ラッシャー木村
テンプレート:Infobox プロレスラー ラッシャー木村(ラッシャーきむら、1941年6月30日 - 2010年5月24日[1])は日本の元プロレスラー、元大相撲力士である。本名は木村 政雄(きむら まさお)。北海道中川郡中川町出身。
後期のエースを務めた国際プロレスでは「金網デスマッチの鬼」の異名を持つブルファイターとして活躍し、全日本プロレスおよびプロレスリング・ノア在籍時はユーモアあふれるマイク・パフォーマンスで親しまれた。2003年よりプロレスリング・ノア終身名誉選手会長。
目次
来歴
力士時代
佐久中学校を経て北海道天塩高等学校に進学、ポール牧とは同級生であった。夢であるプロレスラーになるための基礎体力作りとして、高校を中退して大相撲の宮城野部屋に入門。1958年3月場所初土俵、四股名は木ノ村(きのむら)。幕下20枚目まで昇進したが「十両に上がったら辞められなくなる」という理由で1964年9月場所限りで、親方(元横綱・吉葉山)の慰留を振り切り脱走して廃業した。尚、入門のきっかけは相撲好きだった兄と宮城野部屋へ稽古の見物に行った際にちゃんこをご馳走になり、親方が「いい体をしている。うちの部屋に入らないか?」と誘われたからだという。この時のことを木村本人は、1996年10月11日放送のテレビ番組『世界超偉人伝説』へ出演した際、「ちゃんこをご馳走になった手前、断れなかったんですよ(笑)」と語っている。
国際プロレス時代
大相撲廃業後、1964年10月に日本プロレスに入団[2]。豊登の付き人をしていた関係から1966年に東京プロレスの旗揚げに参加し、1967年の東京プロレス崩壊後は吉原功に口説かれて国際プロレスに移籍[2]。1969年1月1日にリングネームをラッシャー木村に改名[3]。同年8月に渡米し、カンザスおよびミズーリのNWAセントラル・ステーツ地区を主戦場に活動、1970年2月には当時のNWA世界ヘビー級王者ドリー・ファンク・ジュニアとも対戦した[4]。アメリカでは覆面を被り、シャチ横内とジ・インベーダーズ(The Invaders)なるタッグチームを結成していたこともある[2]。
1970年8月に凱旋帰国し、10月8日には大阪府立体育会館にてドクター・デスを相手に、日本初の金網デスマッチを行う。第2戦となる12月12日のオックス・ベーカー戦で左足を複雑骨折する重傷を負うも、以降もダニー・リンチ、キング・イヤウケア、バロン・シクルナ、バディ・オースチン、ラーズ・アンダーソン、スカンドル・アクバ、リック・フレアー、オレイ・アンダーソン、ザ・ブルート、レネ・グレイ、セーラー・ホワイト、バロン・フォン・ラシク、レイ・スティーブンスらに連勝。金網デスマッチでは不敗を誇り、「金網の鬼」の異名が定着した[2]。1974年6月5日の山形県米沢大会では、ホワイトと日本初の金網チェーン・デスマッチを行っている。
1973年5月14日には、グレート草津をパートナーにマッドドッグ・バション&イワン・コロフからIWA世界タッグ王座を奪取[5]。以降、1975年4月にタイトルを返上するまで、テキサス・アウトローズ(ダスティ・ローデス&ディック・マードック)、ミネソタ・レッキング・クルー(ジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソン)、ハリウッド・ブロンズ(ジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツ)、ザ・キウイズ(ニック・カーター&スウィート・ウィリアムス)、スーパースター・ビリー・グラハム&バロン・フォン・ラシク、ワフー・マクダニエル&レッド・バスチェン、AWA世界タッグ王者チームのニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスなど、当時のアメリカでもトップクラスの強豪チームを相手に防衛を続けた[6]。このうち、1974年3月31日に北海道釧路大会で行われたジム・ブランゼル&ザ・ブルートとの防衛戦は、木村初の金網タッグ・デスマッチとなった[7]。
