榎本武揚
テンプレート:政治家 榎本 武揚(えのもと たけあき、天保7年8月25日(1836年10月5日) - 明治41年(1908年)10月26日)は、日本の武士(幕臣)、外交官、政治家。海軍中将、正二位勲一等子爵。通称は釜次郎、号は梁川。名は「ぶよう」と故実読みされることもある。
目次
生涯
海軍副総裁就任まで
江戸下谷御徒町(現東京都台東区御徒町)に生まれた。父は箱田良助といい、備後国安那郡箱田村(現広島県福山市神辺町箱田)出身で、榎本武由(武兵衛)の娘みつと結婚して、婿養子として幕臣となり、榎本武規(円兵衛)と改名した。また、伊能忠敬の弟子でもあった。
幼少の頃から昌平坂学問所で儒学・漢学、ジョン万次郎の私塾で英語を学ぶ。万次郎の私塾では後に箱館戦争を共に戦い抜く大鳥圭介と出会っている。19歳の時、箱館奉行・堀利煕の従者として蝦夷地箱館(現北海道函館市)に赴き、樺太探検に参加する。安政3年(1856年)には幕府が新設した長崎海軍伝習所に入所、国際情勢や蘭学と呼ばれた西洋の学問や航海術・舎密学(化学)などを学んだ。
文久2年(1862年)9月、内田恒次郎・赤松則良・澤太郎左衛門・西周助らと共に長崎を出航してオランダ留学へ向かう。文久3年(1863年)4月、オランダ・ロッテルダムに到着。当地では長崎海軍伝習所で教官を務めていたカッテンディーケ海軍大佐とメーデルフォールト軍医の世話になった。元治元年(1864年)2月、赤松則良とともにシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を観戦武官として経験する[1]。戦争を見聞した後、エッセンのクルップ本社を訪れ、アルフレート・クルップと面会する[2]。 当時建造中の軍艦「開陽」に搭載する大砲を注文し、最終的に開陽には18門のクルップ施条砲が搭載された[3]。 オランダでは国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学んだ。慶応3年(1867年)3月、幕府が発注した軍艦「開陽」と共に帰国する。
帰国後、幕府海軍軍艦頭並に任命される。大政奉還後の慶応4年(1868年)1月、徳川家家職の海軍副総裁に任ぜられ、和泉守を名乗る。これにより実質的に幕府海軍のトップとなった。このとき総裁であった矢田堀景蔵は、新政府側への恭順を示していた徳川慶喜の意向を受けて軽挙を慎んだが、結局新政府への徹底抗戦を主張する榎本派が幕府海軍を抑えた。
戊辰戦争
慶応3年(1867年)10月14日、徳川慶喜が大政奉還を行うと、榎本の率いる幕府艦隊は兵庫沖に結集し、同じく兵庫沖に停泊していた薩摩藩ら他藩海軍に圧力をかけていた[4]。 翌慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いが起こり戊辰戦争が始まった。幕府艦隊は大阪湾に停泊、1月4日には阿波沖海戦で薩摩藩海軍に勝利した。鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、榎本は1月6日午後、幕府陸軍と連絡を取るため大坂城へ入城した。この途中で榎本はプロイセン公使マックス・フォン・ブラントに会い、鳥羽・伏見の戦いで負傷した兵士達の治療を依頼している。しかし慶喜はその夜、大坂城を脱出し、1月7日朝、榎本不在の旗艦「開陽」に座乗、1月8日朝に江戸へ引き揚げた[5]。 置き去りにされた形になった榎本は後年、慶喜と同じ写真に写ることを忌避したといわれる[6]。 後に残された榎本は矢田堀景蔵と共に、大坂城で後始末をして、榎本は大坂城内にあった18万両という大金を富士丸に積み、残された旧幕府軍側の兵士達と共に江戸品川沖へ撤退した。江戸へ撤退後、榎本は小栗忠順などと共に主戦論を主張したが、すでに恭順の意思を固めつつあった慶喜の容れるところとならなかった。
同年4月11日、新政府軍は江戸城を無血開城すると、幕府海軍艦隊を引渡すことを要求するが、榎本は拒否し、悪天候を理由に7隻を連れて品川沖から安房国館山に退去する。勝海舟の説得により4隻(富士・朝陽・翔鶴・観光)だけを新政府軍に引渡したが、開陽等主力艦の温存に成功した。5月、徳川家は駿河、遠江70万石に減封になり、艦隊は徳川家臣団の駿府移封の作業に従事する。徳川家が約8万人の幕臣を養うことは困難となり、多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた榎本は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓にあたらせようと画策し、朝廷に対して「蝦夷地殖民認可の嘆願書」を提出した。
