百済
テンプレート:未検証 テンプレート:基礎情報 過去の国 テンプレート:Infobox テンプレート:特殊文字 百済(くだら / ひゃくさい)は、古代の朝鮮半島南西部にあったツングース系扶余=徐族[1]による国家(346年[2] - 660年)。朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅、半島南部の伽耶諸国とあわせて百済の存在した時代を朝鮮半島における、三国時代という。新羅を支援した唐によって滅ぼされ、故地は最終的に新羅に組み入れられた。
目次
呼称
日本語における呼称「くだら」の由来は不明だが、古代には「くたら」と清んで発音していたとする説もある。上古の発音は詳かではないが、『図書寮本類聚名義抄』(1081年)にある用例「久太良」の訓は清音である。
学術的には認められていないが、李寧煕は「大いなる国」を意味する朝鮮語「큰 나라 (クンナラ)」に由来するという説を唱えている[3]。井沢元彦は李寧煕の「万葉集は韓国語で読める」という意見は否定するが、すべてを否定すべきではないとして、百済の読みについての説は賛意を示している。
歴史
百済は4世紀中頃に国際舞台に登場する(『晋書』「慕容載記」)。それ以前の歴史は同時代資料では明らかでない。
建国時期が書かれている『三国史記』(1143年執筆)では紀元前18年建国になっており、韓国・北朝鮮の国定教科書ではこれを引用している。歴史的な建国時期に関しては、三国史記の記述自体に対する疑いもあるため、韓国でも紀元前1世紀説から紀元後3世紀説までさまざまな説がある。またその当時に書かれた中国・倭等の文献と後年になって書かれた三国史記の内容には隔たりがある。
通説では『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国が前身だと考えられているが詳細は不明である。
民族
テンプレート:朝鮮の歴史 民族については、百済王・高句麗王(夫余)等に代表されるツングース系夫余族=徐族の国家だったとする説[1]と、テンプレート:要出典範囲の2説がある。
百済の支配層は扶余族=徐族だったと見られている。百済の建国神話は系譜の上で扶余=徐とつながりがあり、26代聖王が538年に[[泗ビ|泗テンプレート:JIS2004フォント]]に遷都した後に国号を「南扶余」としたこともそれは窺える。
『隋書』百済伝には「百濟之先、出自高麗國。其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。(百済の先祖は高句麗国より出る。そこには新羅人、高句麗人、倭人などが混在しており、また中国人もいる)」ということから、雑多な系統の移民の集落が散在する国家だったと考えられる。
言語
今言語服章略與高麗同
つまり言語や服装などが高句麗とおおよそ同じだと記している。なお新羅の言語は音節が通常子音で終わる閉音節なのに対して、高句麗と百済そして倭では母音で終わる開音節だったと考えられている[4]。
『魏書』も『梁書』の記述を踏襲したが、『周書』は、百済王の姓は夫余=徐姓で、自ら「於羅瑕」と称していたこと、一方民衆はこれを「テンプレート:補助漢字フォント吉支」と呼んでおり、どちらも王の意味だということを特記している。 テンプレート:Quotation 「臣と高句麗は扶余(=徐)に源を出す」、すなわち百済と高句麗は同族だと考えられていたのである。
建国神話
テンプレート:節スタブ 百済の建国神話は『三国史記』百済本紀などの朝鮮史料にさまざまな話が伝えられているが、いずれも高句麗と同様、扶余の東明神話のバリエーションとなっている[5]。
- 前漢の鴻嘉3年(前18年)、高句麗の始祖・朱蒙の三子温祚が百済を建国した。温祚の母は卒本扶余の王女で、北扶余出身の礼氏の子・孺留(高句麗の第2代瑠璃明王)が太子となったため、温祚は南方に逃れ「十済」を起こした。この時、兄の沸流も一緒に南下して海浜に国を起こしたが、のちに自分の国が弟の国より繁栄していないことを恥じて自決した。結局その国も温祚の下に帰属し、百姓を受け容れたので国号は「百済」になったという。また初め百家で海を渡ってきた(百家済家)ので「百済」とした[6]、ともいう。
起源
- 『宋書』の記録では以下のように記されている。