1973年6月19日、茨城県笠間大会にてストロング小林がダスティ・ローデスを下しIWA世界ヘビー級王座を防衛した直後、小林に挑戦状を突きつけ[8]、同年7月9日の大阪府立体育会館で小林VS木村の同門対決となるIWA世界ヘビー級王座戦が実現、1954年12月22日の力道山VS木村政彦戦以来となる大物日本人選手同士のタイトルマッチとなった(小林が勝利し王座防衛)[9]。同年10月には『IWAワールド・シリーズ』第5回大会の決勝戦でブラックジャック・マリガンを破り、シリーズ初優勝を果たしている。
1974年の小林離脱後は、一度はマイティ井上に先を越されるも、1975年4月19日にマッドドッグ・バションを破りIWA世界ヘビー級王座を獲得[10](これに伴い、IWA世界タッグ王座を返上)。以後、国際プロレスが消滅する1981年夏まで、6年間に渡ってエースとして活躍した。この時期はバションをはじめ、ジプシー・ジョー、キラー・トーア・カマタ、ワイルド・アンガス、アレックス・スミルノフ、モンゴリアン・ストンパー、キラー・ブルックス、リップ・タイラー、ジョー・ルダック、上田馬之助などのラフファイターと流血戦を繰り広げる一方、ビッグ・ジョン・クインやマイク・ジョージと正統派のパワーレスリングを展開。1975年6月6日にはアントニオ猪木に挑戦状を突きつけ、同年12月20日にはジャイアント馬場に挑戦を表明した[11]。全日本プロレスとの交流戦では馬場やジャンボ鶴田とも対戦した(1976年3月28日の蔵前国技館における鶴田戦は、東京スポーツ新聞社のプロレス大賞において年間最高試合に選定されている[2])。1977年3月には、4年ぶりに開催された『IWAワールド・シリーズ』第6回大会の決勝戦でマッドドッグ・バションに勝利、シリーズ連覇を果たす。
1978年11月には、鶴田、草津、井上、アニマル浜口、キム・ドク、ミスター・サクラダ、ミスター・ヒト、ディーン・ホーらが参加した『日本リーグ争覇戦』において、決勝戦でプロフェッサー・タナカを破り優勝[2]。1979年8月26日の『プロレス夢のオールスター戦』では、セミファイナルで因縁のストロング小林に勝利。同年10月5日にはAWA世界ヘビー級王者ニック・ボックウィンクルとIWAとAWAのダブル・タイトルマッチを行い、反則勝ちを収めている[12]。同年はアンドレ・ザ・ジャイアントやバーン・ガニアとのIWA王座戦も行われた。1980年12月13日には新日本プロレスのリングで、7年前とは逆にストロング小林を挑戦者に迎えてのIWA世界ヘビー級王座戦が実現、小林から初のフォール勝ちを収めた。
新日本プロレス参戦
1981年10月、国際プロレスの解散に伴い残党のアニマル浜口、寺西勇と共に新日本プロレスに参戦し、アントニオ猪木との抗争を開始。当初は新日本対国際の団体対抗戦が行われるはずだったが、新日本の手法に反感を持っていたマイティ井上らが全日本プロレスへの移籍を選択、最終的に新日本に登場した選手は木村・浜口・寺西の3人だけとなったものの、人気絶頂のアントニオ猪木に対する悪役ユニット「はぐれ国際軍団」のリーダーとしてヒールを演じた。
1982年には久々にアメリカに遠征し、ミスター・トヨ(Mr. Toyo)のリングネームでロサンゼルス地区を短期間サーキット、国際プロレスの後輩であるミスター・ゴーこと剛竜馬をパートナーにNWAアメリカス・タッグ王座を獲得した[13]。以降も浜口と寺西を従え、猪木1人を相手に3対1のハンディキャップマッチを2度に渡って行うなど話題を集めたが、IWGP構想の中で次第にメインストリームから外れていき、1983年下期からは浜口と寺西が長州力率いる維新軍に加わったため国際軍団は解散。その後はバッド・ニュース・アレンと共闘するなど、外国人サイドから単独での参戦を続けた。