しかし、蝦夷地殖民は拒否され、徳川家臣団の駿府移封が完了すると、再び幕府艦隊の引渡しを要求されたため、榎本は8月19日、抗戦派の旧幕臣とともに開陽、回天、蟠竜、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦から成る旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出し、東征軍に抵抗する奥羽越列藩同盟の支援に向かった。この榎本艦隊には、若年寄・永井尚志、陸軍奉行並・松平太郎などの重役の他、大塚霍之丞や丸毛利恒など彰義隊の生き残りと人見勝太郎や伊庭八郎などの遊撃隊、そして、旧幕府軍事顧問団の一員だったジュール・ブリュネとアンドレ・カズヌーヴらフランス軍人など、総勢2,000余名が乗船していた。江戸脱出にあたって榎本は「徳川家臣大挙告文」という趣意書を発表している。
出港翌日から暴風に見舞われ艦隊は離散、清水沖に流された咸臨丸は新政府軍に発見され猛攻を受け拿捕された。結局、咸臨丸・美賀保丸の2隻を失いながらも9月中頃までに仙台東名浜沖に集結した。直ちに艦の修繕と補給が行われるとともに、榎本は庄内藩支援のために千代田形と陸兵約100名を乗せた運送船2隻(長崎丸・太江丸)を派遣した。しかしその頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、米沢藩、仙台藩、会津藩と主だった藩が相次いで降伏。庄内藩も援軍が到着する前に降伏し、これにより東北戦線は終結した。
榎本は、幕府が仙台藩に貸与していた運送船・太江丸、鳳凰丸と、桑名藩主・松平定敬、歩兵奉行・大鳥圭介、旧新選組副長・土方歳三らと旧幕臣からなる伝習隊、衝鋒隊、仙台藩を脱藩した額兵隊などの兵、約2,500名を吸収して、10月12日に仙台を出航。途中、幕府が仙台藩に貸与して海賊に奪われていた千秋丸を拿捕し、さらに宮古湾に寄港して旧幕臣の保護を旨とする嘆願書を新政府に提出して、蝦夷地を目指した。10月19日、蝦夷地箱館北方の鷲ノ木に上陸。10月26日に箱館の五稜郭を占領し、11月1日、榎本は五稜郭に入城した。12月、蝦夷全島平定が宣言され、「蝦夷共和国」を樹立する。12月15日、入札(選挙)の実施により総裁となった。しかし、蝦夷地の江差攻略作戦に「開陽」を投入したところ、座礁事故により喪失する打撃を被った。
翌明治2年(1869年)2月、折りしも局外中立を宣言し新政府・旧幕いずれにも加担せずとの姿勢をとっていた米国は、新政府の巧みな切り崩しにより新政府支持を表明。幕府が買い付けたものの局外中立により引渡未了だった当時最新鋭の装甲艦「ストーン・ウォール」は新政府の手中に収まり「甲鉄」と命名された。当時最新最強と謳われた「開陽」でさえ木造艦で、砲数やトン数では勝るものの防御力の劣勢は否めず、ましてその「開陽」もすでに喪失していたため、海上の戦力バランスは一挙に新政府有利に傾いた。これを大いに憂慮した榎本は「甲鉄」を移乗攻撃(アボルダージュ)で奪取する奇策を実行に移す。奇襲を実現するため、至近距離まで第三国の国旗を掲げて接近し至近距離で自国の旗に切り替える騙し打ちを計画したが、これは当時の戦時国際法で許される奇計だった。榎本はこの作戦を「回天」、「幡竜」、「高雄」の3艦を以て当たらしめ、その長として「回天」艦長の甲賀源吾を任じた。同艦には土方歳三も座乗した。しかしまたもや暴風に見舞われ、「幡竜」は離脱、「高雄」も機関が故障し、やむを得ず「回天」1艦のみでの突入となった。接舷には成功したものの我彼の舷高に大いに開きがあり、突入を躊躇した幕府海軍はガトリング砲の砲火を浴び、占拠に失敗、甲賀艦長も戦死するという大打撃を受け敗走した(宮古湾海戦)。「開陽」を失い、新政府軍が甲鉄を手中に収めるにいたり、最大最強を誇った旧幕府海軍の劣勢は決定的となり、事実上制海権を失った。
