三宅裕司のいかすバンド天国
テンプレート:基礎情報 テレビ番組 『三宅裕司のいかすバンド天国』(みやけゆうじのいかすバンドてんごく)とはTBSで放送された深夜番組『平成名物TV』の1コーナーである。1989年2月11日に始まり、1990年12月29日に多くのバンドを輩出して幕を閉じた。その後2007年12月30日に「あの伝説の番組再び!"イカ天2007復活祭"名物バンド激レア映像 今夜限りの大放出スペシャル」と題し、17年ぶりに復活した。
「イカ天」が公式な通称であるために「イカすバンド天国」と誤記されることが多いが、「いかす」をひらがなで書くのが正式な表記である。
なお、この番組に出場したバンドの総数は846組であった。
目次
番組概要
毎週土曜深夜に10組(第1回、第2回は12組)のアマチュアバンドが登場し、審査員によってチャンピオンが選ばれて前回のチャンピオンバンドと競演して勝った方がイカ天キングとなる。5週連続でイカ天キングとなったバンドはグランドイカ天キングとなり、メジャーデビューが約束されたテンプレート:要出典[1]。
だが番組当初にはメジャーデビューへの道という話は全くなく、グランドキングになれば48チャンネルのスタジオを借り切って録音ができ、番組でPVを制作してもらえるというだけであった(その後、番組の人気とともにスケールアップしていく)。したがって出場バンドの中にはベンチャーズやグループサウンズのカバーあるいはプログレッシブ・ロックを演奏するバンドも少なくなく、かつて存在した同様の番組『勝ち抜きエレキ合戦』に出場経験のある中年男性バンドという古強者も登場し、そういうものも含めた学園祭的なにぎやかさも番組制作のねらいの一つであったという(この番組の審査員にベンチャーズ研究家の萩原健太やプログレッシブ・ロックの世界で神格化された難波弘之が名前を連ねていた)。
この番組は当時爆発的な人気を呼び、1989年の新語・流行語大賞の流行語部門・大衆賞を受賞するまでに至った。1990年1月1日には、日本武道館において前日の第31回日本レコード大賞のセットをほぼ流用するような形で「輝く!日本イカ天大賞」が行われた(この放送は翌日1月2日、23時15分 - 25時15分)。
司会は三宅裕司と相原勇(後期にはバンドが登場する直前の「次のバンドはこのバンドだいっ!」というフレーズも人気に)、第1回放送時は三宅と出場バンドメンバー全員による「ヘーイ、セーイ」の掛け声で始まり、この時には「略していかバン天」と言っていた。バンド呼び込みなどのナレーションは関口伸(1989年4月15日放送分から登場。それ以前は三宅か相原による紹介で行われていた)。プロデューサーは元スペクトラム・KUWATA BANDの今野多久郎、収録スタジオは日比谷シャンテTBSスタジオ(地下1階。現在は映画館「シャンテ シネ3」に改装された)。
しかし、1989年に番組のディレクターが麻薬所持で逮捕。1990年、2年目に突入し審査員が交代して以降は人気は芳しくなく、同年3月にも番組の構成作家が大麻所持で逮捕される。その後、バンドブーム熱の降下とともに番組は終了した。
イカ天キングとは
イカ天キングとチャレンジャー賞受賞者との対決で、7人の審査員の多数決で決まる(スタート当初は審査員は5人)。丸(金色)のキングの札(イカ審棒と呼ばれた)が4人以上なら勝ち抜き、四角(焼肉の網を模した形)のチャレンジャーの札が4人以上なら新キング誕生(キングには1週勝ち抜くごとに10万円の賞金が出た)。キングとなった週を含め、5週勝ち抜きでグランドイカ天キングとなる。ちなみに1989年7月頃までの札は赤丸(キング)と青丸(チャレンジャー)で色分けされ、中にイカのロゴマークが入っていたものであった。この当時の審査員席は焼肉を焼くホットプレートのような卓の周りを5人が囲んで座るといった体裁であった。
なおキングのグランドキング挑戦の週には強力なチャレンジャーがぶつけられることがセオリーとなっており、FLYING KIDSをあわやというところまで追い詰めたKUSU KUSU(人気投票連続11週1位)、たまとマルコシアス・バンプの対決など名勝負や圧倒的な実力差でBEGINがNORMA JEANのグランドキングを阻止した際のラッシャー木村の「耐えて燃えろ!」などの名言を生んでいる。
仮イカ天キングとルール