- 『梁書』の記録では以下のように記される。『南史』もほぼ同文である。
- 『周書』の記録では以下のように記されている。
- 高句麗同祖説
- 始祖仇台説
- 遼西経略説
- 『宋書』『梁書』によると、百済建国の当初の頃(建国の直前か直後?)、高句麗が遼東半島を征服した後、百済も遼西地方に進出して百済郡を設置したという。とくに『梁書』は「晋(265年 - 420年)の時」としている。(詳細は本項「百済遼西経略説」節を参照)
歴史
前期:漢城時代( –475年)
中国の史料で百済という国号が明らかになるのは4世紀の近肖古王からである。日本の『古事記』では、応神天皇の治世に照古王の名が記されている。その頃の百済の都は現在のソウルの漢江南岸にあり、漢城と呼ばれた。紀元前1世紀から紀元後3世紀の間に作られたと考えられているソウルの風納土城や夢村土城がその遺跡と考えられている。
高句麗と百済の戦争
漢城時代の百済は拡大を続ける北方の大国・高句麗との死闘を繰り返した。
369年には、倭国へ七支刀を献上している。浜田耕策は山尾幸久の分析を踏まえたうえで、これは百済王が原七支刀を複製して刀を倭王に贈ったものだと推論し、この外交は当時百済が高句麗と軍事対立にあったため、まず東晋と冊封関係を結び、次いで倭国と友好関係を構築するためだったとしている[11]。
近肖古王は371年に楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故国原王を戦死させたこともある。
しかし、その後は高句麗の好太王や長寿王のために押され気味となり、高句麗に対抗するために倭国と結ぶようになった。この間の事情は好太王碑文に記されている。
高句麗の長寿王は平壌に遷都し、華北の北魏との関係が安定するとますます百済に対する圧力を加えた。これに対して百済は、この頃に高句麗の支配から逃れた新羅と同盟(羅済同盟)を結び、北魏にも高句麗攻撃を要請したが、475年にはかえって都・漢城を落とされ、蓋鹵王が戦死した。
中期:熊津時代(475–538年)
王都漢城を失った475年当時、新羅に滞在していて難を逃れた文周王は都を熊津(現・忠清南道公州市)に遷したが、百済は漢城失陥の衝撃からなかなか回復できなかった。
南朝・倭国との外交関係
東城王の時代になって中国・南朝や倭国との外交関係を強化するとともに、国内では王権の伸張を図り南方へ領土を拡大して、武寧王の時代にかけて一応の回復を見せた。
新羅の台頭と遷都
しかし6世紀に入ると、新羅が大きく国力を伸張させ、高句麗南部へ領土を拡大させた。このような中で百済の聖王は538年都を熊津から[[泗ビ|テンプレート:JIS2004フォント]](現・忠清南道扶余郡)に遷した。この南遷は百済の領土が南方(全羅道方面)に拡大したためでもあると考えられるテンプレート:誰。
後期:テンプレート:JIS2004フォント時代(538–660年)
新羅との対立
聖王によってテンプレート:JIS2004フォントに都が遷されると同時に、国号も南扶余と改められたが、この国号が国際的に定着することはなかった。この頃、かつての百済の都だった漢江流域も新羅の支配下に入り、高句麗からの脅威はなくなったものの、これまで同盟関係にあった新羅との対立関係が生じた。
倭国・高句麗との同盟
聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送り、倭国への先進文物の伝来に貢献したが、554年には新羅との戦いで戦死する。ここにおいて朝鮮半島の歴史は高句麗と百済の対立から百済と新羅の対立へ大きく旋回した。百済は次第に高句麗との同盟に傾き、共同して新羅を攻撃するようになった。
新羅の女王はしきりに唐へ使節を送って救援を求め、高句麗と争っていた唐は日本からの遣唐使を黄海に面した領土を獲得した新羅経由で帰国させるようにして新羅の要請に応え、朝鮮半島は遠交近攻による「百済-高句麗」(麗済同盟)と「新羅-唐」(唐羅同盟)の対立となり、どちらのブロックに与するかが倭国の古代東アジア外交の焦点となった。
百済滅亡
660年、唐の蘇定方将軍の軍が山東半島から海を渡って百済に上陸し、百済王都を占領した。義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏して百済人は新羅および渤海や靺鞨へ逃げ、百済は滅亡した[12]。