同年5月17日、戦費の枯渇、相次ぐ自軍兵士の逃亡、新政府軍工作員による弁天台場の火砲破壊、箱館湾海戦による全艦喪失と、蝦夷方の劣勢は決定的となり、榎本は降伏した。降伏を決意した榎本は、オランダ留学時代から肌身離さず携えていたオルトラン著『万国海律全書』(自らが書写し数多くの脚注等を挿入)を戦災から回避しようと蝦夷征討軍海陸軍総参謀・黒田了介に送った。黒田は榎本の非凡な才に感服し、皇国無二の才として断然助命しようと各方面に説諭、その熱心な助命嘆願活動により一命をとりとめ、東京丸の内辰の口の牢に投獄された。また、榎本には批判的だった福澤諭吉も助命に尽力したひとりでもある。福澤は黒田から前記『海律全書』の翻訳を依頼されたが、一瞥した福澤は、その任に当たるについては榎本の他にその資格なしとして辞退したと伝えられている。
明治時代
明治5年(1872年)1月6日、榎本は特赦出獄、その才能を買われて新政府に登用された。同年3月8日、黒田清隆(了介)が次官を務める開拓使に四等出仕として仕官、北海道鉱山検査巡回を命じられた。
明治7年(1874年)1月、駐露特命全権公使となり、同年6月、サンクトペテルブルクに着任。翌明治8年(1875年)8月、樺太・千島交換条約を締結した。マリア・ルス号事件でペルー政府が国際法廷に対し日本を提訴した件で、ロシア皇帝アレクサンドル2世が調停に乗り出したことから、同年6月、サンクトペテルブルクでの裁判に臨んで勝訴を得た。駐露公使就任にあたって、榎本は海軍中将に任官[7]されたが、これは当時の外交慣例で武官公使の方が交渉上有利と判断されたためで、伊藤博文らの建言で実現したものである。旧幕時代の経歴と直接の関係はない。駐露大使時代はサンクトペテルブルク地学協会に加盟していた。明治11年(1878年)、シベリア経由で帰国。榎本はシベリアに対し無限の興味を持って非常に精細な科学的な視察を行い、「西伯利亜日記」を記す。
帰国後は外務省二等出仕、外務大輔、議定官、海軍卿、皇居御造営御用掛、皇居御造営事務副総裁、駐清特命全権公使、条約改正取調御用掛等を歴任した。明治18年(1885年)の内閣制度の成立後は能力を買われ6つの内閣で逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任した(文相・外相の前後に枢密顧問官就任)。特に日清戦争只中の戦時内閣時の農相在任は3年余に及び、歴代農相の中で最長を記録していることからも薩長藩閥にあってその緩衝として重用された榎本の才が窺い知れる。
農商務大臣時代には、懸案の足尾鉱毒事件について初めて予防工事命令を出し、私的ながら大臣自ら初めて現地視察を行った。また、企業と地元民の間の私的な事件とみなしてきたそれまでの政府の見解を覆し、国が対応すべき公害であるとの立場を明確にして帰京後、大隈重信らにその重要性を説諭、鉱毒調査委員会を設置し、後の抜本的な対策に向けて先鞭をつけ、自身は「知らずにいたことに責任をとって[8]」引責辞任した。
明治23年(1890年)には子爵に叙される。また大日本帝国憲法発布式では儀典掛長を務めた。
その一方で、旧幕臣子弟への英才教育を目的に、様々な援助活動を展開した。北海道開拓に関与した経験から、農業の重要性を痛感、明治24年(1891年)に徳川育英会育英黌農業科(現在の東京農業大学)を創設し自ら黌長となった。また、明治12年(1879年)、渡辺洪基らと共に「東京地学協会」を設立し、副会長に就任した。明治21年(1888年)から同41年(1908年)まで電気学会初代会長を務めている。
黒田清隆が死去したときには並み居る薩摩出身の高官をさしおいて葬儀委員長を務めている。これは明治32年(1899年)4月、黒田の娘と榎本の長男が結婚し、両者が縁戚となった為でもあるが、一説には黒田が晩年、薩閥の中にあって疎外されていて引き受ける者がいなかったためともいわれる。
明治41年(1908年)に死去、享年73。墓所は東京都文京区の吉祥寺。
年譜
- 天保7年(1836年)8月25日 - 江戸で誕生。幼名・釜次郎。
- 安政元年(1854年) - 堀利煕とともに蝦夷地、北蝦夷地へ向かう。
- 安政3年(1856年) - 長崎海軍伝習所に入学。
- 安政5年(1858年) - 築地軍艦操練所の教授に就任。
