渥美清
テンプレート:ActorActress 渥美 清(あつみ きよし、1928年3月10日 - 1996年8月4日)は、日本の俳優。本名、田所 康雄(たどころ やすお)。愛称は、寅さん、風天(俳号)。身長173㎝、体重70kg[1]。
目次
来歴・人物
生涯
1928年(昭和3年)3月10日に、東京府東京市下谷区車坂町(現・東京都台東区上野七丁目)で地方新聞の新聞記者をしていた父友次郎と、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母タツとの間に次男として生まれる。兄に健一郎がいる。
1934年11月、上野の板橋尋常小学校に入学。1936年、一家で板橋区志村清水町に転居。それに伴い、志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代はいわゆる欠食児童であったという。加えて、病弱で小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。その為学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。
1940年に板橋城山高等小学校に入学。第二次世界大戦中の1942年に巣鴨中学校に入学するが、学徒動員で板橋の軍需工場へ駆り出される。1945年に同校を卒業するも、3月10日の東京大空襲で自宅が被災し焼け出される。 卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた(親友の谷幹一に、かつて自分は霊岸島桝屋一家に身を寄せていた、と語った事がある)。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。
1946年には新派の軽演劇の幕引きになり、大宮市日活館「阿部定一代記」でのチョイ役で舞台初出演。
中央大学経済学部入学後、船乗りを志して退学したが母親に猛反対されたため断念。知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り喜劇俳優の道を歩むことになった。
なお、当初の芸名は「渥美悦郎」であったが、無名時代の極初期に参加した公演で、座長が観客に向けて配役紹介を行う際になぜか「悦郎」を忘れてしまい、「清」ととっさに言ったものをそのまま使用したといわれている。“渥美”は愛知県の渥美半島から採ったとされる。
1951年、東京都台東区浅草のストリップ劇場(百万弗劇場)の専属コメディアンとなる。
1953年には、フランス座へ移籍。この頃のフランス座は、長門勇、東八郎、関敬六など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。
1954年、肺結核で右肺を切除しサナトリウムで約2年間の療養生活を送る。このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われている。右肺を無くした事で其れまでのドタバタ喜劇が出来なくなった。また、復帰後すぐに今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に1年近く入院する。再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。
1956年にテレビデビュー、1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。
1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一、関敬六とスリーポケッツを結成。しかし、数ヵ月後には脱退している。
1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。
1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。同年、フジテレビ連続ドラマ『大番』でのギューちゃん役がうける。
同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケの際、海に飛び込むシーンでは右肺切除の影響から飛び込むことができず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。
