五稜郭
テンプレート:Otheruseslist テンプレート:Infobox 五稜郭(ごりょうかく)は、江戸時代末期に蝦夷地の箱館(現在の北海道函館市)に建造された稜堡式の城郭である。長野県佐久市の龍岡城など、当時日本で建造された星形の城郭を「五稜郭」と通称するが、一般に「五稜郭」といえば函館のそれを指すことが多い。
建造中の名称は亀田御役所土塁(かめだおんやくしょどるい)、完成後の名称は箱館御役所(はこだておんやくしょ)。柳野城(やなぎのじょう)とも呼ばれる。国の特別史跡に指定され、「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定されている。
概要
日米和親条約締結による箱館開港に伴い、防衛力の強化と役所の移転問題を解決するため、徳川家定の命により築造された。設計を担当したのは洋式軍学者の武田斐三郎。大砲による戦闘が一般化した後のヨーロッパにおける稜堡式の築城様式を採用し、堡を星型に配置している。総面積、74,990坪(約247,466m²)。施工は土工事を松川弁之助、石垣工事を井上喜三郎、奉行所の建築を江戸在住の小普請方鍛冶方石方請負人・中川伝蔵が請け負った[1]。
当初は外国の脅威に立ち向かうために築造が計画されたが、脅威が薄れていくとともに築造の目的が国家の威信になった。
構造
費用不足もあって、当初の計画は縮小された。半月堡も大手口に一箇所しか造られなかった。本来のヨーロッパの稜堡式の築城様式であれば、半月堡は二重、三重に築かれて縦深防御を構成したが、たった一箇所の半月堡ではかなり見劣りがする。
また箱館開港時に政庁箱館奉行所がおかれたが、大砲の標的となることを防ぐ目的で建物を低く設計したため、政庁を置くスペースがなくなった。純軍事施設としての建造が本来の稜堡式の築城様式であり、これは目的に叶っていない。
当時の日本の城郭は、政治的変化や戦争と銃砲の発達を経験したヨーロッパと異なり、居住施設である宮殿と軍事施設である要塞の分離がほとんど行われておらず、居住施設(五稜郭の場合は役所)と軍事施設を兼務していた。そのため見かけだけの西洋式築城であるという評が一般的である。五稜郭以外に洋式築城が用いられたのは龍岡城や明治維新後の松尾城などであり、このほかに前橋城が部分的に擬似洋式築城を用いている。また、松前城や五島石田城など純和式の城郭に砲台を追加したものなども築造された。そのような旧式の城郭が大砲を備えた近代戦の攻防の舞台となればどういう目に遭うかは、会津若松城・白河小峰城の休戦後の写真を見れば明らかである。
実際、箱館戦争の際、写真にあるように箱館奉行所の建物の天辺にある楼閣が、官軍の軍艦の艦砲射撃の格好の標的となった。それを知った旧幕府軍は慌てて楼閣部分を撤去したが、射撃角度をかなりの精度で知られてしまい、要塞内に次々と着弾、最早この時点で要塞としての機能は麻痺していた。
防御壁としては土塁を築き、砲弾のショックを吸収するのが稜堡式の築城様式の特徴である。しかし、五稜郭の場合は土塁を築こうにも北海道の寒冷な気候に適合せず、冬の間に凍った土塁が、春の温かさで崩壊するという困難に直面した。そのためわざわざ石垣を築き、その上に土を盛るという手間をかけている。なお、土塁に固執しなくとも、南北戦争のサムター要塞のように、柔らかい煉瓦を使うという方法もあった。
一番の問題としては、既にヨーロッパでもこのような稜堡式の築城様式は、いささか旧式化していたことである。堡塁を重ねるのは小銃を防御兵器として用いるための方式であり、当時のヨーロッパでは大砲を掩体壕に据えての防御へと移行しつつあった時期である。現に同時期の普仏戦争において、フランスの稜堡式の要塞はプロイセン王国軍に簡単に突破・攻略され、要塞形式として旧式化していることを露呈していた。稜堡式の陣地を築いた例は近現代でもあるが、あくまで野戦築城であり、恒久的な要塞としての築城例は無い。ちなみに同時期に東京湾に築かれた台場は、大砲を用いる要塞施設である。