百済復興運動
唐は百済の領域に都督府を設置して直接支配を図るが、唐軍の主力が帰国すると鬼室福信や黒歯常之、僧道テンプレート:JIS2004フォント(どうちん)などの百済遺臣の反乱を抑え切れなかった。また百済滅亡を知った倭国でも、百済復興を全面的に支援することを決定し、倭国に人質として滞在していた百済王子・扶余豊璋を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣し、斉明天皇は筑紫国朝倉橘広庭宮に遷った。
白村江の戦い
テンプレート:See 帰国した豊璋は百済王に推戴されたが、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害するという内紛が起きた。やがて唐本国から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、663年倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及んだ(白村江の戦い)。
これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させ、亡命を希望する百済貴族を伴って帰国させた。豊璋は密かに高句麗に逃れた。しかし、高句麗もまた668年に唐の軍門に降ることになる。
唐による半島支配計画
唐は高句麗の都があった平壌に安東都護府を設置して朝鮮半島支配を目指し、百済の故地に熊津都督府をはじめとする5つの都督府を設置して熊津都督に全体の統轄を命じた。664年の劉仁軌の上表を受けて義慈王の太子だった扶余隆を熊津都督に任じた。
翌年の665年8月には就利山において扶余隆と新羅の文武王が劉仁起の立会の元に熊津都督府支配地域(旧百済)と新羅の国境画定の会盟を行わせた[13]。
後に扶余隆は百済の歴代国王が唐から与えられていた「帯方郡王」に任じられ、子孫に称号が継承されている。これは百済の亡国の太子が唐によって新羅王と同格と扱われたことを示すとともに、高句麗最後の王・宝蔵王の遼東都督任命と対比することができる。そのため、扶余隆の熊津都督任命が単に百済遺民の慰撫を目的としているだけではなく、百済や高句麗(安東都護府・遼東郡王)を滅亡前の冊封国家ではなく羈縻国家として再建し、さらに唐の軍事力を背景に残された新羅(鶏林州都督府・楽浪郡王)をも強引に羈縻体制に組み入れて、将来的には「朝鮮半島全域の中華帝国への編入」を視野に入れていた可能性も指摘されている[14]。
新羅と唐の対立
唐の支配に反発した新羅は百済・高句麗を名目的に復興させて反唐戦争(唐・新羅戦争)に動員し、倭国とも友好関係を結んだ。
西方で国力をつけた吐蕃の侵入で都長安までもが危険に曝される状態となった唐は、物理的に遥かなる遠方に位置する上に、紛争続きで経営が困難だった朝鮮半島を放棄せざるを得なくなり、これで百済の故地は新羅の支配下に入った。
新羅は百済故地に残留した百済の支配層を新羅の貴族階層へ取りこんでいくことで新羅支配の実効性を確保していった。ただし、前述のように扶余隆の子孫への帯方郡王任命は継続されており、唐は表向きは百済への支配権を主張する体裁を採っていた[15]。
倭国との関係
倭国との外交関係としては、百済の中期に高句麗の軍事的圧力に対抗するために和通したことが記録されている。『日本書紀』には、隣国に攻められ窮地に陥った百済に対して日本が援軍を派兵した記録や、領土を奪われた百済に任那の一部を割いて与えた記録、さらには百済が日本に朝貢したり、王族を人質として差し出した記録などが数多く記されている。
その一方で『日本書紀』には「百済は是多反覆しき国なり。道路の間すらも尚詐く[16]」と記されており、結局すべては対新羅、そして任那の権益をめぐっての戦略外交だったことが窺える。
朝貢関係
また中国の『隋書』にも、「新羅・百済は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、ならびにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す。[17]」という記述があり朝貢関係があったことをうかがわせる。