グランドキング誕生の次週はキング不在となる。したがってそのままキング不在で番組が行われ、その週の最優秀バンドがキングになる。しかし初代グランドイカ天キング(FLYING KIDS)が誕生した翌週のパニック・インザ・ズゥはキングの実力かどうかの判断ができないということから、「仮イカ天キング」という措置がとられた。この仮キングの週は勝ち抜き週数にカウントされず賞金もない。次週で勝てば正キングとなり、負ければ仮のままで終わるというもの。2代目グランドキング(BEGIN)が誕生した翌週のカブキロックスも仮イカ天キングであった。また、3代目グランドキング(たま)誕生の週はチャレンジャー賞のマルコシアス・バンプを落とすのはあまりにも惜しいということから審査委員長の萩原健太が「そのまま仮イカ天キングにして残すのはどうか」と提案。三宅はもちろんほかの審査員も異存はなく、満場一致で番組中に決定した。このほか、番組末期に仮キングとなったGLUは「仮にするか本当のキングにするか迷いました」と言われており、もう少し評価が高ければキングとの対決を経ずして正キングになった唯一の例となるところであった。イカ天のルールはこの番組らしく臨機応変に変更されていった。
主な賞など
- チャレンジャー賞
- ベストボーカル賞
- ベストプレイヤー賞
- ベストキャラクター賞
- ベストコンセプト賞
- ベストスピリッツ賞
- 特別審査員賞(ゲスト審査員が選ぶ、同人の名前を冠することが多い)
- 在宅審査員賞(音楽業界関係者等がFAX等で投票、票数が最も多かったバンドに贈られる)
チャレンジャー賞と他の賞を同時に受賞したバンドもいる。
「完奏」と「ワイプ」
審査員席には、赤と青の2つのランプがあり、「もう見たくない」と思った時には赤ランプを押す。赤ランプが2つ点くと「ワイプ」となり、演奏中の画面が小さくなる(演奏時間の記録も赤2つ点いた瞬間までのものとなる。7つ全部赤が付くと演奏画面が消える。第2回放送時までは赤3つで一気に画面が小さくなっていたが、第3回放送からは段階的に縮小する形に変わった)。3分間ワイプを受けずにいられたら「完奏」(この完奏のイカマークが画面に登場したのは1989年3月4日から)。ただ、ワイプになってももう少し見たいと思った時には青ランプを押す。すると演奏中の画面が再びいっぱいに戻るが、完奏扱いにはならなかった(番組初期の頃には審査員の赤ランプよりも権限が強かったという、三宅用の青ランプが存在した。但しこれで復活できるのは5秒だけだった)。最速ワイプ記録は九州ASHの14秒[2]。登場時にふざけすぎて審査員の反感を買い、演奏前に赤ランプがついてしまったケースもある。またワイプをかわすため、わざと短い曲を作って挑むチャレンジャー(1989年6月17日に1分30秒で完奏したバンド「近親憎悪」)も存在した。ちなみにキングはワイプの対象にならない。
イカ天内のコーナー
- ロックロックこんにちは(ロックやイカ天出身バンドを中心とした最新の音楽情報など)
- バンドストッククラブ(『アマチュアバンドベスト10』や、アマチュアバンドのライブ情報など。元ジューシィ・フルーツのイリア(奥野敦子)が一時期レギュラー出演)
- プロバンドベスト20(アマチュアバンドベスト10と同様に、視聴者からの投票で決定していた。しかし番組に登場したバンドたちがデビューするや、その順位ほとんどをそれらバンドが占めてしまった)
- FAX TIME(在宅審査員から送られたFAXを紹介。FAX審査員には「吉田建さん、注文していたロンドンブーツ手に入りましたよ!」 と私信を送ったことで有名な雑誌編集者メタルウサギ、林真理子などがいた)
番組セット
- バンドが登場する入口は障子(ナレーターがバンド紹介をしている間はスタジオが暗くなって障子の後ろから照明が当たり、障子越しにシルエットが映るようになる)、障子の上には『平成』と書かれた額が掛かり、その両側と上は太陽(障子の周りが太陽の円)から光が放たれるようなイメージの絵柄となっていた。当初は太陽と光が赤、その他の部分が金色であったが後にこの配色が逆になっていた。なお、番組が始まって数回の間は入口の上は額ではなく大きなVHSテープの絵が掲げられ、光のような絵柄も違っていた。
- 障子の右側が審査員席、さらにその右側が今野多久郎ら『バンドストッククラブ』コーナー出演者が座る席でその後ろには在宅審査員の氏名・団体名・レコード会社名の札が掛かって視聴者からのはがきと鹿の頭が飾られていた。
