼は眠っているということ?」と聞き返したという[26]。後に病院で記者会見が行われ、スティーヴン・リン医師はレノンが死亡したことを確認し、「蘇生のために懸命な努力をしたが、輸血および多くの処置にもかかわらず、彼を蘇生させることはできなかった」と語った。

レノンの殺害に関して、レノンの反戦運動やその影響力を嫌った「CIA関与説」などの陰謀説も推測されたが、公式には単独犯行として結論づけられている。犯人のマーク・チャップマンはニューヨーク州法に基づいて仮釈放の可能性がある無期刑の判決を受けた。チャップマンは服役開始から20年経過した2000年と、その後は2002年、2004年、2006年、2008年、2010年、2012年と2年ごとに仮釈放審査の対象になったが、本人が反省していない、再犯の可能性が高い、遺族が強く反対している、釈放したらレノンのファンから復讐で殺される可能性がある、などの理由でいずれも仮釈放申請を却下され、2013年時点で服役中である。

ファイル:John Lennon new york.JPG
ダコタ・ハウスからすぐのセントラルパークにあるレノンを偲ぶ「イマジンの碑」

この事件は、元ビートルズの3人にも大きなショックを与えた。カナダに滞在中だったリンゴは後に妻となる女優のバーバラ・バックとともにニューヨークに飛び、ヨーコとショーンを見舞った。マッカートニーは「ヒア・トゥデイ」を、ハリスンは「過ぎ去りし日々」(ポール、妻リンダデニー・レインジョージ・マーティンがバック・コーラスで、リンゴがドラムで参加)をレノンの追悼曲としてそれぞれ発表した。

また世界中のミュージシャンたちもこの事件にショックを受けた。ザ・ローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズは「ジョンを殺した犯人に対しては、憎しみが薄れることはなく増すばかりだ」「ジョンを殺した奴を、オレが必ず撃ち殺してやる」と発言している。

日本ではビートルズ・シネ・クラブにファンからの電話が殺到し、同クラブ主催による追悼集会が日比谷野外音楽堂で行われ、『心の壁、愛の橋』のフォト・セッションでの巨大写真が掲げられ、ステージにはその後キャンドル片手に街を行進した。その後も節目ごとに追悼イヴェントが行なわれている。

ディスコグラフィ

音楽作品についてはジョン・レノンの作品を参照。

EMIミュージック・ジャパン (旧 東芝EMI) リリース作品についてはhttp://www.emimusic.jp/international/artists/johnlennon/も参照。

映像作品

フィクション

音楽ビデオ・クリップ集

ライヴ演奏

ドキュメンタリー・記録

関連

書籍

自著

  • 絵本ジョン・レノンセンス(訳:片岡義男・加藤直、晶文社、1975年12月) - In His Own Write (1964年)
  • らりるれレノン ジョン・レノン・ナンセンス作品集(訳:佐藤良明筑摩書房、2002年12月) - A Spaniard in the Works (1965年)
  • 回想するジョン・レノン―ジョン・レノンの告白 (訳:片岡 義男 草思社 1974年)
  • 空に書く ジョン・レノン自伝&作品集(訳:森田義信、筑摩書房、2002年12月) - Skywriting by Word of Mouth (1986年)
  • Ai ジョン・レノンが見た日本(序:オノ・ヨーコちくま文庫、2001年12月) - Ai: Japan Through John Lennon's Eyes: A Personal Sketchbook (1992年)
  • リアル・ラヴ ショーンのために描いた絵(序:オノ・ヨーコ、徳間書店、2000年5月) - Real Love: The Drawings for Sean (1999年)

第三者による伝記

  • 素顔のジョン・レノン (シンシア・レノン著 江口大行訳 シンコーミュージック・エンタテイメント 1981年)
  • ジョン・レノン(レイ コールマン著 岡山徹訳 音楽之友社 1986年)
  • ジョン・レノン―愛こそはすべて (トニー・ブラッドマン著 坂本真理訳 佑学社 1987年)
  • ジョン・レノン IN MY LIFE (ケヴィン・ホウレット, マーク・ルイソン著 中江昌彦訳 日本放送出版協会 1991年)
  • ジョン・レノン (マイケル・ホワイト著 乾侑美子訳 偕成社 1999年)
  • ジョン・レノン (レイ・コールマン著 岡山徹訳 音楽之友社 2002年)
  • ジョン・レノンに恋して (シンシア・レノン著 吉野由樹訳 河出書房新社 2007年)
  • ジョン・レノン ロスト・ウィークエンド Instamatic Karma (メイ・パン著 山川真理訳 河出書房新社 2008年)