広開土王碑も倭については「百殘■■新羅を破り以って臣民と為す[18]」と記しており、この「百殘」を百済と見なし、辛卯年(391年)に倭に服属していたとする見解もある。
帰化人
建国前より一定数の倭人が居住(多民族国家)し、その後も日本列島や任那から倭人が百済に渡来・帰化している。後期に至るほど支配階級にも多くの倭人が登場する。
百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む一部の百済人が倭国に亡命し、一部が朝廷に仕えた。
豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜った。
『日本書紀』には、『百済記』や『百済新撰』など早くから散逸した百済の史書からの引用がある。百済からの文化財には、軍事的援助の謝礼として、中国より伝来したという石上神宮に伝わる七支刀がある。また倭国から伝わった勾玉や刀剣等の装飾品が再度倭国に返還された。
奈良県北葛城郡広陵町には百済の地名が集落名として現存し、百済寺三重塔が残る。
宮崎県東臼杵郡美郷町には、滅んだ百済から逃れてきた王族が彼の地に亡命したという伝承があり、百済王一族を慰める「師走祭り」という例大祭が行なわれている。禎嘉王が美郷町南郷区に、その子の福智王が約90キロメートル離れた木城町に住んでいたといい、死後それぞれが神として祀られるようになったもので、例祭当日には村民が参加して、父を祀る神門神社と子を祀る比木神社の間で親子の対面を再現する。[19]
王
『周書』百済伝によれば、王を表す固有の語として「於羅瑕(支配層=扶余=徐系百済語による号)」と「テンプレート:補助漢字フォント吉支(被支配層=韓系百済語による呼称)」の二種があり、王妃は「於陸」と呼ばれていたという。「テンプレート:補助漢字フォント吉支」は『日本書紀』古訓に見える「百済王」の和訓「くだらのこにきし」の語尾「きし」がこれに相当すると考えられる。
扶余族の東明伝説に因んで、百済の王族は姓を扶余=徐(ブヨ)と名乗った。だが、5世紀後半からは中国風に一字姓の余=徐(ヨ)も名乗るようになっており、扶余姓と余姓と徐姓を併用するようになっている。この併用の習慣は百済の滅亡まで続くことになる。
官制
『三国史記』によれば、始祖温祚王の時代から左輔・右輔の官名が見られる。これは高句麗における最高官位と同名だが、高句麗では新大王のときから国相が最高官位となった。
佐平制
百済では第8代の古尓王の27年(260年)に、一品官の六佐平(各種事務の担当長官)とそれに続く15階の官、あわせて16階からなる官制が整備されたと伝わるが、実際に佐平制の雛形が整ったのは第15代枕流王(在位:384年 - 385年)の頃と考えられている。第18代の腆支王の4年(407年)には六佐平の上に上佐平の官位を置いている。上佐平は軍事統帥権と国内行政権を総括するもので「宰相」に相当し、また伝説時代の「左輔・右輔」にも相当する。『日本書紀』には大佐平、上佐平、中佐平、下佐平も見え、上・中・下の佐平を総称して「三佐平」といった。大佐平は全権を委ねられた王世子で摂政のようなものらしい。
『周書』百済伝には、佐平(左平)の定員は5名だったこと、各官職の帯の色は、七品が紫、八品が皂、九品が赤、十品が青、十一品・十二品が黄、十三品以下は白だったこと、三品以下は定員がなかったことなどを伝えている。
- 官位
- 佐平(さへい)- 一品官。その担当する職務によって、6種類に種別されている。
- 内臣佐平(ないしんさへい) - 宣納(王命の伝達)の担当
- 内頭佐平(ないとうさへい) - 庫蔵(財政)の担当
- 内法佐平(ないほうさへい) - 礼儀(儀式)の担当
- 衛士佐平(えいしさへい) - 宿衛兵(王の禁軍、近衛兵)の担当
- 朝廷佐平(ちょうていさへい) - 刑獄(司法)の担当
- 兵官佐平(へいかんさへい) - 外兵馬(対外軍事)の担当
- 達率(たつそつ)- 二品官
- 恩率(おんそつ)- 三品官
- 徳率(とくそつ)- 四品官
- 扞率(かんそつ)- 五品官
- 奈率(なそつ)- 六品官
- 将徳(しょうとく)- 七品官
- 施徳(しとく)- 八品官
- 固徳(ことく)- 九品官
- 季徳(きとく)- 十品官
- 対徳(たいとく)- 十一品官