- 壁にはほかにその週出場のバンドの名前が貼られたホワイトボードが掲げられており、完奏するとバンド名の後ろに「完」のシールが貼られた。
- TVカメラの後ろ側には雛壇状に出場バンドの席が並び、さらにその後ろには週ごとに替わるスローガンを書いた横長の垂れ幕が掲げられていた。イカ天キングが座る席は雛壇の席よりも前に置かれ、赤い布を掛けた丸い卓に横長の椅子という茶店のような感じのもので、お茶とどら焼きなどのお菓子が振る舞われていた。
- ちなみに垂れ幕のスローガンの内容は季節の話、年中行事にロッカーの生き様などを引っ掛けて作ったような文言が多く、中には1989年7月23日に行われた第15回参議院議員通常選挙(「サン・ギィ〜〜〜ン」でギターをチョーキング)や当時の宇野宗佑首相の女性スキャンダルをネタにしたものもあった。スローガンの内容が実現したかのような、あるいはスローガンと反対の皮肉な出来事が起こることも多々あった。
- その週のイカ天キングが決定した瞬間、天井からキングに選ばれた側のくす玉が割れ、紙テープ・紙吹雪の舞う中で、新チャンピオンであれば「新イカ天キング誕生」(途中から「○代目イカ天KING誕生!!」)、キング防衛であれば「おめでとう イカ天KING○週制覇!!」、グランドチャンピオンになった場合「おめでとう Grand Ikaten KING誕生!!」という字幕が表示された。グランドチャンピオン達成時、くす玉には垂れ幕「祝 イカ天キング五周制覇」(5週とは書かれていなかった)が紙テープと一緒に舞っていた。
歴代イカ天キング
- 初代:SLUT&SLASH BAND(2週勝抜、1989年2月11日 - 18日)
- 2代目:GEN(1週勝抜、1989年2月25日)
- 3代目:FLYING KIDS(5週勝抜、初代グランドイカ天キング、1989年3月4日~4月8日)
- (仮キング:パニック・イン・ザ・ズゥ、1989年4月15日)
- 4代目:イエロー太陽s(1週勝抜、1989年4月22日)
- 5代目:RABBIT(3週勝抜、1989年4月29日 - 5月13日)
- 6代目:JITTERIN'JINN(1週勝抜、1989年5月20日)
- 7代目:セメントミキサーズ(3週勝抜、1989年5月27日 - 6月10日)
- 8代目:突撃ダンスホール(1週勝抜、1989年6月17日)
- 9代目:ダイヤモンズ(1週勝抜、1989年6月24日)
- 10代目:宮尾すすむと日本の社長(3週勝抜、1989年7月1日 - 29日)
- 11代目:NORMA JEAN(4週勝抜、1989年8月5日 - 26日)
- 12代目:BEGIN(5週勝抜、2代目グランドイカ天キング、1989年9月2日~30日)
- (仮キング:カブキロックス、1989年10月14日)
- 13代目:サイバーニュウニュウ(1週勝抜、1989年11月4日)
- 14代目:たま(5週勝抜、3代目グランドイカ天キング、1989年11月11日~12月9日)
- 15代目:マルコシアス・バンプ(仮キング→5週勝抜、4代目グランドイカ天キング、1989年12月9日 - 1990年1月20日)
- 16代目:Stone Crazy(仮キング→2週勝抜、1990年1月27日 - 2月10日、ブルース系のグループ)
- 17代目:THE BOOTS(4週勝抜、1990年2月17日 - 3月10日、ファンク系バンド)
- 18代目:RAMBLE-FISH(3週勝抜、1990年3月24日 - 4月7日。キング在位中に審査員の交替があった)
- 19代目:LITTLE CREATURES(5週勝抜、5代目グランドイカ天キング、1990年4月14日 - 5月12日)
- 20代目:SOLID BOND(仮キング→1週勝抜、1990年5月12日 - 19日)
- 21代目:LANPA(4週勝抜、1990年5月26日 - 6月16日)
- (※SOLID BOND辞退のため、チャレンジャー賞がそのままキングとなる異例の措置)
- 22代目:悪名エレキショー(1週勝抜、1990年6月30日、大阪出身。同郷のLAMPAを倒してキングとなる)
- 23代目:ジョリーロジャー(1週勝抜、1990年7月14日)
