桓帝 (漢)

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テンプレート:基礎情報 中国君主 桓帝(かんてい)は、後漢の第11代皇帝章帝の曾孫、河間王劉開の孫、蠡吾(れいご)侯劉翼の子。弟は河間王劉建、渤海王劉悝順帝の族弟(劉一族中の年少の“いとこ”に当たる)。側室のひとりは寇恂の6世孫(寇栄の従孫女)で、妹の益陽公主は寇恂の玄孫(寇栄の従兄の子)に嫁いだ[1]。男子がなく、一族の河間王の系統である霊帝がついだ。

生涯

梁冀誅殺

質帝梁冀により毒殺された後、権勢保持のために梁冀とその妹の梁太后によって反対を押しのけ擁立された。即位後は質帝の代と同様に梁冀の専権が続き、梁冀は妹を桓帝の皇后に立て、一族から7封侯・3皇后・6貴人(妃の位)・2大将軍を輩出し、梁氏最盛期を現出した。梁冀は李固を殺害するなど、反対者に対する弾圧を強めた。

この専横に反発した桓帝は、宦官単超の助力を得て梁冀の邸宅を包囲して誅殺、一族もほぼ全員に当たる300名以上が粛清され、そのために朝廷での人材不足が発生したと史書は伝えている。

梁冀粛清後に親政を始めると、功労者の単超を2万戸の侯に封じ、その他の宦官たちに対しても恩賞を与えた。梁冀の専横は排除したが、この政変により今度は宦官たちに権力が集中することとなる。宦官に養子を認め、財産相続を認めたことにより世襲貴族を志向する者も現れるに至った。この時期に権勢を誇った宦官に、の祖となった曹操の祖父曹騰もいる。

党錮の禁

宦官による政権掌握に不満を抱いた外戚豪族勢力は、宦官を儒教的に穢れた存在として対抗、宦官を濁流、自らを清流と称しての政争が始まる。

延熹2年(159年)、河南尹李膺が宦官の犯罪を摘発しようとしたところ、逆に投獄される事件を契機に、宦官勢力は豪族たちを党人、徒党を組んで政治を乱す者と見做し弾圧を行った。李膺は後に許されて司隷校尉となり、宦官を恐れずに摘発したことで名声を高める。その後、清官として名声があった陳蕃と共に幹部官僚予備軍たる太学大学)の学生たちの支援を受け両者は宦官への糾弾を開始するが、延熹10年(167年)に宦官たちはこれに大規模な弾圧で対抗した(党錮の禁)。

党錮の禁で逮捕された人数は200人に及び、逮捕者は無罪とされた後も免職され以後の仕官の道が閉ざされた。この処置は清流派の強い不満の原因となり、清流派の代表である李膺・陳蕃の名声はますます高くなった。桓帝崩御後には陳蕃による宦官誅滅作戦が行われたが失敗、再び宦官たちによる弾圧(第二次党錮の禁)が実施され、清流派と宦官の対立がますます深まることになる。

宦官の専横が後の黄巾の乱の要因となり、豪族と宦官の対立が黄巾後の戦乱の時代を生むことになった。桓帝の時代には後漢の滅亡の要因となる清濁の争いの原因が形成された時代である。

特筆すべき事例として、延熹9年(166年)に大秦(ローマ帝国)国王安敦(マルクス・アウレリウス・アントニヌス)の使節が入朝している。

その他に、延熹7年(164年12月に外戚に当たる侍中寇栄の度重なる諌言に激怒して、幽州刺史張敬に勅命を発してこれを処刑させている[1]

子女

脚注

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  1. 1.0 1.1 後漢書』寇恂伝付寇栄伝。