当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢、岩下志麻、三国連太郎、丹波哲郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。
1963年の野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で「片仮名しか書けず、軍隊を天国と信じてやまない純朴な男」を演じ、俳優としての名声を確立する。この作品がフジテレビの関係者の評判を得て「男はつらいよ」の構想が練られた。
1965年公開の、羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。この時期の主演作品としては、TBSのテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』(1966年)や映画『喜劇列車シリーズ』(喜劇急行列車、喜劇団体列車、喜劇初詣列車)(1967年~1968年)なども有名である。
1968年、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』が放送開始。放送期間は1968年10月3日から1969年3月27日までの半年間。脚本は山田洋次と森崎東が担当した。最終回では「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」と言う結末に視聴者からの抗議が殺到した。
1969年に「罪滅ぼしの意味も含めて」、松竹で映画を製作。これが予想に反し大ヒットとなり、以降シリーズ化となって製作の始まった山田洋次監督の映画『男はつらいよ』シリーズにおいて、主演の車寅次郎(フーテンの寅)役を27年間48作に渡って演じ続ける事になる。この映画のシリーズは、国民的映画として日本中の多くの人たちに親しまれた。映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。
1972年、渥美プロを設立し、松竹と共同で映画『あゝ声なき友』を自身主演で製作公開する。
1975年、松竹80周年記念として制作された映画『友情』に出演。
1977年にはテレビ朝日製作の土曜ワイド劇場『田舎刑事 時間(とき)よとまれ』にて久しぶりにテレビドラマの主演を務める。同作品は現在も続く人気番組土曜ワイド劇場の記念すべき第1回作品であると同時に、第32回文化庁芸術祭のテレビ部門ドラマ部の優秀作品にも選出されている。この成功を受けて同作品はシリーズ化され1978年に『田舎刑事 旅路の果て』が、1979年には『田舎刑事 まぼろしの特攻隊』がいずれも渥美主演で製作放送されている。
映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。当初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映画『男はつらいよ』シリーズ程の成功は収める事が出来なかった。特に1977年『八つ墓村』が松竹始まって以来のヒットとなったが、シリーズ化権を東宝に抑えられていたため1本きりとなったことは大きな岐路となる。
1979年(昭和54年)4月14日にNHKで放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど~昭和のこころ 古賀政男~』では作曲家、古賀政男の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得るが、新たな役柄の幅を広げるには至らなかった。また、この時期、今村昌平監督が「復讐するは我にあり」の主役にオファーしたが、「寅さんのイメージを裏切りたくない」との理由で断っている。
1980年代以降になると、当時の松竹の思惑や渥美自身も他作品への出演に消極的になっていた事もあって、『男はつらいよ』シリーズ以外の主演は無くなっていく。1988年(昭和63年)、紫綬褒章受章。
その後は、主演以外での参加も次第に減っていき、1993年に公開された映画『学校』が『男はつらいよ』シリーズ以外の作品への最後の出演作品となった、遺作は亡くなる直前まで出演した48作目「男はつらいよ 寅次郎紅の花」。