- 24代目:COLLAGE(1週勝抜、1990年7月28日、プログレ風のグループ)
- 25代目:BLANKEY JET CITY(5週勝抜、6代目グランドイカ天キング、1990年8月4日~9月8日)
- (仮キング:P-MACHINE、1990年9月15日)
- 26代目:PANIC IN THE ZU:(5週勝抜、7代目グランドイカ天キング、1990年9月22日~10月27日)
- (※パニック・イン・ザ・ズゥ から改名)
- 27代目:GLU(仮キング→4週勝抜、1990年11月3日 - 12月8日)
- 28代目:EDITION DELUXE(1990年12月15日 - 22日)
※詳しい対戦スコアなどは三宅裕司のいかすバンド天国に出場したバンド#歴代イカ天キングを参照。
キング以外の出演バンド
主な審査員
1989年3月25日までは審査員5人体制。4月8日放送分から7人体制となった。この番組の審査はたとえば、吉田「とても好きです(中略)ただAメロがあまりにも8分音符が続いてそこをちょっと…」萩原「いや、アレいいですよ」銀次「おれも好きだな」三宅「あ〜、いま吉田さん猛ひんしゅくを買いましたね」吉田「いま、とてもあせってしまいました」というやりとり(因にこの言い合いが展開されたバンドは第4代イカ天キングのイエロー太陽sであった)があるように、政治的なかけひきのない厳しいながらも和気藹々としたものであった。
1990年3月まで
音楽評論家、審査員長。よく出場者をフォローするコメントを出し『フォローの達人』『イカ天の良心』とも言われる。米米CLUBの海外レコーディングに同行して番組を休んだ時も、自費で自分の人形を作り自分の席に置いていったこともあった。ただ「フォローのしようがない」「こんなバンド完奏させちゃいけない」という発言があるように甘い審査というわけではない。
オペラ歌手。美形好きと公言し、美形の男が出てくると眼鏡をかけることもあった。この番組がきっかけでその後、村上“ポンタ”秀一とレコーディングすることになる。
ベーシスト、アレンジャー、プロデューサー。冷めたような口調で『何、それ?』『やめてよ』『何でこんなバンド、予選通すの?』などの辛口コメントが多く、一方で『今日は厳しいことを言い過ぎて、すみません』と謝る一面もあった。そういうこともあって、一時少女週刊誌に載るほどの人気に。特に電子楽器シーケンサー打ち込み系グループを一切認めなかった。しかし、2004年TM NETWORKのサポート、レコーディングに参加する。
初期のナイアガラメンバーでもあることから面白好きな一面を番組では見せた。プレイヤー的な視点のコメントでは「建&銀次」というコンビにされることも多かった。
謎のタクティシャン。舞台の演出家だったり、音楽プロデューサーだったりするらしい。フグの調理師免許を持っており、それをネタに三宅にいじられることも多々あった。現在は福山雅治のプロデューサー。
ドラマー。吉田建のLOSERのドラマーだった関係から出演したと思われる。何度も出演した印象を持たれているが、実は6回の出演である。
ハードボイルド作家として紹介されていた。
一度だけ三宅の代理で司会を務めたことがある。
プロレスラー。元国際プロレスのエース。マイクパフォーマンスを得意とする。「耐えて燃えろ!」の名言を残す。なお、他の審査員がスタンドマイクであったのに対し、ラッシャーだけはハンドマイクだった。
1990年4月から
- 田中一郎 (視聴者から『アンパンマン一郎』のイラストが届いたことがあった)
- 斎藤ノブ(バーカッションニスト。視聴者からのイラスト『おにぎりノブさん』でも話題になる)
- 鳴瀬喜博(カシオペア)
- PANTA
- 難波弘之(キーボーディスト)
- 森雪之丞 (作詞家)(視聴者からのイラスト『ウルトラマン之丞』でも話題に)
- 相沢行夫(NOBODY)
- 木原敏雄(NOBODY)
- 是方博邦(ギタリスト)
主なゲスト審査員
1989年
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1990年
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主な在宅審査員
輝く!日本イカ天大賞