主な使用楽器

アコースティック・ギター

ギブソン・J-200
アルバム『ザ・ビートルズ』のレコーディング・セッションからメインに使われた。ジョージも使用しており、ジョージが所有していたものを借りたという説があるが、ジョンとジョージがこのギターを同時に持って写った写真が確認されている。
フラマス12弦ギター
映画『ヘルプ!4人はアイドル』の「悲しみはぶっとばせ」演奏シーンにも登場したギター。
マーティン・D-28(Martin D-28)

2台の所有が写真で確認され一台目はポールと同時期のもので67年製、 もう一台は解散後に入手したものと思われる1950年代中期〜後期の物である。

エレクトリック・ギター

リッケンバッカー・325(Rickenbacker 325)(1本目)
ジョンが初めて入手したリッケンバッカー。1958年製。ショートスケール。元々、購入当時はナチュラルカラー(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「メイプル・グロー」)で、コフマン・ヴァイブローラが付けられていた(後にビグスビーB5・トレモロユニットに交換)。トゥーツ・シールマンスをハンブルク巡業で見て影響されて購入した。1962年後半にはブラックの塗装を施し、1964年までメインギターとして使用。その後2本目のリッケンバッカー・325に移行してから、一度も表舞台へ出ることがなかったため、『エド・サリヴァン・ショー』の収録現場で盗難にあったとの説が長い間語られていた。しかし近年になり、ジョンが保管し続けていたことが判明。1970年代初頭にブラックから、元のナチュラル塗装へ戻すリペアが施されていた。ピックガードもオリジナルは1964年時点ですでに割れが生じていたためか、白いアクリル製のものに交換されていた。この状態で、2000年10月9日から2010年9月30日まで、さいたまスーパーアリーナ内に存在したジョン・レノン・ミュージアムにて展示されていた。
また、近年リッケンバッカー社からジョンが購入当時の仕様を再現した「リッケンバッカー325C58」(Cシリーズ)が発売された。当時の仕様を再現するため、日本でビートルズ使用楽器を主に扱っているギター・ショップ「with」でリペアを担当する大金に依頼し、ジョン・レノン・ミュージアムに何度か通い、その調査のメモを参考に再現された。現在は生産終了となっている。
リッケンバッカー・325(Rickenbacker 325)(2本目)
ジョンがリッケンバッカー社にオーダーして作らせた2本目のリッケンバッカー。1964年製ブラックカラー(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「ジェット・グロー」)。1本目の325よりもボディは薄くなっており、台形のブリッジにトレモロアームが付いているなど、細かい点で仕様が異なる。ネックは3ピース・メープル・ネック。1964年のクリスマスショーの最中にジョンが落としてしまいネックが破損する。1965年いっぱいまでメインギターとして使用された。1967年の「サージェント・ペパーズ〜」レコーディングセッション中スタジオ内に置かれている写真が残されているものの、実際に使用されたかどうかは不明。
1本目のリッケンバッカー・325とともにジョンレノン・ミュージアムに展示されていた。裏から見るとネック裏の傷がはっきり見て取れる。またビートルズの1965年のイギリス公演のセットリスト(曲名は略記してある)が書かれた小さな紙が、向かって左のカッタウェイ側面にテープで貼られたままになっている。
リッケンバッカー・325(Rickenbacker 325)(3本目)
1965年、ポール・マッカートニーに贈られた4001ベースと同時に、リッケンバッカー社よりイギリス代理店のローズ・モーリス社を通じてプレゼントされたもの。当時のヨーロッパ市場での市販品で、欧州でのモデル名は1996となっている。仕様は基本的に2本目に準じるが、カラーが4001ベースやジョージ・ハリスンの360-12と同じファイア・グロー(チェリー・サンバースト)で、ボディの左側にfホールが開けられている。1965年のイギリス公演で2本目と併用された。使われなくなった1966年以降、リンゴ・スターに譲渡された。
リッケンバッカー・325-12(Rickenbacker 325-12)
ジョンがリッケンバッカー社にオーダーして作らせた325の12弦タイプ。1964年製ブラックカラー(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「ジェット・グロー」。
本来、325など末尾に5が付くモデルはトレモロ・アーム付きだが、このギターが製作された時期は、まだそれが徹底されておらず、このギターもアームが付いていないにも関わらず325-12となっているが、1964年より、末尾に5が付くモデルはアーム付きであることが徹底されたため、320-12と改番された。
現在は、オノ・ヨーコが所有。
ギブソン・J-160E(1本目)
1962年9月にジョージと一緒に購入したエレクトリック・ギター。ボディ・カラーはサンバースト。ボディ・シェイプはJ-45と同じだがネックのジョイント位置が異り、ボディ内部の構造も異なる、J-45がXブレイシングに対してJ-160Eがラダーブレイシングとなる。ヘッドシェイブは大型でインレイも入りJ-45とは全く違う、糸巻きもJ-45が三連に対し独立型になる、糸巻のツマミ部分もコブが二つあるタイプ。