1984年、新日本で勃発した内紛によって、前田日明らと第一次UWFの旗揚げに創設メンバーとして参画。UWF草創期の重鎮的存在となったが、数か月で剛竜馬と共に離脱した。
全日本プロレス移籍
UWF離脱直後に全日本プロレスへ移籍。1984年の世界最強タッグ決定リーグ戦でジャイアント馬場にタッグパートナーとして抜擢されたにもかかわらず、愛知県体育館での試合中に謀反した。これら一連の動きを木村は「(プロレス人生で)自分の意思で動いたのは、これが初めてだった」と述懐したが木村を「馬場の最良のパートナー」と評した専門誌もあった。
以後、国際プロレスの残党である剛竜馬と鶴見五郎、アポロ菅原、高杉正彦と「国際血盟軍」を結成。全日本軍と敵対するアングルが組まれ、試合後に馬場を挑発するマイクパフォーマンスが次第に注目を集めたが、ジャパンプロレス勢の参戦など日本人選手の過剰により剛、菅原、高杉は全日本プロレスを解雇され、以降は鶴見とのタッグで活動。ヒットマンのキャラクターで一匹狼となった阿修羅・原とも一時的に共闘した。
その後はフェイスターンし、馬場との「義兄弟コンビ」で1988年の世界最強タッグ決定リーグ戦に出場。体力の衰えからミッドカード戦線での活動を余儀なくされたものの、馬場のことを「アニキ!」と呼び、後に百田光雄を加えて「ファミリー軍団」を結成、悪役商会(永源遙、大熊元司、渕正信ら)を相手にユーモラスな前座試合を展開し、当時の全日本プロレスのコンセプト「明るく・楽しく・激しいプロレス」の「明るく・楽しく」を担った。だが、1989年11月29日、札幌中島体育センターで最強タッグリーグ戦として行われた馬場&木村vs天龍源一郎&スタン・ハンセン戦では、入場時の天龍の攻撃により馬場が昏倒したため、10分以上にわたって木村ひとりが天龍とハンセンの攻撃を流血しながらも真正面から受け続けるという、国際在籍時代や猪木との抗争時代を髣髴とさせる「激しい」試合を展開したこともある。
そのユニークなキャラクターが買われ、土曜深夜の『三宅裕司のいかすバンド天国』(TBS)にレギュラー審査員として出演、その際は一人だけピンマイクではなく手持ちのマイクで喋っていた。国際プロレス時代の寡黙なブルファイターのイメージとは180度異なるコミカルな存在となったが、彼のマイクパフォーマンスは桑野信義も『志村けんのだいじょうぶだぁ』で物まねをするなど、プロレス界の名物として定着した。
ノア立ち上げ - 引退
馬場の病没後、全日で再度顕在化した内紛を経てプロレスリング・ノアに立ち上げメンバーとして参加。
2001年に還暦を迎えて生涯現役を宣言。翌年には馬場を抜いて日本人最高齢のレスラーとなるが精彩を欠き(最晩年にはまったく攻撃をしないまま終わる試合も珍しくなかった)、2003年3月の日本武道館大会を最後に体調不良により長期欠場に入る。
2004年7月10日、体力の限界と「これ以上関係各者に迷惑をかけられない」との理由で東京ドーム大会にビデオレターを送って引退を表明し、以降、公の場から姿を消した。
同年12月にはノアの終身名誉選手会長への就任が発表され、その後は病状など一切公表されなかったが、毎年の「選手興行」のポスターには顔写真が掲載された。「プロレス格闘技DX」内のノア公式ウェブサイトにて、ファンからの「木村さんは今でもノア所属なのか」との質問には三沢光晴社長が「終身名誉選手会長であり、現在も所属である」と答えていた。実は還暦を迎えた際、全日移籍の前に年金未納期間があったことが判明し、未納分の払込が完了し受給資格を得られるまで引退後もノアの社員として雇用することにしたという[14]。
死去