1990年元旦(放送は翌2日)日本武道館大ホールに於いて催行された公開イベント。前日に同ホールで催行された第31回日本レコード大賞のセットを流用して、番組のシンボルであるイカのデザインのセットを追加したステージが使用された。司会進行はレギュラーと同じく三宅裕司と相原勇、ナレーターは関口伸が務めている。演目は以下の通り。
内容 | バンド名 | 曲目 | 部門賞 | 大賞 |
---|---|---|---|---|
オープニング演奏 | カブキロックス | お江戸 | - | - |
ベスト・スピリッツ賞部門 | One Night Stands | Trouble Maker | - | - |
↓ | THE NEWS | もっと自由に'89! | ベスト・スピリッツ賞 | - |
↓ | BELLETS | 半端者 | - | - |
↓ | NORMA JEAN | No Pains No Gains | - | - |
↓ | THE WEED | Yo Yo Yo | - | - |
↓ | C-BA | 旅でスカ | ベスト・スピリッツ賞 | - |
ベスト・パフォーマンス賞部門 | remote | Never Be! | - | - |
↓ | スイマーズ | スイマーズのテーマ | - | - |
↓ | カブキロックス | 好色一代男 | ベスト・パフォーマンス賞 | - |
ベスト・コンセプト賞部門 | 人間椅子 | 陰獣 | - | - |
↓ | マサ子さん | 雨にヌレテモいーや | - | - |
↓ | マルコシアス・バンプ | バラが好き | - | 審査員特別賞 |
↓ | たま | さよなら人類 | ベスト・コンセプト賞 | 大賞 |
ハーフタイムショー | パンク三宅とシンサイン・バンド | WALK DON'T RUN | - | - |
↓ | ↓ | バンバンバン | - | - |
ベスト・ソング賞部門 | セメントミキサーズ | 東京ラッシャイ | - | - |
↓ | イエロー太陽'S | 赤いチョコレートの下で | - | - |
↓ | 大島渚 | カリフォルニアの青いバカ | - | - |
↓ | BEGIN | 恋しくて | - | - |
↓ | ブラボー | ハイになりましょう | - | - |
↓ | 宮尾すすむと日本の社長 | 二枚でどうだ | - | 審査員特別賞 |
↓ | FLYING KIDS | 幸せであるように | ベスト・ソング賞 | 審査員特別賞 |
ベスト・プレイヤー& ベスト・ボーカル賞部門 |
セッション・バンド | 上を向いて歩こう | 後述 | - |
特記事項
- 開会宣言はラッシャー木村。
- ベスト・スピリッツ賞は同点の為2グループが受賞した。
- パンク三宅とシンサイン・バンドのメンバー編成は、ドラムス=村上ポンタ秀一、ベース=吉田建、ギター=伊藤銀次、リード・ギター&ボーカル=パンク三宅。二曲目からコーラスとして中島啓江と相原勇が加わった。
セッション・バンド
ベスト・プレイヤー&ベスト・ボーカル賞部門は、受賞者によって編成されたセッション・バンドという形式で、演奏中に逐次発表された。受賞者及びセッション・バンド・メンバーは以下の通り(発表順)。
- ボーカル=比嘉栄昇(BEGIN)
- ボーカル=浜崎貴司(FLYING KIDS)
- ギター=丸山史朗(FLYING KIDS)
- キーボード=宮尾益美(宮尾すすむと日本の社長)
- ギター=西薗まり(BIZ)
- ベース=増田俊行(セメントミキサーズ)
- キーボード=栗原由圭(NORMA JEAN)
- ベース=広沢力(レジスタンス)
- ギター=坂川正美(ヒステリックグラマー)
- ギター=和嶋慎治(人間椅子)
- ベース=佐藤研二(マルコシアス・バンプ)
- ドラムス=末松央至(宮尾すすむと日本の社長)
- ドラムス=中園浩之(FLYING KIDS)
- ギター=鴨下信吾(ダイヤモンズ)
審査員
ステージに登場した審査員は以下の通り。
イカ天関連ライブイベント
- 1989年5月5日「アマバン博」(会場:汐留PIT II) 出演:GEN、remote、FLYING KIDS 他
- 1989年6月23日・24日「IKA-TENサマーシリーズ・1 IKA-NIGHT TEN-NIGHT」(会場:MZA有明) 出演:人間椅子、remote、セメントミキサーズ、マサ子さん、ブラボー、THE KIDS、THE NEWS、福田眞純&SUPER MILK、FLYING KIDS