後年は、松竹の看板としてかなりの無理をしての仕事であった。『男はつらいよ』42作目以降は、病気になった渥美に配慮して、立って演じるシーンは少なくされた。晩年は、立っていることもままならず、撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多かった。44作目のころ「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです。スタッフや見物の方への挨拶を省略していただきたい」と山田洋次に語っている。
ところがこの事情を知らない映画撮影の見物客は、渥美に声をかけてもまったく反応してもらえなかったことから「愛想が悪い」との理由で渥美を批判することもあったという。体調が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを1本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。
また体調が悪化してからの作品を見ると46作では坂を上るのがきつく(実際に急な坂ではあるが)、47作では歌声が枯れ、第48作では座ったままほとんど動かなくなるなど痛々しい演技である。49作目は秋からクランクインが予定されていた。田中裕子がマドンナ役の予定だった。
病気については1991年に肝臓癌が見つかり、1994年には肺に転移しているのがわかった。47作からは主治医からも出演は不可能だと言われていたが何とか出演。48作に出演できたのは奇跡に近いとのことである。
1996年7月に体調を崩して同月末に手術を受けたものの、癌の転移が広がり手遅れの状態だった。山田監督の弔辞によれば、病院で癌の手術が手遅れの状態だった後、病室で震えていたとの事である。また同年6月に49作の映画化の件で話し合い、肉を食べ撮影に意欲を燃やしていたとのことである。
1996年(平成8年)8月4日、転移性肺癌のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院にてこの世を去る。テンプレート:没年齢。「俺のやせ細った死に顔を他人に見せたくない。骨にしてから世間に知らせてほしい」という渥美の遺言により、家族だけで密葬を行い、遺体は東京都荒川区内の町屋斎場で荼毘に付された。訃報は3日後の1996年8月7日に松竹から公表された。
そして8月13日には松竹大船撮影所で「寅さんのお別れの会」が開かれ、山田洋次が テンプレート:Quotation との弔辞を読み上げた。
世間では、渥美清の死を寅さんの死と捉えて報道された。死後、日本政府から渥美に国民栄誉賞が贈られた。『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えたことが受賞理由。俳優で国民栄誉賞が贈られるのは、1984年に死去した長谷川一夫に次いで2人目である。
妻は熱心なカトリック信徒で、渥美自身も、亡くなる直前に病床でカトリックの洗礼を受けていた事が明らかになっている。
渥美は亡くなるまで芸能活動の仕事をプライベートに持ち込まなかった。そのため、渥美の自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされていなかった。
経歴についての異説
渥美清のプライベートは謎につつまれた点が多く、経歴にはいくつかの異説がある。小林信彦著の『おかしな男 渥美清』の略年譜によれば、1940年に志村第一尋常小学校を卒業後、志村高等小学校に入学する。1942年に卒業し、14歳で志村坂上の東京管楽器に入社するが退社し、その後は「家出をしてドサ回り」をしていたとのことである。
巣鴨学園関係者によると、戦前の在籍記録は戦災により焼失しており、在籍の有無は公式にはなんとも言えないという。しかし、何人かのOBの証言によれば、在籍はしていたが、卒業はしていないとのことである。
実像
「寅さん」の演技で見せる闊達さとは対照的に、実像は自身公私混同を非常に嫌い、他者との交わりを避ける孤独な人物だった。「男はつらいよ」のロケ先で、撮影協力した地元有志が開く宴席に一度も顔を出したことがない話は良く知られており、身辺にファンが近寄ることも嫌っていた。タクシーで送られる際も「この辺りで」と言い、自宅から離れた場所で降りるのを常としていた。