2010年5月24日、腎不全による誤嚥性肺炎のため死去。テンプレート:没年齢。
関係者によると現役引退直後に脳梗塞で倒れ、車椅子生活であったという[15]。木村が体調を崩して公の場から去った後、浜口や鶴見などかつての国際プロレスの仲間やプロレス評論家が見舞いを希望したが[16]、木村本人は頑として誰にも会おうともしなかったことを浜口や門馬忠雄が語っている[17][18]。
なお、死去に際しては親族のみで葬儀を行ったことから、プロレスリング・ノア主催のお別れの会を2010年6月26日にディファ有明にて開催し、アニマル浜口が「プロレス界はあなたを忘れることはありません」と涙ながらに弔辞を読み、遺影に向かって「気合だ!」を叫んで故人を偲んだ[19]。
また同日にディファ有明で行われた "プロレスリング・ノア創立10周年記念" 『Summer Navig.10 part1』シリーズ開幕戦が、『ラッシャー木村追悼興行』と銘打って開催された[20]。
略歴
- 1958年 大相撲宮城野部屋入門(四股名:木ノ村)
- 1964年 相撲を廃業。日本プロレス入門
- 1965年4月2日 対高崎山猿吉(北沢幹之)戦(東京リキ・スポーツパレス)でプロレスデビュー
- 1966年 東京プロレスの設立に参加、日本プロレスより移籍
- 1967年 東京プロレス崩壊。国際プロレス入団
- 1969年 リングネームを本名の木村政雄からファンから公募した「ラッシャー木村」に変更
- 1970年 日本初の金網デスマッチを行い勝利(対ドクター・デス)
- 1973年 ブラックジャック・マリガンを破り、IWAワールド・シリーズ初優勝(第5回大会)
- 1975年 マッドドッグ・バションを下してIWA世界ヘビー級王者となる
- 1976年 全日本プロレスとの対抗戦で、ジャンボ鶴田と対戦(引き分け)
- 1978年 東京12チャンネルの特撮番組『スパイダーマン』(東映制作)にカメオ出演
- 1981年 国際プロレス崩壊後、アニマル浜口、寺西勇とともに「国際軍団」を結成、新日本プロレスにヒールとして殴り込み
- 1984年 第一次UWF旗揚げに参加。短期間(4 - 10月)で離脱、11月より全日本プロレスに参戦
- 1990年 日本テレビ『いけない女子高物語』に出演
- 2000年 プロレスリング・ノアの旗揚げに参加
- 2001年 還暦記念試合を行う(満60歳)
- 2004年 プロレスリング・ノア東京ドーム大会にて自ら引退を発表
- 2010年5月24日 腎不全による誤嚥性肺炎のため死去[1]
得意技
- ブルドッギング・ヘッドロック
- ラッシング・ラリアット
- クロスチョップ
- 逆水平チョップ
- ヘッドバット
- パイルドライバー
- ラッシャー・スープレックス
- バックドロップ
- 逆エビ固め
- 裏4の字固め
- アルゼンチン・バックブリーカー
- 回転4の字固め
- 逆足4の字固め
- 風車吊り(ベア・ハッグの変形技)
- エクスプロイダー(秋山準を意識してフィニッシュアピールから技を掛けるが、持ち上げるところでカットされ技を決められないというノア時代の定番ムーブ)
- 永源遙の唾吐きのアシスト(誤爆も多く、しょっちゅう顔面に浴びる憂き目に遭っていた)
獲得タイトル
- IWA世界ヘビー級王座:5回[10]
- IWA世界タッグ王座:2回(w / サンダー杉山、グレート草津)[5]
- TWWA世界タッグ王座:1回(w / サンダー杉山)
- IWAワールド・シリーズ優勝:2回
- 日本リーグ争奪戦優勝:1回
入場テーマ
- "Skydiver"(ダニエル・ブーン) - 国際プロレス時代
- "Rebirth of the beat"(サンディ・ネルソン) - 国際プロレス末期〜国際軍団時代、およびファミリー軍団時代
- "安息の後ろ側(SOFA BACK)"(FM) - 国際血盟軍時代