- 1989年8月28日~30日「IKA-TENサマーシリーズ・2 翔ばなイカ・踊らなイカ・楽しまなイカ」(会場:日本青年館) 出演:FLYING KIDS、宮尾すすむと日本の社長、大島渚 他
- 1989年9月1日 「IKA-TENサマーシリーズIN名古屋“しゃちほこ編”」
- 1990年3月30日「信州いか天」(開催地:長野県松本市)
- 1990年5月 「イカスピ」 イカ天とビッグコミックスピリッツとのコラボ企画。当時連載中の作家陣とバンドが共演した。 出演(カッコ内は共演した漫画家):NORMA JEAN(浦沢直樹)、人間椅子(楳図かずお)、サイバーニュウニュウ(中川いさみ)、THE BOOTS(山本直樹)、スイマーズ(玖保キリコ)、花園バンド(相原コージ&竹熊健太郎※メンバーに相原の実兄が在籍)、THE NEWS(石坂啓)、MADAM-E(吉田戦車)
- 1990年7月20日「宮崎いか天」 出演:人間椅子、THE BOOTS 他
- 1990年8月25日「小田原いか天」 出演:THE BOOTS 他
放送時間
(1990年10月6日から)毎週土曜日深夜(日曜日未明)24時40分 - 27時00分
放送休止日
- 1989年・・・7月15日、10月21日、10月28日、12月16日
- 1990年・・・3月17日、6月23日、7月14日、9月1日、10月13日、12月1日
スペシャルバージョンでの放送(キングVS挑戦者の対戦など無し)
- 1989年4月1日「春だ!輝けイカ天グラミー賞 全て見せます74バンド」
- 1989年7月8日「'89年上半期総決算」
- 1989年10月7日「ネット局増加・ロックが結ぶふるさとの輪」
- 1990年7月7日「'90年上半期総決算、七夕イベント『イカバタ』」 - ゲスト:浅野ゆう子
- 1990年12月29日「最終回特集」
レギュラー放送時間以外で放送された特番
- 1989年10月21日「イカ天スペシャル・午後ならどうだ!」(16時00分 - 17時30分放送)
- 1990年4月7日、4月14日、4月21日「オールナイトイカ天・見せます576バンド」(29時00分(午前5時)まで放送)
- 1991年1月1日未明「イカ天!イカ天!!イカ天!! イカ天年鑑永久保存版」(25時20分 - 30時00分(午前6時)放送)
放映局
原則関東ローカルだったこの番組も、放送開始当初は前番組『SUPER WEEKEND LIVE 土曜深夜族』を放送していた2局がそのままネットを引き継いでスタート、以後番組の人気が急上昇していくのに応える形でネット局が増えていった。
- 東京放送(現・TBSテレビ、1989年2月スタート時から)
- 中部日本放送(現・CBCテレビ、1989年2月スタート時から)
- 北海道放送(1989年10月から)
- テレビユー福島(同上)
- 信越放送(同上)
- 静岡放送(同上)
- 山陽放送(同上)
- 中国放送(同上)
- RKB毎日放送(同上)
- 熊本放送(同上)
- 宮崎放送(同上)
- 東北放送(1990年1月から)
- テレビユー山形(同上)[3]
- 長崎放送(1990年4月から)
- テレビ高知(1990年7月から)
- チューリップテレビ(1990年10月から)[4]
※なお、2007年12月30日に放送された本番組の特番『イカ天2007復活祭』は全国ネットの枠で放送されたため、上記以外の局でも放送されていた。
備考
- 出場バンドの決定はジャクソン井口が行っていた。
- 出場者には季節に応じ、冷たい茶などが振舞われた。
- 大塚製薬、LAWSON、ブティックJOY、第二電電(現・KDDI)、モランボンがメインスポンサーで、ほかに日本食研、YAMAHAなどがスポンサーであった(但し、全国的にネットスポンサーになっていたのは大塚製薬のみである)。その関係で審査員にはポカリスエット、ジャワティーなど大塚製薬の飲み物が振る舞われた(尚、「イカ天2007復活祭」は大塚製薬がスポンサーではなかった関係で、過去のVTRに於いて、審査員アップの時などで映るはずのドリンクがイカ天マークで隠されていた)。ブティックJOYは収録スタジオの日比谷シャンテ3Fにあった関係と思われる。チャレンジャー賞の焼肉ご招待は途中から「朝鮮飯店モランボン伊勢丹会館店」となった。