歴史・沿革
江戸時代
- 1854年(安政元年) 箱館奉行・竹内保徳、堀利煕が箱館周辺の防備と奉行所移転に関し意見具申。
- 1857年(安政4年) 工事開始。同年、箱館通宝発行。
- 1864年(元治元年) 組立開始。この年箱館奉行所を宇須岸館(別名・河野館または箱館)跡(現在の元町公園)から五稜郭に移した。
- 1866年(慶応2年) 工事完了。
近代
- 1868年(明治元年) 10月26日、旧幕府軍の大鳥圭介隊と土方歳三隊の両隊が五稜郭を占拠。
- 1869年1月(明治元年12月)、箱館政権樹立。
- 1869年(明治2年)5月18日、新政府軍に敗北し明け渡される。(詳細は箱館戦争を参照)
- 1871年(明治4年) 五稜郭内部の建物の解体が始まる。廃材は札幌本道工事や、蓬莱町遊郭の建設に使用された[2]。中川嘉兵衛が結氷を切り出し、「函館氷」と銘打って京浜市場に送りはじめる。
- 1873年(明治6年) この年から1897年まで陸軍省の管轄下に置かれ練兵場として使用される[3]。
- 1914年(大正3年) 公園として一般に公開される。同年から1923年にかけて5000本のサクラが植樹され、サクラの名所となる[3]
- 1917年(大正6年) 片上楽天が兵糧庫を利用して「懐旧館」を設立。箱館戦争に関する資料を展示していた。
- 1922年(大正11年) 国の史跡に指定される[3]。
- 1929年(昭和4年) 郭外長斜堤(長斜坂)が史跡に追加指定[3]。
現代
- 1952年(昭和27年) 特別史跡に指定される[3]。
- 1954年(昭和29年) 北洋漁業再開記念北海道大博覧会(北洋博)の第2会場となる[4]。
- 1955年(昭和30年) 北洋博の観光館・お菓子デパート建物を利用して、市立函館博物館五稜郭分館が開館。
- 1964年(昭和39年) 入口付近に五稜郭タワーが建設される。
- 1970年(昭和45年) この年から毎年5月の土日に箱館五稜郭祭が開催[5]。
- 1988年(昭和63年) この年から市民創作函館野外劇が開催[6]。
- 2005年(平成17年) 11月20日、函館市中央図書館が五稜郭公園西側入口近くの渡島支庁旧庁舎跡地に開館。
- 2006年(平成18年) 4月1日、新しい五稜郭タワー(高さ107m)が開館。
- 2006年(平成18年) 7月13日から、函館市は当時の図面・古写真・文献資料に基づいて箱館奉行所の復元工事に着手した[7]。
- 2007年(平成19年) 11月30日、市立函館博物館五稜郭分館が閉館[8]。
- 2010年(平成22年) 7月29日、箱館奉行所の復元工事が完成し、一般公開が始まる[9]。
催し物
現地情報
- 所在地
- 北海道函館市五稜郭町・本通1
- 交通アクセス
- 函館バス「五稜郭公園入口」 - 徒歩7分、「中央図書館前」下車すぐ(裏門から入場)
- 函館バス「五稜郭タワー・トラピスチヌ シャトルバス」(冬季は土日のみ運行) - 五稜郭タワー前に停車[10]。
- 北海道道571号五稜郭公園線
脚注
- ↑ 函館市史通説編第1巻 五稜郭の築造 - 函館市中央図書館
- ↑ 市史余話 五稜郭庁舎解体材の行方 - 函館市中央図書館
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 幕末の激動と、その後の五稜郭 - 五稜郭タワー
- ↑ 函館市史通説編第4巻 北洋博覧会の開催 - 函館市中央図書館
- ↑ 箱館五稜郭祭*公式サイト - Hakodate Goryokaku-Sai
- ↑ 野外劇の足跡 -箱館野外劇公式サイト
- ↑ 五稜郭跡の「奉行所」復元工事を一般公開 (毎日新聞、2008年11月4日付)
- ↑ 市立函館博物館五稜郭分館 閉館
- ↑ 函館:五稜郭跡に「箱館奉行所」復元 一般公開に500人が列 (毎日新聞、2010年7月30日付)
- ↑ 五稜郭タワー・トラピスチヌ シャトルバス時刻表 - 函館バス