- 文督(ぶんとく)- 十二品官
- 武督(ぶとく)- 十三品官
- 佐軍(さぐん)- 十四品官
- 振武(しんぶ)- 十五品官
- 克虞(こくぐ)- 十六品官
- 官庁
- 内官 - 前内部、穀内部、内ケイ部(ケイは「テンプレート:拡張漢字」=まだれ〈广〉に京)、外ケイ部、馬部、刀部、功徳部、薬部、木部、法部、後宮部
- 外官 - 司軍部、司徒部、司空部、司寇部、點口部、外舎部、綢部、日官部、市部
文化
墳墓
漢城時代の墳墓は、旧以前からある土壙墓・石槨墳に対して支配者層の積石塚が見られる。積石塚は高句麗に良く見られ高句麗とのつながりが確認できる。熊津時代には支配者層の墓は、積石塚に代わって石室墳や塼築墳が採用されるようになった。1971年に発見された武寧王陵は横穴式石室墓の典型である。泗テンプレート:JIS2004フォント時代には長方形の石室墓が広く流行し、山の中腹に墳墓が設けられるようになった。
王都とは離れた全羅南道に百済の勢力が及んだのは5世紀末から6世紀初頭のことで、それ以前には甕棺墓を基本とする文化圏が広がっていた。これらは馬韓の勢力の名残と推定されているが、日本で見られる前方後円墳型の封土墳も多く見られ、倭の影響も確認できる。
仏教
仏教の受容は高句麗に遅れること10年で、枕流王元年(384年)に東晋から胡僧の摩羅難陀を迎えたこと、その翌年には漢山に寺を創建したことが伝わっているが、4世紀末の仏教遺跡は見つかっていない。5世紀末以降になると、475年(文周王元年)に遷都した熊川(現公州)の寺院址では12寺が、538年(聖王16年)に遷都した泗テンプレート:JIS2004フォント(現扶余)では26寺が、そして全羅北道の益山郡では巨大な弥勒寺石塔が発掘されている。[20]
百済の寺名がはっきりと現れるのは熊津時代の大通寺であり、聖王の時代の建立と考えられている。他の熊津時代の寺としては、公州市に水源寺址、西穴寺址、南寺址などがある。聖王は泗テンプレート:JIS2004フォントに遷都した後に、梁から『涅槃経』などの経典、工匠・絵師などを下賜され、積極的に仏寺の造営をすすめた。王興寺・定林寺・軍守里廃寺などの寺址が扶余郡で発見されており、泗テンプレート:JIS2004フォント時代の仏教の盛んな様子が『隋書』百済伝に「有僧尼多寺塔」と記されていることを裏付けている。
- 略譜
- 384年(百済枕流王1年)、中国南朝の東晋より摩羅難陀が百済に仏教を伝える。
- 385年(百済枕流王2年)、王都漢山に仏寺を創建して僧侶10人を度す。
- 526年(百済聖王4年)、百済僧謙益がインドより天竺僧と帰国する。『五分律』を翻訳する。
- 541年(聖王19年)、百済が梁に毛詩博士、経義、工匠や画師を求める。
漢字
4世紀後半の近肖古王の時代に博士高興(こうこう)を得て初めて漢字に触れ、その後には王仁が倭に『論語』や千字文をもたらしたと伝えられるように、百済では早くから漢文・古典に習熟していたとみられている。聖王の時代に梁から下賜されたものには、仏教経典とならんで毛詩博士が記されているように、中国からの文物の受容に熱心だったことが窺える。
百済遼西経略説
百済が中国の遼西地方に進出したという、いわゆる「百済遼西経略説」は、『宋書』『梁書』などの南朝系史書から始まったものである。それによれば、『晋(265年 - 420年)の時に高句麗が遼東を占領した後(404年以降)[21]に、『宋書』によれば百済もまた遼西地方を征服して晋平郡を設置した(『梁書』では、晋平郡遼西郡の2郡を併合して百済郡[22]を置いた)』という。
実際に遼西地方を支配していた北朝系史書には関連記録が全く見られず[23]、韓国・北朝鮮以外の学界では主要な学説とは認められていない。
韓国の学界においても一般的には百済の遼西進出については否定的な見方が大勢だが[24]、近年もなお百済の遼西進出を事実とする説は提起されている[25]、韓国の国史編纂委員会で編纂する『国史』教科書では、1990年までは百済が遼西を攻撃したと敍述していた。1990年以降は進出という表現を使って曖昧に表現している。
一方、韓国の在野史学系では、百済の遼西経略を認める方向にある。中でも大陸史観を唱える人々は、百済の位置を朝鮮半島西南部ではなく黄河と長江の間に比定して、百済の遼西経略が事実だと主張する。