- そのCMは大塚製薬がジャワティーストレート(キャラクターは本木雅弘)、ポカリスェット(キャラクターは宮沢りえ)、ローソンが夢氷やおにぎり等のオリジナル商品、ブティックJOYのCMキャラクターがベリンダ・カーライル、第二電電のCMキャラクターが森繁久彌、モランボンのCMキャラクターはラッシャー木村、YAMAHAは当時売り出し中だったBAKUが登場していた。その時の世相と番組の中身も反映されているといえるだろう。
- 1990年4月からイカ天放送終了後の1991年3月まで、TBS(関東ローカル)で毎週日曜日深夜に『別冊イカ天ベスト天』という番組が放送されており、バンドの近況や最新音楽情報などを発信していた。司会は今野多久郎と相原勇だった。
- 1989年3月25日放送分までイカ天の前に「お熱いのはお好き?」という、女性ゲストを迎えてゲームなどをするコーナーがあった。
- イカ天が放送されていた頃には、原宿に「IKA-TEN MARKET」があった(開店は1989年9月17日)。イカ天グッズ、イカ天出身バンドのCD等を売っていた。後に「IKA-TEN MARKET」は札幌などの主要都市にもチェーン店を開いた。
- 三宅が番組を休んだために代理司会が起用されたことが有った。1989年6月10日は映画『満月のくちづけ』がローマの映画祭に出品された関係でローマへ行ったため、この日は松宮一彦アナが司会。同年9月23日は舞台公演中、声が出なくなってダウンしたため、その日の審査員の中からくじ引きによって四方義朗が代理に選ばれた。
- 生放送中にニュース速報が流れたこともあり、1989年3月18日には伊藤みどりがパリの世界フィギュアスケート選手権で優勝した模様が流れた一方で同年6月3日には天安門事件の映像が流れ、スタジオに緊張感をもたらした。また報道スタジオから生で台風情報がこの番組中に入った日もあったが、その時に三宅が「せっかくイカ天に出るんだから、パンクの格好で出てきて欲しかったですね」などとそのキャスターに言っていたことがあった。
- 1989年10月28日は生放送直前になって放送休止となった。理由はこの日の昼、13:00~16:00の枠で中継された日本シリーズ・近鉄-巨人戦が中継延長となり(試合終了時刻は16時36分)、すぐ後の16:00~17:30の枠で放送予定だった「'89ニチレイインターナショナルゴルフ」がこのイカ天の枠に差し替えられて放送された(と、おそらくそう思われる)。しかしこの日は出場する予定のバンドらがすでにスタジオに集まっており中には地方から来ていた人も居たため収録を行い、翌週11月4日に放送した。この日は生放送でなかったため、在宅審査員の投票及び在宅審査員賞の贈与は無かった。
- 当時スーパー・エキセントリック・シアターの若手だった岸谷五朗、寺脇康文、山田幸伸の「SET隊」が「天ぷらトリオ」と名乗って、前説とオープニング出演を務めていた時期があった。
- 「ゆうじ君のおたく」というオープニングのコーナーも有った。この当時ちょうどおたくという言葉が出て来始めていた頃で「おでバカだから・・・」というような口調で三宅がおたくの役を演じていた。北尾光司がゲストに来た時には「こうじ君のおたく」としてコーナーを乗っ取られたこともあった。
- 演奏する予定の曲の歌詞の中に放送禁止用語が含まれていたため止む無く歌詞を変えて演奏したバンドもあったが、中にはバンド名そのものが放送禁止だったため改名を余儀なくされたバンドもあった。1989年7月22日出場の発破ノッカーズの元々のバンド名は乞食王子。同年6月17日に出場した近親憎悪は元々は生理売春だったが、イカ天出場を機にそのまま正式なバンド名を近親憎悪に変更したとのこと。
- 1990年4月以降、一度出場したバンドの再チャレンジが増えた。その中には4代目キングのイエロー太陽Sや仮キングだったパニック・イン・ザ・ズゥもいた(パニック・イン・ザ・ズゥにいたっては再チャレンジで5週勝ち抜き、見事グランドイカ天キングの座を射止めた)。また、同じくこの4月以降にはソロ(一人)で出場する人も出てきたが、その度に審査員から「これは『いかすバンド天国』なんだから……」と突っ込まれることがあった(「そこに文句をつけるんだったら最初から出さなきゃいいじゃない」と言い返して斉藤ノブに「そうなんだよね」と言わせた出場者もいた)。