家族構成は妻と子供2人だが、原宿に「勉強部屋」として、自分個人用のマンションを借りており、そこに一人籠っていることが多かった。長男が公の場に顔を出すのは渥美の死後だった[2]。結婚式は親族だけでささやかに行い、仕事仲間など呼ばなかった。芸能記者の鬼沢慶一は招待され友人代表として出席したが、鬼沢はその事を渥美の死まで公表する事はなく、渥美の没後にその時の記念写真と共に初めて公開した。結婚まで秘密にしていたため、没する数年前でも渥美が独身と思っていた人が多かったようである。渥美は新珠三千代の熱狂的ファンを自称していたため、結婚の際は『新珠三千代さんごめんなさい。』の迷コメントを出した。
芸能界の関係者ともプライベートで交際することはほとんどなく「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や、黒柳徹子、関敬六、谷幹一でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。これは渥美が生前、私生活を徹底的に秘匿し、「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであった。このきっかけは、街を歩いていた時に、見知らぬ男性から「よお、寅」と声をかけられてからの事だと語っている[3]。実生活では質素な生活を送っていたようで、車は一台も所有しておらず、仕事での食事も店を選ばずに適当な蕎麦屋で済ませていたという[4]。
脚本家・早坂暁は大学時代に銭湯で渥美清と知り合い、何度もプライベート旅行に行くなど親友となり、渥美は早坂との旅行を大変楽しみにしていた。東京生まれのため田舎を持たない渥美にとって、早坂の故郷である愛媛県北条市(現・松山市)にある「北条鹿島」はお気に入りで何度も訪れており、渥美の最後の句「お遍路が一列に行く虹の中」は、早坂作のドラマ花へんろ(渥美はナレーション担当で、遍路がモチーフになっており、舞台は前述の愛媛県北条市)及び早坂への想いであると思われる。 渥美の死後発見された晩年の手帳には「……家族で旅行に行こう。ギョウさん(早坂暁の暁を音読みしたもの)も一緒に」と綴ってあった。これらのことからも、渥美にとって早坂がどれほど大切な存在であったかが伺われる。 早坂は渥美が大変才能のある役者であるのにもかかわらず、「寅さん」以外の役をほとんど演じられないことを危惧し、渥美も何とか抜け出そうとの思いがあった。 渥美自身は尾崎放哉役を熱望し、早坂も脚本を用意したが、寸前で他局が尾崎放哉をドラマ化してしまったため、急遽種田山頭火に変更した。渥美と早坂はあちこち取材旅行に訪れたが、クランクイン寸前になって渥美から降板を申し出た。降板の理由は体調不良やスケジュール不合などいわれるが、周囲からの「寅さん」のイメージ損失を嫌ったこととの軋轢かと思われる。ちなみに渥美降板により主役がフランキー堺となったこのドラマ「山頭火・なんでこんなに淋しい風ふく」は、モンテカルロ国際テレビ祭(脚本部門ゴールデンニンフ=最優秀賞)を受賞し、フランキー堺は同最優秀主演男優賞を受賞している。 しかし、早坂は渥美に、初期のテレビドラマ「泣いてたまるか」や、上記「土曜ワイド劇場」の第1回作品の「田舎刑事」シリーズなどの脚本を書いており、いずれも「寅さん」ではない渥美の魅力が引き出された名作となっている。
上記著書の小林信彦は1960年代前半に放送作家として渥美と知り合い、独身時代はお互いの部屋で徹夜で語り合うなど親友に近い関係であったが、次第に疎遠となっている。同書では、小林がその後親しくなっていくクレージーキャッツのハナ肇と渥美とは互いに敵愾心に近いライバル意識があったことにも触れ、クレージーのメンバーの社会常識を称える形で渥美とは性格的齟齬があったことを示唆している。なお、ハナからは後年、結果的に山田洋次作品のレギュラー主役の座を奪う形となった。
渥美は藤山寛美を高く評価しており、寛美の公演のパンフレットには「私は藤山寛美という役者の芝居を唯、客席で見るだけで、楽屋には寄らずに帰れる。帰る道すがら、好かったなー、上手いなー、憎たらしいなあー、一人大切に其の余韻をかみしめる事にしている。」と書いていた。寛美も渥美が客席に来ていることを知ると、舞台で「横丁のトラ公、まだ帰ってこんのか。」と言うアドリブを発していた。[5]
非常な勉強家でもあり、評判となった映画や舞台をよく見ていた。しかし「寅さん」とは、まったく違ったスマートなファッションであったため、他の観客らには、ほとんど気づかれなかったという。