ボディ・トップはハウリング防止のため、合板を使用している。そのため生音で鳴らした場合、通常のアコースティック・ギターより鳴りが抑えられ音量も小さいが、J-160Eでしか出せない独特の生音でありビートルズ・サウンドの大きな要素となっている。
カヴァーのないP-90ピック・アップがフィンガーボードの付け根の所に付けられており、そこから音を拾ってアンプなどへ出力する。この音もまた初期ビートルズ・サウンドを生み出している要素である。1963年末に消失。盗難説と破損説があり、ジョンは盗まれたと思っているが、後に語ったジョージの証言によると「運搬中のトラックの荷台からケースごと落下しバラバラになった」とのこと。ちなみに最近の調査で、現在ジョージの遺族が保管するジョージのJ-160Eは、元々購入時にはジョンのものであったことがシリアル・ナンバーから判明。まったく同じ仕様であるため、途中から互いのギターを取り違えて使っていたようである。
ギブソン・J-160E(2本目)
2本目のJ-160Eは1本目とは若干仕様が異なる。大きな違いはサウンドホール周りのリング、1台目がワンリングに対して2台目はツーリング、ブリッジも1台目が木製に対して2台目が黒いプラスティック製になる。
ジョンが生涯愛したギターである。1966年にはピック・アップがサウンド・ホール後方に移設される。1967年には波形のサイケデリック・ペイントが施されるが、1968年にはエピフォン・カジノらと共に塗装を剥がされ、ピック・アップの位置も復元される。ピック・ガードも形状の異なる新たなものが取り付けられた。1969年のベッド・インのときには、ボディにジョンとヨーコの似顔絵イラストが描かれていた。「ジョン・レノン・ミュージアム」にそのときの状態のレプリカが展示されていた。実物はアメリカ・オハイオ州クリーヴランドにあるロックの殿堂に展示されている。
フェンダー・ストラトキャスター
ボディ・カラーはソニック・ブルー。主に『ラバー・ソウル』レコーディング・セッションで、ヴォックスAC30に繋いで使用。映画『イマジン』など、アルバム『イマジン』制作風景を納めたフィルムにおいて、ジョージ・ハリスンが使用している、ネックを50年代製のメイプル・フィンガーボードのものに交換されたモデル(さらにリフィニッシュして『コンサート・フォー・バングラデシュ』で使用)のボディとアッセンブリが、それと同一品とする説がある。1980年のフォト・セッションで、当時の新品であった赤いザ・ストラトを弾いているものがある。
エピフォン・カジノ
1965年に、以前から同器を使用していたポール・マッカートニーに勧められてジョージ・ハリスンと共に購入。ジョージのカジノとは色合いや仕様(トレモロアームの有無など)で若干の違いがある。同年の『ラバー・ソウル』セッションから使い始め、1966年からはジョージと共にコンサートでのメインギターとしても使用。日本公演でも使用した。
元々のボディ・カラーは黄色味がかったサンバーストであったが、1967年の『サージェント・ペパーズ〜』レコーディングセッション中に、ボディ裏面を白くスプレーしている。同年の「愛こそはすべて」の衛星中継リハーサルにて、ジョージがこのギターを借りて使用している(本番では自身のストラトキャスターを使用)。翌1968年の「ヘイ・ブルドッグ」レコーディング直後にボディのサンバースト塗装を剥がして木の地肌を露出させたナチュラル仕上げにする。この頃ビートルズのメンバーは、ギターの塗装をはがすことによる音質の変化に期待していたようで、ジョージ・ハリスンのカジノとポール・マッカートニーのリッケンバッカー4001Sも塗装をはがしナチュラル仕上げを施している。同時に、リアピックアップのヴォリューム・ノブを、標準のゴールドからブラックに差し替えた。その後、1971年の『イマジン』レコーディング・セッションまで使用。その後、コレクションとして大切に保管していた。
ブリッジ・サドルは現行の仕様とは異なり、プラスティック樹脂を使用している。そのため音が若干柔らかめになっている。
ジョン・レノン・ミュージアムに、ブラックノブと共に展示されていた。
ギブソン・レスポール・ジュニア
1971年、ニューヨークに移住してから入手。当時ジョンは、ボブ・マーリーをはじめとしたレゲエに心酔しており、マーリーが同じモデルを使用していたため、それに倣って入手したという。ギブソンJ-160Eやエピフォン・カジノと同じくP-90ピック・アップを搭載しており、ジョンのギター・サウンドにおける指向が窺える。フロントに、ギブソンES-150用のオールドタイプのピック・アップ(通称チャーリー・クリスチャンPU)を追加、PUセレクターの増設、ブリッジとテイルピースの交換を施し、より実用性を高めている。カラーは、当初サンバーストだったが、チェリー・レッドにリフィニッシュされた。アルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』レコーディングや、1972年のTV番組『マイク・ダグラス・ショー』出演時に使用されたが、1972年8月30日にNYのマディソン・スクエア・ガーデンで行われたチャリティ・コンサート『ワン・トゥ・ワン』での使用が最も有名。
ジョン・レノン・ミュージアムに展示されていた。
また、実物を再現したシグネイチャー・モデルが発売されており、福山雅治ASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文らが愛用している。