- "江戸の旋風 メインテーマ"(服部克久) - プロレスリング・ノア時代
マイク・パフォーマンス
木村の独特でゆったりとした間で繰り出すマイク・パフォーマンスは観客の受けが非常に良く木村の試合終了後、観客から「マイク! マイク!」とマイク・パフォーマンスを求めるマイク・コールは木村が引退するまで定番となっていた。時事ネタから観客に対しての感謝・気遣い、同僚レスラーいじりなどバリエーションは豊富であった。彼のネタにされる選手達は、木村のマイク・パフォーマンスを嫌がっていたが「観客が求めるから」と仕方なく許していたと言う。馬場曰く「最初は、なんてイヤなことをするんだろうと思っていたが、そのうちお客さんが(マイク・パフォーマンスがないと)許してくれなくなっちゃったんですよ」と語っていた。
「こんばんは」事件
1981年9月23日、田園コロシアムで行われた新日本プロレスの興行に浜口を連れて現れた木村はリング上でアナウンサーからマイクを向けられると、決意表明に先立ち、まずは集まってくれた観客に対し挨拶をしなければと思い、「こんばんは…」と丁重に挨拶を行なった。これは団体対決に付き物の殺伐とした雰囲気を好む当時のファンを拍子抜けさせ、会場の失笑を買った。あまりにもおかしかったため当時ビートたけしが「こんばんは、ラッシャー木村です」とネタにしたこともあって、世間にギャグとして広まってしまった(ここからラッシャー木村のお家芸が金網からマイク・パフォーマンスになる)。たけしについては当時自分の弟子を集めて結成した「たけし軍団」の一人に「ラッシャー板前」という名前をつけて、木村と同じ黒のロングタイツをはかせるなどしていた。なお笑われた木村本人は「初めてのところに行ってきちんと挨拶するのは当然なのに、なんで笑われなくちゃいけないんだ」とおかんむりだった。
主要なマイク・パフォーマンス一覧
- ジャイアント馬場(通称・兄貴)に向かって(第1声は必ず{敵対時は}「馬場っ」{義兄弟の契り以後は}「アニキーッ」と、必ずこれらいずれかで始まる)、
- 敵対初期のシングル戦を要求時「馬場、俺と勝負しろ!いつでもやってやる」
- 敵対初期のシングル戦で負けた後「馬場、勝ったとおもうなよコノヤロー」
- 「馬場、最近なんか元気だと思ったらコノヤロー。やっぱりな、お前は、ジャイアントコーン食べてるなコノヤロー」
- 「俺はな、昨晩焼肉を15人前食って戦ったけど失敗したよ。だからな今晩は20人前食って戦ってやるぞ」
- 「馬場、馬場、お前な、ハワイでな、グアバジュース飲んで鍛えたかもしらんけどコノヤロー。俺だってコノヤロー、日本で、ポカリスエット飲んで鍛えたんだコノヤロー」(毎年年末になるとハワイの別荘で過ごす馬場に対して)
- 馬場と輪島大士が初対決する武道館での試合で大熊に対して「俺は今日、馬場と輪島の試合を8ミリに撮ろうと思ってたんだよ。だけどな、急いでて忘れてきちゃったんだよ。それとな、俺は馬場のサインを自分の部屋に飾りたいから。サインをもらって来てくれないか。ちゃんと横に木村さんへって名前を入れてもらうように言っといてくれよ」
- 「馬場コノヤロテメー。まあ試合は別として、昨日な、大熊(大熊元司)に言っといたんだけど、今日は俺が、馬場に、新年のな、あいさつをするからな。(間をおいてから)あけましておめでとう」(新年のあいさつを宣言して場内が盛り上がる中、生真面目すぎるシンプルなあいさつに場内は笑いの渦に巻き込まれる)。そしてその後「今年こそはなぁ、馬場に勝とうと思って、俺はこの正月ずっと、餅食ってんだぞコノヤロー! 俺の肌を見ろよ。餅のおかげで、すっかりモチ肌になっちゃったよ!」と続けた
- 「俺はな、これだけ馬場と試合するとな、とてもな、他人とは思えないんだよ。だからな、だから一回でいいからな、今度な、お前のことをな、兄貴って呼ばせてくれ! いいなコノヤロー」(この時が義兄弟の契りを交わすきっかけとなる)