山田洋次は渥美の頭脳の良さを指して「天才だった」と語っている。特に記憶力に関しては驚異的なものがあり、台本を2,3度読むだけで完璧にセリフが頭に入ってしまったと証言している[6]。
2006年9月4日にNHKプレミアム10で放送された『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によると、松竹が映画の低迷期であったのも手伝い、突出して人気のあった「寅さん」のイメージを大事にしたいからと色々な企画を没にしたりして、それ以外の役柄に恵まれなかった。増村保造の映画『セックス・チェック 第二の性』を元にして作中男だと疑われるスポーツ選手の女性が、本当に男だったという主演映画などが没になったアイディアの中にあった。
黒柳徹子はプライベートでも付き合いのある数少ない存在で、彼をお兄ちゃんと呼んでいたほか、夢であいましょうで共演していた時に熱愛疑惑が持ち上がったことがある。因みにそれを報道したスポーツ紙には、フランス座時代に幕間のコントで黒柳が小学生の頃いつも呼んでいたチンドン屋の格好をした時の写真が掲載された。これは当時マスコミがその写真しか得られなかった為である。黒柳は1996年に開かれた「寅さん」とのお別れの会に出席し、2006年は渥美が死んでから10年と節目の年であったためか渥美の事を話すこともしばしばあった。また森繁久彌は渥美の才能に非常に目をかけ、渥美も森繁を慕っていたという。
永六輔とは少年時代からの旧知であり、本人曰く渥美は永も所属した不良グループのボスだったという。また渥美が役者を目指す様になったのにはある刑事の言葉があると言う。曰く、ある時、渥美が歩道の鎖を盗みそれを売ろうとして警察に補導された事があり、その時の刑事に「お前の顔は個性が強すぎて、一度見たら忘れられない。その顔を生かして、犯罪者になるより役者になれ」と言われた事が役者を目指すきっかけになったとの事である(上記、『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によれば、テキ屋稼業に没頭していた頃、浅草の小屋から声をかけられそれが転機のキッカケとなったとされている)。
プライベートでの交流が多かった数少ない芸能人として笹野高史、柄本明がいる(笹野と柄本は自由劇場の同僚でもあった)。2人とも「男はつらいよ」シリーズの共演者であった。芝居を見に行ったり、バーに飲みに行くこともあったという。笹野は「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」以来山田作品の常連となるが、最初に山田監督へ笹野を紹介したのは渥美自身であった。
山田洋次系以外のスタッフでは脚本家鈴木尚之が度々招かれ、信頼が厚かったことを伺わせる。ただし渥美自身が企画し鈴木が執筆した、1972年春公開の『あゝ声なき友』が不振に終わり、厳格な今井正監督の現場になじめなかったこともあり、これを境に渥美は山田作品へほぼ専心した。その5年後の『八つ墓村』が記録的大ヒットになったが、松竹と角川書店(角川春樹)の確執からシリーズ化できなかったこともこの流れを決定づけた。
長男田所健太郎は、ニッポン放送の入社試験の際、履歴書の家族欄に『父 田所康雄 職業 俳優』と書いたことから、採用担当者は大部屋俳優の息子と思っていたが、後に渥美清が彼の父親として来社し社内は騒然となった[7]。
一方で健太郎は、講談社『月刊現代』2002年8月号の記事『七回忌を前に初めて書かれるエピソード、寅でも渥美清でもない父・田所康雄の素顔』で、渥美が健太郎の食器・食事に対する扱いに突然激高し、激しい暴行を何度も加える等のドメスティック・バイオレンスが家族へ日常的に行われていたとも告白している。
晩年は俳句を趣味としていて『アエラ句会』(AERA主催)において「風天」の俳号でいくつかの句を詠んでいる。森英介『風天 渥美清のうた』(大空出版、2008年、文春文庫 2010年)に詳しく紹介されている。
主な出演
映画
- おトラさん大繁盛(1958年) - 八田
- 若社長と爆発娘(1960年) - 大井社長
- 唄祭ロマンス道中(1960年) - 三吉
- 縞の背広の親分衆(1961年) - 胴脇
- 腰抜け女兵騒動(1961年) - 三木本二等兵
- 水溜り(1961年) - 中年の男