アンプ

ヴォックス・AC30(VOX AC30)
ビートルズ・デビュー前から初期まで(中期ではフェンダーなどのアンプと併用)のレコーディングにおいて最もよく使用されたアンプ。真空管を使用しているため独特な粘りのあるサウンドで、個々のギターの特徴と混じり合って音を出す。なおライヴでも使用されることはあったが出力が低いため、当時のSR(PA)システムでは巨大な会場でのライヴには向かなかった。
ヴォックス・AC50(VOX AC50)
ヴォックス・スーパー・ビートル(VOX SUPER BEATLE, VOX AC100, VOX AC200)
ライヴにおいて観客からほとんど音が聞こえない状況を打開するため、出力の低いAC30などのアンプに代わって、ヴォックス社よりビートルズのライヴのために開発・提供された大型で高出力のスタックアンプ。100Wのものと200Wのものがあり真空管を使用し粘りのあるサウンド。ヴォリュームを最高にして使用しているようで、その分、アンプの持つサウンドより箱鳴りのサウンドの方が大きく聞こえる。1966年の日本公演の1日目と2回目公演でAC100を使用。現在は生産停止。
フェンダー・ツインリヴァーブ
主にビートルズ中期以降に使用。中期ではヴォックス社との契約上の理由から、ライヴや映像では出てこないが、レコーディングではフェンダー社製アンプも使用されていた。ビートルズ活動末期に撮影された映画『レット・イット・ビー』にて使用されている様子を確認できる。ジョンはフェンダー・ベースVIを接続して演奏していた。