- 大熊相手のマイクパフォーマンス時では、大熊が木村のそばに来て、木村の一言一言に「おお、おお」と頷いていた。
- 「この前の武道館で『お前のこと、兄貴って呼んでもいいか』って言ったよな? 俺は一度でいいから、馬場とタッグを組んで『兄貴ありがとう』って言ってみたいんだよ! だから最強タッグでは…俺の一生の頼みなんだよ!! 今度の最強タッグでは『兄弟コンビ』を組んでくれよ。俺は馬場の懐に飛び込んで、もっともっと馬場を研究したいんだよ! 俺のこの健気な気持ちを分かってくれよ! いいか、もう逃げても無駄だぞコノヤロー!」(上記から暫く後のテレビマッチ。同じ日の数試合後、どこからともなく木村がリング上に現れ「“俺と馬場のタッグをお客さんがどう思うかを聞いて来い”と(馬場に)言われたんだよ」と発言〔「全日本移籍 - ノア」の項参照〕。テレビ解説の山田隆は「タッグを組みたいなら手順を踏まないと…」と実況の倉持隆夫ともども唖然としたが、場内は「組め」コールでタッグ結成を後押し。木村は「それじゃあ、俺と馬場のタッグが実現するよう、皆さんも応援してください」と言うと、上機嫌で去っていった)
- 加山雄三の「君といつまでも」の台詞に乗せて「幸せだなぁ。俺は兄貴といるときが一番幸せなんだ。俺は死ぬまで兄貴を離さないぞ、いいだろ?」(馬場の骨折からの復帰戦において。このマイクの後、木村は馬場に抱擁するパフォーマンスも見せた)
- 渕正信の独身ネタ。ラッシャーのマイクでネタにされて以降、渕の独身ネタは広く知られるようになり、今に至る。
- 「(当時結婚して間もない田上明を引き合いに出して)渕、田上のイキイキしたファイト見たか? おい渕、なぜか分かるか? 結婚したからだよコノヤロー! お前もそろそろ、結婚しろコノヤロー! いいか? 仲人がいなかったら、俺がアニキに頼んでやるからな」
- 「(秋田での試合において)渕、秋田美人はどうだ? 秋田美人はいいぞ、渕! 秋田美人(を嫁に)もらえよコノヤロー!」
- 「渕、オマエの嫁さんにな、俺の親戚を紹介しようとしたんだよ。だけどな、やっぱりやめたんだよ。何故かって言うとな、俺はオマエと親戚付き合いしたくないんだよ」。思わず渕も「俺だってしたくねえよ」
- 「渕、オマエの嫁さんをこの会場の中から探してやる。(リングサイドにいた80歳過ぎのおばあちゃんに)お姉ちゃん、渕の嫁さんになってくれないか」
- 「おい、俺は最近俳句に凝ってるんだよ。今日は、最終戦だから、最後に一句詠ませてくれ。"永源ちゃん あんたはいつも いい男" "大熊ちゃん あんたもよく見りゃ いい男" "渕選手 お前は早く 嫁もらえ"」
- 「(ラッシャーが渕に)ところでお前、カラオケ好きか?ベ、ベサメ・ムーチョって歌知ってるだろ。この歌は女性を口説く時に歌う歌なんだよ。だから今度カラオケをやる時は必ずこの歌を歌いなさい。ここまできたら、これはいいと思うものは何でもやってみなさい!」
- 「(ラッシャーのタイツにマイクを入れた渕に)渕、オマエな、いい加減にしろよ。こんなタイツの中にマイクを入れて、マイクが病気になったらどうすんだコノヤロー!その時はな、オマエいいか、病院連れてけよ!」
- 「おい、最近、俺のオナラが全然臭くないんだよ」
- 1987年の世界最強タッグ決定リーグ戦、公式戦対戦前のタッグマッチでタイガーマスクに「公式戦ではドロップキック9連発するからなコノヤロー!」(公式戦では9連発どころか1発も放っていない)
- 1987年5月1日のジョン・テンタのデビュー戦(馬場&テンタVS木村&鶴見)にて「琴天山(テンタの大相撲時代の四股名)、もっと馬場に鍛えてもらえ」
- 日本が米不足に陥った1993年限定ネタ