- 抱いて頂戴(1961年) - 教祖
- 漫画横丁 アトミックのおぼん スリますわヨの巻(1961年) - マッハのズラ公
- 地獄に真紅な花が咲く(1961年) - ドスキンの政
- 図々しい奴(1961年) - 衛兵司令
- 投資令嬢(1961年) - 野崎
- 漫画横丁 アトミックのおぼん 女親分対決の巻(1961年) - マッハのズラ公
- 東海一の若親分(1961年) - 関東綱五郎
- 伴淳・森繁のおったまげ村物語(1961年) - 西向の三八
- 南の島に雪が降る(1961年) - 青田上等兵
- 喜劇 にっぽんのお婆あちゃん(1962年) - お巡りさん
- 若き日の次郎長 東海道のつむじ風(1962年) - 関東綱五郎
- 大江戸評判記 美男の顔役(1962年) - 暗闇の丑松
- 喜劇団地親分(1962年) - 佐々木
- サラリーマン一心太助(1962年) - 葵光男
- おったまげ人魚物語(1962年) - 銀二
- 東京さのさ娘(1962年) - 杉本勘太郎
- あいつばかりが何故もてる(1962年) - 小山田善六
- 太平洋の翼(1963年) - 丹下一飛曹
- 歌え若人達(1963年) - 運転手
- 無宿人別帳(1963年) - 市兵衛
- つむじ風(1963年) - 陣内陣太郎
- 拝啓天皇陛下様(1963年) - 山田正助
- 女弥次喜多 タッチ旅行(1963年) - 大八
- おかしな奴(1963年) - 三遊夢歌笑
- 続・拝啓天皇陛下様(1964年) - 山口善助
- 馬鹿まるだし(1964年) - 万やん
- 現代金儲け物語(1964年) - 上野留吉
- 拝啓総理大臣様(1964年) - 鶴川角丸
- 僕はボディガード(1964年) - 北一平
- 散歩する霊柩車(1964年) - 毛利三郎
- 風来忍法帖(1965年) - 悪源太なり平
- ブワナ・トシの歌(1965年) - トシ(片岡俊男)
- 望郷と掟(1966年) - 山根
- 何処へ(1966年) - 野口長太郎
- 沓掛時次郎 遊侠一匹(1966年) - 身延の朝吉
- かあちゃんと11人の子ども(1966年) - 吉田貞治
- 喜劇急行列車(1967年) - 青木吾一
- 喜劇団体列車(1967年) - 山川彦一
- 父子草(1967年) - 平井義太郎
- 男なら振りむくな(1967年) - 山角のおやじ
- 喜劇初詣列車(1968年) - 上田新作
- 経営学入門より ネオン太平記(1968年) - ゲイボーイ・カオル
- 風来忍法帖 八方破れ(1968年) - 悪源太なり平
- 喜劇爬虫類(1968年) - 関元三郎
- 燃えつきた地図(1968年) - 田代
- 白昼堂々(1968年) - 渡辺勝次
- 祇園祭(1968年) - 伊平
- スクラップ集団(1968年) - ホース
- でっかいでっかい野郎(1969年) - 南田松次郎
- 男はつらいよシリーズ(1969年 - 1995年、1997年、全49作) - 車寅次郎
- 喜劇 女は度胸(1969年) - 桃山勉吉
- ひばり・橋の花と喧嘩(1969年) - 参竜斉清山
- 明日また生きる(1970年) - 木村
- 喜劇 男は愛嬌(1970年) - オケラの五郎
- トラ・トラ・トラ!(1970年) - 炊事兵 ※日本公開版のみ
- 家族(1970年) - 連絡船の男
- あゝ声なき友(1972年) - 西山民次
- 故郷(1972年) - 松下松太郎
- 東京ド真ン中(1974年) - 安夫の叔父・金之助
- 砂の器(1974年) - ひかり座の支配人
- ビューティフル・ピープル ゆかいな仲間(1974年) - 日本語版ナレーター
- 同胞(1975年) - 消防団団長
- 友情(1975年) - 矢沢源太郎
- 幸福の黄色いハンカチ(1977年)渡辺係長
- 八つ墓村(1977年) - 金田一耕助
- 皇帝のいない八月(1978年) - 久保
- 俺たちの交響楽(1979年) - 西本
- 遙かなる山の呼び声(1980年) - 近藤
- キネマの天地(1986年) - 喜八
- 二十四の瞳(1987年) - ナレーター
- ダウンタウン・ヒーローズ(1988年) - 春之助
- 学校(1993年) - 八百屋の親父
テレビ
- セールスマン水滸伝(1959年 - 1961年、フジテレビ)