その他

ホーナー・ブルース・ハープ(M.HOHNER BLUES HARP)
いくつかの書籍などにホーナー・マリンバンドと書かれていることがあるが、レノンが所有していたのはブルース・ハープ。「ブルース・ハープ」は10穴ハーモニカの総称ではなく、ホーナー社の10穴ハーモニカの機種名のひとつ。
(レノン50回目の誕生記念に愛用品の展示会が行われた時、なぜかマリンバンドと紹介されていたが、そこにあったのは3本の「M.HOHNER BLUES HARP」と刻印されたハープで「MARINE BAND」と刻印されたハープではなかった。同カタログ本にもブルース・ハープの写真にマリンバンドと間違いで紹介されている)。初期によく使っていたCのブルースハープはハンブルクの楽器店で万引きしたもの。

参考・脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. テンプレート:Cite web
  2. 最初の妻シンシアの回顧本「ジョン・レノンに恋して」(2007年) によると、ジュリアに気づいた警官が、慌ててブレーキとアクセルを踏み違えたことで起こった事故である。警官に下った判決は「無罪」である。
  3. スチュアートと並んでベースを演奏している写真がある。
  4. 『ジョン・レノンの真実 ― FBI監視記録 DE‐4~HQ‐33』 (ジョン・ウィーナー著、角川書店、2000年) 。また一連の事件をまとめた映画『PEACE BED/アメリカ vs ジョン・レノン』が2006年に公開された (日本公開は翌年) 。
  5. ジョンは再入国禁止処分に対する抗告と裁判を1975年10月まで行い、最終的にジョン側が勝訴した。
  6. 集英社刊: 「プレイボーイ」 (1981年) 1月号「ジョンレノン・ラストインタビュー」
  7. 7.0 7.1 7.2 ジョン・レノンラスト・インタビュー (文庫) ジョン・レノン (著) 、John Lennon (著) 、オノ・ヨーコ (著) 、アンディ・ピーブルズ (著) 、Andy Peebles (著) 、池澤 夏樹 (著) 中公文庫 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "lastintavew"が異なる内容で複数回定義されています
  8. ビートルズ音楽論―音楽学的視点から、田村和紀夫著 東京書籍
  9. シンコーミュージック刊: ジョン・レノン全曲解説 ジョニー ローガン (著) 、Johnny Rogan (原著) 、丸山 京子 (翻訳)
  10. シンコーミュージック刊: ギターマガジン、トニー・レヴィン特集、インタヴュー所収記事
  11. シンコーミュージック刊: ギターマガジン、ジョンレノン特集、スピノザ・インタヴュー所収記事
  12. ミュージックマガジン刊: レコードコレクターズ2002 vol.12, No.12, 96ー99サエキけんぞう
  13. ビートルズ音楽論―音楽学的視点から、田村和紀夫著
  14. ビートルズのつくり方」1994 山下邦彦 著
  15. ラム』でのマッカートニーのレノンへの皮肉は『イマジン』における『ラム』のパロディー、「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」におけるマッカートニー作品が軽音楽のようだという歌詞、『ウィングス・ワイルド・ライフ』における「ディア・フレンド」がレノンを指すなど
  16. ジョンレノン 愛の遺言」 (講談社1980年12月8日収録インタヴュー、1981年刊行)
  17. 雑誌「ローリングストーン」において。
  18. [1]
  19. ローマ法王庁、J・レノンの「キリスト」発言を許す ロイター通信 2008年11月23日
  20. シンコーミュッジック刊、1972年 ビートルズの軌跡所収、水原健二インタヴュー、1971 (昭和46) 年1月21日、372p
  21. 21.0 21.1 河出書房新社刊 別冊文藝 ジョンレノン所収
  22. ニューヨーク日本語を学んでいた際に、ジョンが使用していたノートは、Ai 〜 ジョン・レノンが見た日本 (ちくま文庫・2001年) として出版された
  23. ミュージックマガジン、ジョンレノンを抱きしめて、1981年、2000年復刊所収
  24. このインタヴューの一部は2001年にリリースされたアルバム『ミルク・アンド・ハニー』のリマスター盤に収録されている
  25. Albert Goldman, The Lives of John Lennon, Chicago Review Press, 2001 (1988), p. 687.
  26. Albert Goldman, The Lives of John Lennon, Chicago Review Press, 2001 (1988), p. 688.