- だんご三兄弟と銘打った悪役商会に対し「キマラ! お前、団子食ったことあるのか? 今度国に帰るときに、お土産に団子を買って帰りなさい」
- 「永源! お前は最近、ランバダで身体を鍛えてるらしいけど、俺も、今度はな、ジャズダンスやって鍛えるから覚悟しとけよコノヤロー」
- 泉田に対し「泉田!! お前最近(なっちゅーの)に凝ってるみたいじゃないか。お客さんにも見せてやれ! せーの、なっちゅーの!!」と発言していた。ちなみに「なっちゅーの」とは当時流行していたパイレーツの「だっちゅーの」のことである。
- 来日していたジョー・ディートンに対し「ディートン、お前はよく全日マットに上がるけど、もしかして俺に会いに来てるのか? そんなに俺が好きなのか? それとも俺が好きじゃないか、好きか嫌いかハッキリしなさい」と発言その後ディートンに「木村さん、愛してます」と言われた
- 観客に呼びかけるシリーズ。時候に合わせた内容の場合が多い。
- 「ブッチャー、今日は試合に負けたけど、俺には、今夜はな、ススキノが待ってんだバカヤロー!」
- 黒人のブッチャー&キマラと対戦後、「俺はな、一生懸命日光浴して体を焼いてきたんだけど、オマエらとやったんじゃ何の意味もねえじゃねえか」
- ビートたけしと明石家さんまが司会を務めるテレビ番組に出演した際
- 「さんま! 家が売れたらしいじゃないか。安心してな、ゴルフばっかりやってちゃダメだぞ!」
- 「たけし! 俺も映画に出してくれ! たまにはな、たまには、家へ帰って、家庭サービスしなさい!」
- 去り際「たけし! さんま! お達者で!」
- リングサイドで観戦していた原辰徳巨人軍監督(当時選手)に「燃えろ巨人・燃えろ辰徳」とエールを送っていた。
- 『全日本プロレス中継』に登場したウッチャンナンチャンに「ウッチャン、FOCUS見たぞ。お前なかなかやるなコノヤロー。ナンチャンもFOCUSに載るように頑張れ」
- 会場に偶然見に来ていた志村けんを発見し「やっぱり志村さんじゃないですか」と発言していた。
- 天龍源一郎とのタッグ戦ではエキサイトし観客の「マイクコール」に応えたが、セリフは「天龍! 次はシングル(で決着)だ!」と木村の殺気で会場は静まり返った(その直後に天龍はSWSに移籍してしまい、決着戦は幻となった)
- 地方巡業時は、ご当地の名所・名物・著名人などをパフォーマンスの会話中に織り交ぜる事が多かった。秋山準は木村の死去後のコメントで、巡業先の現地の人や出身選手・スタッフなどに事前リサーチを行っていたことを明かした。
- 引退コメント「私は体調を悪くしてリングを離れて、カムバックのためにリハビリしていましたが、思うようにいかず、これ以上やると会社やファンの皆様に非常に迷惑がかかるので、引退を決意しました。本当に長い間、ご声援有り難うございました。ごきげんよう、さようなら」
エピソード
- ビクトル古賀からサンボ技を直伝され実は日本きっての関節技の名手(主に足関節技が得意)なのに、自分のスタイルに合わないからと試合ではサンボ技を殆ど見せぬまま引退した隠れシューターなのではないかと囁かれたり、ビル・ロビンソンの教えを乞い、相撲で鍛えた下地も考え合わせると実は日本で一番強かったのではないかと推測されたりと様々な都市伝説を生んでいる(少なくとも、馬場との「義兄弟タッグ」の時期になってもスポーツ会館でのサンボのトレーニングを欠かさなかった)。ちなみにルー・テーズは「馬場・猪木・木村の中で誰が一番強いか?」との問いに、「相撲とレスリングをマスターしている木村だ」と答えている。
- "狂乱の貴公子" リック・フレアーが初来日したのは国際プロレスのリングであり、1973年6月26日の秋田県大館大会でラッシャー木村とも金網デスマッチで対戦している[21]。フレアーが日本でデスマッチを戦ったのはこの時の木村との一戦のみである。