- 文久2年(1862年)9月11日 - オランダに向けて長崎出港。
- 文久3年(1863年)6月4日(西暦) - オランダ到着。デン・ハーグで勉学に励む。
- 元治元年(1864年)2月 - シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を観戦。エッセンのクルップ本社を訪問。
- 慶応2年(1866年)10月25日 - 開陽に乗り、帰国に向け、オランダ・フレッシング港を出港。
- 慶応3年(1867年)3月26日 - 開陽、横浜着。
- 慶応4年/明治元年(1868年)
- 明治2年(1869年)
- 明治5年(1872年)
- 明治7年(1874年)
- 明治8年(1875年)5月7日 - 樺太千島交換条約調印。
- 明治11年(1878年) - シベリア経由で帰国。
- 明治12年(1879年) - 渡辺洪基らと共に東京地学協会設立。副会長に就任。
- 明治13年(1880年)2月28日 - 海軍卿に任ぜられる。
- 明治14年(1881年)4月7日 - 海軍卿を免ぜられる。
- 明治15年(1882年) - 皇居造影事務副総裁に就任。
- 明治18年(1885年)
- 明治20年(1887年)
- 明治21年(1888年) - 黒田内閣の逓信・農商務大臣を兼任。
- 5月 - 電気学会初代会長に就任。
- 明治22年(1889年)2月12日 - 森有礼暗殺。武揚、森の後任として黒田内閣の文部大臣に就任。のち第1次山縣内閣でも留任。
- 明治23年(1890年)
- 明治24年(1891年)
- 3月6日 - 徳川育英会育英黌農業科を設立。武揚は管理長に就任。
- 5月21日 - 第1次松方内閣の外務大臣に就任。
- 明治25年(1892年) - ポルトガルとの間で領事裁判権撤廃にこぎつける。
- 8月8日 - 松方内閣総辞職に伴い外務大臣を辞任。条約改正調査委員会委員長に就任。
- 明治26年(1893年)3月11日 - 殖民協会発足。会長に就任。
- 明治27年(1894年)1月22日 - 農商務大臣に就任。
- 明治30年(1897年)
- 明治41年(1908年)10月26日 - 死去。享年72。
栄典
- 外国勲章等
人物
- 思想は開明、外国語にも通じた。蝦夷島政府樹立の際には、国際法の知識を駆使して自分たちのことを「事実上の政権(オーソリティー・デ・ファクト)」であると記した覚書を現地にいた列強の関係者から入手する[10]。
- 明治政府官僚となってからも、その知識と探求心を遺憾なく発揮し、民衆から「明治最良の官僚」と謳われたほどだったが、藩閥政治の明治政府内においては肩身の狭い思いをすることもしばしばあった。
- 義理・人情に厚く、涙もろいという典型的な江戸っ子で明治天皇のお気に入りだった。また海外通でありながら極端な洋化政策には批判的で、園遊会ではあえて和装で参内している。
- 福澤諭吉が評して言うには、「江戸城が無血開城された後も降参せず、必敗決死の忠勇で函館に篭もり最後まで戦った天晴れの振る舞いは大和魂の手本とすべきであり、新政府側も罪を憎んでこの人を憎まず、死罪を免じたことは一美談である。勝敗は兵家の常で先述のことから元より咎めるべきではないが、ただ一つ榎本に事故的瑕疵があるとすれば、ただただ榎本を慕って戦い榎本のために死んでいった武士たちの人情に照らせば、その榎本が生き残って敵に仕官したとなれば、もし死者たちに霊があれば必ず地下に大不平を鳴らすだろう」と「瘠我慢の説」にて述べている。
- 山田風太郎は「もし彼が五稜郭で死んでいたら、源義経や楠木正成と並んで日本史上の一大ヒーローとして末長く語り伝えられたであろう。しかし本人は『幕臣上がりにしてはよくやった』と案外満足して死んだのかもしれない」と書いている。(『人間臨終図巻』)
- 五稜郭で敗れて、獄中にいる時、兄の家計を助けようとして手紙で、孵卵器や石鹸などの作り方や、新式の養蚕法・藍の採り方等詳細に知らせている。また舎密学(化学)については日本国中で自分に及ぶものはいないと自信を持っていたフシがある。
- 晩年は、向島に居を移し毎日のように向島百花園を訪れ四季の草花を眺めていたという。植物、特に外国の花については非常に博識で、百花園の主人に教えていたこともあるという[11]。また自宅の2階座敷に力士を呼んで相撲観戦をよく行なっていた[12]。