- 若い季節(1961年 - 1964年、NHK) - 平吉
- 大番(1962年 - 1963年、フジテレビ) - 赤羽丑之助
- 第14回NHK紅白歌合戦(1963年、NHK) - 応援ゲスト
- 四重奏(1964年、日本テレビ)
- 東芝日曜劇場(TBS、多数出演)
- ヨーイドン(1965年、フジテレビ)
- 人形佐七捕物帳(1965年、NHK) - きんちゃくの辰五郎
- 渥美清の泣いてたまるか(1966年 - 1968年、TBS)
- おもろい夫婦(1966年 - 1968年、フジテレビ) - 三遊亭歌笑
- くいしんぼ(1967年、フジテレビ)
- 不信のとき(1968年、日本テレビ) - ナレーション
- 男はつらいよ(1968年 - 1969年、フジテレビ) - 車寅次郎
- 大きい目小さい目(1968年 - 1969年、TBS)
- 渥美清の父ちゃんがゆく(1969年、フジテレビ)
- おんなの劇場 出雲の女(1969年、フジテレビ) - 大関史郎
- すかぶら大将(1969年、フジテレビ) - 轟鉄太郎
- おれの義姉さん(1970年、フジテレビ)
- おかしな夫婦(1971年 - 1972年、フジテレビ) - 宗木五郎 (モデルは棟方志功)
- むかしも今も(1972年、NET) - 直吉
- こんな男でよかったら(1973年、よみうりテレビ) - 余七五郎
- ヨイショ(1974年6月 - 11月、TBS)
- 田舎刑事(1977年 - 1979年、テレビ朝日) - 杉山松次郎
- ゆく年くる年(1977年、フジテレビ) - 総合司会
- 雲を翔びこせ(1978年、TBS) - ナレーション
- 女たちの忠臣蔵(1979年、TBS) - 長吉
- 幾山河は越えたけど〜昭和のこころ 古賀政男〜(1979年、NHK) - 古賀政男
- 天皇の料理番(1980年10月 - 1981年3月、TBS) - ナレーション
- 木曜ゴールデンドラマ「花嫁の父」(1981年、よみうりテレビ) - 平吉
- 花へんろシリーズ(1985年 - 1988年、NHK) - ナレーション
ラジオ
- 『渥美清 ローマンス劇場』
- 『渥美清の男性諸君』
CM
- コダック
- ハナマルキ
- エーザイ
- ブリヂストン 新・回転理論技術「DONUTS(ドーナツ)」 専属キャラクター[8]
- ロート製薬 「パンシロン」[9]
- サントリー「サントリー生ビール ナマ樽」
- 中外製薬「バルサン」
- いすゞ自動車 「エルフ」
- 日本アイ・ビー・エム 「IBMマルチステーション5550」
- 日本テレコム
- 朝日新聞 [10]
- パイオニア「DVDレコーダー」(没後に製作)
シングル
- 泣いてたまるか(TBS連続テレビドラマ「泣いてたまるか」主題歌)(B面:若いぼくたち/ミュージカル・アカデミー)(1966年5月10日)
- オー大和魂(TBS連続テレビドラマ「大和魂くん」主題歌)(B面:雨の降る日は天気が悪い)(1968年10月)
- 男はつらいよ(フジテレビ連続テレビドラマ「男はつらいよ」主題歌、松竹映画「男はつらいよ」主題歌、アニメ『男はつらいよ〜寅次郎忘れな草〜』主題歌)(B面:チンガラホケキョーの唄)(1970年2月10日)
- ごめんくださいお訪ねします(松竹映画「あゝ声なき友」主題歌)(B面:あゝ声なき友)(1972年3月25日)
- さくらのバラード(歌:倍賞千恵子)(B面:寅さんの子守唄)(1972年4月)
- こんな男でよかったら(B面:ひとは誰でも)(よみうりテレビドラマ「こんな男でよかったら」)(1973年4月5日)
- いつかはきっと(掛け声:山田パンダ)(TBSテレビドラマ「ヨイショ」主題歌)(B面:遠くへ行きたい)(1974年8月25日)
- 寅さん音頭(B面:赤とんぼ)(1975年7月5日)
- 祭りのあと(B面:駅弁唱歌)(1975年9月5日)
- 渥美清の啖呵売I(B面:渥美清の啖呵売りII)(1976年6月25日)
- 浅草日記(B面:すかんぽの唄)(1977年6月25日)
- 今日はこれでおしまい (B面:着流し小唄)(1977年10月25日)
- DISCO・翔んでる寅さん(B面:寅さん音頭)(1979年7月25日)
アルバム
- 渥美清が歌う哀愁の日本軍歌集(1968年12月5日)
- 渥美清が歌う哀愁の昭和叙情曲集(1970年4月)
- 噫々戦友の詩(きけわだつみのこえ)より(1971年)