- 木村が行った金網デスマッチはほとんどがシングルマッチであり、金網タッグ・デスマッチは、1974年3月31日に北海道釧路大会で行われたジム・ブランゼル&ザ・ブルートとのIWA世界タッグ王座防衛戦[7]と、1979年7月9日に宮城県スポーツセンターで行われたアレックス・スミルノフ&オックス・ベーカー戦[22]の2試合しかない(いずれもパートナーはグレート草津)。
- 不器用で細かいことが苦手であり、ロープに走るだけで足がもつれそうになり、変幻自在な立体的な動きをするマイティ井上と対戦すると足がこんがらがりそうになって大苦戦する。
- ペットと触れあうことを好み、特に愛犬家として有名。新日本参戦時に熱狂的な猪木信者と思われる者から自宅への嫌がらせ、悪戯の被害をたびたび受けていたが、その時も、愛犬がストレスで円形脱毛症になったことを心配していたという[23]。最晩年は「もし世話できなくなったら、犬が可哀想だから」とあえて飼わなかった。
- 髪型がアイパーだった頃はそれと合わせて体格と強面の顔が災いし、タクシーの乗車拒否は日常茶飯事だったという。
- 新日本プロレスへ参戦した理由は、国際プロレス崩壊後に吉原功は進路を各選手に一任していたが、木村は吉原やアントニオ猪木との日本プロレス時代の兄弟弟子関係があり、その結びつきで新日本参戦を決めたという[23]。
- 新日本プロレスで猪木と抗争を繰り広げた時に、猪木が波状攻撃で繰り出すチョップを耐えて耐えて耐え抜く木村の姿を、当時『ワールドプロレスリング』(テレビ朝日)の実況担当の古舘伊知郎は「テトラポットの美学」と形容した。のちに古舘は「報道ステーション」のキャスターとなるが、木村死去のニュースが取り上げられた際に「そうですか。木村さん亡くなられましたか。以前実況担当という立場で仕事を一緒にやらせて頂きましたが、とても優しい人で、真っ白な秋田犬を可愛がっていました」というコメントを残している。
- 「はぐれ国際軍団」当時の1982年5月に、浜口と寺西を日本に残して渡米。ロサンゼルス地区でミスター・トヨを名乗り、「はぐれ国際軍団」加盟を表明して同行してきた剛竜馬をパートナーにライジング・サンズを現地で結成、ヘクター・ゲレロやビクター・リベラなどと対戦した。ファイトのマンネリ化を防ぐことが渡米の目的だったが、猪木が右膝手術や体調不良によりシリーズを欠場している時期であったため、木村を海外に出して猪木復帰と共に抗争を再開させようという新日本フロントの意図だったと見られている。
- 梶原一騎原作の『悪役ブルース』に登場している。
- ジャンボ鶴田は筑波大学大学院を受験した際にそのことを全日本プロレスのレスラーたちには内緒にしていた。合格発表後にまず最初に木村に「木村さん、今度僕マスター(修士)になるんですよ」と打ち明けた。すると、木村は「そうか。頑張れよ。最初は小さい店なんだろうけど、月に一度は飲みに行ってやるからな」と飲み屋のマスター(店長)と勘違いした。
- リングの上でのマイク・パフォーマンスとは裏腹に、普段は口数が少なく若手を誘って酒を飲むのが好きな温厚な人物だった。マイティ井上は「木村さんなんかもニコニコして、いい酒飲んでたよ。あの人は優しすぎる人でね、動物をかわいがってさ[24]」と振り返っている。また永源遙は「リングに上がったら性格の激しいところはありますけど、リングを降りたら紳士で優しくていい人ですね。」と語っている他、アニマル浜口も「何をしても怒らない人だった[25]」と語っており、木村の人柄の一端が伺える。
- もともとソフトな声だったが剛竜馬とカナダ遠征中にバッドニュース・アレンのラリアットを喉に受け、それ以来マイク・パフォーマンスで聞かれるしわがれ声になった。
CM
参考文献
出典
関連項目
外部リンク
- ニチレイグループ広報誌OriOri 忘れられない味 「食べることからすべては始まる」(引退後のインタビュー記事)