東夷

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東夷(とうい、拼音:Dōng yí)は、古代中国東方の異民族の総称で、四夷の一つである。(い)。

「夷」という漢字は「大」な「弓」と書いて、好戦的な民族として、蔑んだ意味合いを込めている。

本来は古代中国が東に位置する山東省あたりの人々に対する呼び名であったが、秦以降は朝鮮半島、日本列島などに住む異民族を指すようになった。後に日本でも異民族を意味する「エビス」という語と一体化し、朝廷(京)から見て東国や蝦夷の人々のことを「東夷(あずまえびす・とうい)」「夷(い・えびす)」と呼んだ。

中国での用法

黄河流域では、ほかの地域に先んじて文明が発達した。黄河文明の担い手であった漢民族は、周辺の諸民族を文化的に劣ったものとして見下した。漢民族は、自らを「華夏」と呼び、周辺の諸民族を「東夷」「北狄」「西戎」「南蛮」と呼んでいた。

東夷とよばれた民族・国家

後漢書東夷伝によると

江蘇省山東省付近(太字は九夷)
  • 畎夷,于夷,方夷,黄夷,白夷,赤夷,玄夷,風夷,陽夷,嵎夷,藍夷,徐夷,淮夷,泗夷
中国東北部朝鮮半島日本列島

歴史

昔、が羲仲(ぎちゅう)に命じて嵎夷(ぐうい)に住まわせた。そこを暘谷(ようこく)といい、日の出る所とされた。夏后氏(夏王朝)の太康天命)を失うと、夷人は初めて叛乱を起こした。

少康(在位:前2118年 - 前2058年)以後、東夷は代々夏王朝の王化に服していた。やがて王化がいきわたり、東夷たちは王門まで招かれるようになったため、そこで彼らの音楽や舞踊を披露した。

(在位:前1818年 - 前1766年)が暴虐をほしいままにすると、諸夷は中原に侵入し、(とう)は革命[1]を起こして夏王朝を滅ぼし、諸夷を平定した。

仲丁(在位:前1562年 - 前1549年)の時代、藍夷(らんい)が中国に侵入して略奪をはたらいた。これより300余年の間、諸夷は服属と叛乱を繰り返すこととなる。

武乙(在位:前1198年 - 前1194年)の時代になると、殷王朝はすっかり衰え、逆に東夷が盛んとなる。その後、東夷は淮水流域や泰山周辺に移り住み、次第に中国本土に移住するようになった。

武王が殷の帝辛(紂王)を滅ぼすと(前1046年)、肅慎(しゅくしん)が石砮(せきど)と楛矢(こし)を献上してきた。武王の死後、管叔鮮蔡叔度が周に背き、夷狄を招き寄せて叛乱を起こすが、周公旦によって征伐され、かくして東夷は平定された。

周の康王(在位:前1078年 - 前1052年)の時、肅慎がふたたび至る。後に徐夷(じょい)が王位を僭称し、九夷を率いて宗主国である周を撃つべく、西の河(黄河)にまで迫って来た。穆王(在位:1001年 - 前946年)はその勢力が血気盛んなのを恐れて東方の諸侯を分割し、徐の偃王(えんおう)に与えた。偃王は潢池の東におり、仁義による政治をおこなったため、その国への朝貢者は36国にもおよんだ。そこで穆王はに命じて徐国を討伐させた。偃王は慈悲深い人であったため、道理にはずれたことをせず、徐の国民を戦闘に駆り立てることをしなかった。そのため楚に敗れ、北の彭城武原県(現在の江蘇省邳付近)の東山の麓へ逃れたが、徐の国民数万人も偃王に随ってこの地に住み着いた。そのためその山は徐山と呼ばれるようになる。

周の厲王(在位:前878年 - 前841年)が無道であったため、淮夷(わいい)は中国に侵入して略奪をおこなった。厲王は虢仲に命じてこれを征伐させたが勝てなかった。宣王(在位:前827年 - 前782年)の時代、周は召公に命じて再び討伐をおこない、淮夷の平定に成功した。

周の幽王(在位:前782年 - 前771年)が悪政を行い、四夷の侵入を招いたため、周王朝は東の洛邑に遷都することとなった(春秋戦国時代の始まり)。その後、桓公春秋の覇者となると、斉の周辺の東夷諸族を追い払った。