- 男はつらいよフーテンの寅と発します!(1971年11月)
- 男はつらいよ名場面集(第一集)
- 男はつらいよ名場面集(第二集)
- 男はつらいよ名場面集(第三集)(1974年)
- 渥美清ベストヒット28(1976年)
著書
- 『きょうも涙の日が落ちる 渥美清のフーテン人生論』 (展望社、2003年)
- 『渥美清わがフーテン人生』「サンデー毎日」編集部編 (毎日新聞社、1996年)
- 『赤とんぼ 渥美清句集』 森英介編 (本阿弥書店、2009年)
参考文献
- 関敬六 『さらば友よ』(ザ・マサダ、1996年)
- 渥美清の肘突き 人生ほど素敵なショーはない (福田陽一郎、岩波書店)
- おかしな男 渥美清(小林信彦、新潮文庫)
- 知られざる渥美清(大下英治、廣済堂文庫)
- 渥美清 浅草・話芸・寅さん(堀切直人、晶文社)
- 拝啓渥美清様(読売新聞社会部、中公文庫)
- 渥美清の伝言(NHK同制作班編 KTC中央出版)
- 生きてんの精いっぱい―人間・渥美清 (篠原靖治 主婦と生活社) 1997年
- 渥美清晩節、その愛と死 (篠原靖治、祥伝社)
親族
- 田所健太郎
- 長男。株式会社ニッポン放送に所属していたラジオディレクター。主な担当番組に伊集院光のOh!デカナイト、(有)チェリーベルがある 。現在は株式会社ニッポン放送を退社し、フリーのラジオディレクター。
- 山岡和美
- 元ニッポン放送アナウンサー、長男の妻。
渥美清を演じた、ものまねをした人物
- 南原清隆-ドラマ「渥美清のあぁ、青春日記」で主演。
- 原一平-寅さんのものまねは、渥美本人も生前から認めていた、唯一の渥美清公認ものまね芸人。寅さんのものまねをする際に着用する衣装は渥美本人が映画で実際に使っていたのを譲り受けた物である。
- 佐々木つとむ-1970年代に人気を博した。
- フランクさな寅(フランクさな寅ブログテンプレート:リンク切れ) 地元ですら知る人ぞ知る「広島の寅さん」。TSS「親子笑劇場電太郎一家」(ローカルミニドラマ。既に終了)にドラ猫のドラ役で出演していた。
- 野口陽一 山田洋次監督公認。
- 山口智充(「ワンナイR&R」にて)
関連項目
脚注
外部リンク
- 柴又寅さん記念館(葛飾区)公式ホームページ
- 渥美清こもろ寅さん会館公式ホームページテンプレート:リンク切れ
- テンプレート:URL
- テンプレート:Jmdb name
- テンプレート:Allcinema name
- テンプレート:Kinejun name
- テンプレート:URL
- テンプレート:Imdb name
テンプレート:Asbox
テンプレート:国民栄誉賞 テンプレート:男はつらいよ テンプレート:毎日芸術賞 テンプレート:キネマ旬報ベスト・テン主演男優賞 テンプレート:ブルーリボン賞主演男優賞
テンプレート:毎日映画コンクール男優主演賞- ↑ キネマ旬報 №550 1971年5月 増刊 山田洋次と渥美清
- ↑ NHK『100年インタビュー』(山田洋次の回想)
- ↑ NHK『100年インタビュー』(山田洋次の回想より)
- ↑ NHK『100年インタビュー』(山田洋次の回想より)
- ↑ 小林信彦「おかしな男 渥美清」
- ↑ 「男はつらいよ DVD BOX」、監督の特典インタビューにて(2008年収録)
- ↑ 余談だがギタリスト布袋寅泰が同じマンションに住んでいたことがあり、バンドのツアーに向かう布袋が偶然エレベーターの乗り口であった際、渥美から「旅ですか?」と話しかけられ、とっさに「はい。北へ」と答えたのをきっかけに、正月に「つまらないものですが、部屋の隅にでも飾ってやってください。」と、『男はつらいよ』のカレンダーを部屋まで届けてくれたという(布袋のブログの記述による)。
- ↑ 1995年から逝去後の1997年まで、「ニッポンのタイヤが変わります」のキャッチフレーズでCM出演していた。またこのCMは放映時期の季節に合わせて、渥美の服装と背景が変化した。
- ↑ 幼少時代の沢田聖子と共演(父親役の渥美清が沢田を肩車するシーン)したバージョンがあった。ちなみに渥美は前出のブリヂストンのCMと同じく死去の直前に「パンシロン新胃腸薬」のCMに復帰出演していたことがある。
- ↑ CMのキャッチコピーは「歴史は、あっちこっちでつくられる。」。コピーライターの神様と称される仲畑貴志の手によるものである。