- 引退後も、江戸っ子気風とユーモア溢れる人柄で愛された。その人柄を表す逸話に、次のようなものがある。向島百花園に其角堂永機が遊び、「闇の夜や誰れをあるじの隅田川」と風流な一句を表したところ、榎本は一目見て「何だこんな句」と言い放ち、改作して「朧夜や誰れを主(あるじ)と言問はむ鍋焼きうどんおでん燗酒」と詠み直したという(燗酒の歌)。[13]。
エピソード
- 初代逓信大臣を務めたとき、逓信省の「徽章」を決めることになった。明治20年(1887年)2月8日、「今より(T)字形を以って本省全般の徽章とす」と告示したものの、これが万国共通の料金未納・料金不足の記号「T」と紛らわしいことが判明した。そこで榎本は「Tに棒を一本加えて「〒」にしたらどうだ」と提案し、2月19日の官報で「実は〒の誤りだった」ということにして変更したといわれている。これは、あくまでも郵便マーク誕生に関する諸説のうちのひとつだが、「テイシンショウ」の「テ」にぴたりと合致しており、彼の聡明さを象徴するようなエピソードでもある。
- 明治24年(1891年)7月14日、横浜港に投錨した清国北洋艦隊旗艦「定遠」の艦上で在朝在野の貴紳、新聞記者、各国の公使領事等を招待した懇親会が開かれた。当時外務大臣だった榎本は海軍中将の軍服で姿を現した。国民新聞は「榎本外務大臣、此日海軍中将の軍服を着けて来る、低帽短剣一箇俊敏の武人、却つて是れ子の本色」と評した[14]。
系譜・親族
- 父は幕臣・榎本武規(円兵衛)。妻・たつは、林洞海とつる(佐藤泰然の娘)の長女で、林研海の妹でもある。家紋は丸に梅鉢。
- 娘が外交官の二橋謙に嫁いだ。
- 曾孫に、作家で東京農業大学客員教授の榎本隆充がいる。
- 武揚の兄・榎本武与は、武揚が釜次郎であるのに対して、鍋太郎である。
著作
- 『渡蘭日記』
- 『獄中詩』
- 『開成雑爼』
- 『北海道巡回日記』
- 『西比利亜日記』
- 『朝鮮事情』
- 『流星刀記事』
榎本武揚を主題とする作品
- 文学作品
- テレビドラマ
- 「五稜郭」(1988年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:里見浩太朗)
脚注
参考文献
著作・資料
- 『榎本武揚 シベリア日記』、講談社学術文庫、2008年、ISBN 9784061598775
- 『現代語訳 榎本武揚 シベリア日記』 諏訪部揚子・中村喜和編訳、平凡社ライブラリー、2010年、ISBN 9784010705599
- 『榎本武揚未公開書簡集』 榎本隆充編、新人物往来社、2003年、ISBN 9784582766974、書簡126通を収録
- 『資料 榎本武揚』 加茂儀一編・解説、新人物往来社、1969年
伝記研究
- 『榎本武揚』 榎本隆充・高成田亨編、藤原書店、2008年、ISBN 9784894346239
- 『榎本武揚から世界史が見える』 臼井隆一郎著、PHP新書、2000年、ISBN 9784569638515
- 『メキシコ榎本殖民 榎本武揚の理想と現実』 上野久著、中公新書、1994年、ISBN 9784121011800
- 『行きゆきて峠あり(上・下)』 子母澤寛著、講談社文庫大衆文学館、1995年、ISBN 9784062620116&ISBN 9784062620123
- 『榎本武揚』 加茂儀一著、中央公論社、のち中公文庫、1988年、ISBN 9784122015098
- 『榎本武揚 現代視点 戦国・幕末の群像』 旺文社編、1983年
- 『東京農業大学百年史』 東京農業大学創立百周年記念事業実行委員会第二部会編、東京農業大学出版会、1993-1994年
- 『榎本武揚と横井時敬 東京農大二人の学祖』 東京農大榎本・横井研究会編、東京農業大学出版会、2008年、ISBN 9784886942012
- 『寺島宗則自叙伝/榎本武揚子(日本外交史人物叢書第11巻)』 吉村道男監修、ゆまに書房、2002年、ISBN 9784843306772
- 『ドキュメント榎本武揚 明治の『読売』記事で検証』 秋岡伸彦著、東京農業大学出版会、2003年、ISBN 4-88694-037-4
関連項目
外部リンク