遼西征服の開始時期
百済遼西経略説においては、その時期についても争点となっている。『梁書』によれば、遼西経略時期は晋の時代で、高句麗が遼東を占領した以後だが、高句麗と前燕が遼東の争奪戦を繰り広げたのは好太王(在位391–413年)の頃で、それが最終的に高句麗の手に落ちたのは404年[26]のこととみられている。ところが、この時期の百済は高句麗との戦争に敗北して58個の城を奪われており、遼西に進出する余力はなかったと考えられるため、それ以前に高句麗が385年[27]に一時的に遼東を占有した時に百済の遼西進出があったと見る学者もいる[25]。これに対し金庠基・金哲埈・日本の井上秀雄らは百済の近肖古王が371年に高句麗を破った時、余勢を駆ってさらに北方に進出して一時的に遼西を支配[28]したと推測している。また申采浩は近仇首王の時、鄭寅普は責稽王・汾西王の時と見る。また遼西計略説の出典である中国の史書は共通して百済伝の冒頭においてその建国・起源・発祥とのかかわりで述べており、解釈によっては夫余王の尉仇台が百済の創設者とも読めることから、遼西を経略したのは百済ではなく夫余であり、遼西経略も帯方における百済建国もともに、公孫氏との同盟下で同時期になされた夫余の対外発展の一環とみる説がある[29]。以上のべたこれらすべての諸説はみな遼西経略時期を404年以前に想定している。ただしこれら以外にも実に多様な数多くの説が存在する。
遼西領有の終焉時期
澤田洋太郎は『南斉書』にある490年の北魏による百済侵攻が騎兵によるものであり、陸続きの地に攻め込んだように書かれていることから、この時の百済とは遼西の百済だったと推定し、帯方百済(いわゆる百済)と遼西百済は長らく並行して存在したと考えた[30]。また『梁書』に「天監元年、進太號征東將軍。尋爲高句驪所破、衰弱者累年、遷居南韓地」とあることから、遼西百済は天監元年(502年)に滅ぼされたと考えた[31]。この澤田説が正しい場合、『宋書』『梁書』のいう「高句麗が遼東半島を征服した後(404年以後)」とは遼西に進出した時期ではなく遼西を失った時期ということになる。
帰属の問題
帰属に関する歴史論争の詳細は「東北工程」も参照のこと
中国は、百済は歴史上中国の一部であると主張している。
満州族のルーツである女真族と扶余族のルーツは同じツングース民族であることから、民族的に同系である満州族を国民として多数抱える中国の立場として、中国政府のシンクタンクである中国社会科学院の公式研究書で百済に対して「(高句麗と)同様に古代中国の辺境にいた少数民族である夫余人の一部が興した政権」と定義している[32]。また、中国の歴史学者の李大龍は「百済は扶余族が建てた国なので、百済は中国民族が建てた国だ」と主張している[33]。中国の教科書の記述では、高等教育出版社『世界古代史』に「古朝鮮・高句麗・扶余は韓国の歴史ではなく、韓国史の始まりは統一新羅から」との主旨で記述している。中国の100余りの大学で使用されている福建人民出版社『中国古代史』には「扶余・高句麗・沃沮・穢貊は中国・漢代の東北地区の少数民族だ」と記述している[34]。
補注
関連項目
- 後百済
- 羅済同盟
- 麗済同盟
- 百済史年表
- 百済考古遺跡
- 古代朝鮮半島関連の中国文献
- 百済駅・百済貨物ターミナル駅(大阪市にあるJR貨物の貨物駅で、後者が現名称。付近に百済からの渡来人が生活していたと言われていた名残の旧地名に由来している。また、百済貨物駅が開業する以前、現在のJR西日本関西本線東部市場前駅に相当する旅客駅として存在していた百済駅があった)
- 百済バス停(大阪市営バスの9号系統、13号系統、30号系統が経由している。百済駅と同じく付近の旧地名に由来している。)
参考文献
- 『朝鮮史』 武田幸男編、山川出版社〈新版世界各国史2〉、2000 ISBN 4-634-41320-5
- 『三国史記』第2巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫425〉、1983 ISBN 4-582-80425-X
- 『三国史記』第3巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫454〉、1986 ISBN 4-582-80454-3