- 同じく1990年11月には、現在では説明不要のビッグバンドとなった当時上京間もないGLAYが出場していた。しかし、すぐにワイプとなってしまい当時の審査員から酷評を受ける結果となった。ちなみに、GLAYの才能を見抜いたのはXのhideであり、彼のアドバイスもありYOSHIKIが自レーベルよりデビューさせた。
- イカ天終了時には終了記念として再び審査員バンドが組まれた。バンド名は「いかすバンド+勇」で、メンバーはボーカルに相原勇とPANTA、パーカッションに三宅裕司、斎藤ノブ、今野多久郎、キーボードに森雪之丞、難波弘之、ギター・田中一郎、ベース・鳴瀬喜博、ドラム・村上“ポンタ”秀一。
- 1989年度の「BURRN!」誌人気投票のBORE部門(その年に起こったネガティブな出来事)で『ヘビメタの流行とイカ天ブーム』と言うのが1位を獲得したという事があった。
- 2007年12月30日に放送された特番『イカ天2007復活祭』では、データ放送を使って400組近い出場バンドを紹介していた。
不祥事
- 1989年2月11日の第1回放送時にエントリーナンバー8番で登場した女性バンド“ヒステリックス”ボーカルのリーダーが「ワイプ」に怒ってカメラの前に飛び出し、「ズボン脱ぐぞコラー!」と生放送中にもかかわらずジーンズを下着ごと脱いでしまった(赤ランプ3つで逆上し、4つ点いた事がコールされると同時に破廉恥な挙に出た)。三宅は「やめろ、バカ、バカ! なんて事を! 馬鹿者がホントに!」と叫び、メンバーは悲鳴をあげたり恥ずかしさのあまり後ろを向くなどしスタジオは一時騒然となった。TV画面は急遽、三宅の顔のアップになったために事無きを得たが、この騒ぎで“ヒステリックス”の演奏時間は「退場」という記録となった。彼女らがADに連行され退場させられた後も画面にはしばらく呆然とする三宅の顔が映されたままになっていた。なお『イカ天年鑑・平成元年編』によると、その問題となったリーダーはこの直後脱退、バンドは活動休止になったとのこと。そして、これがきっかけで“何かあったらすぐに隠す用”としてIKA禁ボウなるものが一時期使われていた。なお、この模様は「イカ天2007復活祭」でも放送されたがヒステリックスのメンバー全員の顔は赤丸にイカ天マークで隠されて放送された。
- この他にも不祥事は記録されている。スタッフに不祥事があった時(1990年3月17日と他1回 麻薬取締法違反)にイカ天を含む「平成名物TV」の全ての番組を休止し、代わりに過去のTBS系スペシャルドラマの再放送(『兜町』『お交際したい』など)に切り替えた(関東地区。その他の地域については不明)。このとき新聞には「コカイン天国」の見出しが躍った。不祥事のあった回の翌週には番組開始前に三宅が楽屋から事件の説明と謝罪を行った。
後番組
平成名物TV・三宅裕司のえびぞり巨匠天国
星期六我家的電視・三宅裕司の天下御免ね!
イカ天関連企画
ドラマ
「めざせ!イカ天 ロックンOL物語」 (1990年5月12日「ドラマチック22」枠で放送)
出演:藤田朋子、森川由加里、阿部寛、奥田圭子、豊原功補、岸部一徳 他(三宅、相原らイカ天レギュラーも出演)
脚本:塩田千種 演出:小川定孝
書籍
「イカ天年鑑・平成元年編」(ワニブックス)
ビデオ(オムニバス)
「いか天[完全]完奏版」(TBSビデオ・バンドストッククラブ)
CD(オムニバス)
- 「いか天 ザ・50(フィフティ)Vol.1~3」(APCA223~225)(バンダイ・ミュージックエンタテインメント)
- 「30-35(サンゼロ・サンゴー) Vol.7 「いか天」特集」(MHCL527)(ソニー・ミュージックダイレクト(ソニー・ミュージックエンタテインメント系列))
参考文献
脚注
- ↑ 7代目グランドイカ天キングのPANIC IN THE ZUはインディーズでアルバムは出しているがメジャーデビューはしていない。
- ↑ ただしこれは事故と言うべき出来事であり、後日ASHは関連イベントで一曲演奏する機会を与えられることとなった。
- ↑ テレビユー山形では当初、1989年10月7日のネット拡大記念SPのみ放送していた。
- ↑ 開局と同時の開始だったが、僅か1クールで番組自体が終了となってしまった。