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|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
黒田清隆
後藤象二郎
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 農商務大臣
1888年(臨時兼任)
第10代:1894年 - 1897年
|style="width:30%"|次代:
井上馨
大隈重信
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
青木周蔵
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 外務大臣
第7代:1891年 - 1892年
|style="width:30%"|次代:
陸奥宗光
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
大山巌(臨時兼任)
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 文部大臣
第2代:1889年 - 1890年
|style="width:30%"|次代:
芳川顕正
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
創設
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 逓信大臣
初代:1885年 - 1889年
|style="width:30%"|次代:
後藤象二郎
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
川村純義
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 海軍卿
第3代:1880年 - 1881年
|style="width:30%"|次代:
川村純義
テンプレート:S-other
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
創設
|style="width:40%; text-align:center"|電気学会会長
初代:1888年 - 1909年
|style="width:30%"|次代:
林董
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
創設
|style="width:40%; text-align:center"|蝦夷共和国総裁
初代:1868年 - 1869年
|style="width:30%"|次代:
消滅
- 転送 Template:End
テンプレート:海軍大臣 テンプレート:外務大臣 テンプレート:文部科学大臣 テンプレート:農商務大臣 テンプレート:逓信大臣 テンプレート:在ロシア連邦日本大使 テンプレート:在中国日本大使
- ↑ 臼井隆一郎『榎本武揚から世界史が見える』PHP新書、2005年、P68
- ↑ 臼井隆一郎『榎本武揚から世界史が見える』PHP新書、2005年、P71
- ↑ 臼井隆一郎『榎本武揚から世界史が見える』PHP新書、2005年、P73
- ↑ 臼井隆一郎『榎本武揚から世界史が見える』PHP新書、2005年、P83
- ↑ 軍艦と輸送船を区別するため「丸」を付すのは輸送船のみで、「開陽丸」は誤りである。
- ↑ 臼井隆一郎『榎本武揚から世界史が見える』PHP新書、2005年、P84
- ↑ 1905年10月19日に退役。『官報』第6694号、明治38年10月20日。
- ↑ 三宅雪嶺『同時代史』
- ↑ 『官報』第2995号、「叙任及辞令」1893年06月24日。
- ↑ 交戦団体という認定は受けていない。また、この覚書は本国や大使の了解なく作られたものである
- ↑ 濱本高明『東京風俗三十帖』p74演劇出版社出版事業部
- ↑ 鳥谷部春汀「旧幕の遺臣」
- ↑ 秋岡伸彦『ドキュメント榎本武揚 明治の「読売」記事で検証』p96東京農大出版会
- ↑ 国民新聞1891年7月16日2面「海軍中将としての榎本子」。