楚の霊王(在位:前540年 - 前529年)が諸侯や淮夷らと申で会盟したのを機会に淮夷は楚に朝貢し、盟を守った。後に琅邪に遷都すると、越王の勾践は淮夷を征伐し、諸夏を撃って山東地方の小国を侵略していった。

が六国を併合して中国を統一すると(前221年)、淮夷や泗夷はすべて分散し、秦の民戸となる。

中国東北部の東夷

陳勝・呉広の乱をきっかけに秦朝が滅ぶと(前207年)、人の衛満は避地である朝鮮に拠り(前195年)、その国の王となった(衛氏朝鮮)。それから100余年後、前漢武帝によって衛氏朝鮮が滅ぼされると(前108年)、中国東北部の東夷諸族は漢王朝に朝貢するようになる。

王莽が帝位を簒奪すると(8年)、人は辺境を寇した。後漢建武25年 - 56年)の初め、東夷諸国はふたたび朝貢した。時に遼東太守祭肜の威勢は北方の諸族を畏れさせたため、その名声が海の向こうにまで届き、濊,貊,倭,韓といった諸族が万里の果てから中国に朝貢してきた。特に章帝和帝以後は使節が往来するようになった。安帝永初年間(107年 - 114年)に後漢の政治が多難になると、東夷諸族が初めて入寇するようになる。桓帝霊帝の失政では、年ごとにその混乱が大きくなっていった。

後漢末期の動乱により、遼東地域には公孫氏が三代にわたって割拠していた。中国の天子はこの地域を絶域とし、その一切を公孫氏に委任していた。そのため中国と東夷諸国との国交が断絶してしまった。景初年間(237年 - 240年)、明帝(曹叡)は司馬懿に命じて公孫淵討伐を行い、楽浪郡帯方郡までを支配することに成功した(238年)。これによって東夷諸国は魏に屈服し、以前のように国交が回復された。

これ以後も歴代の中国王朝と東夷諸国との交わりは行われ、その歴史は二十四史の各『東夷伝』に記されることとなる。

意味合い

周代以前の「夷」は現在の江蘇省山東省付近に住んでいた民族を指していた。そのころの「夷」の意味合いとして『後漢書』東夷伝に以下のように記されている。 テンプレート:Cquote このように初めの「夷」には侮蔑的な意味合いは見受けられず、むしろ好意的な印象を受ける。しかし周代以降、現在の江蘇省山東省付近にといった漢民族系の国々が建国され、東夷と呼ばれた人々が漢民族に同化されていくと、「東夷」という言葉は現在の中国東北部や朝鮮半島に住んでいた人々、すなわち濊,貊,倭,韓といった諸民族を指す用語となった。

しかし、中国東北部の東夷においても「東夷は一般に心穏やかに行動し、心に謹むことを慣習としている。これは他の三方の蛮夷(北狄西戎南蛮)と異なるところである」[2]と記し、また「東夷諸国は夷狄の邦(くに)といえども、俎豆(そとう)[3]の礼がある。中国ではすでにその礼を失ってしまったが、東夷ではそれがまだ信じられている」[4]と記していることから、侮蔑というよりむしろ敬意を感じる。

日本での用法

日本では「夷」をえびす、えみし、ころす、たいらげる、と訓読させた。「蝦夷(えぞ)」や「東夷(あずまえびす)」などにその用法が見られる。またみやこから遠くはなれた未開の土地の風俗(田舎ふう)をさす夷曲(ひなぶり)として、上代の歌謡の一種、あるいは田舎風の詩歌、狂歌として表現した。荒々しい武士、情を理解しない荒っぽい人、風情が無く、教養・文化に欠ける人、特に東国の武士を[5]京都の人から見て「あずまえびす」「えびす」と呼称した。

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

参考資料

文献情報

  • 「中国戦国時代における「四夷」観念の成立」吉本道雅(京都大学文学研究科21世紀COEプログラム)[1][2]

関連項目

  • 天命を革(あらた)めることを「革命」という。
  • 『後漢書』東夷伝
  • 祭器の名。俎と豆。俎はいけにえの肉をのせるまないた、豆は菜を盛るたかつき。転じて、礼法。
  • 三国志』魏書東夷伝
  • Goo辞書による[3]