伏完

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
姓名 伏完
時代 後漢時代
生没年 生年不詳 - 209年建安14年)
字・別号 〔不詳〕
本貫・出身地等 徐州琅邪郡東武県(山東省諸城市
職官 侍中後漢〕→執金吾〔後漢〕</br>

→輔国将軍〔後漢〕→中散大夫〔後漢〕</br> →屯騎校尉〔後漢〕

爵位・号等 不其侯〔後漢〕→列侯〔後漢〕
陣営・所属等 献帝
家族・一族 父:伏質 舅:桓帝 妻:劉華(陽安公主)</br>

子:伏徳 伏典 伏寿(献帝皇后)</br> 娘婿:献帝(劉協)

伏 完(ふく かん、? - 209年)は、中国後漢末期の人物。後漢最後の皇帝献帝皇后伏寿(伏皇后)の父。不其侯・侍中。父は伏質(大司農)。妻は劉華桓帝の娘の陽安公主)。子は伏徳伏典

済南伏生・伏勝の子孫。伏勝の八世伏理太傅)、伏理の子伏湛(大司徒・陽都侯)、伏湛の四世伏晨の曾孫。伏無忌の孫(侍中・屯騎校尉)にあたるという名門の出であり、皇帝の娘婿として名声が高く、荀彧と親しい仲にあったと言われている。

196年、献帝は洛陽で宮廷を営むと、伏完を輔国将軍・儀同三司とした。しかし伏完は曹操が、自分が外戚の地位にいる事を疎んじているのを見て、印綬を返上した。その上で中散大夫に任命され、やがて屯騎校尉に職を移した。

200年董承らが曹操暗殺のクーデター未遂事件を起こすと、曹操は献帝の子を妊娠している董承の娘の董貴人さえも処刑した。これに伏皇后は戦慄し、父に曹操は残忍ゆえに排除すべきだという手紙を送った。しかし、伏完は曹操排斥の動きをとらないまま209年に死去し、子の伏典が後を継いだ。 214年、伏皇后が「曹操の排除」を唱えていたことが明るみになると、曹操は伏皇后を「廃后」に処し、幽閉した。また伏氏の宗族を処刑した。さらに母方であった陽安公主の一族は、幽州に追放された。これにより曹節が皇后に立てられた。外戚の伏氏は排除され、代わりに曹氏が漢王朝の外戚となった。

『三国志演義』の描写

小説『三国志演義』では、献帝が曹操に対してクーデターを起こして失敗した時、処刑された董承の恨みを晴らそうと、伏皇后と共謀して曹操打倒の策を練る。この時、皇后は父に対して書状をやり取りし連絡をとるが、その書状が曹操の手に渡ってしまう。このため、曹操の手によって伏完と伏皇后、そして一族は謀反を企んだとして全て処刑されている。また、伏皇后処刑後に曹節が皇后として輿入れし、曹操による専横がさらに強くなった事にされている。